この世に絶対はない。
そういう人がいる。
それは全く正しい。
なぜなら、この世は相対の世界だからである。
では、絶対はどこにもないのだろうか?
その答えはノーである。
絶対はある。
この世の外側に。(笑)
この世界の外側に至る理論と実践。
それがヨーガである。
で、前回の続き。
>わたしはある」の状態から生存渇愛を切り離すことが
である。
私はあるの状態がすでに日本語としておかしいというのは理解できたと思うが、まあ、それはいいとして、その後の文章との繋がりもまたおかしいことに気付くだろうか?
この文章は、
①私はあるの状態ではない。
↓
②私はあるの状態に生存渇愛がくっついている。
↓
③私はあるの状態から生存渇愛を切り離す。
と順番で状態が変化すると考えているということになる。
この考え方のどこが論理的におかしいか、自分の頭で考えて答えを見つけてもらいたい。
もちろん、仏教やヨーガの知識は一切必要ない。
真我とは何かを理解しなければ解脱できない。
何故なら、解脱とは真我独存であるからだ。
無常である苦しみの世界から抜け出し絶対へと至る事を目的としながら、無我だの非我だのという相対の世界に囚われ続けているのでは、永遠に迷妄の中をさまよい続けるだけだ。
そんな人達を大量に生み出し続けている。
それが原始仏典の抱える最大の罪だと言える。
原始仏典は釈迦牟尼の教えではない。
原始仏典はアーナンダの教えである。
1日も早く、その事に気づいて欲しいと思う。
教団内部でタターガタ・アビダンマの評価が高かったが、その理由は南伝大蔵経が優れているからというわけではなく、翻訳が素晴らしいというわけでもなく、麻原が成就者の立場から監修し間違っている部分を正し、足りない部分を補ったからに他ならない。
で、
>わたしはある」の状態から生存渇愛を切り離すことが
である。
新しい言葉を憶えれば、単語を記憶すればそれで試験には合格するかもしれないが、意味を理解しなければ修行には何の役にも立たない。
>わたしはあるの状態。
これは日本語としておかしい。
なので、この後の文章が全く成り立っていない。
わたしはあるは状態ではない。
状態とは変化するものである。
つまり、前はAであったものが、今はBである。
とか、前はAでなかったものが、今はBでない。
などのように、必ず変化するものである。
私はあるは不変である。
私が起きている状態。
私が眠っている状態。
私が夢を見ている状態。
それらのいずれの状態においても、わたしはあるはそのままである。
世界コンピュータ将棋選手権はやねうら王の優勝。
プロ棋士との対決と違って1局ごとに設定の変更が可能なため、対戦相手に合わせて細かく設定を変更したのが勝利の要因らしい。
特に最後のビールとの優勝決定戦は、意図的に千日手に誘導している。
見事な作戦勝ちと言ったところだ。
やねうら王はシードではなく、予選の1回戦からの登場だったのだが、棋譜を見てもなんだか強そうに見えない。
にも関わらず、結局勝ってしまう。
負けない将棋なのだ。
さらに入玉が得意で、無理に詰まそうとせず、正確に点数計算してどんなに手数がかかっても勝ちになるまで宣言しない。
見ていてもあまり面白くない。
もはや、人間の能力を遥かに超えてしまって、人間には理解不能と言うことなのかもしれない。
最近のプロ棋士の対局では、羽生対千田の終盤でAIを超えた読みだとか言われていたが、もちろんそんな事はない。
羽生の1四桂打ちは推奨手であるし、7一飛成から大体37手ぐらいでの詰みであり、全ての変化を読み切っている。
そんなAIが最近出し始めた、序盤の結論がとても興味深い。
初手の推奨手は2六歩か、7八金。
どうやら、7六歩はほぼ悪手と判断するようだ。
それだけでなく、角道を開けるのはどのタイミングでも良くないとの判断になっている。
面白いなあ。

