なぜ『テンプレ型web小説』は『読むに値しない』のか?
はじめに
先日、カクヨムか、なろうかでランキングを取っているという作家とXにおいてレスバトルのようになったが、この時の私の主張は『典型的なテンプレweb小説は読む価値がない』というものだった。今回は、私がこう考えていて一言にまとめている『読む価値無し』の根拠について述べていこうと思う。
前置きとして、正体不明の『ライトノベル』と読書
『ライトノベル』。私が高校時代から危惧し、目の敵にしているジャンルである。まず、このカテゴリーの問題点について述べねばならない。初期のライトノベルは『いずれ減少していく小説の読者を、より親しみやすい文体とエンタメ成分を増す事で増やし、市場の活性化と小説文化の豊かさを促そう』という物だったはずだ。
しかし、このマーケティング用語は時代が進むにつれ、業界や作家の立ち位置によっていかようにも都合よく解釈され、有名作家たちでさえ『ライトノベルの定義は出来ません!』と宣言するほど、実に曖昧で便利な『表向きの分類』となった。ここにすでに、私が『ラノベに価値無し』とみなす根拠の一部が潜んでいる。
全体を俯瞰するなら、ライトノベルとは『面白くて、売れれば良い』という存在であり、だからこそジャンル論も批評も不要――むしろ野暮とすら扱われる。非常に自由な世界ではあるが、裏を返せばライトノベルという形式が依拠する価値の中心が、ほぼ『娯楽と商業』に特化してしまったということでもある。
もちろん、全ての小説が程度の差はあれど商業的側面を持つ。しかしライトノベルの場合、その割合が極端だ。ジャンル性から解放され、整合性よりも「面白さ」「テンポ」「読みやすさ」が優先されるという仕組みは、確かに読者にとって都合が良い。しかし、読書という行為の有限性を考えたとき、私はその優先度を高くは置けない。
例えば、『あなたの人生では1000冊しか本を読めませんよ?』と言われたら、その中にライトノベルを入れる余地があるのか? 私には無い。人生は短く、明日はどうなるか分からない。だからこそ私は、慎重に本を選んで読んできたつもりだ。
さらにweb小説の登場
さて、ライトノベルからさらに時代が進むと、ついにweb小説が登場する。web小説はライトノベルが持っていた『きわめて娯楽的な快楽』をさらに抽出し、漫画と競合するほどのスピード感と分かりやすさを追求するようになった。
結果として、なろう系web小説は今や『漫画原作の下位互換』、あるいは『漫画のネーム段階に近い物語』へと収斂し、小説としての意義――読解を必要とする深部、言語構造から得られる学び――はテンポを阻害するものとして排除されていった。
そして現状のweb小説は?
では、現在のweb小説、とくに典型的な「テンプレ型web小説」はどうか。
多くの作品は、先行する有名作のフォロワー作品、あるいは『換骨奪胎』と称した事実上の剽窃に近い形で成立している。しかも、そんな作品が何番煎じか分からないまま書籍化されることすら珍しくない。
この点を指摘すると、作家たちは決まって「一つ一つ違う!」と言い張る。しかし残念ながら、それらの違いは大同小異の範囲を出ない。同じ物語構造でストーリーは流れ、主人公は都合よく成功し、読者を感動させるテクニックだけで飾られた『疑似的な感動』が提供されるに過ぎない。同じ物語なのだ。
長文タイトルとあらすじの段階で作品の全容がほぼ説明されてしまう作品群が象徴しているように、そこにあるのは『構造の反復と類似』であって創造ではない。では、なぜ読者はわざわざ同じ物語を何作も読む必要があるのか?
先行する有名作品を一つ読めば済む話ではないか――私にはそう思えてならない。
論より実。『彼ら』はどこへ行った?
さて、ここまでは『論』の話だ。氷河期世代である私は、いわゆる『失われた30年』とラノベやオタク文化の変遷をほぼ同じ速度で通ってきた人間である。その中で、私がラノベ――特に荒唐無稽なラブコメ――や「都合だけのオタク向けコンテンツ」を自分では絶対に作らない理由には、実体験がある。
端的に言うなら、いつまでもオタクコンテンツに逃避的に没入し続けた人々が、その後どこへ行ったかを私は知っている。私の知人範囲で言えば、そうした人のほとんどが独身のまま歳を重ね、現在は5080問題に直面しているか、その予備軍になっている。さらに、不摂生や生活習慣の破綻から既に他界した者、大きく健康を損ねている者も少なくない。
私はそれらを間近で見てきた。だからこそ、『テンプレ型娯楽コンテンツの無害性』という論調に与する気にはなれない。論としての批判ではなく、経験としての観察からも「ろくな結果をもたらさない」ことを、私は痛感しているのだ。
そして恐ろしいのは、彼らが悪いことをしていたわけではないという事実だ。
彼らはただ、コンテンツを楽しんでいただけなのだから。
この経験もまた、『読むに値しない』という考えに結びついている。
論より実。文脈の読めない人々と、客観性の死
さらにもう一つ、実体験として挙げておかねばならないことがある。それは、なろう・ラノベ界隈の一部の人々が私たちに対して行った重度の誹謗中傷と、その結果として生じた多数の開示問題である。2025年12月7日時点で、この問題に関連する開示者はすでに25名を超えている。これは、個人レベルのトラブルとしては明らかに異常な規模である。
そしてより深刻なのは、よりによって『小説』という言語表現を扱う分野で、異常なほど文脈が読めず、客観性が働いていない人々が観測されているという事実だ。これは単なる印象ではなく、開示手続きの中で明確な形を取って現れた現象である。
私は、これは決して偶然ではないと考えている。ライトノベルやweb小説の多くが『読者を気持ちよくさせること』に特化し、読解力や文脈把握、批判的思考を促す構造が圧倒的に欠落していることと無関係とは思えない。
つまり、長年にわたり『読まなくても分かる』――文脈より快楽が優先される――作品群に触れ続けた人々は、現実世界でも同じ思考様式を持ち込む可能性が高い、ということである。
そのような環境で育まれた『文脈の読めなさ』と『客観視の欠如』は、単なる趣味の問題ではなく、現実世界で重大なトラブルを引き起こし得る。私があえてそうした作品を自分に取り込む意味はない――どころか、有害ですらあると判断せざるを得ない。前述のオタ友たちの孤独な顛末も無関係ではないだろう。
これもまた、私がこれらの作品群を『読むに値しない』と断じる理由の一つである。
最後に
読書、そしてファンタジーの最大の意義とは、読解を通して『現実をより良く生き抜くための力』――思考力と、疑似的な経験の蓄積を得られる点にあると私は考えている。だからこそ私は、ファンタジーを決して『逃避のため』には書かないし、そのような作品を読むこともしない。
読書とは相応のリソースを消費する行為だ。そこにただ快楽や娯楽だけを求めるという姿勢を否定はしない。しかし、それは人生に対してあまりに楽観的であり、限られた時間と認知資源を浪費する危険性を孕んでいると私は思っている。
以上が、私が『テンプレ型web小説』を『読むに値しない』とする理由である。
小説とは本来、読者の思考を鍛え、世界の見え方を深め、人生の歩みに寄与するものである。
その役割を放棄し、ただ快楽を与えるだけの反復構造に堕してしまった物語を、私はあえて自らの読書の範囲に含めるつもりはない。


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