史上最年少棋士とひふみんの対決とか聞いても、ひふみん相手なら勝って当たり前、ここで負けるようなら先が思いやられるなという気がしていた。
なので、この対決自体には興味が無かったが、クローズアップ現代を見ていたら、もしかしたらとんでもない逸材かもしれないと思い始めた。
この中学生は、ひふみん相手に矢倉を選択した。
矢倉と言えば、もちろんひふみんの得意技である。
その相手の得意技に、わざわざ自分から飛び込んだ。
コンピュータ相手に事前貸し出しをして、懸命にバグ探しをしている情けない棋士連中は少しは見習うべきだろう。
そして、途中で指された8五歩の一手。
マスコミが煽ったからかどうなのか、控室では大勢の棋士たちが検討をしていた。
羽生も渡辺も注目して見ていた。
相手が攻めてくるのが確実で、普通なら受ける場面で受けずに駒がぶつからない歩を突く。
この手を見ていた棋士全員が疑問手と感じた。
しかし、中学生本人は悪くはならないという大局観を持っていた。
そして最終盤、この8五歩を生かした手筋通りの8六桂が炸裂。
ひふみん玉はそこまでとなった。
この感覚が面白い。
羽生にも渡辺にもない、新たな天才だけが持つ感覚。
これからが楽しみになってきた。
解脱するまで解脱とは何かが分からない。
教義とは解脱に至る道を説くものである。
したがって教義もまた理解出来ない。
それゆえに信ありて悦ありとなる。
けっして理解してから悦があるのではない。
解ありて悦ありではない。
あくまでも、信ありて悦あり、である。
そして実際には、実践しなければ悦は有り得ない。
しかし、信じなければ実践はしない。
よって、そこにあるのは選択だけである。
信じたければ信じればいいし、信じたくなければ信じなければいい。
それは個人の自由だ。
理解できないのだから、それが正しいか間違っているかの判断も出来ない。
判断できるのは、それが社会常識から外れているのか、法に触れるのかという事だけである。
その教義や修行法が正しいのか間違っているのかなど、解脱するまで分かるわけがない。
だからといって、中途半端に実践したところで結果は得られない。
だが、修行者にとって、そんな事はどうでもいい。
見返りを求めず、全精力を傾けて修行に打ち込む。
修行者とはそういうものなのだが、そんな魂はごくまれにしか存在しない。



