Vol.007|普通のインフレ
『MONOLOGUE』は、エッセイのようでいてコラムのようでもある、そんな型に囚われない備忘録を兼ねたフリースタイル文筆を、毎回3本まとめてお届けするマガジンです。毎週月曜午前8時に定期更新。何かと思想強めですので、用法容量を守ってお読みください。
凡夫に楽しむ暇なし
一流プレイヤーであれば誰でもいいのだけど、たとえば大谷翔平が試合に臨む前に、インタビューで一言「楽しんできます」と言ったとする。
言うまでもないことかもしれないが、これはめっちゃ様になる。オオタニサンが野球を愛していて、その愛を原動力とした常人には到底なしえない努力を続けているであろうことは、もはや誰の目にも明らかだから。
でなければ、たとえどれだけ資質に恵まれたとしても、あれほどの前人未踏の記録を打ち立てることはできないだろう。こうした背景があっての「楽しむ」だからこそ、オオタニサンの言葉には有無を言わさぬ説得力が宿るわけだ。
一方で、どう見ても凡夫である人間が、同じように「楽しむ」を前面に押し出しているのをたまに見かけることがある。そういう光景を見かけるたびに、凡夫のいう「楽しむ」ほど唾棄すべきものはないな、とそう思う。
なぜなら、凡夫のいう「楽しむ」とは、その対象と真摯に向き合うことから逃げ、それゆえ結果を引き受ける覚悟もなく、ただただのんべんだらりと過ごしているだけの、単なる現実逃避でしかないからである。そんな人間がいったい何を楽しめるというのか。そんな人間が見出す楽しさとやらに、いったいどれほどの価値があるというのか。
もちろん自分も含めて、われわれ凡夫は「楽しむ」などと、軽々しく言うべきではない。われわれ凡夫は、大舞台を前にしてがっちがちに緊張、当日思ったようなパフォーマンスがだせない卑小な自分に絶望し、それでもなお挫けることなく、歯を食いしばって何度でも這い上がらなければならない。
そうしてはじめて「楽しさ」らしきものの片鱗が見出せるのだ。われわれ凡夫に楽しんでいる暇などないのである。
普通のインフレ
ここ数年、ひしひしと感じていることの一つに、普通のインフレがある。あらゆる分野で普通の基準が跳ね上がり、その基準を満たさないような人間は、社会の落伍者として扱われる傾向が年々強まっているように思う。
何よりもその傾向が顕著なのは、コミュニケーション能力だろう。一昔前だったら「あの人はちょっと変わっているから」で済まされていたような、いわゆるコミュ障に位置づけられるような人に向けられる目線が、非常に冷たく厳しいものになっている。それはそれとして一旦受け入れられていたものが、今は即座に排除の対象となってしまう。
他にもたとえば清潔感なんかもそう。これは特に男性側に言えることだけど、一昔前であれば女性にモテる男、あるいは女性にモテたい男がこの清潔感を意識していたぐらいのものだったが、今やモテるモテない関係なしに、すべての男に一定の清潔感が求められている。まるで清潔感のない男に人権なしとでも言わんばかりに、小汚い男はそもそも人として扱われない。
清潔感を構成する要素として、ファッションやスキンケアが挙げられるが、もはやこれらは個人の趣味嗜好で片付けられるものではなくなっている。興味があろうとなかろうと、普通がインフレしている現代社会においては、これらは最低限のマナーとして、ある程度はおさえておく必要がある。
言うなればそれは社会のドレスコードとでも呼ぶべきもので、ドレスコードを満たさない人間は、場を乱す不届き者として半強制的に退場させられてしまうのだから。
少し前にKKO(キモくて金のないオッサン)なるネットミームが流行った。あれなどはまさに普通のインフレを象徴しているように思う。同じ人間として見ているというよりも、どこか自分たち人間とは違う別の生物として見ている。その目線はまるで奇形のモンスターでも見ているかのよう。これほど排他性の強いネットミームも、なかなかお目にかかれないだろう。
さすがに火の玉ストレートがすぎたのか、今は弱者男性とその名を変えて、日夜喧々諤々の議論が繰り広げられているわけだが、いずれにしろ普通がインフレしている事実は変わらない。
では、なぜ普通のインフレが加速しているのだろうか。大小さまざまな要因は挙げられるだろうけれど、やはりSNSの存在は切っても切り離せない。
SNSを通じて人々の価値観や生活様式が浮き彫りになり、それらを比較することが容易になった。そして、比較が容易であるということは、それだけ競争が激化することを意味しており、競争が激化すれば当然ながらあらゆる判断基準は高まっていく。
これはAmazonに飼い慣らされたわれわれが、近所の家電量販店に足を運ばなくなったことを思い浮かべれば、わかりやすいかと思う。配送一つとっても、もはやわれわれは最低でも翌日配送でなければ、不満を覚えるようになっている。すなわち配送のインフレが起こっているわけだ。
同じようにSNSの登場によって、普通のインフレが加速している。お互いがお互いの価値観や生活様式を絶えず監視し、普通のインフレについていけない人間は排除されるという、見田宗介の言葉を借りれば「まなざしの地獄2.0」とも呼ぶべき社会が到来してしまった。
普通のインフレが加速するのと足並みをそろえる形で、若者の優秀さを讃える言説が溢れかえるようになった印象を受ける。それもそのはずで、彼らはおそらく「まなざしの地獄2.0」をくぐりぬけてきた者たちなのだ。面構えが違う。
SNSもツールの一つである以上、使い手と使い道次第でいくらでも有用になりうるのはその通りだが、最大多数の最大幸福の観点で見た時、残念ながら自分には今のところ大きくマイナスに傾いているようにしか見えない。
クラシックとか聴いてそう
「え~~意外ですね!!クラシックとか聴いてそう」
ここ最近、立て続けにそう言われる機会があって、機運が高まったように思われるので、ここらでいっちょ掘り下げて考えてみたい。
あらかじめ断っておくと、自分はまったくクラシック音楽は聴かない。自分の中のクラシック音楽は、学生時代によく耳にするジャジャジャジャーンがベートヴェンの『運命』という曲であることを知ってからというもの、ほとんどアップデートされていない。
つまり、なんらクラシック音楽について語る資格をもちえないド素人、有り体にいってカスである。ジャジャジャジャーンちゃうんよ。文字に起こした時の違和感すごいなおい。もっと適切な表現あるやろ。悲しきかな、ド素人すぎてその語彙が自分にはない。
クラシック音楽を好んで聴く層というのは、どんな人たちだろうか。一般的には高学歴で教養レベルが高く、たとえば医師や弁護士といった社会的地位の高い職業に就いており、文化や芸術全般への傾倒が見られ、保守的で伝統志向をもつ中高年の富裕層、といったイメージかと思う。
ところが、自分はこれらのいかにもハイソなイメージとは、真逆の人生を歩んできたような人間である。
親父もお袋もいわゆる部落地域の限界集落出身で、二人とも学歴は高卒。決して裕福ではない家に生まれ育ち、自分もまたまるで学校教育に馴染めなかったような人間なので、最終学歴は高卒である。
過去には俗にいう3K労働に従事していたこともあれば、この本能に隷属した薄汚い人間で溢れかえる社会、そしてそんな社会に対して無様に跪くことしかできない自分に絶望し、精神を病んでしまって赤貧に喘いでいた時期もある。
そんなド底辺を這いつくばってきたような人生と共にあったのは、いつだってロックやヒップホップといった、反逆の音楽だった。だから、自分にとってあくまでそれは自然な流れなのだけど、どうやら周囲にはそうは映らないようだ。ロックやヒップホップなんかとは無縁で、クラシック音楽を好んで聴くような人間として映っている。
なぜこんなにもギャップが生じるのかというと、それだけ人生における移動距離があるからだろう。あらゆる面で凡夫は凡夫なりに鍛えてきた自負はある。だからこそ、ド底辺から這い上がってこれたのである。
かつては過去の愚かな自分を恥じていたこともあったけれど、今はそのすべてを受け入れている。すべてひっくるめて自分であり、あの頃があったからこそ今がある。あの頃があったからこそ、こうしてギャップが生まれることにも繋がった。
そして、この人生の移動距離から生じる振り幅こそが、自分の持ち味だと思っている。


