テキパキ働く獣医師にあこがれ 師と仰ぐ方との出会いで水泳に打ち込む 中学校を転校も

話の肖像画 鴨川シーワールドの獣医師・勝俣悦子<7>

4歳のころ
4歳のころ

《昭和28年4月、東京・四谷の毛利家に次女として生まれた》

父は電機関係の会社のサラリーマンで、母は主婦のかたわら洋裁で家計を助けていました。2つ年上の姉と2人姉妹で、山手線の真ん中の四谷生まれが自慢ですが、窓を開ければ隣の家の窓という下町の小さな家で育ちました。

生まれたのはまだ戦後8年目でしたが、祖父母や両親が戦争の話をすることはありませんでした。ただ思えば、子供のころに傷痍(しょうい)軍人の方を見かけました。足をなくされた方がハーモニカを吹いていた姿。これが私の記憶に刻まれた、戦後まもない東京の風景かもしれません。

おままごとに興味のない、女の子らしくない子供でしたが、かといって男の子っぽいわけでもありません。ぬいぐるみをたくさん持っていて、お気に入りは赤い首輪をつけた黒いダックスフントの「クオレちゃん」。母は子供が大好きな人で、「えっちゃんはかわいいね」とかわいがられて育ちました。自分はいい子だと思っていましたし、母の後ろに隠れているような甘ったれの子供でもありました。

《四谷第一小学校1年生のとき、両親に文鳥のひなを買ってもらった》

「ぶん」と名付け、手のひらや肩に乗せ、口移しで餌をあげたりしていました。しかしある日、学校から帰って来ると、ぶんちゃんは鳥かごの床に横たわっている。温かかった体はもう冷たくなっていました。悲しくて、思わず家を飛び出しました。もう元には戻らない。それが動物の死であるということを、このときに知りました。

《中学生のころ、迷い込んできた犬を動物病院に連れて行った。この体験で獣医師の仕事に関心を持つように》

あるとき、うちの玄関にコリーが迷い込んできました。面倒を見ながら飼い主を捜すと、近所のお宅の犬であることが分かりましたが、その家ではもう飼うことができないという。それで引き取ることになりました。飼い主の名字に「サクラ」の字が入っていたので、「チェリー」と名付けました。

犬がウロウロするなんて今では考えられませんが、人間の食べ物を飼い犬に与えていたような時代です。私も餌にタマネギや、味をよくしようとコンソメなんかを入れてみたりしていました。今思うと、タマネギはよくありませんでした。

毛が抜けるなどチェリーの様子がおかしいときには、動物病院に連れて行きました。そこで働く獣医さんがテキパキと採血したり注射したりする姿を見て、いつしか憧れを抱くようになっていったのです。

《小学校6年生から、水泳に打ち込む》

新宿区の大会で好成績を出したのをきっかけに「霞ヶ丘水泳教室」に通い始めました。39年の東京五輪のころで、子供向けのスイミングクラブがつくられるようになっていたのです。師事したのは串田志都子コーチ。私が師と仰ぐ方の一人です。夫の正夫先生は日本にシンクロナイズドスイミング(現アーティスティックスイミング)を導入したことで知られています。とにかく厳しく、普段の生活態度が泳ぎに出ると考えている方でした。

あるとき遠征先での食事で、私はお膳に腕を載せ背中を丸めて食べていました。すると串田先生は私を叱るだけでは収まらず、母に電話をかけて「どんなしつけをしているんですか!」と。両親はびっくりして遠征先にすっ飛んできました。

先生は「伸び悩む段階が来るから、今のうちにこういうことをしておきなさい」などと細かく教えてくださいます。先生の教えに真摯(しんし)に向き合う娘の姿に母は少し「焼きもち」を焼いていたようです。私は地元の四谷第一中学校に進学したのですが、串田先生が都内の私立中学校でもコーチをされており転校。水泳に打ち込みました。しかし中学3年生のとき、串田先生が学校を去ってしまったのです。(聞き手 金谷かおり)

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