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続いて、なぜ地獄に落ちるのか。

 

元オウムなら、まあ、ここで元と書いているのは、すでにオウムは存在していないからである。

 

世間ではアレフやひかりの輪がオウムだと思っているかもしれないが、あんなものはオウムではない。

 

 

で、元オウムなら知っていると思うが、ジャータカに釈迦牟尼がわざと地獄に落ちる話が出てくる。

 

その理由は地獄の住人たちを救うためである。

 

当たり前の話だが、地獄の住人を救うためには地獄に落ちる以外に方法がない。

 

これは世界中で起こっている不幸な出来事を見ても明らかである。

 

日本にいたまま、救済するぞ!救済するぞ!全力で救済するぞ!などと叫んでみても何の役にも立たない。

 

地獄の住人を救済するぞ、四無量心の瞑想だ。などと言ってもただの自己満足に過ぎない。

 

 

まあ、ワシも瞑想中にどこかは分からない場所で救済活動を行った事がある。

 

辺り一面の泥の中に人形のようなものが埋まっておりそれを引きずり出す。

 

抱えあげて空へと向かっていくと、上昇するにつれて泥人形は生気を取り戻し、最後は光の中へ入っていく。

 

しかし、際限なくやってもやっても終わりが見えなかったのだが。

 

 

ヴァジラヤーナのグルは涅槃せずに自ら地獄へ落ちる。

 

そして、そこで救済活動を行う。

 

当然弟子達はお供をする、などという事はなく、みんな嫌がる。

 

そりゃあ、そうだ。

 

それまでに散々、地獄は怖いぞ、痛いぞ、苦しいぞと言われ続けてきたのだから。

 

他の苦しみを自己の苦しみとする。なんぞ口先だけの大嘘だ。

 

なので、グルは弟子を騙す。

 

そして、みんな揃って地獄に落ちる。

 

アレフの連中はオウムじゃないから、麻原と同じ地獄に落ちるのは嫌だと言っている。

 

まあ、その場合は別の地獄に落ちる事になるんだろうけど。(笑)

 

 

さあ、グルと同じ地獄で救済活動を手伝うか?それとも別の地獄で永遠に苦しみ続けるか?

 

どちらでも好きな方を選べ!

魂から離れる事が涅槃であるという事は、カルマの主体であるのが魂なのだから、涅槃すれば当然にカルマの影響を受けない。

 

そして同時に、輪廻転生の主体でもある魂がないのだから、当然に弟子と一緒に転生する事はできない。

 

逆に言えば、弟子と一緒に転生するという事は、涅槃しておらずカルマの法則から逃れる事はできない。

 

これが、カルマの法則において全ての魂は平等であるという事なのだ。

 

こんな事を書いていると、またこいつはマインドコントロールが解けていないとかいう輩が出てくるが、これはワシの考えではなく麻原の頭の中を説明しているだけである。

 

麻原の頭の中が分からなくて、なぜ事件が起こったのかを理解する事はできない。

 

まあ、麻原の頭の中と言っても、結局は原始仏典とヨーガ根本経典をベースとしてはいるのだが。

 

 

で、救済者は涅槃しないので、当然に輪廻転生しカルマの影響を受ける。

 

では、グルは何をするのか?である。

 

どんな人間であっても、100%悪業だけという事は有り得ない。

 

また、どんな善人であっても100%の善業もありえない。

 

つまり、来世がどうなるかは、どのカルマが現象化するかは、転生してみなければ分からないのだ。

 

で、そのわずかでもある善業を現象化させ、良い転生へと導く能力を持つ魂をグルと呼ぶのだ。

 

しかし、グル自身もたとえ人間界へ転生したとしても地獄のカルマはそのまま持ち越す事になる。

 

地獄のカルマを全て精算できるのは涅槃した場合のみ。

 

したがって、地獄のカルマを持ち越したまま人間界に転生するのなら、これも当然に不幸・不遇の人生を送る事になる。

 

それが、救済者の定めなのだ。

前の記事で、

 

>詳しい事はこのブログに嫌になるほど書いてきたので、以下省略。

 

と書いておいたんだけど、誰も見ていない。(笑)

 

質問があるのなら、もっと前の記事からその都度聞いておかないと、後からだと何がなんだかさっぱりわからなくなるよ。

 

もっとも、このブログを見に来るのは大半がアンチとオウマーだから、誰も理解しようとは思ってないけどね。

 

 

で、輪廻転生である。

 

釈迦牟尼が悟りを開いた時、涅槃しようとして梵天に止められる。

 

仏教界では有名な話だが、一般人にとってはどうでもいい。

 

この文章を何も考えずにただ見ているだけだと思うが、「涅槃する」と書かれている。

 

つまり、ニルヴァーナは場所ではなく、行為だという事になる。

 

もし、涅槃が場所なら、涅槃に行くという表現になるはずだ。

 

「行く」のではなく「する」。

 

つまり、カルマの主体である魂は涅槃に行けず、魂を捨て去り魂から離れる事が涅槃だという事になる。

 

 

まあ、この解釈も翻訳が正しいという条件付きでのものではある。

 

翻訳というものは結構大切で、前に真我の状態にあるとき云々というコメントが有った。

 

それに対して、真我に状態はないよと答えた。

 

で、思考停止に陥ったのかその後何の音沙汰もなし。

 

状態とは相対の話であって、無常であり変化するものである。

 

なので、絶対たる真我に状態などあろうはずがない。

 

 

これはどういう事なのだろうか。

 

ヨーガスートラにそう書かれているじゃないかという反論があるかもしれない。

 

しかし、果たして本当にそうなのだろうか。

 

その書かれているという本、それは日本人が書いた翻訳本だよね。

 

ヨーガスートラ原著にそんな事が書かれているのだろうか。

 

まあ、個人的には原著を見たことがないし、見てもさっぱり分からないので想像するしか無いのだが、おそらくそこにはこう書かれているはずだ。

 

アートマンの状態にあるとき。

 

うん、確かにこれなら意味が通じる。

 

この場合のアートマンとは梵我一如における、梵(ブラフマン)に対する我(アートマン)である。

 

 

とまあ、こんな感じで続く。