ところが、女性が売春したという事実はなかったのだ。一連の報道をめぐって遺族が起こした裁判では、これが争点の一つとなり、「売春をしていた旨の記載は事実とは認められない」と裁判所が認定している。
無責任な報道は、女性を不幸な「患者」から、ウイルスをばら撒く「加害者」に変えた。
この女性のせいで、死病のエイズが広がってしまう―メディアは彼女を魔女のごとく扱い、プライバシーを暴くことに躍起になった。
HIVというウイルスに感染して、無治療で放っておくと免疫力が低下し、様々な疾患が引き起こされる状態をエイズと呼ぶといった、基礎的な知識すら当時は誰にもなかった。かつてエイズに関する記事の取材・執筆を行っていたライターの新城匡人氏はこう語る。
「『売春婦』がエイズになったというのは、マスコミにとって格好のネタでした。どんな店で働いていたのか、感染した客はいないのかといった下世話な話題が読者の購買に繋がると、誰もが信じていたのです」
そもそもこうした騒ぎが起きた背景には、当初におけるエイズに対する無知と偏見があった。いわく、エイズは男性同性愛者や外国人だけがかかる「奇病」であり、彼らに近づかなければ感染しない、「ふつうの日本人」であれば感染しない……。ほとんどの人が、そんな認識を持っていた。
だが、報道から3日後の1月21日に、前述の女性が亡くなったと報じられると、恐怖に駆られた人々により全国各地でパニックが巻き起こった。
血液検査を含む神戸市への相談件数は21日当日だけで1178件。問い合わせは18~31日の2週間で計約8400件に上った。血液検査を受けた後に自殺を図ったり、ノイローゼに陥ったりする男性もいたという。
全国の保健所では919ヵ所にエイズ相談窓口が設置され、相談件数は約半月で5万2000件を超えた。