デッドマンズ アーカイブ   作:地下ピ

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アビドス対策委員会編
招かれざる客


(カタカタカタカタ……)

 

キーボードを叩く音が、無機質なオフィスに乾いたリズムを刻んでいた。そこは効率と速度だけが求められる、冷たく無機質な空間。規則正しく並ぶデスクの前では、無数のオートマタたちが人間離れした速度で事務作業をこなしている。

 

そんな中、ただ一人、人間らしいペースで書類に目を通し、タイピングを続ける1人の人間の姿

 

彼の名前は吉良吉影──

 

『フン……この程度の作業に、一体どれだけ時間をかけている。 』

 

隣のオートマタが、冷ややかな声で嫌味を投げかける。彼のフェイスに搭載されたディスプレイにはランプがチカチカと点灯しているだけだが、どこか鼻で笑うような色が滲んでいた。

 

「………」

 

(フンッ 鉄クズの分際でやかましいんだよォーーーーッ!ああーーーーーっ!!このわたしにイチイチ聞き耳立てて見下してんじゃあないぞッ!!)

 

そんな煮えたぎるような怒りを押し殺し、吉良は言葉を返さず、ただ静かに手を動かし続ける。

 

憤りはある。だが、それ以上に、今の安定を失うわけにはいかなかった。給料は悪くない。住む場所も与えられ、身分証すら黒服の手回しで手に入れた。ここで突っぱねれば、すべてが水泡に帰す。

 

(クソッ 落ち着け……今は我慢だ。今は……)

 

『吉良クン。』

 

背後から声がかかり、吉良は振り返る。立っていたのは、巨大なフレームを持つオートマタ──カイザーPMCの理事だった。

 

『キミにアビドス高校への利息回収を頼みたい。』

 

「……承知しました。」

 

『借金の取り立ては、我が社の屋台骨だ。軽んじるなよ?』

 

(うるせェエエエ─────偉そうによォオオオ───)

 

「もちろんです。」吉良は低頭する。

 

理事は満足げに頷き、その場を後にした。

 

 

 

*

 

 

現金輸送車の中、吉良は資料ファイルを捲りながら、静かに息を吐いた。アビドス高校──かつて名門と呼ばれたその学園は、今では借金返済に追われるだけの没落校だった。

 

(生徒数はわずか5名……この規模で、よく存続しているものだ。)

 

写真資料に映る、砂に半ば埋もれたような校舎を見ながら、吉良はどこか自分の境遇と重ねていた。

 

記憶を失い、素性もわからぬままこの街に放り出された男。居場所を失った者としての共通点が、妙に心に引っかかる。

 

「……はぁ。」

 

思わず漏れた溜息を打ち消すように、アクセルを踏み込む。視界の先、砂嵐の向こうに目的地が近づいてきた。

 

 

◾︎

 

舞い上がる砂を背に、現金輸送車が校門前に停まる。

 

「おはようございます。カイザーローンです。」

 

口元には、営業スマイル。練習通りに、吉良は声を張った。

 

「おはようございます、今月もよろしくお願いします。」

 

赤いウェリントン眼鏡の少女がにこやかに応じる。資料によれば、奥空アヤネ。対策委員会の委員長を務める生徒だ。

 

「はい☆ 今月分の利息です~♧」

 

今度は、ゆるふわな笑みを浮かべた少女が台車を押して現れる。十六夜ノノミ──大企業出身のご令嬢。

 

吉良は書類を取り出し、確認の手続きを始めようとする。だが、その瞬間――

 

"……あれ? あなたは……"

 

聞き覚えのある声が、吉良の耳を打った。

 

――シャーレの先生。

 

振り返った先にいたのは、あの日、自分を助けてくれた張本人だった。吉良の動きが一瞬止まる。表情も強張った。

 

(クソッ…――こんな場所で……最悪のタイミングだ………)

 

視線が交差する。先生の顔に浮かぶ驚きと戸惑い。

"まさか、あの時の……"先生は言葉を途切れさせた。

 

アヤネとノノミは困惑した表情で二人を見比べる。

 

「ん…先生の知り合い?」

 

セミロングの銀髪にミステリアスな雰囲気が特徴の少女⸻砂狼シロコが不思議そうに尋ねた。

 

(…まずい。)

 

吉良は咳払いで気を取り直すと、何事もなかったように頭を下げた。

 

「……失礼しました。業務に戻らせていただきます」

 

その声は、営業スマイルの仮面の下で微かに震えていた。

 

先生は何か言いかけたが、結局それを呑み込み、静かに頷いた。

 

 

*

 

 

「では、金額の確認が済みましたので、領収書にサインをお願いします。」

 

背中に突き刺さる視線を無視しながら、吉良は業務を淡々とこなす。指差し、言葉遣い、表情――すべてが一週間で身につけたとは思えないほどに洗練されていた。

 

「変動金利を含めた今月の利息額、788万3250円。確かに受け取りました。」

 

一語一句、正確に区切りながら金額を読み上げる。

 

「毎度カイザーローンをご利用いただき、誠にありがとうございます。来月もまた、よろしくお願いいたします。」

 

深々と一礼をし、吉良はそのまま現金輸送車へと歩みを返す。

彼らが否応を言わせるよりも速く、早々にして吉良はアビドス高校を立ち去った。

 

 

*

 

 

現金輸送車が砂塵を巻き上げて遠ざかっていく中、その姿を見送っていた黒見セリカが、眉をひそめながら口を開いた。

 

「…先生、結局アイツはなんだったのよ?」

 

風に揺れる黒髪のツインテール。その根元にある猫耳は、ぴんと後ろに倒れ――まるで警戒心をむき出しにする猫のように緊張していた。

 

“…まあ、ちょっとね。”

 

先生の曖昧な返答に、生徒たちの表情が揃って曇る。

 

「でも……」

 

シロコが、やや躊躇いながらも声を発した。どこか不安げなその声音に、周囲の空気が少しだけ沈む。

 

「うへ~シロコちゃん、たぶん先生も色々あるんだよ~。やっぱ大人って人間関係とか難しそうだしさ~~」

 

緩やかな口調でそう言ったのは、小鳥遊ホシノだった。オッドアイのその目は相変わらず気怠そうに見えたが、視線の先――去っていく現金輸送車をじっと見つめるその眼差しには、微かな警戒と探るような光が宿っていた。

 

 

 

時間は少し流れ──

 

シャーレの先生とアビドスの対策委員会は、ヘルメット団が関与しているという違法武器の取引ルートを追い、ブラックマーケットの一角へと足を踏み入れていた。

 

案内役を務めていたのは、スケバン集団から襲われていたところを保護したトリニティ総合学園の2年生、阿慈谷ヒフミ。モモフレンズが大好きな、見た目はどこにでもいるような普通の少女である。

 

「販売ルート…保管記録…すべて何者かが意図的に隠しているような、そんな気がします…ここまで徹底してブラックマーケットを統率することは不可能なはず……」

 

探索を始めてから、すでに数時間が経過していた。

 

「そんなに異常なことなの?」

 

セリカの問いかけに、ヒフミはうーんと少し考えてから口を開いた。

 

「うーん…異常というよりかは……普通ここまでやりますか? という感じですね…ここに集まっている企業は、ある意味開き直って悪さをしていますから、逆に変に隠したりしないんです。」

 

そう言って、彼女はある建物を指差した。

 

「たとえば、あそこのビル。あれがブラックマーケットに名を馳せる闇銀行です。」

 

「闇銀行……?」

 

「はい……噂によると、キヴォトス全体で起きる犯罪の15%が、あの銀行を経由して資金洗浄されてるとか……」

 

「横領、強盗、誘拐、密輸……あらゆる犯罪で得た金が、武器や兵器に変えられてまた他の犯罪に使われる。…そんな悪循環が続いているのです。」

 

「…そんなの、銀行が犯罪を煽っているようなものじゃないですか。」

 

「その通りです。まさに銀行も犯罪組織なのです。」

 

「ひどい! 連邦生徒会は一体何やってんのよっ!?」

 

「う~ん…理由はいろいろあるんだろうけどねー、どこもそれなりの事情があるんだろうからさ。」

 

ホシノのため息が、砂塵の舞う路地に薄く響く。

 

そのときだった。アヤネからの通信が緊急チャンネルで入る。

 

『お取込み中すみません!現在、武装集団がそちらに接近中です!』

 

「!!」

 

『まだこちらには気づいていませんが……即座にその場を離れた方が良いかとっ!!』

 

「う、うわあっ!? あれは、マーケットガードです!」

 

「マーケットガード?」

 

「はい、ブラックマーケットでの最上位治安組織ですっ!! とっとりあえず何処かに隠れましょうっ!!」

 

一同は息を潜めながら、近くの建物の影へと身を隠すこととなった。

 

 

 

(ブロロロ……)

 

 

重低音を響かせて、現金輸送車が路地を通過する。マーケットガードに守られながら、やがてあの闇銀行の前で停車した。

 

(キキーッ)

 

装甲車のドアが開き、中から現れたのは……どこかで見覚えのある人物だった。

 

「あの人……まさか。」

 

“え……?”

 

アビドスの一同が、同時に息を呑む。

 

それは間違いなく、今朝アビドスで利息徴収に来ていた、あのカイザーローンの営業職員──吉良吉影であった。

 

彼は静かに警備のオートマタへ近づくと、業務を淡々とこなしていく。

 

「今月の集金です。」

 

「確認書類にサインを……はい、確かに」

 

「では、失礼します。」

 

(ブロロロ……)

 

何事もなかったかのように去っていく現金輸送車。

 

「な、なんで……!?」

 

「あいつ……朝ウチに来たやつだよね?」

 

「名前は確か――吉良吉影……さん、ですよね?」

 

『間違いありません。あの車も、間違いなく今朝と同じです!』

 

「なんで……カイザーローンの職員が、こんな場所に……?」

 

「か、カイザーローンですか!?」

 

ヒフミの顔が青ざめる。

 

「ヒフミちゃん、何か知ってるの?」

 

「えっと…カイザーローンと言えば....かの有名なカイザーコーポレーションが運営する高利金融業者ですが....…」

 

「有名な....?マズイところなの?」

 

「あ、いえ....カイザーグループ自体は犯罪を起こしていません…しかし合法と違法の間のグレーゾーンでうまく振舞っている多角化企業なんです。」

 

「ところで皆さんの借金とはもしかして、融資を…?」

 

「借りたのは、私たちじゃないんだけどね……」

 

「話すと長くなるからさー。アヤネちゃん、さっきの現金輸送車のルート、調べられない?」

 

『……ダメみたいです。データはすべてオフラインで管理されているようで、全然ヒットしません。』

 

「だろうね……」

 

ホシノが肩をすくめながらつぶやいたその瞬間――

 

「……あれ?」

 

セリカが小さく眉をひそめた。視線が周囲をさまよう。

 

「ちょっと待って……シロコ先輩、いなくない?」

 

その言葉に、場の空気がピリついた。

 

「え?」

 

ホシノも顔を上げ、視線を巡らせる。しかし、どこにもあの銀髪の姿は見当たらない。青いマフラーも、静かな瞳も。

 

「……っ!いつの間に……!?」

 

焦燥が走る。誰もが一瞬、言葉を失った。

 

『い、今すぐ位置を確認します!』

 

アヤネが反射的に端末を操作し始める。指が震え、タップの音が急き立てられるように響いた。

 

数秒後──彼女の表情が凍りつく。

 

『……シロコ先輩の信号が……動いてます。時速60キロ……方向は……カイザーローンの現金輸送車と完全に一致……っ!』

 

"なっ……!?"

 

先生が絶句する。ノノミも息を呑んだ。

――誰もが一瞬、思考を止めた。

 

「ちょっ……まさか、あの荷台に……!?」

 

「シロコ先輩、乗っちゃったの……?」

 

誰の口からともなく洩れた言葉が、じわじわと現実味を帯びてのしかかってくる。

 

「嘘でしょ……」

 

セリカが蒼白になりながら、手を口元に当てた。

 

「シロコちゃん……っ!」

 

ホシノの顔が険しくなる。

 

"……強引にでも正体を突き止める気みたいだね……!"

 

『でも、危ないですっ!マーケットガードの監視がある場所で見つかったら……っ』

 

アヤネの叫びが、鋭く空気を裂いた。

 

その意味を、全員が理解している。捕まれば──無事では済まない。

 

「……シロコ先輩を止めなきゃ!」

 

セリカが叫ぶ。肩の猫耳が強張り、恐怖と焦りの混じった気配を振りまいていた。

 

「こうしちゃいられないっ!急いで追いかけましょう!」

 

ノノミが声を張り上げると、全員が一斉に駆け出した。

 

砂埃が巻き上がる。ざらつく風が頬を叩く中、誰もが胸の奥に同じ感情を抱いていた。

 

――間に合ってくれ、どうか。

 

―――

 

 

*

 

 

闇銀行を後にし、吉良は黙々とハンドルを握っていた。吹き出す冷風の音が、無言の車内にかすかに響いている。

 

何気なくバックミラーに目をやったそのときだった。

 

「……ん?」

 

一瞬、何かがちらりと横切った気がした。

影か、揺らめきか――しかしミラーには何も映っていない。

 

吉良は首だけ動かして、後部座席へと視線を送る。だが、当然のようにそこに人影はない。

 

(……気のせいか?)

 

再び前方へと視線を戻す。と、その直後。

 

(ゴソ……)

 

わずかな物音。耳を澄まさなければ聞き逃す程度の、それでも「異常」と呼ぶには充分すぎる音だった。

 

(……今のは……)

 

シートの裏を通って、冷たい感覚が背筋を走る。吉良の表情が静かに険しくなった。

 

――ガタッ

 

今度は、はっきりとした音が響く。荷台が軋む。何かが、確実に「動いた」。

 

(……乗っているな、誰かが。)

 

「……チッ」

 

静かに、そして慎重にハンドルを切り、吉良は車を路肩に寄せる。ブレーキを踏む音すら極力抑えながら、エンジンを切る。ドアを開け外に出た瞬間、微かに砂を含んだ風がスーツの裾を揺らした。吉良は周囲を警戒しながら、ゆっくりと車体の後部へと歩を進める。

 

荷台の扉に手をかける。金属の冷たさが、指先にじんと染みた。

 

(……この感覚、嫌じゃあないが……歓迎もできんな。)

 

扉をゆっくりと開けると――当然、中は静まり返っていた。

 

整然と並ぶ段ボールの列。見慣れた業務用の積荷。見た目に異常は――ない。だが、吉良の目がわずかに細められる。

 

(いや、()()な……)

 

彼は一歩踏み込み、足音を殺しながら荷台に上がる。そして、その中のひとつ――わずかにずれていた箱の前で足を止めた。

 

(さっき確認した時は――こんな位置じゃあなかったぞ……)

 

じり……と慎重に腰を落とし、その箱に手を伸ばす。引き寄せ、蓋に指をかける。

 

「………」

 

そっと蓋を開けた瞬間。

 

「――ッ!」

 

箱の中から、蒼い閃光のようなものが飛び出した。反射的に身を引こうとする吉良だったが、その動きを遥かに上回る速度。踏み込みと同時に吉良の腕を絡め取り、重心を崩す。

 

(ッ速い……!)

 

――目が合った。

 

青い目出し帽の隙間から覗くオッドアイ――水色の瞳を瞬く黒と白の輝きが、氷のような冷たさで吉良を射抜いた。

 

(やられる──!)

 

体勢を整える暇すら与えられず、吉良の体は地面に叩きつけられた。

 

「ぐっ……!」

 

乾いた音を立ててアスファルトに背中を打ちつける。肺から空気が一気に抜ける感覚とともに、視界が一瞬かすんだ。

 

そしてそのまま、両腕を背後へ固められ、鋭く圧をかけられる。

拘束された。しかも、無駄な力ひとつない、完璧な形で。

 

(コイツ…ただのガキじゃあないぞ……)

 

覆いかぶさる制服姿。紺色のブレザー、資料にあったアビドス高校の校章。目の前にいるのは、明らかにただの女子高生ではない。

 

「オマエは……アビドスの生徒で間違いないな?」

 

押さえつけられたまま、掠れる声で吉良が問いかける。

 

「ん……あなたには関係ない話。」

 

目の前の少女――砂狼シロコの声音は、淡々としていた。感情を見せない、冷静そのものの口調。だが、僅かに肩が揺れている。緊張しているのか、それとも顔を隠しただけで正体がバレないとでも思ったのか――

 

背中に感じるアスファルトの硬さと、背後から忍び寄る足音。

吉良が顔を上げると、視界の奥で砂煙が揺れていた。

 

「「シロコ先輩っ!」」

 

「「シロコちゃん!」」

 

遠くから、複数の声がこちらに向かって駆けてくる。その叫びに反応したシロコの眼差しが、一瞬だけ揺れた。その隙に、吉良は力を抜き、静かに息を整える。状況は最悪に近い。だが、ここで焦りを見せるわけにはいかない。

 

"シロコ……彼を放してあげて。"

 

「っでも――」

 

"大丈夫、私を信じて。"

 

先生の声が届いた瞬間、シロコの身体が僅かに揺れた。表情は変わらないままだったが、その瞳だけが迷いを滲ませる。彼女はゆっくりと吉良の拘束を解き、距離を取るように後ずさった。

 

吉良はその隙を逃さず、ゆっくりと体を起こした。土と砂にまみれたスーツの裾を払い、額に浮かぶ汗を手の甲で拭う。

 

(クソッタレだ……今日は朝からトコトンツイていない。会社の上司からはコキ使われ、挙句の果てには女子高生にブッとばされるなんてな……)

 

なんて最悪な一日だ。こんなサイアクな目にあったからには、とっととストレスを発散したいトコロだが――――そうだ。なにかしら趣味でも見つけてみるのはどうだろうか?心の余裕は日々の生活を豊かにしてくれるハズ。こんなちっぽけなトラブルなんて気にも留めないだろう。ああそうだ、それがイイ。記憶を失う以前のわたしは一体どんなことを趣味にしていたのかな―――

 

思考を巡らせたその瞬間、別の声が場の空気を切り裂いた。

 

「うへ~、なになに? カイザーローンの銀行員さんが、こんな場所でお仕事?」

 

――小鳥遊ホシノ

ゆったりと歩み寄るその足取りとは裏腹に、双眸には鋭い光が宿っている。まるで獲物を見定めるような、張り詰めた視線だった。

 

「説明してくれるよね? ね?」

 

その声音は甘く柔らかかったが、そこに込められた感情はひどく冷たい。まるで氷でできた鎖で、吉良を縛ろうとするような圧。

 

吉良は肩越しにシロコを見やり、再びホシノへと顔を向ける。

 

「……わたしは、ただの営業職員ですから。」

 

口元には相変わらずの営業スマイル。だが、その目元には薄い疲れと焦りの色が浮かんでいた。それを見逃す者はいない。

 

アビドスの生徒たちの表情が一変する。互いに言葉を交わさずとも、空気だけで察している。――この男は、何かを隠している。

 

沈黙が、場を包む。まるで時が止まったかのように、風の音すらも遠ざかっていった。

 

その中で、たった一人だけ。

 

先生が、吉良にそっと歩み寄る。そして、言葉はなく、ただ静かに右手を差し出した。

 

“吉良さん……少し説明してくれるかな。”

 

声には強制はなかった。だが、そこに込められた思いは重い。

その手は、救いのようでもあり、審判のようでもあった。

 

吉良は()()()を見つめた。沈黙の中に、思考が渦を巻く。

 

(――どうしてこうなってしまうのだ……わたしはただ心の平穏を守りたいだけなのに……)

 

風が、砂を巻き上げる。薄暗くなりかけた夕暮れの中、緊張の糸が静かに張り詰めていく。

 

 

――静かな生活

 

 

それがどれほど儚いものだったか、ようやく思い知らされる。

 

それでも確かなことが、一つだけあった。

 

 

吉良吉影の「静かな生活」は、今、大きく揺らぎ始めることになる――

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