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さて、次は生存渇愛である。

 

生存渇愛とは何だろうか?

 

生存渇愛云々と言うからには、生存渇愛が何かを理解していなくてはならない。

 

 

生存渇愛がどのようなものであり、そして、それがどこにあるのか?

 

その場所を知っていなくては切り離すことは不可能である。

 

それは例えば、ガンを考えてみれば分かる。

 

ガンがどのようなものであり、それがどこにあるのかが分かっていなければ、それを切り離すことは出来ない。

 

闇雲に肉体を切り刻んでも、ガンが治るどころか死んでしまうだけだ。

 

原始仏典マニアの好きな言葉遊びではなく、それが何かを理解しなくてはならない。

 

 

続いて、わたしはあるである。

 

これも生存渇愛と同様に、わたしはあるとは何だろうか?

 

その意味が理解できないまま文章に使用しても、そんなものは原始仏典マニアの大好きな言葉遊びにしかならない。

 

 

ここまで長々と書いてきたが、「わたしはあるから生存渇愛を切り離す」という、この一行にも満たない文章に数多くの論点があり数多くの間違いがある。

 

これが1回のコメント全体の中にということになると、一体どれほどの数になるのやらである。

 

何度も書いているように、このブログへのコメントは論点が多すぎて支離滅裂でありお話にならない。

 

とにかく何でもいいから、一つだけを自分の頭で考えてとことんまで掘り下げてみることだ。

 

麻原はこの掘り下げを、30段階までやれば悟りを得られると言っていた。

 

ま、それが嘘か本当かはどうでもいい。(笑)

 

 

たった1回でもいいからそれが出来たなら、全てを理解できるようになる。

 

1回も出来ないのなら、何一つ理解することは出来ない。

 

修行というものは全てかゼロか、そのどちらかしか有り得ない。

 

試験勉強と違って、99点は0点である。

 

99.9も99.99999・・・・も全てゼロである。

 

相対は全てがゼロ。

 

絶対だけが唯一の合格だ。

みかんは普通は皮をむいて食べる。

 

まあ、皮ごと食べる人もなかにはいる。

 

逆に、キンカンの場合は皮ごと食べるのが普通である。

 

ま、農薬の問題もあり、人それぞれ好きにすればいい話ではあるが。

 

 

皮をむいて中身の実だけになった状態がわたしはあるである。

 

残った皮が生存渇愛。

 

これがわたしはあるから生存渇愛を切り離したということになる。

 

切り離したらもう元には戻らない。

 

めでたしめでたし。

 

 

で、話はここから。

 

ヨーガつまり真我から見た場合、わたしはある→生存渇愛であり、原始仏教つまりエゴから見た場合、生存渇愛→わたしはあるである。

 

皮をむいた状態、わたしはあるならば、すでに生存渇愛はなく、生存渇愛があるのならばまだ皮はむかれておらず、それはわたしはあるではない。

 

つまり、わたしはあるから生存渇愛を切り離すとは、皮をむいたみかんから、むいてしまったみかんの皮をむくということになる。

 

これは絶対に不可能であり、矛盾した文章である。

 

 

皮をむいてもむかなくても、みかんの実はその状態に関係なく存在している。

 

ところが原始仏教はエゴの視点からすべてを語っているために、説明が回りくどくしかも分かりづらい。

 

てか、間違った答えに誘導しようとしている作りになっているように見える。

 

そんなものはさっさと捨てて、釈迦牟尼と同じようにヨーガを実践すべきである。