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肩書はフォトジャーナリスト、日本写真家協会会員。


なるほどね、元TD師より写真撮影が上手いわけだ。



荒行がどうのこうの言ったって、オウムでの修行経験がないんじゃどうしようもない。


これは元オウムでも同じ事で、極限修行の経験がない者にはオウムを語る資格はない。



なので、藤田庄市の本が図書館にない事を祈りつつ、検索をかけてみると・・、


やったー!ない!



あるにはあったけど、修験道と拝み屋さんの2冊だけだ。


オウム関係の本はない。



よかった、よかった。


素人の書いた本を読むなど、時間の無駄以外のなにものでもないからなあ。

194ページまで読んだところで、これ以上は読む必要はないと判断。


しかし、元TD師に言われて、しぶしぶ続きを読み始める。



244ページまで読んだが、特にこれといった部分は見当たらない。


いくら知識を増やしてみたところで、本質が理解出来ていなければ何にもならない。


オウム以前に、修行とは何か?解脱とは何か?そういった最低限の事は理解しておいて欲しいものだが、それすら出来ていない素人が何人集まろうが何の意味もなさない。


レベルが低すぎてお話にならないが、もう少し読めばまともな話になるのだろうか?



334ページまで読んだが相変わらずだ。


ほとんどオウムについて書かれていないし、たまに書かれていても間違った認識のものばかりだ。



外でカエルが鳴いている。


台風が近づいて来ているから、そろそろ雨が降り出すのだろうか。



それにしても不思議なものだ。


カエルがいるとは言っても、近くに田んぼや川があるわけではない。


周りは普通に車が走っている道路だ。


カエルは一体どうやって、ここまで無事に辿り着いたのだろうか?



全部読み終えた。


特に見るべきものは何もなかった。


予想通りだった。


なんて悲しいんだ!



作者はオウムについて、藤田庄市から情報を得たらしい。


藤田庄市、知らんなあ、で、ネットで検索。


なんだ、素人か。(笑)



まあ、小説としてはそれなりに面白いのかもしれない。


オウムに関していうなら、得られるものは何もない。



このブログに、何度も何度も何度も書いている事だが、麻原が言っていたのは「道徳の終着点が宗教の出発点である。」という事だ。


「善人になりたければ道徳を学べばいい。」


「その人は、宗教をやるべきではない。」


そう言っていた。



そして、宗教の終着点から修行が始まる。


修行の終着点が解脱だ。


解脱とは、善人になりたい者が目指す場所ではない。


解脱という言葉を覚えただけで、まるで解脱を理解したかのように勘違いをしている。


なぜそんな事になってしまっているのか、僕には全く理解不能だ。

相変わらずの図書館通い。


まあ、30冊ぐらい読んだかな、という感じ。



はっきり言って、書かれている事は本によって様々である。


それぞれに違う事が書かれていたりするのだが、その大量の情報を自分の頭の中で体系づけて処理し、再編成する事で自分のものとなる。


その結果、「石原さとみの目」も描けるようになる。


これは結局、絵であってもオウムの教義であっても同じ事だ。



図書館に行くついでに、「太陽を曳く馬」があるかどうかを調べる。


無ければいいなと思っていたのだが、(笑)あったので仕方なく読むことにした。



いきなり下巻を借りるものだから、窓口の人に「下巻でよろしいですか?」と確認されてしまった。(笑)


もちろん、よろしいですというか、下巻しか借りるつもりはない。


で、半分ほど読んだ。



まあ、要するに小説なので、それは作者の好きなように書けばいいのであり、論評するような性質のものではない。


それと、何か疑問があるのであれば、その答えは全て僕のブログに書いてある。



何度も書いている通り、オウムの教義を理解するために必要な事は、教義と方便とを分けることだ。


そうしないと矛盾だらけで、頭のおかしい奴のただのたわごとになってしまう。


分からないことがあればこのブログで質問すればいいだけの事だ。