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しばらくのんびりとおしゃべりの時間が過ぎた後、指導員がやって来て行法が始まった。

 

沖ヨガでは行法のスケジュールが決まっておらず、次に何を行うのかが分からない。

 

また、休憩時間がいつまでなのかも決まっていない。

 

休憩が10分も経たないうちに次の行法が始まったり、逆に2時間経っても次の行法が始まらない場合もある。

 

まさしく、何にもとらわれない、これが沖ヨガである。

 

 

沖ヨガにはこのとらわれないという事と、もうひとつの特徴がある。

 

それが、「依頼心(依存)を無くせ。」

 

である。

 

よって立つのは自己のみであり、何者にももたれかかる事はない。

 

決断を迫られたときには、他人ではなく、自分の内側に答えを求める。

 

そして、その時に行うのが瞑想である。

 

沖正弘の弟子たちは、会話の途中で合掌したりしなかったりの違いはあったが、しばし瞑目しそれから答えるという事がよくあった。

 

いわゆる瞬間瞑想である。

 

 

そして、依存しないという考え方はヨガの根本であり、それはグルという言葉によく現れている。

 

先生は依存する対象であるが、グル・導師は、これらは同じ意味であるが、依存する対象ではない。

 

グルとは導師、すなわち導く師であり、その理論と実践方法を説くのみである。

 

まあ、これが所謂ヒナヤーナと呼ばれるものであるが、それ以外についてはこのブログで散々説明してきたので省略。

参加している人たちの年齢層は比較的若い。

 

20代から30代ぐらいに見える人たちがほとんどだ。

 

やはり男性の方が数が多く、女性の方が少ない。

 

大学生も東京の大学を中心に何人か参加している。

 

早稲田とか法政とかだったりしたが、東大が二人もいたのには驚いた。


いつの時代もヨガというものは男子大学生にとって魅力的なのだろうか。

 

まあ、さすがに高校生以下で一人で参加しているのは僕だけだったが。

 

その東大生は「沖先生と話がしたくて来たんだ。」と言って、とても嬉しそうだった。

 

ちなみに、沖ヨガでは、先生と呼ばれるのは沖正弘導師(グル)ただひとりである。

 

これは、オウムにおいて先生と呼ばれたのが麻原一人だけというのと同じである。

 

先生、導師、グルは全て同じ意味なのだ。

 

 

経営していた会社が倒産して、人生をやり直すためにやって来たという中年のおじさんもいたりしたが、大抵は何らかの体の不調を治したいという人たちが多かった。

 

まあ、見た目はみんな元気そうで、重病人というわけでもなさそうだが。

 

また、沖ヨガはインドのヨガだけでなく日本の様々な行法、それは西式健康法であったり肥田式強健術であったりするのだが、をたくさん取り入れているパーチワーク的な構造をしているため、断食道場としての一面もあった。

 

とにかく、沖ヨガというものは現代のヨガとはあまりにもかけ離れている。

 

ヨガでありながら、そのヨガにもとらわれていない。

 

実に不思議なものが昭和の日本には存在していたのだ。