Vol.023|アウトサイダーの本質
『MONOLOGUE』は、エッセイのようでいてコラムのようでもある、そんな型に囚われない備忘録を兼ねたフリースタイル文筆を、毎回3本まとめてお届けするマガジンです。毎週月曜午前8時に定期更新。何かと思想強めですので、用法容量を守ってお読みください。
アウトサイダーの本質
「ほら、わたしってこんなに変わってますから」
明に暗にそう主張している人を見かけると、なんともいたたまれない気持ちになる。これが共感性羞恥というやつなのだろうか。そういう人間で「この人は本当にユニークだな」と感じたことは、少なくとも自分はこれまで一度たりともない。
最近は鳴りを潜めたように思うが、一時期、雨後の筍のように湧いて出た新卒フリーランスなんかは、まさにその典型といえる。新卒というプラチナチケットを捨てて、レールから外れて生きる自分は、なんて変わり者なのだろうと、いかにもそう言いたげである。
気づいているのに言わないのか、そもそも気づいていないのかはわからない。いずれにしろ誰も真実を告げようとしないので、ここらで空気の読めない自分が率先してその役目を引き受けようと思う。しかたなく、あくまでしかたなく、である。
はっきり言おう。あなたがたは何も変わってなどいない。その「レールから外れて生きる」と「単に別のレールに乗り換えただけ」の違いがろくにわかっていないところも、にもかかわらず自意識だけがぶくぶくに肥え太っているところも、すべてひっくるめて凡庸。あまりにも凡庸としかいいようがない。社会から外れて生きる者、すなわちアウトサイダーとは程遠い生き方である。
新卒フリーランスは、たしかにマイノリティではある。ところが、マイノリティであることは、アウトサイダーであることを意味しない。アウトサイダーは往々にしてマイノリティだが、マイノリティに属することすなわちアウトサイダーではない。
アウトサイダーの本質とは「社会の檻に囚われていない」ことにある。それゆえ新卒がどうだのフリーランスがどうだの言っている時点で、すでに見込みがないのである。それらはあくまで社会の檻の中の話でしかないからだ。
新卒フリーランスの看板を掲げたことで、何者かになれたように思うかもしれない。が、しかしそんなものは吹けば飛ぶ錯覚でしかない。社会の檻の中には、真に価値あるものは存在しない。それなのにあいかわらず社会の檻に囚われているという意味で、あなたがたは今なお何者でもない。
そもそも何者かにならねばというその発想自体が、社会の檻に囚われている何よりの証左である。人は何者にもなれやしない。われわれにできるのは、ただただ自己であることだけだ。そんな当たり前のことすらも、社会の檻に囚われていると見失ってしまう。悠長に新卒フリーランスの看板を掲げて、悦に浸っている場合ではない。同じ掲げるなら、デルフォイのアポロン神殿に倣って、玄関先にでも〝汝自身を知れ〟の箴言を掲げるべきである。
とある人物を紹介しておきたい。真のアウトサイダーとはいかなる存在かを問う上で、彼女の存在はおおいに刺激になることだろう。彼女の名はマッジ・ギル(Madge Gill , 1882-1961)。イギリスのアウトサイダー・アーティストで、世界で最も有名なアウトサイダー・アーティストの一人である。
彼女は壮絶な人生を歩んでいる。私生児として出生、孤児院への強制的な預け入れ、スペイン風邪による子どもの死去、奇形児の死産にともなう危篤状態と失明。そうした波乱万丈の人生を経て、三十八歳の時に突如としてドローイングに目覚めた彼女は、その後、約四十年にわたっておもに黒のインクを用いて多くの作品を制作する。
ところが、彼女は自らの作品を展示することはほとんどなく、また作品を売ることもなかったという。なぜかといえば、自らが描く作品はMyrninerest(My Inner Rest:私の内にあるやすらぎ)と呼ばれる霊に導かれて描いたものであり、自分のものではないと考えていたからである。彼女は作品を売ることで、ミルニーネレストの怒りを買うことを恐れていた。実際に彼女の作品には、しばしばこのミルニーネレストの名がサインされている。
もし興味があれば、彼女の作品集『Madge Gill by Myrninerest』を手に取ってみるといい。多少値は張るものの、真のアウトサイダー・アーティストの作品に触れられることを思えば、むしろ安いものである。
「生きる」の対義語
「生きるの対義語はなんですか」と問われて、あなたならどう答えるだろうか。ちょっと考えてみてほしい。
言うまでもなく、辞書的には「死ぬ」である。けれども、そんな自明でしかない辞書的な答えを問われる文脈なんて、現実には皆無と言い切って差し支えないだろう。よって、この答えは何の面白味もないばかりか、いや、それゆえにわれわれの人生に何一つ影響を及ぼさない、もっとも唾棄すべき答えといえる。
やたらと辞書的な答えにこだわる人をたまに見かけるが、辞書的な答えなんぞはっきりいってどうでもいいのである。しょせん調べればすぐわかるような答えに価値なんてないのだから。
辞書的な答えを理解しているのが賢い人間なのではない。賢い人間とは、それが疑うべき前提でしかないことを理解している人のことだ。答えというものが、辺りを探索すれば発見されるようなものではなく、自ら創出してそれがたしかに真だと証明していくものであることを理解している人のことだ。
そして、そのように心得ている人を哲学者とそう呼ぶのである。言葉の定義づけを辞書に頼っているようでは、哲学者失格である。哲学者たる者、あらゆる言葉は自ら定義づけなければならない。自ら定義づけることなしに、その言葉を深く理解することなどできやしない。重要なのは辞書的な答えではなく、あくまで「(あなたにとって)生きるの対義語はなんですか」の答えなのである。その答えにこそあなたの実存は宿るのだから。
では、自分ならばこの問いにどう答えるのか。結論だけを先に述べれば、自分なりの答えは「存在を全うしないこと」になる。
このような結論に至る哲学的な背景としては、たとえばアリストテレス哲学におけるエネルゲイア、スピノザ哲学におけるコナトゥス、ハイデガー哲学におけるダスマンなどの概念を下敷きにしているが、それらの概念については興味があれば各位AIにでも尋ねてもらうとして、要するにすべての存在には固有の〝らしさ〟があって、そのらしさを発揮していく過程こそが生きることに他ならないのだと、自分はそのように考えている。
自分には自分のらしさが、あなたにはあなたのらしさがある。とはいえ、誤解してはならないのは、だからといって好き勝手振る舞えばいいというものでもないということだ。なぜなら、その個的存在としてのらしさの土台には、共有している人間存在としてのらしさがあるからだ。人間存在としてのらしさから外れない形で、個的存在としてのらしさを発揮していく必要がある。
このらしさの上部下部構造は、なにも人間だけに適用されるものではない。たとえば花には花の共有しているらしさがあるが、バラとチューリップのらしさはそれぞれに固有のものである。
ただし、花と人間で決定的に異なるのは、バラやチューリップは花として共有するらしさから逸脱することはできないが、人間は自由意志によって人間存在としてのらしさから外れた生き方ができるということだ。この自由意志の介在にこそ、非人道的な行為が生まれる余地がある。
極端な話、個的存在としてのらしさだけでは、たとえば快楽殺人者の存在をも肯定しなければならない。「これが私のらしさの発揮です」と言われてしまうと、受け入れがたいのと同時に反論しづらいものがある。現代のように価値相対主義が煮詰まった時代においては、なおさらそうだろう。
しかしながら、人間存在としてのらしさを土台にすえることで、この問題はクリアできる。人類史をひもとけば明らかなように、快楽殺人が人間存在としてのらしさの発揮であるはずがないのだから。それが人間存在としてのらしさなのであれば、とうの昔に人類は絶滅している。つまり快楽殺人者の「これが私のらしさの発揮です」は、らしさの履き違えでしかないということだ。それも考えうるかぎり最悪の形の。
このように自分にとって「生きる」とは、明確な方向性をともなう概念であり、方向性をともなう以上は、当然ながら沿う沿わないの話にも発展する。
沿っているならばそれは「存在を全うしている(=生きる)」と言えるし、沿っていなければそれは「存在を全うしていない」と言える。快楽殺人者は「存在を全うしていない」という意味で、生命活動は維持されているかもしれないが、生きてはいないのである。自分が「生きる」の対義語を「存在を全うしないこと」と答える背景には、このようなロジックがある。
あらためて問い直そう。あなたにとって「生きる」とは、もしくは「死ぬ」とはどういうことだろうか。ぜひあなただけの答えを聞かせてほしい。そしてあなたの実存を垣間見せてほしい。
喫煙者の愚かさ
世の中には愚行が溢れかえっているとはいえ、喫煙ほどの愚行もそうそうないだろう。さすが長年にわたって百害あって一利なしの看板を背負い続けてきた愚行である。他の愚行とは面構えが違う。
喫煙のメリットは何が挙げられるだろうか。真っ先に思いつくものとしては、ストレス軽減の感覚がある。たしかにタバコに含まれるニコチンは、脳内のドーパミン放出を促すので、一時的にリラックス効果を得られる。
が、しかしそれはニコチン依存による禁断症状のストレスを、喫煙によるニコチン摂取で抑えているにすぎず、根本的にストレスレベルが改善しているわけではない。つまり、タバコによるストレス解消は、実態のない一種のマッチポンプなのである。
では、喫煙所に代表されるような社交の機会としてのメリットはどうか。たしかにそういう面はあるにはある。しかしながら、一方でたとえばそれが就業中であれば、喫煙者と非喫煙者の労働時間における不公平さによって軋轢を生み、余計なコミュニケーションコストが発生するリスクもある。そもそも喫煙者数は年々減少しているわけで、スケールメリットの観点からも限定的であると言わざるをえない。
さらに身も蓋もない指摘を重ねれば、これだけ喫煙者のイメージが悪化し、その健康リスクも広く知られているというのにもかかわらず、なお喫煙者である時点で、その人間はわざわざ社交の機会を用意するほどの人間ではない可能性が高い。職業階層や教育歴などの社会的地位と喫煙率には明確な相関関係があり、社会的地位が低いほど喫煙率は高くなる傾向にあるからだ。
誤解しないでほしいのは、これは社会的地位が低い人間とは関わるべきではないと、そういう職業蔑視丸出しなことが言いたいわけではない。メリットとして社交の機会を挙げるのであれば、当然ながらそのメリットがもたらす効用がどの程度のものなのかは計測されるべきである。大雑把にいってそれはその社交の機会の質と量によって決まるわけで、質を測る指標の一つとして社会的地位が挙げられるだろう、という客観的事実を指摘したいまでだ。
賢明な、そしておそらくは非喫煙者である読者諸賢は、そろそろ察するころだろうか。そう、すべての喫煙メリットに反論する用意が自分にはある。しかしながら、このままそのすべてを論じていると、いつまでたっても終わらないので、最後に経済効果を考えてみるとしよう。
たしかに一定の経済効果は認められる。話が煩雑になるので、ここではブルシット・ジョブ議論はさておき、タバコ税による税収は言わずもがな、タバコ産業は紙やフィルターといった素材の仕入れ、多くの広告や輸送によって成り立っている。
産業に直接関係ないところでいっても、たとえばタバコを買いたいがためにふらりとコンビニに寄って、つい飲料や菓子類なども買ってしまう、なんてことは日常茶飯事である。こうした消費行動の喚起という意味でも、タバコは一役買っているといえる。
喫煙者が自らの愚行権を主張する上で、持ち出しがちな言い分ツートップの片割れに「われわれはちゃんと納税している」があるが、それは事実としてそう。
だが、この言い分には統計的思考が著しく欠如している。タバコによる経済効果を考える上では、なんといってもまず医療費増加との相関を見る必要がある。喫煙が明らかな健康リスクをともなう以上、当然ながらそれによる医療費増加との相関も考慮し、その損失を経済効果から差っ引かなければならない。
さらに、である。医療費増加についてはよく言われることだが、タバコのリスクはそれだけではない。見落とされがちなリスクとして、火災による損失がある。出火原因としてタバコは常に上位に位置づけられており、この損失も経済効果から差っ引く必要がある。他にも細かいところでいえば、清掃費増加なんかもそうだ。
そして、何よりも大きいのは、こうした健康あるいは火災リスクにともなう労働力損失である。重い病気になればそもそも働くこともできない。たとえ軽度の症状であったとしても、パフォーマンスダウンは避けられない。
さて、こうした経済効果と経済的損失をすべてひっくるめて試算するとどうなるか。試算によってその差額は変わってくるものの、どの試算も「タバコによる経済的損失はその経済効果を上回る」の結論で一致を見ている。
つまり、喫煙者が「われわれは納税によって社会貢献している」などと主張するのは、ろくに統計的思考ができない人間の戯言である、ということだ。実際はタバコを吸えば吸うほどに、経済ひいては社会にダメージを与え、自らの身体をも蝕んでいるのである。まさに百害あって一利なし。
それにしても、なぜ喫煙者はこれほどまでに統計リテラシーが身についていないのだろうか。少なくとも自分は、喫煙率と統計リテラシーの相関を調べた研究なんて寡聞にして知らない。が、体感統計としては喫煙者と非喫煙者とでは、明らかに喫煙者のほうが統計リテラシーが身についていない傾向にある。
これは確信をもってあえて断言するが、社会的地位と統計リテラシーにも正の相関が認められることだろう。現代社会をしたたかに生き抜く上で、もはや統計リテラシーは必須教養である。
ここで喫煙者が自らの愚行権を主張する上で、持ち出しがちな言い分ツートップのもう片割れを明かしておこう。それは「タバコを吸っていても病気一つせずに長生きした人はいる」だ。これこそが喫煙者の統計リテラシーのなさを雄弁に物語る傍証である。いったい何度この言い分を耳にしたことだろうか。統計リテラシーの身についていない人間は、例外なくこの過度な一般化の罠に陥る。こちとらそんなn=1の話なんて一切していないのである。
最後に恥を忍んで告白しておく。自分は非喫煙者ではない。より正確には禁煙者である。つまり、元々はタバコを吸っていた人間なのだ。それも若い頃から吸っていた。若いといっても二十代前半とかそういう一般的なレベルではない。むしろ、それは禁煙した年齢である。中学二年生すなわち十四歳の頃から二十代半ば頃まで吸っていた。そんなろくでもない経歴があるからこそ、その愚かさが身に染みてわかるのである。
禁煙してからというもの、十数年が経つ今となっては、本当にやめてよかったと思っている。頭脳は明晰に働き、血色はよくなり、気力に満ち、体力にあふれ、何よりもタバコの奴隷となっていた不自由きわまりない人生から、幾ばくかの自由を取り戻すことができた。それらの本質的な恩恵に比べれば、経済的な恩恵なんぞあってないようなものである。どれもこれもお金で買えるようなものではないのだから。
まかり間違って本稿を読んでいる喫煙者には、今すぐに禁煙することを強くお薦めしたい。他の誰でもないあなたがあなた自身であるために。


