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サマディ死は修行者にとっては一つの理想である。


まあ、世間にとっては迷惑な話だろうけど。(笑)



見た目は単なる孤独死。


その死因は餓死。


最近では高齢者にその数が増えてきている。


修行者が死んだとしても何も違いはない。


その遺体が、蓮華座を組んでいる事以外は。(笑)



そして、修行者にとっては、サマディ死の他にも理想とすべき死に方がある。


それが、ニサルガダッタ・マハラジのグルの死に方である。



知らない人のために、マハラジについてざっくり説明しておこう。


マハラジはマハルシと並ぶヨーガの2大巨頭である。



マハルシは私はだ~れ?の瞑想、すなわち四念処を行った。


その「私は誰か?」の答え、「私は真我である。」の実践を行ったのがマハラジである。


この、問いと答えになっている二つの実践は、どちらも真我独存へと導く。



マハラジは、どうやって解脱したのですか?


という質問に対し、


「私はグルを信じた。」


「ただ、それだけだ。」


と答えた。

ベッキーのニュースを見て驚いた。



ベッキーって、31歳だったんだ!(笑)


知らなかった。


もっと若いと思っていた。


だまされたーーーーー!



まあ、そんなこんなで、麻原がグレイトヨーギーと称賛された話を思い出した。


この話以外にも、ヨーガには父親の話がある。



あるところに、母親と幼い子供が住んでいた。


そこへ一人の男が訪ねてくる。


戸口に立つ男を見て、子供は母親に知らないおじさんがやって来たと告げる。


そこで、母親は子供に言うのだ、あなたのお父さんよと。



その時から、知らないおじさんはお父さんに変わる。(笑)


一体何が変わったのだろうか?


その男は最初から父親だったのだ。


変わったのは情報による子供の認識だけだ。



ベッキーの事件の発覚、と言っていいのかどうかだが、発覚の前と後ではベッキーは何も変わっていない。


このように、事実を事実として認識し、識別し、理解するのがグレイトヨーギーなのだよ。



しかも、グレイトヨーギーには、ベッキーを許すなどという傲慢な考えはない。


なぜなら、初めからベッキーを責めてなどいないからだ。



現世の観念に基づく情報によって感情的になる事はない。


これが心の作用の止滅である。


なんて素晴らしいんだ!

ラマナ マハルシは解脱した後アルナーチャラへ向かう。


古の聖者たちが眠る墓のそばで瞑想するためである。



石室で蓮華座を組み瞑想する。


サマディに入るラマナ マハルシ。


その体を虫や小動物たちが容赦なく食い荒らした。


その傷は生涯消えることはなかったという。



絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜のなかに安住するラマナ マハルシ。


そのままであればサマディ死になるところだったのだが、しかし、邪魔が入ってしまう。


帰依者たちが、サマディに入る偉大な成就者の姿を見つけ、現世に引き戻してしまったのだ。


もちろん、その教えを聞くためにである。



同じような事は2600年前にも起こっている。


釈迦牟尼もまた、現世にとどまることになってしまった。



では、ダンテスダイジの場合はどうだったのだろうか?

まだ 手つかずのカテゴリーだったのだが、今年最初の記事はこれで行こう。


まあ、未解決事件なので、何らかの結論が出るわけでもないのだが。


全ては、個人的憶測というか、妄想である。



このブログで扱う三つの事件に対する僕の考えは、麻原がプロに仕事を依頼した、とするものである。


荒唐無稽に思えるかもしれないが、論理的に考えればそれ以外に説明がつかない。



そして、この三つの事件の前にも、ある不思議な出来事があった。


それがダンテスダイジの死である。



また聞きなので、これまた真偽のほどは確かではないが、ダンテスダイジの弟子から話を聞いたという人から、ダンテスダイジの最後がどうであったのかを聞いた事がある。


その人によると、ダンテスダイジの最後はサマディ死であったということだ。



瞑想して、サマディに入り、そのまま死んでしまう。


これが本当の即身成仏。


いかにも伝説の修行者、ダンテスダイジに相応しい最後のように思える。


しかし、本当にそうなのだろうか?

その各位殿のメールに書かれている内容をまとめると、どうやらクンダリニーはシュレディンガーの猫だからそんなものはないですよね、という主張のようだ。



分からんわ~。


さっぱり分からんわ~。



え~と、確か、クンダリニーやろうよ。


っていう取材だったと思ったのだが。


テレビ局って、いったい何なのだ!?


いつの間にか、クンダリニーやらないよ。


になってしまっている。



まあ、それにしてもだ。


どうせ誰かの受け売りなんだろうけど、シュレディンガーの猫とは大きく出たものだな。


文系のくせに!(笑)



シュレディンガーの猫は、クンダリニーを説明するには例えが不適切であるとしか思えない。


シュレディンガーの猫と同じでクンダリニーはあるともないとも言えない、という主張のようなのだが、シュレディンガーの猫であるのなら、あるともないとも言える。


と主張するのが正しいように思える。



前に書いたが量子コンピュータと同じで、0と1を同時に取る。


つまり、クンダリニーはあるという結論になってしまう。


まだしも、シュレディンガーの猫とは違うからクンダリニーはない、といった方が日本語の文法としては正しいように思える。



まあ、修行者にとってはどうでもいい事なんだけど。(笑)