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私はだ~れ?

 

この瞑想は、肉体、感覚、心、観念に対して行うものである。

 

神仙の会時代には、信徒向けの集中セミナーで6時間連続でこの瞑想をやらせている。

 

この事について麻原は、昔に比べれば随分楽になった。

 

昔は地獄の特訓と呼ばれるほど厳しいものだったと述べている。

 

まあ、この時代の信徒はその先辞めるか出家するかしているので、悟るか狂うかはオウムの昔からの伝統であることは確かだ。

 

 

実践においては、身体と心についてだけ考えれば良い。

 

感覚というものは、肉体に付随し心がその善悪を判断している。

 

ベースになるのが肉体と心なのだから、感覚だけを別にする実践は効果的ではない。

 

観念についても同様で、様々な観念の中で最も大きな障害となるのは、私を身体と同一視することであり、私を心と同一視することである。

 

したがって、身体と心についてのみ実践を行えばいいという事になる。

 

五蘊無我だとか六識・六処だとかいう専門用語は全く必要ない。

 

悟りを得るためには、現代の日本語があれば十分である。

 

私は身体ではない。

 

身体は、私の身体であって、私自身ではない。

 

これは当然のことだ。

 

私の服、私の家、私の仕事、私のお金。

 

何一つとして、私では有り得ない。

 

 

私は心ではない。

 

心は、私の心であって、私自身ではない。

 

これもまた当然の事。

 

心は私に付属するものであって、私ではない。

 

この当たり前のことを理解するには、論理的思考が不可欠である。

 

理解できなければ、その先には進めない。

 

 

必要なのは理解である。

 

押し付けられて、いやいや従うのではない。

 

こんなことを書くと、またなんだかなあ、ということになるかもしれないが、一般的に言って女性はこの論理的理解が苦手である。

 

理解できないまま押し付けられて、後になって不満が爆発!

 

そんな感じだ。