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無明ありて行あり。

 

3グナにより幻影が作り出される。

 

そして、その中でエゴが楽しみを貪るのだ。

 

 

このエゴが我であり、我は幻影の中にしか存在しない。

 

一切皆空、すなわち、一切を幻影と見る。

 

この考え方をする場合に、自分が幻影を見ていると思う人もいるかもしれないが、一切が幻影であるのだから、当然に幻影を見ている自分もまた幻影である。

 

幻影の中で、幻影が幻影を見ているのだ。

 

そして、真我だけが唯一、幻影ではない。

 

 

真我は幻影の中にはない。

 

無我とか非我は幻影の中にある。

 

無我は「無」・「我」であり、非我は「非」・「我」である。

 

どちらも我に関する言葉であるのだが、真我は「真我」であり、我とは関係ない。

 

まあ、他に名前をつけるのなんなのだが、真我を「真理」とか「真実」というと混乱が生じるだろうし、神や仏では到底その本質を表現出来ない至高にして究極の絶対なるもの。

 

なので、とりあえず真我は真我としておくしかない。

 

 

無我や非我の我はエゴの事であるが、真我の我はエゴの事ではない。

 

無我や非我は幻影の中、真我は幻影を越えている。

 

すなわち、我を越えているのだ。

 

大学での講演で、学生からの「真我は、無我ですか?非我ですか?」

 

という質問に対して、麻原が「無我でも非我でもない、越我である。」

 

と答えたのは、全くその通りであり、この質問に即答した麻原の凄さをよく表している。

もう何度も同じ事を書いているので、いい加減面倒くさくなっているのだが、もう一度おさらいをしておこう。

 

 

真我独存。

 

これが原点であり、出発点である。

 

なぜなら、解脱とは、真我独存の事だからである。

 

したがって、真我独存を否定した、あるいは無視、軽視した解脱のための修行というものは有り得ない。

 

全ての修行は、真我独存へと向かい、真我独存へと通じている。

 

そして、逆に言えば、真我独存へと向かわないものは、全て修行ではないし、修行者ではない。

 

 

これがオウムの教義であるのだが、それはオウムのオリジナル、麻原のオリジナルということではない。

 

なぜなら、それはヨーガ根本経典に書かれている事であるからだ。

 

一般的に考えるならパクリであり、オウムよりに考えるなら真理はひとつということになる。(笑)

 

 

真我独存がスタート地点であり、そこから「無明ありて行あり」が始まる。

 

いわゆる魂の落下のプロセスである。

 

 

ここで何が落下するのかというと、それは真我ではない。

 

落下していくのはエゴである。

 

正しくは、無明ありて行ありでエゴが誕生し、宇宙が誕生する。

 

 

しかし、真我は独存なのだから、誕生したものは全て存在していない事になる。

 

その通り!

 

それらは全て幻影なのだ。

 

これが一切皆空である。

 

真我は独存であり、それ以外の全ては存在しない。

 

これが教義の原点であり、出発点である。