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私とは、結局エゴの事である。

 

私の中の悪い部分がエゴなのではなく、私全部がエゴである。

 

 

この私であるエゴが解脱しようと頑張ってみても、絶対に解脱できない。

 

エゴがどんなに努力しても、全ては徒労に終わる。

 

なぜなら、解脱する主体が何であるかを勘違いしているからだ。

 

 

サマディを修習しなさいと言われてエゴが頑張る。

 

頑張れば頑張るほどエゴが増大する。

 

エゴを滅することが修行の目的であるはずなのに、ひたすらエゴを増大させる努力を続けてしまっている。

 

これは、解脱とは何かという根本的な問題に対する間違った認識に原因がある。

 

 

ヨーガでは、解脱とは心の作用を止滅させる事であるとしている。

 

実に分かり易い。

 

全ての煩悩はエゴに付随している。

 

エゴを滅する事が出来れば、煩悩を滅する事が出来る。

 

エゴとは心の働きである。

 

心の働きが止滅すれば、エゴが止滅し煩悩が止滅する。

 

 

エゴにサマディを修習しろと言っても、エゴはひたすら増大しただ魔境に陥るだけだ。

 

なぜなら、いつまで経っても主体はエゴのままだからだ。

 

滅すべき対象であるエゴを主体のまま残して、答えは自分で見つけろと言っているのが原始仏教である。

 

これではただ混乱するばかりで、いつまでたっても解脱など出来るわけがない。

 

 

なので、解脱するためには、主体をエゴ以外の別のものに移す必要がある。

 

エゴ以外の主体はいくつかある。

 

グルを主体とするのがグルヨーガ。

 

奉仕を主体とするのがバクティーヨーガ。

 

エネルギーを主体とするのがクンダリニーヨーガ。

 

マントラを主体とするのがジャパヨーガ。

 

真我を主体とするのがジュニアーナヨーガである。

前回の答え合わせをしておこう。

 

 

発狂するのは誰か?

 

これはエゴである。

 

解脱するのは誰か?

 

これは誰もいない。

 

苦しんでいるのは誰か?

 

これもエゴである。

 

 

これらの当たり前の常識以前の事が理解できていないと、解脱したくてもできない。

 

というより、解脱するための正しい努力ができない。

 

努力の方法が間違っているのだから、当然に達成は不可能である。

 

 

原始仏典を捨てろと言っている理由はここにある。

 

原始仏典に書かれていることは要するに、サマディを修習しなさいということだけである。

 

そのための理論と実践方法が欠けているのだ。