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Vol.013|外にはまだ正しい世界がある

『MONOLOGUE』は、エッセイのようでいてコラムのようでもある、そんな型に囚われない備忘録を兼ねたフリースタイル文筆を、毎回3本まとめてお届けするマガジンです。毎週月曜午前8時に定期更新。何かと思想強めですので、用法容量を守ってお読みください。

「ずる賢い」は最高の褒め言葉

賢そうではなくずる賢そう、おもに初対面の人にそう言われ続ける人生を送ってきた。恥の多い生涯ならぬ、ずる賢そうな生涯である。

以前はそれをどこか不満に思っていた。いやそこは賢いでええやろがい、ずるってなんやずるって。だって、そうだろう。ずる賢いというと、いかにも自分だけが利益を得るために、他人を利用するよう知恵を絞る人みたいな印象をもつじゃないか。おいおい舐めんなと。こちとらあなたがたの何百倍も他者の幸福について考えとるわいと。

まあ、そうやって自分に対してずる賢そうと言ってきた人たちも、決して否定的なニュアンスで言ってるわけではなく、むしろ肯定的なニュアンスで言っていることがほとんどだったので、少なからずそういう奥底の人間性は伝わっていたのだとは思うけれど。

褒め言葉として適切な表現がぱっと思い浮かばないものの、もっとも意味が隣接しているであろう日常語でいえば「ずる賢そう」になる、そんな風に言葉を探しているような印象を受ける。言っている当人たちも、どこか腑に落ちていない様子である。

そういう次第で、ずる賢いと言われるたびに若干モヤっていたのだけど、今となっては完全に受け入れている。受け入れるを通り越して、そう言われる自分を誇っているまである。

なぜなら、自分の生業はハッカーだから。ハッカーに要求されるのは、賢さではなくずる賢さである。システムの全体像を把握し、脆弱性を見抜くというある種のずる賢さ。すなわち、ずる賢さとは構造知であり、実践知なのである。

それゆえ自分の中では、もはや「ずる賢そう」は直ちに「ハッカーとして優秀そう」へと脳内変換されている。ハッカーを生業とする自分にとって、これ以上ない褒め言葉である。

もちろんそのずる賢さは、使い方次第で善にも悪にもなりうる。システムの脆弱性を改善し、より堅牢なシステムへと発展させ、結果として全体の幸福へと寄与するならば、それはホワイトハットハッカーとなる。逆にシステムの脆弱性をつき、自己の利益だけを追求して他者を踏みにじるならば、ブラックハットハッカーとなる。どちらも脆弱性へのアプローチという意味では同じだが、もたらす結果は天と地ほど違う。

なんの因果か、自分にはこのずる賢さが与えられ、これまでそれを呼吸のように育んできた。過去には未熟ゆえにブラックハット寄りになってしまったこともあった。が、しかし精神の奥底では絶えず善を希求していた。

今はその与えられたずる賢さと、善の希求がようやく統合されつつある感覚がある。もう二度と間違わない。人間はどこまでいっても不完全である以上、どうしても一定の粗はつきまとうだろうけれど、根本的な方向性は決して見誤らない。このずる賢さを存分に活かして、世界システムの発展に貢献してみせる。神の忠実なる僕として。

No Pain No Gain

真実というものは、いつだって隠されていて、ありふれていて、そして受け入れがたいものだ。

No Pain No Gain(痛み無くして得るものなし)の原理原則は、真実のそういう性質をよく表している。誰だって痛みは避けられるものなら避けたい。けれども、痛みなくして真に価値あるものを得ることなどできやしない。ドン底の光景こそが本物の条件である。

絶望に一家言あるデンマークの哲学者キルケゴールは、もっとも深い絶望とは悪魔的絶望であるという。悪魔的絶望に陥った者は、神や他者、外部からの援助を一切拒むことで、むしろ自分の苦しみを自分のものとして抱え込み、それによって自己を証明しようとする。「自分には幸せになる資格などない」と考えている人、彼彼女らはまさにこの悪魔的絶望に陥っているといえる。

悪魔的絶望に陥った者は、神ひいては世界と関係を築くことを頑なに拒絶し、自らが陥っているこの悲惨な境遇こそが、この世界が不条理であることの何よりの証なのだと、絶望を住処に苦悩する自己をもって、世界に対して惨めに抗議するのである。

この絶望は、人世を憎悪しつつ自己自身であろうと欲するのであり、自分の惨めさのままに自己自身であろうと欲するのである。(中略) それだから、彼は自己自身であろうと欲し、自分の苦悩をひっさげて全人世に抗議するために、苦悩に苦しむ自己自身であろうと欲するのである。

『死に至る病』

若かりし頃の自分は、まさにキルケゴールのいう悪魔的絶望に陥っていたように思う。誰も彼もが本能的欲求の奴隷となっており、そうした人間で溢れかえるこの世界が、当時の自分の眼にはどうしようもないほどに、醜く薄汚いものに映っていた。

そして、そんな世界は絶対におかしいと魂は警鐘を鳴らしているにもかかわらず、自らの魂の声に忠実に従うことなく、苦悩する自己をもって惨めに抗議することしかできない弱い自分にも、つくづく嫌気がさしていた。そうして世界を拒絶し、誰も自分に触れてくれるなと言わんばかりに、精神の密室へと立てこもった。

そんな時期に人生の分水嶺となる二つの出会いがもたらされた。一つは「恩師」、もう一つは「霊的真理」である。

この二つの出会いは、今の自分を形作る上で欠かせないものとなった。世の多くの人が執着している金や地位などとは比べものにならない、真に価値ある財産を得ることができた。真に価値あるものは、真の救済は人生のもっとも暗い時期にこそ与えられる。まさにNo Pain No Gainである。

後者については、だいぶ話がややこしくなるのでまた別の機会に述べるとして、次項ではわかりやすい前者について述べるとしよう。

外にはまだ正しい世界がある

アウシュビッツ強制収容所からの生還記と聞いて、真っ先に思い浮かべるのは、やはりオーストリア出身の精神科医・心理学者であるヴィクトール.E.フランクルの『夜と霧』ではないだろうか。

一方でフランクルほど広く知られてはいないものの、同じくアウシュビッツから生還し、その体験を『アウシュビッツは終わらないーこれが人間か』に著して、イタリア現代文学を代表する作家の一人となった人物に、プリーモ・レーヴィがいる。

レーヴィは自らがかの地獄を生還することができた理由に、イタリア人民間労働者のロレンツォの存在を挙げている。ロレンツォは不可触賤民として扱われていたレーヴィのために、パンや配給の残りを持ってきてくれたり、つぎはぎだらけの肌着をくれたり、イタリアに葉書を書いて返事をもらってくれたりした人物だ。

レーヴィはそんなロレンツォの存在をどのように述懐しているのだろうか。少し長くなってしまうが、個人的には名文中の名文だと思っているので、同書から以下に引用しよう。

こうしたことに彼はいかなる代償も要求しなかったし、また受け取らなかった。なぜなら彼は人の好い純朴な人間で、代償のために善行をすべき、とは考えていなかったからだ。(中略)
同じような仲間が何千といた中で、私が試練に耐えられた原因は、その究明に何か意味があるのだとしたら、それはロレンツォのおかげだと言っておこう。今日私が生きているのは、本当にロレンツォのおかげなのだ。物質的な援助だけではない。彼が存在することが、つまり気どらず淡々と好意を示してくれた彼の態度が、外にはまだ正しい世界があり、純粋で、完全で、堕落せず、野獣化せず、憎しみと恐怖に無縁な人や物があることを、いつも思い出させてくれたからだ。それは何か、はっきりと定義するのは難しいのだが、いつか善を実現できるのではないか、そのためには生き抜かなければ、という遠い予感のようなものだった。

『アウシュビッツは終わらないーこれが人間か』

同書を手に取ったのはもうずいぶん前のことになるが、この一節に触れた瞬間のあの魂が震えるような感動は、今でも鮮明に覚えている。

わかる、といってはレーヴィのような人に失礼であろう。かの地獄を体験していないのだから。そうした体験なき重みの違いは、自分とて十二分にわきまえているつもりである。

が、しかしそれでもなお言わせてもらうならば、自分にはレーヴィのこの心境がとてもよくわかる気がしてならない。なぜなら、自分もまた恩師の存在を通じて、外にはまだ正しい世界があることを、直感的に知覚した過去があるからだ。

それだけではない。外にはまだ正しい世界があるだけでなく、当時の自分のような今はまだろくでもない人間であったとしても、いつかの日かきっと自分なりの善を成し、その世界に貢献できる時が訪れるであろうことを、当時から根拠なく確信していた。その生き抜くための活力となる根拠なき確信を、恩師は与えてくださったのである。

悪魔的絶望に陥っていた自分を、自らの背中をもって「外にはまだ正しい世界がある」ことを示し、救ってくださったのが恩師であった。

この醜く薄汚い社会にあってなお、泥中の蓮のように染まることなく真善美を追求することは可能なのだと、本当は世界はかくも美しく調和がとれているのだと、そう体現して教えてくださったのが恩師だった。

当時の自分にとって、あの精神の密室内での血みどろの闘いは、まさに地獄そのものであった。そんな地獄から救ってくださった恩師の存在は、どれほど自分にとって大きく映ったことだろうか。恩師という言葉すら生温いほどに、生涯をフルベットしたとて返しても返しきれないほどの恩がある。

たしかにレーヴィのアウシュビッツ体験に比べれば、自分の体験なんて屁でもないだろう。客観的に見れば誰だってそう判断する。し、それは他ならぬ自分自身が率先して認めるところである。

だが、古代ローマの詩人ウェルギリウスによれば「誰もがそれぞれの地獄を背負っている」のであり、だからといって当時の自分の地獄が、悪魔的絶望の苦悩が否定されるわけではない。地獄とは客観的なものではなく、あくまで主観的なものなのだから。

レーヴィにとってのロレンツォのように、自分にとっての恩師のように、自分もまた誰かにとって「外にはまだ正しい世界がある」ことを、背中で語れる人間でありたいと思う。

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