生きているとはどういう事かの前に、何が生きているのか?である。
これは私・自分、つまりエゴである。
自分が存在していなければ、他人や動物が生きている事を認識出来ない。
それに、そもそも他人や動物が生きている事は動いているから生きていると思っているだけであり、他人から見れば他人の自分が直接にそれを知る方法はない。
そして、エゴを構成しているのが五蘊であり、この五蘊の活動が生きているという事であり、その活動の停止が死である。
しかも、この五蘊は肉体に付随しているものではない。
それは、死んだ人間が肉体を離れ、霊体になっても自由に活動している事を見れば明らかである。
肉体が動かなくなり冷たくなっても、霊体は生きている時と同じく意思を持ち動き回り、話をする事も出来る。
霊体にはまだ、 眼・耳・鼻・舌・身・意(げんにびぜっしんい)、 色声香味触法 (しきしょうこうみそくほう)という外界を認識する感覚が残っている。
ここから、記憶や思考は脳に依存していないという何とも不思議な事実を認めざるを得なくなる。
なぜなら、血流は途絶え肉体はすでに冷たくなり、脳はその活動を停止しているからだ。
朝日杯、藤井対渡辺の準決勝の対局はまたしても藤井の勝ち。
とんでもない大逆転だった。
中盤以降渡辺の優勢が続き、終盤に入って勝勢になっていく。
相手が藤井以外ならすでに勝負ありの局面で、粘る粘る。
121手目の渡辺が8七香と打って王手をかけたところで藤井の応手が8五歩の中合い。
詰将棋でも割と出てくる手筋だが、渡辺はこの瞬間にしまったと思ったのではないだろうか。
藤井が8四に歩を打ってくれれば詰み、単に7四に逃げても詰み、しかし、8五にまで香車を呼び込んでから7四にかわされると香車を取られてしまう。
プロであるからこそ中合いの意味を重く受け止めてしまったのかもしれない。
しかし、7四玉と交わす手には7三金の鬼手があった。
だけど、秒読みでこれを見つけ出すのはやっぱり難しかったんだろうなあ。
いやあ、凄い勝負だった。


