ウマー・パールヴァティーの愛の続き | 法友(とも)へ

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確認を取る気にもならないが、2000年前のインド人には地球という概念も言葉もなかっただろう。

 

まあ、釈迦牟尼は宇宙とか太陽とかについて語ってはいるが、当時のインド人には全く理解できていなかったと思う。

 

しかし、地球の事は知らなくても大地という概念はあったはずである。

 

全ての生命を生み出す源、母なる大地を彼らはパールヴァティーと名付けた。

 

もっとも誰もその姿を見る事は出来ず、一人釈迦牟尼だけがそれを見ていた。

 

 

西洋人は神を擬人化するのが大好きである。

 

白髭をはやしたおじいちゃんとか、頭に蛍光灯を乗せたり鳥の羽を背中にロウ付けしたりする。

 

この人間に似せて神を作り出すという発想は東洋には無いものである。

 

そんな西洋の宇宙飛行士でも思うところがあったという理由は簡単だ。

 

それは神の視座だからなのではなく、神の姿を目の当たりにしたからなのだ。

 

地上にいては到底見る事の叶わない神の姿。

 

古の聖者だけが瞑想によって見ていたその姿。

 

一般の人々は地球の姿を見る事ができないために、その代わりに月や太陽を崇拝した。

 

だが、人類にとって最も身近にいる神は地球なのだ。

 

 

人間の母親はいい加減なものだが、すべての生命を生み出した母なるパールヴァティーの愛は絶対である。

 

その愛が無ければ、修行者たちは修行をするための身体を得る事は出来なかった。

 

 

さて、久しぶりに聞いてみるか。

 

情で引っかかっていると嫌な感じがしたり、情欲で引っかかっているともっと酷いことになるが、ありのままに聞いてみよう。