「距離」を引き受ける――インフラ化するHIPHOPと「ズレる」ボカロ
本日(12/7)、筆者の所属する立命館大学ボーカロイド・DTM研究会によるコンピレーション・アルバム「125」が頒布される。そこに収録された拙作「遺続」は、筆者のボーカロイド作品としては第五作目にあたる。ひとまずの節目を迎えたこの機会に、筆者のHIPHOPへのアティチュードを示したく思う。
1. 序文:「外部」としての立ち位置
本論に入る前に、まず筆者の立場と本稿の前提条件を明確にしておきたい。
筆者は、アメリカの黒人文化研究(ブラック・スタディーズ)を専門とする研究者ではなく、またプロのラッパー/ビートメイカーとして「現場(Genba)」にいるわけでもない。日本のインターネット空間において、ボーカロイド(広義の合成音声)を用いてHIPHOPに取り組む一介の――しかし紛れもなく実践者である。
ゆえに、以下に展開する日本のHIPHOPシーンへの批判は、安全圏からの断罪ではなく、同じシーンの末端に身を置く自分自身へも等しく向けられたものだ。私は「正しさ」を説くために筆を執るのではない。私たちが愛好する文化の巨大な背景について、あまりにも不知であるという危機感から、思考の足場を築こうとしているのである。
加えて、本稿にはいくつかの制約がある。第一に、英文に付した訳はすべて筆者自身による。筆者は英語のネイティブではなく、翻訳の専門教育も受けていないため、生硬な表現が見られるかもしれないことを、読者には前提していただきたい。第二に、本稿ではHIPHOPの音楽的側面に議論を限定する。もちろん、HIPHOPとはDJ、ブレイクダンス、グラフィティ、MCといった複数の要素から成る複合的な文化である。これら要素を包括的に扱う知識も筆力も筆者にはないこと、読者にはご容赦いただきたい。
以上を踏まえたうえで、本稿の議論は、「アフロ・アメリカン(ブラック)」という存在と、彼らが生み出した「ブラック・ミュージック」という二つの概念を有機的に結びつけることで構築される。これらは単なる属性やジャンル名ではなく、HIPHOPの倫理を語るうえで欠かせない「生存の形式」だからである。
まず、「ブラック」あるいは「アフロ・アメリカン」ということばについて定義しておきたい。確認しておかねばならないのは、生物学的な実体としての「人種」など存在しない、ということだ。それは近代以降、特定の集団を支配し、搾取するために捏造された「虚構の概念」に過ぎない。しかし、ここで注意されたいのは「人種は存在しないのだから、人種について語るのはやめよう」という態度、いわゆる「カラー・ブラインド」である。これは差別の現状を隠蔽することにほかならない。概念としての「人種」は虚構であっても、そのラベルによって行われてきた差別や暴力は、紛れもない「現実」だからだ。実態なき属性によって、現実に命や尊厳が脅かされている――この倒錯した構造こそが人種差別の核心であり、彼らが「ブラック」として連帯せざるを得なかった理由である。
そして、この「ブラック」という過酷な生存条件から生まれたものこそが、「ブラック・ミュージック」である。ここで本稿における「ブラック・ミュージック」の定義について、慎重な線引きを行いたい。本稿では、このことばを「アフロ・アメリカンによる音楽」と定義し、議論の対象を限定する。この定義において、カリブ諸島の黒人音楽や南アメリカの黒人音楽、またブラック・アフリカの音楽は、一旦議論の主対象から外れることになる。したがって、レゲエやサンバ、ハイライフなどは本稿の射程には含まれない。
なぜ、このような狭義の定義を採用するのか。第一の理由は、従来の「ブラック・ミュージック」ということばが孕む問題点にある。これまでこのことばは、往々にして「肌の色が黒い人びとの音楽」という意味で用いられてきた。しかし当然ながら、カリブ海、南アメリカ、アフリカ大陸は、それぞれ歴史的・地理的背景がまったく異なる。彼らの固有で豊かな文化を、「肌の色」という一点のみに還元して論じることは、その多様性を消去する暴力になりかねない。
今日、こうしたアフリカにルーツをもつ人びとの文化的な広がりや、そのダイナミズムを総体として論じる際には、「アフリカン・ディアスポラ(African Diaspora)」あるいは「アフリカン・ディアスポラ・ミュージック(African Diaspora Music)」という概念が用いられる。「ディアスポラ」とは「離散」を意味し、アフリカから世界中へ散らばった人びとが、それぞれの土地で独自の文化を花開かせ、なおかつ根底で響き合っている状況を指すことばだ。広く彼らの音楽を論じるうえでは、この「ディアスポラ」という視座こそが重要であり、今後ますます存在感を増していくだろう。
しかし、その広がりを前提としたうえで、本稿があえて「アフロ・アメリカン」に焦点を絞るには理由がある。それが第二の理由、すなわち「アメリカにおける奴隷制と解放運動」という固有の歴史である。
神学者ジェームズ・H・コーン(1998)は、その著書の中で以下のように述べている。
黒人音楽は生きた現実である。(中略) 黒人音楽はまた社会的・政治的である。社会的であるというのは、それが黒人的であり、したがって隔離された黒人共同体の状況を表現しているからである。それは西欧文化の恥ずべき屍の状態に対する芸術的反逆である。また、黒人音楽が政治的であるというのは、それが白人的文化価値を拒絶することによって、黒人の「他者性」を主張しているからである。歌を通して、白人社会の律法とは対照的な新しい政治意識が不断に創造されるのである(pp. 20-21)。
ここで語られる通り、ブラック・ミュージックとは、白人中心主義的な価値観(西欧文化の屍)を拒絶し、押し付けられた「他者性」を逆手に取って、自らの生存と政治意識を創造するための闘争である。したがって、彼らが差別語であるNワードを再定義すること(第二章を参照)も、この「白人的価値の拒絶」と「新しい政治意識の創造」の一環として理解されねばならない。
もちろん、カリブや南米にも奴隷制度は存在した。だが、アメリカ合衆国という近代資本主義の中心地において、人間性の剥奪された商品として扱われ、そこから公民権運動に代表される闘争を経て権利を勝ち取ってきた歴史は、アフロ・アメリカンに特有なものである。社会学者W.E.B.デュボイス(1992)は、アフロ・アメリカンの歴史を、アメリカ人であることと黒人であることという二重の自己のたたかいとして説明する(p. 16)。ブラック・ミュージックは、この固有な緊張関係——「二重意識(Double Consciousness)」と無縁ではない。
したがって本稿では、ほかのディアスポラ文化への敬意を払いつつも、HIPHOPの核心を論じるために、アフロ・アメリカンの歴史的固有性に光を当てることとする。
さて、このように「ブラック」という固有の歴史的身体と、「ブラック・ミュージック」という政治的実践をセットで捉えたとき、初めて私たち「日本人」の立ち位置が浮き彫りになる。
本稿でいう「日本人」とは、そのような「ブラック」の歴史的・身体的共有をもたないマジョリティを指す。日本において、アフロ・アメリカンと真の意味で「連帯」し、その苦難に共鳴し得る存在がいるとすれば、それはかつて植民地支配によって故郷を奪われ、日本社会の中で構造的な差別と抑圧に晒され続けてきた「在日コリアン」の人びとであろう。実際、ジェームズ・H・コーンは、先に引用した著書の日本語版序文において、日本における在日コリアンの自由を求めてたたかう仕方に、アフロ・アメリカンのそれとの類似性を見出している(p. 4)。被抑圧者同士の魂の共鳴は、国境を越えるといえよう。
しかし、翻って「日本人」はどうだろうか。私たちには、彼らのような「奪われた歴史」も、構造的な被差別の記憶も存在しない。私たちは、彼らの文化を愛好し、形式を模倣することはできても、その痛みを真に共有することはできない「外部」の存在である。むしろ、日本社会におけるマジョリティとして差別構造に加担し得るのだと、自覚せねばならない。
2. 形式の勝利、精神の漂白
では、そのような「外部」に立つ私たちは、現実にこの文化とどう向き合っているのだろうか。残念ながらそこで起きているのは、歴史的背景(精神)の忘却と、サウンド(形式)の無批判な消費である。
今、私たちがまち中やスマートフォンで耳にする音楽の多くは、あるひとつの「音楽」の影響下にある。「チキチキ」と細かく刻まれるハイハットや、腹に響くような深く重い低音(808ベース)。これらは、もともと「トラップ(Trap)」と呼ばれるHIPHOPのサブジャンルに特徴的なサウンドであった。今日では、K-POPからアニソン、ボカロ曲に至るまで、このサウンドが一種の「インフラ」として音楽を支えている。
しかし、「音楽」の構成要素が広まる一方で、置き去りにされているものがある。それは、HIPHOPという文化が本来もち、それらコンポーネントを有機的につなぐ「精神」である。
HIPHOPの精神とは何か。こう問われたとき、私はそれを「レベル(rebel)」だと答えたい。しかし、これには留保を設ける必要があろう。なぜなら、歴史的事実として、HIPHOPは最初から政治的な運動として始まったわけではないからである。
1970年代、ニューヨーク・ブロンクス。貧困と暴力が蔓延するこのまちで、「ブロック・パーティー」から産声を上げたのがHIPHOPである。ストリートで暮らすアフロ・アメリカンの若者にとって、それは過酷な日常を一時でも忘れ、仲間と踊り明かすための「パーティー・ミュージック」であり、生き延びるためのポジティブなエネルギーそのものであった。そこで歌われる歌詞は単純なものであり、自分の押韻技術で聴衆を盛り上げて、楽しくパーティーしようとするもの(パーティング)や、音楽的あるいは性的な魅力の優秀さを誇張して伝えるボースティングが主な内容だった(金澤 2020, p. 69)。
しかし、文化が成熟するにつれ、その役割は変化していく。1982年、グランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイヴ(Grandmaster Flash and the Furious Five)が発表した『The Message』は、ゲットー(特定の少数民族や社会的弱者が強制的に隔離されて住まわされた居住地区)の荒廃した現実や社会矛盾を鋭く描写し、HIPHOPが単に享楽的な音楽ではなく、社会的なメッセージを運ぶメディアになり得ることを世界に証明した。これ以降、パブリック・エネミー(Public Enemy)やN.W.A.などが登場し、HIPHOPは明確な「抵抗の手段」としての側面を獲得していったのである。
私がここで強調したいのは、この歴史的変遷を踏まえた上での、私たち日本人の「態度の選択」についてである。アフロ・アメリカンのような被差別の歴史も、連帯の基盤ももたない私たちが、HIPHOPを「パーティー・ミュージック」としてのみ甘受することは、彼らが積み上げてきた歴史の重さを無視することになりかねない。
フェミニズム理論家ベル・フックス(1992)は次のように警鐘を鳴らす。
The over-riding fear is that cultural, ethnic, and racial differences will be continually commodified and offered up as new dishes to enhance the white palate – that the Other will be eaten, consumed, and forgotten (p. 15).
(もっとも恐ろしいのは、文化的、民族的、人種的違いが絶えず商品化され、白人の嗜好を満足させる新しい料理として提供されること――他者が食べられ、消費され、そして忘れ去られることである)
彼女のいう「白人」を、システミック・レイシズムにおいて加害者となり得る属性と理解すれば、この批判は日本における文化消費へと及ぶ。形式だけを模倣して消費するのではなく、彼らが音楽に込めた「声を上げる」という切実な精神にこそ、私たちが向き合うべき倫理があるのではないだろうか。そしてその精神は、単に政治的なスローガンを叫ぶことだけに宿るのではない。安易な消費や忘却に抗い、自身の立つ場所から歴史に楔を打ち込むアティチュードにも、HIPHOP的な「レベル」性は宿るはずだ。
3. 模倣の暴力性――「Nワード」をめぐって
前章で述べた「形式だけを借りて、中身(歴史)を無視する」という態度。この不誠実さが孕む暴力性を最も顕著に表すのが、日本の一部アーティストによる「Nワード」の使用である。
Nワード(Nigga / Nigger)は、かつてアメリカで黒人を奴隷として支配していた時代に使用されていた、極めて差別的なことばである。蔑称研究で知られる言語学者キース・アラン(2016)によれば、この語は本来「黒人(Negro)」の口語的な同義語に過ぎなかったが、差別的な社会背景の中で、あえてぞんざいな語を選んで相手を侮辱する「悪態語法(Dysphemism)」の原理によって、極めて強い侮蔑の意味を帯びるようになったという(p. 4)。
その一方で、アフロ・アメリカンのコミュニティ内部では、この忌避すべき語をあえて使用することで、逆説的に「仲間」や「兄弟」といった連帯を表す語へと再定義してきた歴史がある(p. 1)。彼が指摘するように、この語が侮蔑語となるか、あるいは親愛の情を示す語となるかを決定するのは、綴りの違いではなく、あくまで発話の文脈(Context)である(p. 5)。
裏を返せば、彼ら固有の文化的・歴史的文脈をもたない私たちが、単に「アメリカのラッパーが使っていてかっこいいから」「語呂がいいから」という理由でこのことばを使うことは、彼らの文化を盗むだけでなく、彼らが受けてきた差別や暴力の歴史を踏みにじる行為にほかならない。
しかし残念ながら、日本のシーンにおいて高い評価を得ているアーティストの作品にもNワードを無思慮に使用する例が見られる。たとえば、KID FRESINOのアルバム『Horseman’s Scheme』(2014) においては、収録曲の中で「kick da gun cupはloud nigga」「Sounds like nigga」 といったフレーズが登場し、6回にわたってNワードが使用されている。
また、大人気ユニットであるCreepy Nutsの楽曲「シラフで酔狂」(2013)において、R-指定は以下のようにラップしている。
Niggaよろしく吸い込んで / Niggaよろしくブッ飛んで / Niggaよろしくクロい音で / Niggaよろしく振るまう
この楽曲の歌詞は、アメリカのHIPHOPの真似事ばかりしている日本の現状を皮肉する内容ではある。しかしその表現のために、使うべきではないNワードを連呼してしまっている点で、彼らもまた「歴史への無理解」という陥穽にはまってしまっている。彼らがどのような意図――たとえそれが現状への風刺やアイロニーであったとしても――をもっていようとも、Nワードが歴史的に帯びてしまった暴力性が免責されることはない。非当事者がそのことばを選択し、発話した時点で、文化の盗用と歴史の冒涜という事実は成立してしまうからだ。
「HIPHOPが好きだから」という理由は、他者の尊厳に関わることばを無邪気に使っていい免罪符にはならない。彼らの歴史に紐帯した表現を皮相的に真似することは、文化へのリスペクトではなくある種の暴力なのである。
4. 身体の切断と「ズレ」――オルタナティブとしてのボーカロイド
Nワードの使用に代表される軽率な「形式」の模倣。その暴力を乗り越えるために、アフロ・アメリカンではない私たちは、どのようにしてHIPHOPと向き合うべきだろうか。その問いに対する一つの応答として、私は「ボーカロイド(広義の合成音声)」を用いてHIPHOPに取り組むという方法を選んでいる。
この選択は、単に自分の声を隠すためでも、近年の潮流である「人間らしい歌声」を安易に獲得するためでもない。Synthesizer V や Suno AI の登場によって、人間と区別のつかない歌声を生成する競争はすでに飽和し、無効化されつつある。そうした技術的洗練のさなかで、私が重要視するのは「シラフ(Sober)」であることだ。情動に身を任せたり、ブラック・カルチャーの熱狂を安易に模倣したりするのではない、どこか醒めた仕方でなければ、私たちはこの文化と適切な距離を保つことができないと考える。あえてCeVIO AIを用いて制作プロセスに「身体と技術の決定的なズレ」を残すことは、この批評的な「醒めた距離」を確保するための装置として機能する。
私の制作プロセスは、自身の肉声によるラップ/スポークンワードを録音し、それをMIDIデータへと変換し、最終的にボーカロイドに歌わせるという手順を踏む。ここで重要なのは、これがオートチューン的な「音声加工」とは根本的に異なる点である。オートチューンが声の波形を変形させながら身体の連続性を保持するのに対し、私の手法では肉声を一度「記号」へと還元するため、声と身体の間にある連続性は強制的に断ち切られる。肉声は一度「死に」、音高と長さの列へと変換され、別の声帯――すなわちボーカロイド――によって「再演」される。
なぜ、自らの声を殺す必要があるのか。それは、私たち日本人が構造的な差別の文脈では加害者側に立ち得るマジョリティであり、生身の声そのものが無自覚な特権性を帯びてしまうからだ。HIPHOPにおける「リアル」は「自分の声で語る」ことを要求する。この声への信頼――声が主体の現前を正当化し、語りの真実性を保証するという態度――は、アフロ・アメリカンの歴史的な経験からすれば当然のものだが、私たちの立場ではむしろ慎重に距離を置くべき構造を含んでいる。
しかしこの「距離」は、徹底的にネガティブなものではない。むしろ、ある側面からはブラック・カルチャーと共振する。
文化理論家アレクサンダー・G・ウェヘリエ(2005)もまた、蓄音機の発明がもたらした「音(sound)とその源泉(source)の分離」が、20世紀のブラック・カルチャーにおいて単なる「真正性の喪失」ではなく、新たな「音響的アフロ・モダニティ」を構成する条件となったと論じている(p. 19)。彼によれば、この分離によって生じた「顔のない声(a voice without a face)」こそが、視覚的な人種表象(肌の色による差別やステレオタイプ)から黒人主体を解放し、聴覚的な領域において自らを再構成する場を提供したのだという(p. 56)。
私がボーカロイドというテクノロジーを用いて、自身の肉声(源泉)を記号へと還元し、身体から切り離す行為もまた、彼の議論と接続し得る。それは生身の身体を隠蔽するための「逃げ」ではない。むしろ、人種や身体という視覚的な拘束から離れ、テクノロジーによって媒介された「顔のない声」として、アフロ・アメリカンではない「外部」として、その主体性を響かせるための、アクティブな批評的実践なのである。
だからこそ、私は自分の声をいったん解体し、身体の現前性を薄めた状態でことばを立ち上げ直す。そしてその声は、「私の声でありながら、私の声ではない」奇妙なズレを帯びて戻ってくる。制作過程では、自身のデリバリーやフロウを厳密に移植しようと試みるが、最終的な出力は必ずどこかで私の意図を裏切り、理解不能な「他者性」を孕んで響く。この他者性は擬人化された具体的な「他者」のことではなく、技術そのものがもつ、完全には制御不能な生成プロセスのことだ。
ここで生じる二重性――私自身の身体のニュアンスを反映しているのに、どこか決定的に私ではない声として現れる状態――は、W.E.B.デュボイスが指摘した「二重意識」を直接に再演するものではない。しかし、そうして裂かれた主体が、自分の声を複数の文脈から同時に意識せざるを得なくなる構造という点において、どこかアナロジカルに響き合う。私の実践における二重性は、身体・記号・技術が交差する地点で生じる、理解不能なズレのかたちをとって現れる。
私は彼らの「リアル」や「語りの切実さ」を演じることはできない。だからこそ、安易な共感や模倣に逃げるのではなく、技術のブラックボックス性が生むノイズや乖離、そしてその不気味な距離を「シラフ」のまま引き受けることが重要になる。この「他者性」との摩擦のなかでことばを紡ぐこと。それこそが、インフラ化したHIPHOPに対する、切実さの一形態であるだろう。
5. 「水平」の拡散と、「垂直」の忘却――Vocaloid HIPHOPへの危惧
このように、私はテクノロジーを用いてHIPHOPの深層(垂直方向)へアプローチしようと試みている。しかし、現在のボーカロイド・シーンを見渡すと、それとは真逆のベクトルをもつ新たな動きが見られる。
「Vocaloid HIPHOP」という新しいジャンル名(タグ)が、appy(2024)によって提唱された。事の経緯としては以下の通りである。
ボカロラップ・ボカラップ👈HIPHOPに限らずラップ全般を指してしまう
ミックホップ👈こちらはこちらで文脈や歴史があり、「ミックホップ」というジャンルがあるように思う
VocaTrapなど👈HIPHOPより細かいジャンルの話しかできない
そこで、
#Vocaloid_HIPHOP
を提唱したいです
彼(2025)はこのタグの定義を「ボカロを使ったHIP HOPとそれらしきものすべて」としている。この定義は、HIPHOPを音楽ジャンルとして「水平方向」へと無限に拡張していくものだ。「それらしきもの」まで許容する包摂性は、シーンの人口を増やし、新たな流行を作るうえでは有効かもしれない。しかし、私はこのタグの現状に対して、明確に批判的な立場を取らざるを得ない。なぜなら、無批判な水平方向への拡散は、歴史的文脈という「垂直方向」の根を断ち切り、日本のシーンが抱える問題をそのまま再生産してしまうからだ。
もっとも大きな危惧は、ブラック・ミュージックに連なるHIPHOPの精神的支柱、「ループ」の破壊である。「それらしきもの」には、J-POPやロックのマナーに則り、Aメロ・Bメロ・サビといったドラマチックな展開や転調がしばしば見られる。この「西洋的」ともいえる進行の美学に照らせば、ループは単なる「退屈な繰り返し」として忌避され、次々と新しい景色(展開)を見せることがよしとされる。
しかし、ブラック・ミュージックにおける「ループ」の意味はまったく異なる。それは停滞や手抜きではなく、単なるスタイル上の効果をも超え、アフリカ文化の伝統的連続性を示唆するものである。アフリカ系文化論に精通するカリブ海文学研究者の中村隆之(2025)によれば、アフリカからアメリカスへ渡った文化の連続性は、口承的な「絶えざる変化」にこそ宿っており、そこでは、短いフレーズの反復の中に微細な変化が加えられ、シンコペーションやポリリズムといった手法によって、規則的なパターンの中に不規則な躍動感が導入されるという(pp. 54-55)。
つまり彼らの音楽における「変化」とは、場面そのものを転換させること(転調や展開)ではない。強靭なループという「変わらない基盤」があるからこそ、その内部で発生する微細なズレや反復のたびに更新されるニュアンス(絶えざる変化)が、意味をもつのである。
この「反復」がもつ機能的な側面については、言語学者ジョアン・ネフ・ヴァン・アーツラエルの研究に詳しい。彼女(1988)はアフロ・アメリカンの談話分析において以下のように述べている。
Repetition has long been recognized as a salient feature of Afro-American verbal artistry. (...) repetition can function: a) retrospectively, as a recall device; b) prospectively, permitting reduced planning time; or, c) agonistically, building emotional involvement (p. 407).
(反復はアフロ・アメリカンの言語芸術における顕著な特徴として長きにわたって認識されてきた。(中略) 反復は、a) 回顧的機能:想起装置として、b) 展望的機能:計画時間を短縮し許容するものとして、あるいは c) 闘争的機能:感情的な関与を構築するものとして機能し得る)
ここでネフが挙げている機能は、単なる会話のテクニックではない。過去を絶えず現在に呼び戻す「想起(回顧)」、先の読めない現実に即興的に対応するための「時間稼ぎ(展望)」、そして支配的な言語の外側で他者と情動を共有する「巻き込み(闘争)」。これらはすべて、アフロ・アメリカンが過酷な新世界で生き延び、バラバラにされた歴史とコミュニティを繋ぎ止めるために不可欠な「生存の技術」であった。
さらにネフは、この反復構造が
Repetition as a feature of discourse structure offers clear evidence that African oral traditions survive in the New World (p. 414) .
(アフリカの口承伝統が、新世界において生き残っているという明確な証拠を提供する)
と結論づけている。
しかし、HIPHOPないしラップを、こうした「生存の技術」たる口承文化の発展型としてのみ捉えるのは、いささか素朴に過ぎるだろう。社会学者トリーシャ・ローズ(2009)は、ラップを「口承性とポストモダン・テクノロジーの複雑な複合体」であるとし、現代の技術革新以後に声の伝統が刷新され続ける「二次的な口承性」のモデルとして提示している(pp. 163-164)。
ローズによれば、西洋音楽の体系が「ハーモニー」による解決と終止(前進性)を志向するのに対し、アフリカ系ディアスポラの音楽は「リズム」と「反復」を最優先事項としてきた(p. 131-133)という。黒人音楽は「繰り返しの多いもの」を意図的に有効化し、音楽の本質である反復を強調するために「カット」を活用する(p. 137)。そして「すでに聴いたことのある始点に戻ることで、アクシデントや断絶が、音楽内部でいつ起きてもいい流れを作る(p. 137)」のである。
つまり、ブラック・ミュージックにおけるループとは、リニアに過去から未来へ進む西洋的な時間感覚(解決へ向かう前進)への抵抗であり、その場に踏みとどまりながら垂直方向に深化していくための儀式なのだ。ここで思い出してほしい。本稿第一章で、私はHIPHOPを「レベル・ミュージック」と定義した。その「抵抗」の本質は、ここにある。つまり、「ループ」という構造そのものが、直線的な進歩や解決を強いる支配的な時間感覚に対する、極めて強靭な「抵抗の砦」として機能しているのである。
さらにローズは、ラップが決して純粋な口承文化ではなく、その根底に「文字の文化」と「テクノロジー」があることを指摘する(p. 180)。ラップの歌詞は直線的に進む「書かれた文字」の形式をもち、ラッパーの個人的なアイデンティティや作家性を表現する一方で、サンプリングという技術は、集団の歴史や集合的アイデンティティ(過去の音)を循環させる。ラップとは、テクノロジーに声を与え、高度技術社会の中で口承性を「技術革新」した結果なのである(p. 164)。
つまり「ループの破壊」が問題なのは、単にそれが「ブラック・ミュージックっぽくないから」ではない。上述した「前進性(西洋的時間)への抵抗」と「技術による口承性の刷新」という、HIPHOPのダイナミズムを放棄してしまっているからだ。
とはいえ、「前進」ないし「展開」に対する「反復」という対立軸を用いることは、ある種言い尽くされた議論であるかもしれない(ローズ自身もp. 131にて、同様な指摘をしていた)。しかし、それでもなおこの視座が有効だといえるのは、その議論が明らかにする「反復」のもつ本質的な複雑さが、未だ十分に理解されていないためである。
シュルレアリスム研究者の鈴木雅雄(2011)は、作家アミリ・バラカ(リロイ・ジョーンズ)の名著『ブルース・ピープル』に寄せた解説文にて、この「反復と差異」について極めて示唆的な指摘を行っている。
だが可能な限り単純な、しかし「私」を差異化する単位の反復という発想は、よく考えると不思議なものである。単純なものは繰り返すのが容易であり、複雑なものはそれが困難であるという明白な事実に抵触しているからだ。(中略) パターンそのものを再現するのはいつでも容易なのであり、にもかかわらずそれを忠実に模倣しても同じように聞こえないからこそ、ブルースには言語化しえない本質が宿っているという神秘化がなされ続けてきたのである(pp. 405-406)。
鈴木が指摘するように、単純なパターンの反復(ループ)は、技術的な再現が容易であるように見えて、実はその「本質」を模倣することが最も困難な形式である。西洋的な「展開」に逃げることは、この困難な「差異化」の闘争から降りることを意味する。「それらしきもの」が陥りやすい罠はまさにここにある。
上記の観点から、「Vocaloid HIPHOP」の提唱者であるappyの楽曲を検討してみたい。まず、「残機がいっぱい!」は「ループ」を放棄し、時間経過と共に展開がドラマチックに変化するリニアな構造を採用している。
特に、楽曲後半における「落ちサビ」や「転調」の導入は、日本のポピュラー音楽(J-POP)やアイドルソングに頻出する作法である。「落ちサビ」は物語的なカタルシスや感情の昂ぶりを演出する装置であり、一定のテンションを維持して空間を支配するHIPHOPの美学とは対極にある。また「転調」も、反復が身体に与える快楽を切断するものであり、ループ・ミュージックとしては極めてイレギュラーな手法である。
こうしたループの破綻は、リスナーのリテラシー形成を阻害しもする。タグは検索のためのラベルであると同時に、「これはHIPHOPである」という正当性の保証(お墨付き)としても機能する。もし、歴史や文脈に詳しくないリスナーが、ロックやポップスの構造をもつ楽曲を無批判に「Vocaloid HIPHOP」として受容すれば、彼らのジャンルに対する学習はそこで止まってしまう恐れがある。HIPHOPとしてイレギュラーな形式をもつものが、その特異性を認識されないまま消費されることは、このジャンルが積み上げてきた歴史に接続する機会を失わせかねない。
また、「カウンター」としての鋭さの喪失にもつながるだろう。私が目指す「ズレ」や「批評性」をもった実践は、今の日本のシーンに対する明確なオルタナティブである。しかし、「ボカロを使ったそれらしきもの」をすべて包摂する大きなタグの内部では、そうした切実な試みも「数あるVocaloid HIPHOPのうち、少し変わった一曲」にすぎないものとして消費されてしまう危険がある。「これはHIPHOPではない」という境界線を引く緊張感こそが、現状に対する抵抗力を支えているのであり、その線引きを曖昧にすることは、批評的態度の後退に等しい。
したがって、ここでは積極的に一線を引く必要がある。次にその対象とするのが、先にも挙げたappyの「カウンセラー」である。
同曲の構造は、決定的にEDM(エレクトロニック・ダンス・ミュージック)のそれである。通常、HIPHOPにおける盛り上がりの中心は「フック(Hook)」にあり、そこではラッパーのことば(ロゴス)が主役となる。対して本楽曲では、ビルドアップの後に、ボーカルではなく音響(ベースやリズム)が前景化する「ドロップ(Drop)」が配置されている。ここでボーカルは意味性を剥奪された音素材として扱われ、聴取者の注意はトラックのフィジカルな快感へと誘導される。これはEDM特有の作法であり、ことばの伝達と情動的関与を軸とするHIPHOPの形式とは明確に異なる。
以上のような形式的特徴に加えて、そもそもYouTube版の楽曲タイトルにおいて明示的に[Bass House]と記載されている以上、これをEDMの一種として理解するのが最も妥当である。もちろん、Houseのルーツにアフロ・アメリカンが深く関係していることは疑いようもない。しかし、音楽史的にも形式的にも、HouseとHIPHOPが明確に区別されてきたことは、私見ではなく一般的な合意事項である。この乖離を踏まえれば、両者をあえて同一視しようとする作家の側にこそ、むしろHouseをHIPHOPとしてタグ付けすることの正統性を説明する責任があるといえよう。
こうしたアプローチは、もしかすると、他ジャンルとの「クロスオーバー」で説明され、擁護されるかもしれない。しかし、垂直方向に根を張らない水平方向への越境は、単なる「略奪」と区別がつかない。歴史なき越境は、ジャンルの固有性を希薄化させるだけである。
こうした「Vocaloid HIPHOP」という水平の海が、以上二曲に代表される「それらしきもの」で埋め尽くされたとき、そこに残るのはKID FRESINOやCreepy Nutsが陥ったのと同様の、「歴史なき模倣」のデブリスではないだろうか。だからこそ私は、水平に広がるのではなくその場に踏みとどまり、垂直に深さを穿つ取り組みにこそ、HIPHOPへの誠実さを見る。
ここで誤解のないように付言しておきたい。私がこれまで述べてきた「不知の自覚」や「歴史への敬意」といった倫理的態度は、あくまで「表現する側(プレイヤー)」が自らに課すべき規律であり、これをリスナーにまで一律に強要するつもりは毛頭ない。
音楽は多くの場合、「音がかっこいい」「なんとなく好きだ」という直感的な快楽を入り口とする。実際、筆者もそうした快楽に誘われてこの音楽ひいてはカルチャーに入門した。リスナーが歴史を知らないままHIPHOPを楽しむことは直ちに罪ではないし、そこに「勉強してから聴け」という検問(ゲートキーピング)を設けることは、文化の閉塞を招くだけである。
事実、歴史を振り返れば、HIPHOPがこれほど巨大なカルチャーへと発展したのは、アフロ・アメリカンのコミュニティ「外」にいる、いわゆるライトな層や異文化の参入によって支えられてきたからにほかならない。とりわけプエルトリカンの若者は、ブロック・パーティーの活気を大きく支える存在であった。また、HIPHOP黎明期を牽引した二人――グランドマスター・フラッシュ(Grandmaster Flash)とDJ クール・ハーク(DJ Kool Herc)――はいずれもカリブに深いルーツをもつ。こうした有色人種間の混交だけでなく、白人の存在もまた、産業としてのHIPHOPを拡大させるうえで不可欠であった。音楽ジャーナリスト/文化批評家のネルソン・ジョージ(2011)は、ヒップホップ・カルチャーが勃興期の十年間を生き延びた背景として、白人起業家たちの関与が決定的だったと論じている(p. 131)。彼によれば、白人経営のレーベルはヒップホップにとって養父母の役割を果たし、その典型例として白人プロデューサー、リック・ルービンが創設したデフ・ジャム・レコーズを挙げている(p. 132)。
さらに、HIPHOPの主な購買層が都市部のアフロ・アメリカンだというイメージを打ち砕いた事件として、N.W.A.が全米一位を獲得したことが挙げられる。アメリカ文学/ポピュラー音楽研究者の大和田(2023)は、大都市部だけでなく郊外のCDショップの売り上げも評価できるサウンドスキャンがビルボードに導入されたことで、N.W.A.の『ニガズ4ライフ』が全米で最も売れたアルバムだと判明したことに触れ、郊外の白人こそが、HIPHOPの主な購買層になっていたと説明する(p. 118)。つまり、文脈を知らない「外部」のリスナーが快楽原則に従って消費することは、HIPHOPの堕落ではなく、むしろその拡大と生存を支えてきた「構造」そのものなのである。だが、ここで看過してはならないのは、「より広く売れること」はカルチャーの「文脈」を浸食しやすいという事実だ。市場の拡大は歓迎すべきだが、それが歴史の忘却とセットになってしまっては、文化は単なる消費財へと堕してしまう。
だからこそプレイヤーの責任は重いのである。聴き手が無邪気な「外部」であり、彼らの消費が歴史的文脈を捨象する引力をもつからこそ、提供する側のプレイヤーがその引力に抗わなければならない。聴き手が素朴に楽しんでいるその音が、どのような歴史的犠牲に成り立っているのか。それを作品の背後で噛み締め、表現の端々に批評的な「引っかかり」を残しておくこと。それが、文化を借用する者の最低限の作法ではないだろうか。
今の日本のシーンにおける不幸は、リスナーが無知であることではない。プレイヤーがその無知に安住し、リスナーに対して「歴史など知らなくていい、ただ消費すればいい」というメッセージを、無自覚に発し続けていることにある。
私が、ともすれば厳しい倫理を訴えるのは、リスナーを断罪するためではない。いつかリスナーがふと立ち止まったとき、そこに「消費されるだけの音」とは違う、思考のための足場を残しておきたいからだ。
6. おわりに――「不知の自覚」から始める
繰り返しになるが、私はここで、誰かを断罪して「自分が正しい」と主張したいわけではない。批判的に検討こそしたものの、appyのHIPHOP理解には無視できない重要な洞察も存在する。たとえば、彼の楽曲「Thunderbird」(2025)には、以下のようなリリックがある。
Vocaloid HIPHOP / ものはいいよう / おれずっと変わってきたし / 変わってないもん
この一節は、アミリ・バラカ(リロイ・ジョーンズ)がその著書『Black Music』(1967)において提唱した「変わりゆく変わらないもの (The Changing Same)」という概念と深く響き合う。同書に収録されたエッセイ「The Changing Same (R&B and New Black Music)」において、バラカはこのことばを、ブラック・ミュージックがその形態を変えながらも、文化的・精神的根源においては同一性を保っていることの指摘として用いている(p. 203)。
appyがこの精神性を直観的に射抜いている点は評価されるべきだろう。だが、リリック(ことば)で「変わらない」と宣言することと、サウンド(構造)でそれを実践することは別である。その精神性は生きられたものとして示されなければならず、単なる直観的理解の表明では足らないところがある。
だからこそ私たちは、HIPHOPのルーツにある深く複雑なブルースを、本当の意味では「知らない」という厳然たる事実に立脚せねばならない。その「同じもの」の根底にある固有の重みは、彼らの生きた歴史そのものだからだ。安易に「わかり合える」「真似できる」と錯覚するのではなく、「理解できない」という距離を自覚したまま、その距離を見つめ続けること。その上でどうアプローチしていくかは、各人に委ねられているのである。
だが、少なくとも私は、消費の速度に抗い、安易な共感を拒絶し、不気味な「ズレ」と「反復」の中に留まり続けることを選ぶ。それは、インフラ化したこの巨大な文化に対して、アフロ・アメリカンではない私が示すことのできる、ささやかだがたしかな「レベル」のかたちなのだ。
私がボーカロイドに歌わせるのは、それがHIPHOPへの最も誠実なアプローチのひとつだと信じるからである。
参考文献
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appy. (2025). Thunderbird [Video]. YouTube. https://youtu.be/lOXgqtdsWl4
appy_7 [@appy_7]. (2024, November 13). ボカロラップ・ボカラップ 👈 HIPHOPに限らずラップ [Post]. X. https://x.com/appy_7/status/1856610924649689473
appy_7_2 [@appy_7_2]. (2025, October 15). Vocaloid HIPHOPは「ボカロを使ったHIP HOPとそれらしきも…」 [Post]. X. https://x.com/appy_7_2/status/1978462811488436513
Creepy Nuts. (2013). シラフで酔狂 [Song]. On KAIKOO PLANET III. POPGROUP.
hooks, b. (1992). Eating the Other: Desire and Resistance. In Black Looks: Race and Representation (pp. 21–39). South End Press.
Jones, L. [Baraka, A.]. (1998). Black Music. Da Capo Press. (Original work published 1967)
KID FRESINO. (2014). Horseman’s Scheme [Album]. Dogear Records.
Neff van Aertselaer, J. (1988). Repetition as a Feature of Afro-American Discourse. In Actas del X Congreso Nacional de la Asociación Española de Estudios Anglo-Norteamericanos: Conmemorativo de su fundación (pp. 407–414). Asociación Española de Estudios Anglo-Norteamericanos (AEDEAN).
Weheliye, A. G. (2005). Phonographies: Grooves in Sonic Afro-Modernity. Duke University Press.
金澤智(2020)『ヒップホップ・クロニクル:時代を証言するポピュラー文化』水声社.
コーン, ジェームズ・H(1998)『黒人霊歌とブルース:アメリカ黒人の信仰と神学』(梶原寿 訳)新教出版社.
ジョージ, ネルソン(2011)『ヒップホップ・アメリカ』(高見展 訳)ロッキング・オン.
鈴木雅雄(2011)解説:「ブルース衝動」の行方. In L. ジョーンズ [A. バラカ] (著), 飯野友幸 (訳), 『ブルース・ピープル:白いアメリカ、黒い音楽』 (pp. 405–406). 平凡社.
デュボイス, W. E. B.(1992)『黒人のたましい』(木島始・浜本武雄 訳)岩波書店.
中村隆之(2025)『ブラック・カルチャー:大西洋を旅する声と音』岩波新書.
長谷川町蔵・大和田俊之(2023)『文化系のためのヒップホップ入門』アルテスパブリッシング.
ローズ, トリーシャ(2009)『ブラック・ノイズ』(新田啓子 訳)みすず書房.
本稿の文章構成・表現・展開に関しては、
かんみ会長( https://x.com/pres_of_kanmi )より示唆に富むアドバイスをいただいた。ここに深く感謝申し上げるとともに、いただいた助言の採用方法および最終的な内容についての責任は、すべて筆者にあることを申し添えておく。したがって、批判や異論等は筆者宛てにお寄せいただきたい。


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