レオナルド・ダ・ヴィンチの遺した素描を見ていると、なんだか不思議な気がしてくる。
ただの素描とは言え、それはひとつの見事な作品なのだが、500年前に描かれたものなんだよなあ。
う~ん、なんだろうなあ。
現代の画家とは、何か本質的に違う上手さを感じる。
それは一体何なのだろう?
と考えていて、ふと思った。
これは、どうやって以前に、何で描かれているものなのだろうか?
いい味わいの茶色い色合い。
現代であればサンギュインということになると思うが、当時はそんなものはない。
というか、当時はそもそも鉛筆もなければ消しゴムもないではないか。
紙も現代のものとは違う。
で、どうやって描いたのかと思って調べてみたら、どうやら銀筆というもので描かれているらしい。
その特徴は、先が細いので面では描けない。
全ては細い線の集積である。
一度描いたら消せない。
ということである。
なるほどと思った。
現代におけるデッサンは、鉛筆であたりを取って、消しゴムで消して、指でぼかして、という描き方をする。
まあ、要するにごまかしのテクニックだ。
現代では当たり前のように使われているその技の全てが、500年前には何一つ使えない。
描き直しは出来ない、一発描きで線だけで描きあげなければならない。
それだからこそ圧倒的な存在感で迫ってくるののだろう。
現代の画家では到底真似が出来そうにない。
知りたいんだよなあ。
どうやったらこんな絵が描けるのか。
その努力の方法を。
ヨガと言えばアーサナである。
これは今も昔も変わらないが、最近では欧米人の影響が強く、筋トレの要素を追加するものが主流となっている。
ところが沖ヨガはポーズや呼吸法をさほど重要視していない、まあ、やりたい人はやればよい程度の扱いである。
なぜなら、沖ヨガはポーズや呼吸法だけをヨガとするのではなく、生きる事そのものをヨガにするという実践だからである。
例えば、歩くことについては、ただ歩くだけでどんどん健康になっていく歩き方がヨガ的に正しいと考える。
これは立ち方や座り方についても同様である。
一日中正しい身体の使い方をする、これが沖ヨガの実践であり、正しい身体の使い方をせずにポーズや呼吸法を行うのならそれは見せかけだけでヨガではなく、正しい身体の使い方をするのなら歩くだけでそれはヨガである。
ということになる。
そして、身体の動かし方だけでなく、呼吸においてもその実践を行う。
これは呼吸法を行っているときだけでなく、呼吸法を行っていないときにも一日中正しい呼吸を実践するという意味である。
さらに、心の働きにおいても、発する言葉においても、ヨガ的に正しい実践を行う。
一日24時間、生きることすべてをヨガ的に行う、これが沖ヨガである。
とてもじゃないが、こんな厳しい実践は常人には不可能である。
沖ヨガが、沖 正弘一代で廃れてしまったのも当然と言える。
まあ、こんな事を書くのもなんだけど、元オウムの皆さんから沖ヨガについてコメントがあったりもしたのだが、あまりにも知識が不足していると言わざるを得ない。
それは沖ヨガに限ったことではなく、精神世界全般について知識の絶対量が少なすぎるのではあるが。
何も知らないくせに質問もせず、どうしてそんなに傲慢になれるのか、不思議でならない。


