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サヴィカルパサマディ。

 

3種類あるサマディのうちの最初のサマディ。

 

そしてそれが、3種類ある解脱のうちの最初の解脱。

 

 

このサマディにおいては、麻原が言ったように動きはない。

 

なぜなら、動きを知覚する主体、すなわちそのための感覚器官がないからである。

 

これもまた麻原が言ったように、感覚が無ければこの世界は存在しない。

 

それを説明しろと言われても、そこには言葉がない。

 

あえて言うなら、

 

どこまでも、どこまでも、どこまでも。

 

そんな感じだ。

 

 

このブログに何度も書いてきたが、サマディすなわちコーザルに到達するとそこには光など見えない。

 

光そのものは見えないし、光を見るための感覚器官が存在しない。

 

光が現れ、その光を知覚するための感覚器官が現れるのはアストラルからである。

 

ただのデータだけの世界であるコーザルには、動きもなければ時間もない。

 

時間がないがゆえに、それは永遠なのだ。

 

 

その何もない世界から次に光が現れる。

 

最初に現れるのが純粋なサットヴァの光である。

 

面白い事に、コーザルにはサットヴァさえも存在していない。(笑)

 

完全なる透明さは真っ暗闇であり、そこにほんのわずかな汚れ、これがすなわちサットヴァなのだが、それが混ざる事で透明な光が現れる。

 

その汚れがどんどん増えていく事で、次第に白銀の光、白い光と変化していく。

 

 

これらは全て、サマディから戻るときに経験するのであり、サマディ自体は何もないとしか言いようがない。

精神世界において、言葉では表現できないと言われることが多い。

 

これは全くその通りだ。

 

解脱とは、肉体に起こることでも心に起こることでもない。

 

ましては脳内現象などでは到底有り得ない。

 

 

体験している間は解脱ではない。

 

これは少し考えればすぐに分かる事である。

 

体験しているということは、その体験の主体が存在している。

 

その主体というのは個人という意味ではない。

 

個人に付随する肉体や感覚や心という個別のものの事である。

 

 

動いているのは肉体であり、体験しているのは感覚であり、感じているのは心である。

 

そして、肉体も感覚も心も自分ではない。

 

それらは自分の肉体、自分の感覚、自分の心という、自分とは別のものである。

 

面白い事に、自分のスマホや自分の車、自分の部屋を自分だという人はいないと思うが、これが自分の肉体や自分の感覚、自分の心になると、途端にそれは自分だと言い始めるのだ。

 

 

まあ、それらが自分ではないということを知っているのは修行者だけなのだが。(笑)

ダルドリーは全く起きない。

 

エネルギーの圧力も感じない。

 

凄まじいエネルギーを保ちつつ、ナーディーが完全に通った状態。

 

そういうことになるのだろう。

 

 

心臓が破裂しそうに激しく脈打ったかと思えば、次には臨終前の瀕死の状態のように弱々しくなる。

 

しかし、面白いもので心臓以外には身体のどこにも異常を感じないのだ。

 

これは修行者だけが味わえる楽しみというものだろう。(笑)

 

 

極限修行開始の頃と比べて、数は飛躍的に伸びていっている。

 

200、300、400、

 

修行者といえども平常では考えられないほどに長くなっている。

 

しかも、それだけクンバカしても苦しくならない。

 

心臓は力なく、トック~ン、・・・・・、トック~ンと弱々しく響くだけだ。

 

 

410、20、21、22、23、24、

 

トッ・・・・ク~~~~~~ン、

 

・・・・・・・・、ト、・・・・・・・

 

 

????????

 

消えた。

 

 

その瞬間。

 

何かをぶち抜いた。

 

手ごたえがあったというよりも、手ごたえがなくなった。

 

??????????