朝の日差しが差し込むカフェの一席。
斜め前のソファで静かに寝息を立てる人物を横目に、私はそっと本に栞を挟む。
カウンター裏の窓から入る光はまだ弱く、夜の名残をわずかに含んだまま木目を淡く照らしていた。
この時間帯は、外のざわめきもほとんど届かない。
ここにいるのは、私と——ほんの数歩先で眠る先輩だけ。
…ナミポンは気配を消してくれていた。
昨晩、これまでの穂波のこと、今後のこと、私の過去について話していたら、いつのまにか船を漕ぎ出して、そのまま二人とも夢の世界へ旅立ってしまったのだった。
先輩より少し早くに目を覚ました私は、こうして朝の読書に耽っているところだった。
最近、先輩はよくここに泊まっている。
このカフェは深夜に閉店するわけではないのだが、やはりちゃんとした布団で寝るべきだと思う。
しかし、ナミポンが先輩の膝の上で丸くなって眠ってしまうことも多く、起こすのも忍びなくて——気づけば、それが見慣れた光景になっていた。
…別に羨ましくなんてない。
ついこの間まで、私はこの場所でほとんど一人だった。澄夏と同行していた時も、一緒にいる時間の大半は情報共有と武器の手入れに消えていた。
ここを拠点として活動しだしてからも、こうして肩の力を抜いて座っていられるような、穏やかで曖昧な時間とはまったく別のものだった。
同じ静けさだったのに、あの頃はただ広くて、寒かった。
作り物みたいに整ったこの空間が、
ひどく薄っぺらく感じられた日だってある。
足音がひとつ増えるだけで、心の奥がふっと軽くなることさえ、忘れていた。
でも——今は違う。
同じ空気なのに、胸の奥がゆるむ。
先輩の気配があるだけで、空間の温度が変わる。
深呼吸するたびに、ここはもう“ひとりの場所”じゃないんだと、遅れて気づかされる。
内装は見違えるほど綺麗になり、今やこうして、ソファに深く腰掛けてゆったりとした時間を過ごすことができる。こんな日常がいずれ当たり前になっていくことが、ひたすらに幸せだった。
私を導いてくれた手。
私を救ってくれた手。
あの日、何も言わずに差し伸べられた温度を、
私はきっと、一生忘れない。
薄い朝の日差しに照らされた先輩の胸が、規則的に上下している。
その静かな動きを見ていると、胸の奥でじんわりと何かが溶けるようだった。
張りつめていた糸が、ゆっくりとほどけていくような。
ここに先輩がいる。
ただそれだけなのに、
世界の輪郭がやわらかくなる。
ああ、この人は生きているんだ、と実感する。
同じ場所で、同じ朝を迎えているんだ、と。
当たり前のことのはずなのに、
なぜだろう。
その当たり前が、ひどく愛おしく思えた。
「……寝てる顔、優しいんだな」
誰にも届かない小さな声でつぶやいた瞬間、
胸の奥がふっと温かくなる。
自分の膝に手を揃えて、ほんの少しだけ身を乗り出す。
指先を伸ばせば届く距離だったのに、
触れる理由はどこにもなかった。
触れてはいけない理由だけが、そっと胸に積もる。
先輩の頬を照らす朝の光が、まるで柔らかい膜みたいに見えた。
男性にしては長い睫毛。
普段は鋭さを宿す切れ長の目元も、今はただ静かに眠っている。
昨日まで、私の前では気を張っていた人の表情とは思えなかった。
あの人は、いつも私を支えようとしてくれた。
不安を隠すために薄く笑うこともあった。
それでも弱音を吐かずに、私の言葉を受け止めてくれて。
——でも今の顔には、全部なかった。
強さも、無理も、隠し事も。
ただ、穏やかに、息をしている。
胸がふわりと熱くなる。
呼吸が浅くなるのが、自分でもわかった。
「……」
ページをめくる音がしなくなっていた。
世界から色が抜けて、音が消えて、
時間だけがゆっくりと沈んでいく。
視線をそらそうとしたのに、できなかった。
長い睫毛の影。
その下で眠る、幼い表情。
すこし乱れた前髪。
疲れの色すら溶けてしまった横顔。
その全てが、私の目を離してくれなかった。
そして気づいてしまった。
私は先輩の寝顔を、
こんなにも長く、
こんなにも真剣に、
見つめてしまっている。
自覚が、胸の奥で小さく震えた。
そして——
「…………千咲?」
ぱちり、と瞼が開いた。
「……っ」
寝起きのぼんやりした目で、至近距離から先輩の視線に射抜かれる。
胸の奥がきゅっと締めつけられ、鼓動が耳まで響くようだった。
膝の上で揃えた手がぎゅっと硬くなる。
顔が熱くなり、視線を逸らすのがやっとだった。
「おはよう、千咲……なんでそんな近くに?」
その声音はいつもと同じ、落ち着いた優しさを含んでいる。
寝起きのせいか少しだけ掠れていて、慣れない波長が鼓膜を震わせる。
——近い。
膝の上の本はすっかり意識から外れていた。
目の前にいる先輩に、息を潜めるしかできなかった。
「……その、漂泊者さんが……」
言いかけて、言葉が喉の奥で止まった。
“寝顔が可愛かったから”なんて、絶対に言えない。
どんな言い訳も通用しない距離感に、心臓が震える。
先輩は、私の言葉に詰まった様子を見て、眉をすこし緩めた。
責めるでも、困るでもなく、ただ心配するような、安堵するような眼差し。
「……まだ寝惚けてるのかも。
なんだか、千咲がすごく近かった気がしたんだけど……」
「……はい、近かったです」
脊髄反射で返事を口にしてから、自分の失態に気づく。
…やってしまった。
恐らく先輩は、気を遣って「気のせいだった」ことにしてくれようとしたのに。
なのに、私は自分でも驚くくらい、素直に答えていた。
——その瞬間、時間がふっと止まったように感じた。
世界の音が一つ消えて、先輩の瞳だけが鮮明に視界に残った。
胸の奥で、何かがぐっと跳ねる。
ただ見られているだけなのに、
心の奥で知らず知らず、何かが揺れているのを感じた。
先輩は眉を軽く上げ、でも笑いはせずに、困ったように私を見つめた。
その無言のやり取りだけで、
私の胸は、甘く熱く、ざわついた。
「そっか。……まあ、千咲なら別に、嫌じゃない。」
どくん、と心臓が跳ねた。
胸の奥で、鼓動が一瞬で渦を巻く。
朝の静けさが、急に騒がしくなったように感じた。
指先の感覚までが熱を帯び、息を整えるのに少し時間がかかる。
「嫌……じゃ、ないんですか?」
聞くつもりはなかった。
なのに、口が勝手に動いてしまった。
胸の内で、何かがぐっと跳ねる。
“これは聞くべきじゃなかった”
小さく、自分の心に呟いた。
先輩はゆっくりと上体を起こし、
寝癖のついた髪を指先で直しながら、
そのまま静かに私を見つめる。
「千咲に見られてる、って思うと……なんだか安心する。変か?」
——声の端に、少しだけ照れのような柔らかさが混じる。
拍動はすでにピークに達している。
視線を外したくても、先輩の瞳に引き寄せられてしまう。
「変じゃ……ないと思い…ます。」
思わず言った言葉に、首を振る。
顔が熱くなって、膝の上の手もわずかに震えた。
先輩はそれを見逃さず、やわらかく目を細める。
「なら、よかった」
その一言だけで、緊張していた体は弛緩する。
世界はまだ静かだけれど、
私の心の中だけ、音が跳ねている。
——私も、あなたといると安心する。
そんな言葉は、例え口が裂けても出なかった。
カウンターの方から、ナミポンが小さく伸びをし、毛づくろいの音を立てた。
先ほどよりも強く差し込む陽光が、時間の流れを感じさせる。
ほのかに香るコーヒーと、焼き立てのパンの匂いが、静かな朝に溶け込んでいた。
穏やかで、なぜか胸が締め付けられるような朝だ。
この瞬間を、ずっと忘れたくない。
……そして、気づいてしまう。
先輩のそばにいるだけで満たされているのだと。
「……千咲、朝ごはん食べた?」
「まだ……です」
「じゃあなにか作ろう。千咲、読書してていいよ」
先輩はそっと静かな所作で、微笑んだままソファから立ち上がる。
その背中を、思わず息を詰めて目で追ってしまう自分に気づいた。
頬がじんわりと熱を帯びる。
——この瞬間、私の気持ちはもう、この人に向かって動き出している。
「私も、手伝います」
思わず声に出してしまった。
先輩は後ろ姿のまま、ふっと肩を揺らして笑った。
「そうか。じゃあ、今日のメニューは何にする?」
胸の奥で、じんわりと熱が広がる。
朝の光、コーヒーの香り、外の静けさ、
そして先輩の存在。
すべてが、今の私にとってかけがえのないものだった。
心臓の鼓動はその種類を変えた。
心拍は変わらないものの、甘く、蕩けるような拍動に。
……ああ、本当に。
私は、もうどうしようもなく先輩のことが——。