もうやめてくれ…地獄を見た城主の決断と悲惨な最期とは
鳥取さじアストロパークで発見された小惑星が「Kikkawatsuneie(吉川経家)」と命名されたニュースをご存知でしょうか。
小惑星の名前に選ばれた「吉川経家」は、織田信長や豊臣秀吉と同時期を生きた戦国時代の侍です。
全国的な知名度では織田信長や豊臣秀吉に劣るものの、鳥取市では現在も英雄として慕われています。
今回は、そんな吉川経家の悲惨すぎる最期についてみていきましょう。
※本記事の内容は様々な方に魅力を感じていただけるよう、筆者が足を運んだ歴史スポットとともに史実を大筋にした「諸説あり・省略あり」でお届けしています。
吉川経家の伝説
戦国時代最盛期、覇権を狙う織田信長の命令で豊臣秀吉が中国侵攻を開始。
鳥取城は中国侵攻の拠点に最適であるとして真っ先に狙われました。
しかし、当時の鳥取城主「山名豊国」は我が身を優先し、家臣・家族・民を見捨てて自分だけ降伏してしまったのです。
そこで新しく鳥取城主に選ばれたのが「吉川経家」でした。
吉川経家は負け戦であることを悟っており、自分の首桶を用意して戦いに挑んだといわれています。
一方、豊臣秀吉は吉川経家の実力や覚悟をひしひしと感じ取っていました。
迂闊に攻め込んでは返り討ちにされると考え、兵糧攻め(食料がなくなるまで城を包囲し続ける戦術)を展開。
周辺の村々から米を買い占め、田畑を襲って作物をめちゃくちゃにしたのです。
結果、吉川経家は籠城に必要な食料を十分に確保できませんでした。
吉川経家は約100日間も籠城戦を繰り広げたといわれていますが、実は最初の1ヶ月時点で城内の食料は空っぽ。
そのため、城内の人々は雑草、城壁、軍馬、最終的には餓死者の屍肉を食べて飢えを凌いだといわれています。
しかし、あまりにも悲惨な状況に吉川経家は自分の命と引き換えに城内の人々を救ってほしいと豊臣秀吉に嘆願。
一刻も早い決着を望んだ豊臣秀吉も吉川経家の願いを受け入れました。
そして吉川経家は鳥取城内で自害し、この世を去ったのです。
現在の鳥取城は取り壊されてしまっているため、その姿を拝むことはできません。
しかし、吉川経家の子孫が生きた山口県岩国市には鳥取城の石垣を土台にした「吉川経家弔魂碑」が建てられています。
ちなみに岩国市と鳥取市は、今年で姉妹都市提携30周年の節目です。
これを記念し、鳥取さじアストロパークで発見された小惑星が「Kikkawatsuneie(吉川経家)」と命名されました。
気になった方は「鳥取さじアストロパーク」や「鳥取城跡」、「吉川経家弔魂碑」に足を運んでみてください。