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相対的な考え方ではなく絶対的な考え方をするという以外にも、オウム独特の考え方はいくつかある。



例えば、宗教とはどのようなものか、という考え方である。


宗教は科学である。


そういう考え方もあるが、オウムではそうは考えない。



宗教を超えたものが科学である。


超科学こそが宗教であると考えるのだ。



また、宗教と道徳の違いについて。


これは、道徳の終着点が宗教の出発点である。


そういう考え方をする。


つまり、宗教には道徳的要素はない。


そういう事になる。



また、人生の意味や価値について。


これは、人生には全く価値がないと考える。


なぜなら、世の中のすべての不幸の原因が、人生に価値があると考えるところから起こっているからだ。



これもまた観念の崩壊という事になると思うが、人生に価値があると考えると、必ず他との比較が起こる。


自分と他人を区別して、自分の方が価値があるとか、他人は価値がないという考え方をしてしまう。


他人よりも自分の方が価値があると考えることで幸福を感じる。


そして、一旦価値があるという考え方をしてしまうと、全ての人の行動と結果に同じだけの価値があると考えることは出来なくなる。



受験でも、就職でも、国家試験でも、なんでも同じ事だが、合格と不合格が同じ価値であるという事などありえない。


その価値の差から差別が起こり、強者が弱者から搾取するという構図が成立する。


価値のある者は、価値のない者から奪うことが出来るのだ。


同じような考え方をする人々が、その考え方を容認してしまう。



では、人生すべてに価値がないとすれば、どういうことになるだろうか?


合格には価値がない。


不合格にも同じように価値がない。


どちらにも価値がない。


ゼロイコールゼロ。


そこには、上下・優劣といった差別が存在しない。


自と他の区別も存在しない。



ではなぜ、人生には価値がないと言えるのだろうか?


それは、「一切皆空」、全ては幻影であると考えるからである。



だからと言って、人生に意味がないというわけではない。


人生には、人生に価値がないという事を知る意味があるのだ。

2次予選の途中だけど、熱戦が続いております。



昨日の1次予選はnozomiが敗退してしまうほどレベルの高い戦いだった。


そして、その1次予選を唯一全勝で勝ちあがって来た技巧が恐ろしい強さを発揮している。


ponanzaとの全勝同士の対決を制して、現在10連勝中。



ponanza相手に危なげのない勝ちっぷりだったので、このままなら明日の決勝の結果も見えたかなという感じ。


やっぱりスペック制限なしだと、ハードの性能の依存度が高くなるなあ。


どちらもクラスターマシンなのだが、ponanzaの総コア数が80、技巧の総コア数が294。


素人目には、ponanzaに勝ち目がないように思える。



まあ、しかし、「山ちゃんに技巧貸してあげて。」


のコメントには笑ってしまったのだが。(笑)

では、先ずシヴァ神の説明から。



シヴァ神とはグルの中のグル、グルのグル、一番最初のグルの事である。


オウムの教義を理解する重要なポイントのひとつが、その考え方が相対の世界ではなく、絶対の世界であるという事にある。


なので、我々が住むこの相対の世界とは、根本的に違う考え方をする。


それを理解するために、観念の崩壊が必要になる。



相対的な世界においては、幸・不幸はその世界と同じく相対的なものである。


つまり、他人との比較によって、幸せかどうかが決定する。


ところが、修行者が求めているのは、そんなあやふやなものではなく、絶対的なものである。


いわゆる絶対幸福である。



では、そもそも幸福とは何なのか?


人は欲求を満たすことによって満足し、幸福感を得る。


まあ、要するに、一般的には煩悩を満たすことが幸福であると考えられている。


ところが、修行者はそうは考えない。(笑)



人が幸福を感じるという事は、どういう事なのか?


その事をもう少し、掘り下げて考えてみるのである。



欲求を満たす、煩悩を満足させる、とはどういうことなのか?


欲求を満たす、煩悩を満足させることによって、何が起こっているのか?


そう考えるのだ。



欲求を満たす。


その瞬間に、わずかな時間ではあるが、その短い時間の間だけ、欲求が消える。


そして、欲求が消えている間だけ、人は幸福を感じている。


修行者はそう考える。



つまり、欲求を満たすことが幸福なのではなくて、欲求が消えたことが幸福なのだと考えるのだ。


もし、煩悩を滅する事が出来たならば、欲求が消えた状態がずっと続くことになる。


欲求が消えたまま、ずっと幸福でいられる。


これがすなわち、修行者が求める絶対幸福である。

世界コンピュータ将棋選手権が開催された。


スペック制限なし。


人を超えた能力を持つ怪物たちが繰り広げる死闘を、しばらくの間楽しみたいと思う。



相手に全力を出し切らせたうえで、全部まとめて叩き潰す。


考えるべき事はそれしかない!





では、神々の世界とは、オウムの教義においてどのように考えられているのだろうか。


神々の世界は、人間界とは全く違う。


神々は人間のようには生まれて来ない。


神々は何もないところへ、完成された成人がいきなり出現する。(笑)



まさしく観念の崩壊だと思うが、人間や動物のように妊娠・出産というプロセスがないのである。


当然に、親子の情というものはない。


生殖が必要ないので、精を漏らすということもない。


これが神々の愛欲のカルマである。



人間界は、情や性欲に三悪趣のカルマが結びついている。


そのため誤解する者いも多いと思うが、愛欲のカルマは切ってはならない。


修行の順番において、切るべきは三悪趣のカルマが先である。


愛欲のカルマを切って、三悪趣のカルマだけが残ってしまうと、来世は間違いなく三悪趣である。


しかし、愛欲のカルマが残っていれば、来世は修行が出来る世界へ転生する可能性が残る。



それと、ついでに言っておくと、人間界ではほとんどの場合意識堕落天のカルマは無い。


人間界での勝者というものは、基本的には権力や財力を持つものである。


この、権力や財力というものは、単に餓鬼のカルマに過ぎない。


なぜなら、人間界が餓鬼の世界と同じ、貪りの世界であるからである。



意識堕落天は、貪りのない純粋な闘争の世界である。


人間界のように弱い者いじめなどはしない。


経済活動とは、要するに自分よりも弱い立場の者から搾取することで成り立っている。


権力も同様に、自分よりも弱いものを支配したいという欲求に基づいている。


意識堕落天の心にあるのは、ただ強い者への闘争心だけである。


まあ、それはそれで問題があるのだが。(笑)