
昔、麻原が言っていたことをいくつか思い出す。
「君たちは、私を理解することは出来ない。」
「もし、私を理解出来るようになったなら、その時は私と同じ存在になっているだろう。」
麻原だけではない、教義もまた同じ。
麻原と同じ存在にならない限り、教義を理解することは出来ない。
また、教義が正しいかどうかも、絶対に証明出来ない。
これは証明がどういうものかを考えてみれば分かる。
証明とは、現象界に限定されたものであるために、解脱という現象界を超えたものを証明することは不可能なのだ。
あとは論理的に理解するか、ただ単に信じるかだけだ。
いずれの場合も、実践に応じて、必ず結果が出る。
さらに、麻原は、「君たちが無智だから法則を説けないじゃないか。」と嘆いていた。
僕もそう思う。(笑)
このブログのタイトルは「法友へ」である。
「オウムへ」でもなければ、「サマナへ」でもなければ、「信徒へ」でもない。
基本的にはクンダリニーヨーガの成就者へ向けたものであり、ステージの低い者達には難しい内容になっている。
というか、全く理解できないだろう。(笑)
まあ、そういう人たちのために、行法解説を行っているのだから、とりあえずクンダリニーヨーガを成就してから教義について話をすべきである。
僕ももっと具体的な方法について説きたいのだが、あまりにも無智なコメントばかりで、いつまでたっても先に進めないのだ。
方便と教義の両方が混在しているのは、何もオウムに限った事ではない。
キリスト教においても、仏教においても同じ事である。
「神が人間を作りたもうた。」
誰が信じるんだ、そんな与太話!(笑)
「阿弥陀様におすがりすれば救われる。」
ふざけるな!いい加減にしろ!
である。
だからといって、キリスト教や仏教の教えが、100%全部間違っているのかと言えばそうではない。
そこには、大量の方便の中に、わずかながらも真理がある。
その構造は、結局オウムと同じなのだ。
ただ、大勢の人々は、キリスト教や仏教を、無思考状態で盲信してしまう。
経典に書かれている事は全て正しいとしてしまうのだ。
その内容が矛盾しているにも関わらずである。
まあ、結局世の中というのは、そういうものなのかもしれない。
経典に限らず、本というものはその中身がほとんど役に立たない。
200ページの中で役に立つのは、せいぜい5ページぐらいだろう。
同じ系統の本を読む場合、2冊目からは内容が重複するので、1冊目よりもさらに役に立たなくなる。
絵の本を随分と読んではみたものの、自分が知りたい情報はほとんど得られていない。
同じように、オウムの教義の中から、解脱するための方法を探ってみたとしても、見つけ出すのは非常に困難である。
元々、必要な情報の絶対量が少ないのだ。
絵の場合、必要な理論や練習方法を知るには、自分で本を書くしかないかなという気がする。(笑)
オウム真理教の教義と修行体系については、すでにこのブログでこれ以上ないほど懇切丁寧に、しかも何度も同じ事を書いて解説してある。
解脱を目指す者にとっては素晴らしい宝の山であるが、謙虚さがなければ観念の崩壊は起こらない。

