映画『もののけ姫』感想&考察➀モロの君再考
IMAX上映で『もののけ姫』を鑑賞しました!
何度も観た映画ではありますが、劇場では初めてで、本当にこの日を楽しみにしていました。見る前の時点で記事を1本書いたほど、思い入れのある作品です。前回の記事もよかったらこちらからお読みください。
IMAXのサウンドが凄すぎる
IMAXで見るからには、やっぱり音楽のことをいちばん楽しみにしていました。吹奏楽部で何度も演奏したこともあり、自分の好きなパートもありますしね。
予告編やCMが終わり、スタジオジブリの水色バックにトトロが映し出されたとき、バスドラムの第一音目が!
ドオオオオオン
って感じで、想像していた以上に爆音(笑)でした!!
テレビで見る金曜ロードショーとか、スマホで予告を再生したときとか、スピーカーから聞こえるこの第一音は、ドゥン…て感じで、大変地味なのですが。
IMAXの低音は全然違いました。まさに、バスドラムを叩いたときの、体の真横で振動する牛の皮の感触や、太鼓の胴の中で、長く長く響き続ける、あの余韻の感じを思い出しましたよ。
座席がスピーカーに近かったのもありますが、とにかく音がでかくて、リアルでですね。自分って、オケの一員だったかいな?と思うくらいには、音楽の中に入っているという感じがしました。
「むかし、この国は深いも森におおわれ…」の序文、蝦夷の村での戦い、旅立つアシタカ、そしてタイトルにでかでかと「もののけ姫」の文字。美しすぎる久石譲の音楽。
何度も見た一連のオープニングで、すっごいうるうるときてしまいました。タイトルでふと我にかえった瞬間、いま『もののけ姫』を劇場で見てるんだ…と実感があらためてわいてきて、なんともいえない感無量な気持ちでした。
自分でも、泣くの早いやろ!って思ったけど、noteを読んでいると意外と同じリアクションをされた方は多かったみたいです。それほど、それぞれに特別な思い入れがある作品ですよね~。
『もののけ姫』映像の作り込みと宮崎駿の仕事論
そして映像の話も、もちろんします。あらためて、アニメーションの描き込みが本当にすごくて…。タタリガミの、びたびたびたっ!て動き。
知っているはずなんですけど、劇場で見ると気色悪さが半端ではありませんでした。そりゃあ、子どもはトラウマになります。赤黒いミミズが想像以上に動きまくるんです。
これが宮崎駿による憎しみの具現化なんですね。
で、裏側を知るともっと狂気的です。
タタリガミのシーンは、わずか2分10秒の映像のために5300枚もの枚数を作画し、約1年7ヶ月が費やされたそうです。
絶句。
それから、カメラワークも映画的でかっこいいですね。アクションシーンの描き込みもすごいです。
じいやを抱えて飛び降りるアシタカ、サンがたたら場に単身襲撃を仕掛けるときの疾走感、そして飛びかかるカット、挙げ始めたらきりがありませんが、なめらかで鮮やか、かっこいい…。
あと、ジコ坊のバネみたいな跳躍力もいいですよね。
ジブリ映画はいつも時間を忘れて夢中になれますが、いつ何時も画面から目が離せないって思わせるのは、アニメーションが本当におもしろい、という実にシンプルな理由だと思います。
アニメーションがおもしろいというのは、本当に質の高い仕事をされた証であり、そこへのこだわりがひしひしと伝わります。
わたしが強烈に印象に残っている、宮崎駿氏の仕事の格言が「自分ですぐ自分を許せる人間は大した仕事をやらない」というもの。
頑張んないと話になんないじゃん。
それで眠れぬ夜を送るのよ。
それも当たり前だよ。
この猛烈な監督が生んだ作品は、絵やアニメーションのことなどわからない素人にも、何か強烈に訴えかけてくるものがあります。
彼のような感覚って、もう今の時代に合わないと言ってしまえばそれまでですが、ここまで情熱と才能を注ぎ込んで作られたものを見て、ただの消費者として生きていってはいけない、何かを形にしたい、と思わせる力があると思うのです。
モロの君とは、何者だったのか?
さて、この記事で深掘りしたいキャラクターが、モロの君です。
劇場で観たことによって、改めて新しい気づきがありました。
それは、モロの君が根っから人間を憎んでいるわけではないのかも、ということ。
人間の開発によって壊れていく森の姿を目の前にしながらも、ずっと人間に対する慈しみの心を捨てないでいた、情の深い神だったのではないかということです。
サンを人間として育てたモロ
まず、サンを通して見えてくるモロの君について語らせてください。
「森をおかした人間がわが牙を逃れるためになげてよこした赤子がサンだ」とモロは言います。
人間と敵対するつもりなら、生け贄など受け取らずに、赤ん坊をすぐにでも噛み殺してしまえばよかったはずです。
しかしモロの君は、サンを立派に育て上げました。それも、人間として。
サンは自分自身を「私は山犬だ」と言いながらも、すっぽんぽんで四つん這いで走り回るような子ではありませんよね。
二本の脚で凛と立ち、衣服をまとい、人間の女の子として抜群に魅力的です。
生きろ、そなたは美しい
重傷を負ったアシタカが声を絞り出してそう伝えるくらいには(笑)、美しい人間の少女なんですよね。
それから装飾というのも、人間らしい要素です。大きなスクリーンでは、サンのアクセサリーがきわだって見えて素敵でした。牙でできたようなネックレスや耳飾り、あらためてめちゃくちゃ似合ってるなーと思いました。
アシタカにもらった玉の小刀をみて、「綺麗…」とつぶやき、首から提げるサン。こうした物に願いを託す御守りも、人間だけが持つ感性ですよね。
また、アシタカが石火矢で撃たれた場面がありますが、あれをうけて、服には穴があいていました。帽子も切り裂かれてしまっていました。
でもアシタカがサンに看病されて以降のシーンでは、それらがきちんと縫い直されているんです。
テレビでは気づかなかったのですが、劇場の大スクリーンでは、その縫い目がはっきりと見えました。
アシタカの服を縫ったのは、サンなんだろうなと。
サンは、誰に教わったのでしょう?
サンは赤ん坊のころからずっとモロに育てられてきました。
劇中では、アシタカ以外の人間と一度も言葉を交わしていません。人間の村に行って学んだとは考えにくいです。
そう思うと、こうした人間の手仕事や美意識は、他ならぬモロから教わったのではないかと思うのです。
モロは、いつかサンが人間として生きるかもしれない未来を思い、少しずつ人間の文化を伝えていたのではないでしょうか。
モロの一族は太古の昔、人間から神として敬われていた存在です。かつては、人間が自然を畏怖する姿、儀式、そして衣服や装飾を見て、「美しい」と感じていたのかもしれません。
モロは、人間の文化を実によく理解していた存在であり、その精神性や感性も含めて、サンに与えていたのでしょう。
もしかすると、サンが身に付けている装飾も、亡くなった森の仲間たち、山犬の兄弟姉妹の牙や毛皮から、いつも一緒にいるといった意味を込めて作ったのかも。
サンがどれだけ認めがたくとも、人間として生まれたことは変えられない宿命。モロは、彼女が人間として生きる道も選べるよう、考えていたのだと思いました。
そんなモロが、アシタカと言葉を交わす場面。
美輪明宏さんの演技はまさに鳥肌もので、アフレコ映像の切り抜きが人気なのも納得です。
「黙れ小僧!」はジブリファンを越えて、あまりにも有名なセリフですよね。
「おまえがひと声もうめき声をあげればかみ殺してやったものを」など怖いセリフも多いのですが、これを愛娘のボーイフレンドを値踏みする母親だと思って見ると、また別の味わいがあります。
人間の営みと、森の豊かさ、どちらにもまっすぐ向き合い続けるアシタカのことを、モロはちゃんと認めているなあと思いましたよ。
この後、「おまえにはあの若者と生きる道もあるのだが…」とサンにやさしく提示していますしね。
死を見つめるモロ
わたしが何よりも心打たれたのは、モロが自らの死に向き合う姿勢です。
映画冒頭でタタリガミとなり果てたナゴの守について、モロは「きやつは死をおそれたのだ。」と冷静に語ります。
自分もまたエボシ御前の石火矢で撃たれた身でありながら、静かに苦痛に耐え、一人で終わりを迎えることを願っています。
シシ神に傷を癒してもらおうというサンに対しても「わたしはすでに十分に生きた」とやんわりと断っていましたよね。
わたしの身体にも人間の毒つぶてが入っている。ナゴは逃げわたしは逃げずに自分の死を見つめている。
「毒」とは、砲弾による鉛中毒の症状に苦しんでいることを指すと思います。
鉛性の弾が体内に残っている野生動物は、神経症状、消化器系の障害などを起こし、衰弱死します。
また命を落とすのは、撃たれたもの一体だけでは留まりません。鉛弾が残った獣の遺骸を食べた猛禽類もまた、鉛中毒によって死に至るのです。(現在、鉛性の弾丸は段階的に規制されています。)
『もののけ姫』において呪いや祟りのキーになっている「毒つぶて」というのは、単なる傷をつくるだけでなく、生き物を内側からも壊すもの。
またその影響が世代や種を越えて広がっていく、そんな人工兵器の恐ろしさを象徴していると思いました。
そのような「毒」は兵器にとどまらず、今わたしたちの身近にある物にもいえることですよね。
利便性のために生み出され続けている人工物質は、実は後の世代や、生態系全体に対して、どんなリスクがあるのか明らかになっていないものばかり。人類の発展の裏にある代償について考えさせられます。
少し脱線しましたが、モロの君は、こうした人間の功罪をまさに神の視点から見ているキャラクターだと思いました。
そして、たとえ自分の身体が人間の作った毒に冒されようとも、その恨みに飲み込まれて我を失うことはしないのです。
どれほど理不尽でも、残酷でも、これが運命だと受け入れるのがモロです。
それは諦観にも似ていますが、もっと生命のエネルギーに満ちた感じといういますか…。
山の神として、最後まで誇りを失わない自分であろう、それが子孫らに見せるべき姿である、この種族がいずれは滅び行くとしても。
そんな、深い情と気高さを持ったキャラクターだなと、あらためて感じました。
モロの君がなぜエボシだけは許せないのか
さて、自らの命が尽きることさえ、静かに受け止めているモロの君ですが、彼女の唯一の執着は、エボシ御前でした。
わたしはここでくちていく身体と森の悲鳴に耳をかたむけながらあの女を待っている。
あいつの頭をかみくだく瞬間を夢見ながら…。
猪達のように、森と人間との闘いに対して熱い志を抱くでもなく、ただただエボシに腹を立てているモロ。
エボシは石火矢を持ち出し、シシ神の首を狙う破壊者ですが、そういったいわゆる表向きの理由以外にも、私的な事情があるように思えてなりません。
そう考えると、やっぱり愛娘サンのことが絡んでいるのではないかなあと思いましたよ。
どこにも描かれていませんが、サンを捨てた張本人がエボシであり、さらにいうとサンはエボシが望まない妊娠の末に産むことになった、愛情を注ぐことのできない赤子だったのかもしれません。
ジブリ解説動画で人気の岡田斗司夫さんが、この説を推しています。
わたしもどこにも証拠はないけどモロについて知れば知るほど、なんだかこの設定には説得力があるんだよなあと思っています。
みなさんは、モロの君の奥底にある思いについて、どんな風に解釈されますか?ぜひコメントで教えてください。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
次の記事では、モロの君の宿敵・たたら場のエボシ御前について、再考したいと思います。
今回の記事で深掘りしてきたモロの最後にも、深く関わってくる記事になると思います。ぜひ楽しみにお待ちいただけるとうれしいです。
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ANYさん、とても読み応えのある記事でした。『もののけ姫』は私も大好きなジブリ作品ですが、ここまで細かいことには全く気がついていませんでした。私は、今までいったいこの作品の何を観ていたんでしょうか…? エボシとサンの関係の考察も興味深いですね。本当のところどうなんだろうなぁ。 あら…
かなでさん、ありがとうございます!上手くまとまらず時間がかかった記事だったので、読み応えがあると言っていただけて嬉しいです😣見れば見る程発見があって楽しいですよね!機会があればぜひ劇場でご覧になってください✨✨