まあ、上半期も、あと1か月残してはいるのだが。(笑)
歌でも。
まあ、上半期も、あと1か月残してはいるのだが。(笑)
歌でも。
実行犯5人全員がサリンを撒いてしまったというのはおかしな話だという事は、少し考えれば分かる事だ。
例えば、上祐正大師や野田正悟師だったらどうだったのだろうか?と考えてみると、なんだか言う通りにはサリンを撒かないような気がする。(笑)
他にも、石井久子、井上、荒木等々、サリンを撒かなそうな連中は大勢いる。
実行犯全員がサリンを撒いてしまったがために、まるでオウム全体がサリンを撒くように感じてしまっているのかもしれないが、実際にはそうではない。
しかし、一旦サリンを撒いたという事実を認識すると、みんながそうではないかと錯覚してしまうのだ。
これはオウム内でもオウム外でも同じように起こる反応であり、その点において、麻原のマインドコントロールは見事であると言わざるを得ない。
それと何度も書いているが、事件の犠牲者をポアすることは不可能である。
「犠牲者をポア出来る」が方便、「ポア出来ない」が教義である。
「ポア出来る」がグルの言葉、「ポア出来ない」がグルの意思である。
地下鉄にサリンを撒けば自分にとっての悪業になり、しかも犠牲者はポアされない。
そして、教団は崩壊する。
これが、オウム真理教の教義から導かれる答えである。
したがって、そこから先は、個人の判断の分かれるところとなる。
地下鉄サリン事件の実行犯たちが、全員サリンを撒いてしまったというのは普通に考えればおかしな話である。
5人全員が同じ場所にいて、一緒に行動したのならともかく、5人が別々に行動して、しかも一人でいながら同じ事を行うというのは、オウムにいた人間としてどうにも納得出来ない。
さらに変なのは、サリンを撒いておきながら、それを反省したり後悔したりしている点である。
人を殺すことは罪である事は小学生でも分かる。
しかし、実行犯たちはサリンを撒いてしまった。
つまり実行犯たちは、大人→小学生以下→大人という精神構造の変遷を辿ったという事になる。
本当にそんな事があるのだろうか?
ちなみに、オウムは殺人を肯定する教義であると言われているが、これもおかしな表現である。
肯定するとは、いったいどういう意味で使っているのだろうか?
僕の認識では、肯定する前には必ず、善か悪か、つまりそれが正しいか間違っているのかの判断がある。
麻原は、殺人を善とか悪とかいった事は無い。
麻原が言っていたのは、それが善業か悪業かということである。
善悪には判断があるが、善業・悪業には判断がない。
ただの事実である。
正義には判断があり、それは立場によって違う。
ところが、善業・悪業というカルマには判断がなく、それは誰にとっても平等である。
したがって、オウムの教義においては、殺人は否定も肯定もされず、ただカルマによって生起するだけという認識である。
そして、殺人は悪業となる。