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p61

佐木隆三が井上を好青年だとか、林郁夫をいい人だとか思っているらしい。

 

世間の反応というのはそういうものなのだろう。

 

しかし、事実は全く違う。

 

井上について書く気はないが、林郁夫についてはいずれこのブログで書く予定でいる。

 

前にも書いた気がするが、タイトルは「先生」である。

 

 

p70

出家について。

 

僕が知る限り、日本で最初に出家制度を取り入れたのは沖ヨガである。

 

ただし、麻原が沖ヨガのシステムを知っていたのかどうかは分からない。

 

沖ヨガについてもいずれ書く予定でいる。

 

タイトルは「ヨガのすすめ」である。

 

 

出家制度について、日本人は根本的に間違った考え方を持っていると思う。

 

釈迦牟尼は、家族が止めるのも聞かず、身内を不幸にしてまで家を飛び出している。

 

それが仏教のスタートになっている。

 

出家とは、そもそも他人を不幸にしてでも、自分が解脱を目指す。

 

そういうものなのだ。

 

そして、解脱したからと言って、誰かを救えるわけではない。

 

自分を救えるのは自分自身だけ。

 

それが仏教の根本的な考え方である。

続いて、ピンポイントで目に付いた部分について、感想を書いていこう。

 

 

p48

曹洞宗の板橋禅師はオウム事件に関して、ほとんど関心がなかった。

 

「反省とは?」という質問に、「事件のことを、忘れてしまうことでしょうな。」と答えている。

 

この対応は、ダライ・ラマと似たようなものに思える。

 

 

この答えは、実際に忘れてしまえと言っているのではない。

 

そんなもの、忘れようとしたって、忘れられるわけがない。

 

 

記憶は残る、それは変えようがない。

 

問題は、記憶の想起に伴って起こる、心の働きの方だ。

 

この心の働きを苦しみの生起という。

 

つまり、記憶が苦しみなのではなく、心の働きが苦しみなのであり、その人は自分で自分を苦しめているだけだということだ。

 

他人を許せないのも同じ事。

 

事実が許せないのではなく、その人の心の働きが許さないだけなのだ。

 

 

従って、心の作用を止滅させることで、苦しみから解放されるということが分かるだろう。

 

板橋禅師の「忘れてしまえ」は、「心の作用を止滅させよ」と同義であると言っていいだろう。

 

 

う~ん、のっけから長くなってしまった。(笑)

ハングドマンというタイトルから想像されるのは、もちろん左手が右手の男のことではなくて、逆さづりにされながらも穏やかな表情を浮かべるというタロットの暗示の方。

 

なので、絞首刑になる事をこころ穏やかに受け入れる死刑囚、という先入観を持って読み始めることになる。

 

 

が、あれ、この本って、フィションだよね?

 

実名で出とるがな。(笑)

 

え~と、仮名になっているのは、作者の田口ランディと林泰男と森達也と元TD師だけか。

 

なんでなんだろうな?

 

 

本の後ろの方に、この小説は実際に起こった事件を題材にして書かれたフィションです。

 

と書かれている。

 

そうだよね、フィクションだよね!

 

ということで、あくまでもフィクションとして読み進めていく。

 

 

この本は元は雑誌に掲載されたものであり、今回単行本化されたという事。

 

だから、知ってる人はもっとかなり前から知っていたって事か。

 

 

最初の方をよんで思ったのは、これは恋愛小説なのか?という事。

 

そこからどんどん妄想が膨らんで、元TD師が合流したあたりから手が付けられなくなる。(笑)

 

そして、最後の長文は、もはや完全にラブレター。

 

 

まあ、作り物の小説なんだから、これでいいんじゃないの、という気がする。

 

妄想が膨らんでいく割には、心の奥底へ深く切り込んでいく部分が足りない。

 

死刑囚との交流で舞い上がるのではなくて、もっとしっかり地に足をつけてえぐって欲しかったと思うのだが、こんなものなのかなとも思う。

 

やはり、オウムについての知識が足りない、そういう事になるのだろう。