「暇空茜」こと水原清晃――その名を聞いて、いまや笑う人より、ため息をつく人の方が多いだろう。Colaboの活動を「公金チューチュー」と中傷し、十代の少女支援を“タコ部屋”呼ばわりし、都知事選まで利用して話題を稼いだ男。その果てが「東京地裁へ在宅起訴」だというのだから、まるで皮肉な社会実験だ。彼が好んで語った“正義”の行き先が、地検の取り調べ室という現実。ネットの拍手喝采も、司法の前ではただのノイズだ▼二〇二二年から続いたColabo攻撃の裁判はすべて敗訴。裁判所ははっきりと「大量のデマ」「女性差別」「ミソジニー」と断じた。つまり、彼の“告発”は公益性を装った誹謗であり、支援を受ける女性たちを再び傷つける暴力だった。それでも彼は「表現の自由」を叫び、判決をネタに動画で寄付を募る。敗訴すら収益化する姿勢には、もはや信念も羞恥もない。正義の味方を演じながら、差別で再生回数を稼ぐ――そんな人間が“言論人”を名乗る時代の浅ましさを、彼自身が体現している▼在宅起訴の罪状は単純だ。「他人の名誉を傷つけた」。それだけのことが、いまの日本では社会を壊すほどの影響を持つ。匿名の投稿、拡散の快感、群衆の熱狂。暇空茜の炎上は、ひとりの妄想がどれほど多くの少女を追い詰めるかを示した事件でもある。Colaboが運営していたシェルターは晒され、支援を受ける子どもたちは居場所を失った。路上に戻った少女たちが再び被害に遭う――その現実を前にしても、彼は「勝った負けた」と数字を数えている。人を傷つけても“話題になった方が勝ち”という、下劣な論理の極北だ▼思えば、かつて“市民運動”と“ネット世論”の間には緊張があった。権力を批判するはずのネットが、いまや女性や弱者を叩く装置に堕した。暇空茜の人気は、その象徴だ。正確な資料も検証もなく、ただ「怪しい」「税金泥棒だ」と叫べば拍手が集まる。デマを訂正しても信者は減らず、むしろ「言論弾圧だ」と喚く。フェミニズムを敵に仕立て、攻撃を娯楽に変えた男は、自らの信者の欲望を商売にした。差別を燃料に、YouTubeで“広告収入”を得る――それを「戦い」と呼ぶほど、この国の言葉は軽くなった▼「暇空茜の暇は地検へ」。この見出しほど皮肉な結末もない。ネットで裁きを気取った男が、現実の法廷で裁かれる。Colaboへの攻撃で失われたのは少女たちの安全だけではない。社会が、事実より感情を信じるようになったことだ。願望を“真実”と呼び、怒りを“正義”と勘違いする時代。だが、現実は静かに帳尻を合わせる。どれだけ動画で喚いても、刑事訴追は止まらない。正義を装い、差別を商売にした者の行き着く先は、いつだって同じ――地検のドアの向こう側だ。
[時事寸語]= 暇空茜の暇は地検へ