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もはやお忘れであろう。


とか、


そんな時代もあったよね。


とか、言いたくなってしまうほど、古き良き時代の物語。(笑)




その日の朝、確か7時ごろだったかと思う。


警備の交代の時間なので、富士山総本部道場の2階から持ち場へ行こうとしたところで呼び止められた。


いつもはやらないのに、その日はなぜかミーティングがあった。



警備の人数がいつもの3倍ほどになっている。


いつもは警備などやったことのない連中まで動員されていた。


全員が揃ったところで、報告があった。


「今日は警察の強制捜査があるので、皆さん気を付けてください。」(笑)



はっきり言って、意味が分からない。


今日は警察の強制捜査がある。


そう断定していた。


なぜだ?


なぜ、そう断定出来るんだ?



それともうひとつ。


気を付けるって、何をどうやるんだ?


相手が暴徒であれば、自分たちの身を守るために攻撃は許される。


しかし、警察相手にいったいどうしろと。



謎が謎を呼ぶ展開だが、普通に考えて警察の強制捜査があるかどうかなんて分かるはずがない。


おそらく、その場にいた全員が、どうせ誰かが適当なことを言っているんだろう。


その程度にしか思っていなかった。

中二階にある遠藤の実験室の階段を降りたあたりに、様々な薬品や実験器具が置いてある棚があり、その下に容器に入れてハチミツが置いてある。


アストラル丹を作るときは、ここからハチミツを調達する。


そして、麻原の子供たちがおやつにハチミツが食べたくなった時に、遠藤に言えば遠藤がハチミツを少しだけ瓶に入れて持ってきてくれる事になっていた。


つまり、麻原の子供たちは、ハチミツがどこに置いてあるのか知らなかったのだ。


その日が来るまでは。(笑)



その日、僕はサティアン内の廊下を歩きながら、色々と考え事をしていた。


そして、遠藤の実験室の階段の前を通るときに、ハチミツが残り少なくなってきたので、ドラム缶から容器に移し替えなきゃいけないなと思っていた。



ちょうどそのとき、向こうからやってきたカーリーとすれ違った。


すれ違いざまに、カーリーは何気なくぽつっと口にした。


「ふ~ん、ハチミツって、そんなとこにあったんだ。」



はいっ?


何だ、今のは?



もしかして、心を読まれた?


まさかなあ。


という感じで、その場は終わった。



サマナはとにかくワークが忙しい。


余計な事を考えている暇などないのだ。


部屋に戻ってワークを続けていると、なんだか外が騒がしい。


かしまし娘たちが騒いでいるみたいだが、いつものことなので相手にしないでおこう。



しばらくたって、アストラル丹のハチミツを取りに行くと、


ない。


ハチミツがありません!



いや、多少は残ってはいる。


ハチミツは粘りのある液体なので、その粘りのある分だけ容器の底のほうに残ってはいるのだが、それ以外はごっそりなくなっている。


おそらく、容器を丸ごと持ち上げて、ひっくり返したのだろう。



それにしても、容器の中にはまだ2、3キロのハチミツが残っていたはずだが、そんなに大量のハチミツを一体何に使うつもりなのだろう。


恐ろしい奴らだが、その発端はカーリーの他心通だ。


おもわずこのとき、よく映画やアニメの超能力者が登場するストーリーのセリフが脳裏をよぎった。


「この、化け物め!」(笑)


ツァンダリーを達成するためには、エネルギーの保全が絶対条件である。


そのためのベースとなるのが、ヨーガにおけるヤマ・ニヤマであり、仏教における布施・持戒である。



この所作の行においては、基本的に三つの根本煩悩に対する実践を行う。


なぜなら、先に三悪趣に落ちるカルマを切ってからでなければ、他のカルマを切ることが出来ないからである。



その大元は無智であり、本来であればジュニアーナヨーガで無智を滅したいのだが、無智であるがためにジュニアーナヨーガの実践は不可能である。


それゆえに、智慧を必要としない、エネルギー主体のクンダリニーヨーガが推奨される事となる。


したがって、無智に対する実践は、ひたすら修行してエネルギーを強める。


そういう結論になる。


考えるんじゃない、修行しろ!(笑)


である。



続いて、貪り。


人間界は貪りの世界であり、低級霊域とつながっている。


貪りが当たり前になってしまっているので、それが貪りだとは気付かない。


金や物質に対してもそうなのだが、地位や権力に対しても貪っており、しかもそのことに気付かない。


まあ、人間界にいる限り、貪りを完全になくしてしまうと生命維持が出来なくなってしまうので、軽く心に留めておく程度でよい。



そして、一番の問題が地獄のカルマである。


人間は死後、ほぼ全員が三悪趣に落ちるとされているが、その中の90%以上が地獄に落ちるとされる。


この見分け方は簡単で、あれが許せない、これが許せないと言っている人たちである。


許せないとは、自と他の区別をし、自分が正義で他人が悪という判断をして、正義が悪に攻撃することは許される、とする心の働きである。


これはもちろん、間違いなく地獄のカルマである。


この地獄のカルマによる漏れが、修行上の最大のエネルギーロスとなる。



これに対する対処は、とても簡単である。


とにかく、許す。許す。と思えばいい。


悪くないから許すのではない、悪くても悪くなくても許す。


いわゆる、罪を憎んで人を憎まず、である。



よく、卑劣な犯行は許せない。


などという人がいる。


この言葉を聞くたびに、卑劣じゃない犯行ってどんなんだろうとか思ってしまうのだが、まあ、いいか。



「卑劣な犯行は許せない。」


を分解して考えてみると、「卑劣な」は感情。


「犯行」は事実。


「は許せない。」が攻撃。


である。



事実は事実で覆らない。


が、感情による攻撃が地獄のカルマを生む。


そして、感情による攻撃は、事実であるか事実でないかに一切関係がない。


許せない人は、常にあれが許せない。これが許せないといい続けている。


だから、これと逆の実践が、許す。許す。である。


そして、これが、ヨーガの土台となる、非暴力の実践である。


非暴力の実践を続けるとエネルギーにどの様な変化が起きるか。


自分で試してみればいい。



いわゆる布施の実践についても、これも簡単である。


見返りを求めないあらゆる行為が、多大な功徳を生む。


損得勘定は貪りのカルマがあるがゆえであるが、これをやれば世の中のためになるなとか、人のためになるとかを一切抜きにして実践して頂きたい。

解脱を目指す瞑想法はグルヨーガとツァンダリーしかないのだが、現状ではグルヨーガは使えない。


なぜなら、グルヨーガはグルへの依存度が高すぎるからである。


グルヨーガはグルなしには達成できない瞑想法であり、現状の麻原では、まあ、現状がどうなっているのか正確に知ることは出来ないのだが、とりあえず現状の麻原では、グルとしての役目を果たせそうにない。



なので、残る選択肢はツァンダリーだけということになる。


なぜなら、これは自力での達成が可能であるからだ。



だからといって、自力だけでは達成は不可能である。


ダキニの援助が必要になるので、その前提となる基礎的な修行はクリアしておく必要がある。



前提となる条件がクリア出来ていれば、あとはひたすら修行あるのみである。


ひたすら実践することによって、何が起こるのかという事になるが、これは麻原が説法で述べている通りである。


観想しなくても、エネルギーは勝手に回る。


観想しなくても、甘露は勝手に落ちる。


観想しなくても、ダキニは向こうからやって来る。



それらを達成するために必要なのが、ツァンダリーを10万回回すという作業である。


小乗のツァンダリーで三つ、ヒンズーツァンダリーを合わせて四つ。


どれを選んでも構わない。


ツァンダリーはお互いに影響を与え合っている。


一つのツァンダリーの10万回の達成は、他のツァンダリーの10万回の達成と同じ結果をもたらす。



まあ、普通はヒンズーツァンダリーか第二のプロセスのどちらかを行う。


どちらか一方を達成した後で、もう片方の実践をすることで格段に修行が進んだことを実感出来るだろう。


確認できた段階で、残りの二つのうちのどちらかを使ってサマディへ入る。



このふたつのツァンダリーを使うことによって、それぞれに違う二つのサマディに入ることが出来る。


意図的に観想する。


エネルギーが勝手に動き出す。


その動きに任せることで心が動きを止める。


現象をただ、ありにままに観る。



ここで観るとは観察の事ではない。


観察とは意図的な行為であり、そのとき心は動いている。


あくまでもプルシャにおける観照ということなのだが、このときリアルタイムに認識することが出来ない。


なぜなら、認識とは心の持つ作用だからだ。


心の作用が止滅すれば、認識出来ないのは論理的に当然の事ではあるが、まあ、これには慣れるしかない。

アーチャリーのブログを見ていると、まるで30年前の出来事を見ているような錯覚に陥る。(笑)



あの当時の若者たちは、自分はこのままでいいのか?


日本はこのままでいいのか?と、思い悩んでいた。



そんな答えは見つかるはずもなく、ただむなしく毎日が過ぎていく中で、麻原が現れたのだ。


麻原はこう言った。


「世の中を変えることは出来なくても、修行によって自分を変えることは出来る。」



一人一人が変わる。


それが広がっていくことによって、世の中を変えることが出来る。


それが救済なのだと。



麻原の子供たちは、事件から20年たってようやく、30年前の麻原の弟子たちと同じレベルに到達できたのだろうか?