白い病院着を脱ぎ、吉良は手にしたスーツに袖を通した。破れた肩口や擦れた裾が痛々しいが、洗濯の痕跡が残るそれには、血の染み一つ見当たらない。
夜勤の看護師の動きを避けるように、まるで気配そのものを消すかのような足取りで、吉良は病室を後にする。誰にも気づかれることなく、病院の出口へ。まるで初めから存在しなかった幻影のように、彼は朝もやの中に消えていった。
キヴォトスの街が、静かに夜明けを迎えていた。冷たいはずの空気には、なぜか春の匂いが漂っている。陽の光がゆっくりと街を照らし出し、石畳や木々の葉に淡い影を落としていく。
吉良は深く息を吸い込んだ。病院の消毒液に染まっていた自分の肺が、生きた街の空気で満たされていく。
「……とりあえず、働き口を探さないとな。」
ぽつりと呟いた声は、吐息とともに空に溶けた。
―――
*
「ムリですね。」
「なッ!?」
――現実は甘くなかった。
まるで反射のように返ってきた言葉に、吉良はわずかに目を見開く。これで今日だけで七件目だった。スーパー、コンビニ、レストラン、カフェ……行く先々で告げられるのは、同じような断りの言葉ばかり。
「身分証が確認できないと……」
「戸籍がないと、労働許可が……」
「キヴォトスの学生証もない方は……」
そのたびに、何かが胸の内で小さくひび割れる音がする。
「……ハァ。」
D.U.地区の公園。その片隅に設置されたブランコに腰を下ろし、吉良は深いため息をついた。
冬の名残を感じさせる冷たい鉄の鎖が、手のひらにじんわりと沁みる。
静かな午後だった。時折、生徒らしき少女たちが公園を通り過ぎていく。頭上に浮かぶ光の輪──『ヘイロー』と呼ばれるソレ。耳や尾を動かす獣人の姿。金属の関節を持つオートマタたちが、街の片隅で規則正しく動いている。
「………」
吉良は眉間に皺を寄せる。この街は、異質であるはずの存在たちが、あまりにも自然にそこにいた。だが、不自然なのはむしろ──
(【あの男】以外に、人間の男性を見かけない。)
奇妙な感覚だった。記憶を失っているはずの自分が、“違和感”を覚えるという事実。
――それは、あまりにも矛盾していた。
(記憶を失う前はこの街に住んでいなかった――ってワケか?)
答えはない。ただ漠然とした不安だけが、胸の奥でくすぶっている。
「……まァ、今はそんなことを考えてる場合じゃあないな。」
吉良はブランコの鎖を軽く引いた。ぎぃ、と軋む音が耳に残る。
「中年の男が、学生だらけの街で……フン、滑稽なもんだな。」
自嘲気味に笑って、またため息を吐いた。
この街に、吉良吉影という人間を受け入れてくれる場所があるのか。
ふと、手元のポケットに触れ、財布を取り出す。残された紙幣はわずか。今日明日を過ごせても、その先は……。
(……屋根のある寝床が必要だな。)
肩をすくめるようにして立ち上がると、白いスーツの裾が風に揺れた。オレンジ色に染まる空の下、吉良の影は西の地平に長く伸びていた。
(静かに暮らせる場所を……平穏な日常を、見つけなければ)
「私のような人間を受け入れてくれる場所が、この街のどこかに……」
夕陽が傾き始めた公園で、吉良はブランコに腰を下ろしたまま独りごちた。鉄の鎖が軋む音だけが、静かな風に揺れている。影は長く、伸びて、また縮む。あてもなく動くその影に、吉良の視線も吸い込まれていた。
「……何か、他に方法があるはずだ「どうやら、お困りのご様子ですね。」――」
――その男は、紳士のような態度と口調でそう言った。
「……!?」
唐突に響いた、落ち着いた男の声。
吉良が反射的に隣を振り向くと、いつからいたのか。一人の男が同じようにブランコに座っていた。
まったく気配を感じなかった。
声を掛けられるまで、そこに誰かがいたことすら分からなかった。
「オマエは………何者だ。」
唐突に現れた"その男"に対し、警戒心を抱きながらも、まずは話しかけることにした。…正直、なりふり構っていられなかったからかも知れない。
「ふむ……そうですね。呼ばれるなら【黒服】とでも。案外、気に入っている名前でして。」
【黒服】
──確かにその名前の通り、男は漆黒のスーツに身を包んでいた。だが――それだけでは説明がつかない。その姿形は確かに人型だ。しかし人間のものとは思えない。
右の眼窩には、人魂のように青白く揺れる光。その周囲を覆う亀裂の走った顔面は、まるで割れた仮面を無理やり貼り付けたかのよう。そこから常に漂う黒い靄が、どこか熱を持って空気をゆらめかせている。
ゆらり…、ゆらり…と、もやが揺らめく。
そんな眼孔から顔全体に走る亀裂が、かろうじて、ヒトの表情を模っていた。
常に笑みを浮かべているような、そんな亀裂が………
「……フン。」
吉良は応じながらも視線を逸らさなかった。不安はあったが、逃げ出す理由もまたなかった。見た目に反して、男の物腰は丁寧で落ち着いている。
むしろ――あまりにも奇妙な現状に、逆に冷静になってしまうほどだった。
「……で、このわたしに何の用だ。」
「……ええ。貴方に、少々“おねがいごと”がありましてね。」
黒服は言いながら、ゆっくりとブランコを漕ぎ出す。その漆黒のシルエットが夕陽の下にゆらりと揺れ、まるで影が意思を持って蠢いているかのように映った。
「……貴方の持つ【矢】を、私たちに譲っていただけないでしょうか?」
「矢……だと?」
聞き返す吉良の表情が、ほんの一瞬、驚きと困惑で歪む。
そんなものに覚えはない。第一、自分は記憶を失っている。何を持っていたかすら、定かではないのだ。
「そんなもの……私は持っていないが――」
「まあまあ、どうか慌てず。話は最後までお聞きください。」
黒服は一方的に続ける。仮面じみた顔の亀裂が、笑みのように歪んだ。
「では対価として、先ほどあなたがおっしゃっていた――【働き口】はどうでしょうか?」
吉良の眉がわずかに動いた。
「……は?」
(何を言っているんだコイツ……頭パープリンなのか?)
風がふっと吹いた。冷たさを帯びた風が、二人の間を通り過ぎる。夕暮れの公園に流れる時間が、わずかに歪んだような錯覚を覚える。
周囲に気配が増えてきたことに、吉良は気づいた。ちらちらと視線を向けてくる生徒たちの存在。どう見ても大人の男二人が、ブランコで並んで座っているというのは――不審以外の何物でもない。
「…言ってる事がわからない… …イカレてるのか?…オマエ」
「ふむ、ここでは話しにくいですね。……場所を変えましょうか」
そう言った瞬間だった。
吉良が瞬きをした、わずかその間に――
景色が、切り替わった。
「……なッ!?」
目の前に広がるのは、先ほどまでの公園ではない。狭く、冷たい空間。コンクリートの壁に囲まれた、窓のない小さな部屋。唯一の光源は、天井から差す一筋の淡い照明と、ブラインド越しに差し込む光だけだった。
黒服は、すでに一つしかない机の向こうに腰を下ろしている。
「ここなら、落ち着いて話ができます。」
そう言うと、机の上に一枚の黒い紙をそっと滑らせて差し出してきた。
「さて――改めて、ご提案をさせていただきましょう」
漆黒の部屋の中心で、不気味な笑みを浮かべながら、黒服が語り始めた。
「……これは契約書です。お互いがこれにサインをすれば、契約は完了となります。」
机の上に置かれた一枚の黒い紙。それはどこか不穏な光を孕んでいた。文字は白色のインクで記され、まるでそれ自体が意志を持っているかのように微かに震えている。
吉良が【矢】を渡すこと。
その見返りとして、黒服が仕事先と身分証明を手配するということ。
契約内容は、極めて
――だが
「……イヤ、結構だ。」
吉良は迷いなく言い切った。声には落ち着きがあったが、その奥には確かな警戒と拒絶の意志が込められていた。
「ほう……【矢】は持っていないと仰っていましたが、断るのですね?」
黒服は首を少し傾け、机に置いた契約書を指先で軽く叩いた。まるで、相手の嘘を見抜いているとでも言いたげに。
「キミの言う【矢】が何なのかは知らないし、正直興味もない。確かに仕事を探しているのは事実だが――こんな見るからに怪しげな契約に、『ハイ、そーですか。』なんて素直に応じる理由はないからなァ、ン?」
「と、いうワケなんだよ。わたしはこれから『ハローワーク』でじっくり仕事を探させてもらうんだ。宗教の勧誘なら他を当たってくれたまえ。」
吉良は立ち上がり、出口へと向かおうとした――が、すぐに足を止めた。
(……ない。ドアが……消えている?)
さっきまで確かにあったはずの出入口が、跡形もなく壁に溶け込んでいた。まるで最初から存在しなかったかのように。
「まあまあ、そんなにお急ぎにならず。立ってるのも何ですからここ座りませんか? お茶でも飲んで…話でもいたしましょう………」
黒服が手を翻すと、机の上にふわりと湯気を立てたティーカップが二つ現れる。その香りは、妙に落ち着く優雅な紅茶の香りだった。
「……結構だね。」
吉良は短くそう告げた。しかし黒服は気にした様子もなく、カップを手に取り、一口だけゆっくりと紅茶を啜った。
「ご存知でしょうか、吉良さん。キヴォトスの法律では、身分証のない者の雇用は厳しく制限されています。」
黒服は紅茶を置き、淡々とした口調で語り始める。
「さらに――違法雇用に対しては、罰則が年々厳格化されています。」
「……つまり、私がまともに働ける見込みは、限りなく低いと――」
吉良は黒服の言葉を遮って言った。その声に焦燥はない。ただ、冷静な現実認識があった。
「ええ。ですが……私には、少しばかり【融通】が利く立場でして」
黒服は机の引き出しから、新たな一枚の書類を取り出して吉良の前に差し出す。
「これはキヴォトスにおける正式な【市民証】。適切な手続きを経て発行された、身分証明書です。」
吉良はじっとそれを見下ろす。確かに、それは本物に見えた。偽造の痕跡もない。紙の質も、印影も、完璧。
「私が欲しいのは【矢】ただひとつ。それと引き換えに、貴方には身分と仕事、そして――」
黒服はそこで少しだけ言葉を区切った。
……その言葉に、吉良の瞳が僅かに揺れた。
【平穏な生活】――それは、彼がこの世界に来てからずっと願っていたこと。
けれども――
「色々と言ってくれるのは嬉しいが――それでも、お断りするよ。」
吉良の言葉は変わらなかった。紅茶の香りが室内を満たしていく中で、その拒絶は変わらず毅然としていた。
(いくらなんでも……怪しすぎる。)
「……そうですか。」
黒服は諦めたように溜息をつき、紅茶に手を伸ばした。その仕草は何の変哲もない、ごく自然なものに見えた。
「では、せめてこの紅茶だけでも」
静かにカップを吉良の前へと差し出す。
「これなら何の契約も、見返りも必要ありません。たかが一杯の紅茶です」
一瞬の逡巡の後、吉良は黙ってカップを受け取った。
断り続けるのも申し訳ないと—―ほんの少し、ほんのチョッピリとだけ思ってしまったのだ。
カチャリ、と受け皿の上に置かれる音が、部屋の静寂を一瞬だけ震わせた。
「……ところで」
紅茶を啜る音が止むと、黒服が何気ない調子で口を開いた。
「先ほどの契約書、よくご覧になりましたか?」
「? 何を言って……」
吉良が訝しげに目を細め、机の上に目を落とした瞬間――
「なッ……!?」
息を呑む。――契約書の所定の署名欄には、既に吉良の署名が記されていた。
(いつだ!? どうやって!?)
だがその疑問は、すぐに解かれた。紅茶を受け取ったとき――そう、あの瞬間。カップを乗せた受け皿の下に契約書が忍ばされていたのだ。そして、ティーカップの縁からこぼれた紅茶の染みが、指先を通してまるでインクのように紙面へと転写されていたのだった。
「契約書への“印”は、必ずしもペンによるものである必要はありません。」
黒服は目を細め、クックック……と低く笑う。
「意図的に付けられた染み、あるいはそれに準ずるものも、立派な【署名】として成立する場合がございます。」
「ツ!!……このドグサレがァよくもッ!!」
吉良の顔が怒りで紅潮する。――しかし、すでに遅かった。
契約書は黒い炎に包まれ、無音のまま燃え上がると、灰ひとつ残さず消滅した。
「では、約束通り――【矢】を頂戴いたしましょうか。」
黒服が右手をゆっくりと翳した、その瞬間だった。
「っ……ぐぅッ!?」
首筋に、這いずるような不快な感覚。吉良は本能的に手を伸ばすが、遅い。ミミズのように皮膚の下で何かが蠢いている。次第に、鋭く鋭く、神経を抉るような痛みに変わっていった。
「なっ……なにィィィィィィッッ!!?」
苦悶の声を上げ、吉良は膝から崩れ落ちた。地面に手をつき、あまりの激痛に身体を仰け反らせる。
「……ッ、いったい……何を…した……ッ!!」
その問いかけに、黒服は答えない。ただその場で、愉悦に濡れたかのような笑みを浮かべるだけ。
(バリ…ミチッ……メリリ…… )
「うぐッ……うぉおおおおぉおおおおッ!!」
(グチャ――)
ブシュウウウウウウウウウウッ!!!
皮膚が内側から裂けた。首筋から血が噴き出し、赤い雫が空中に舞う。その裂け目から突き出たのは――
―――【黄金の矢】だった。
その矢じりは血を滴らせながら、まるで自らの意思であるかのように空中を舞い、黒服の手元へ、 その手の中にすっぽりと収まった。
「ククク……やはり、素晴らしい。」
黒服は自身の手に収まった黄金の矢を見つめながら、恍惚としたように呟く。
「ぅ…ぐ、ぁ……」
なおも苦しみに喘ぐ吉良。膝をつき、地面に這いつくばりながらも、意識を辛うじて保っている。
黒服はそんな吉良の元へと歩み寄り、静かに屈み込むと、手にした一枚のメモ用紙を差し出した。
「……確かに【スタンドの矢】は受け取りました。これはその対価です」
「……ッ、なんだ…スタンド? それは……」
視界の端で揺れる紙片を、吉良は睨みつけながら言葉を絞り出す。
「この紙に書かれた住所へ。明日の午前、そこへ行ってください。」
「……フンッ 脳ミソがクソになってるのか? この状況でオマエのケツ穴のよーな口から出たクソを信じるワケがないだろゥ?」
吉良の睨みは鋭い。しかし、黒服はそれすらも愉しむように口角を上げた。
「クックック……契約はこれにて完了です。私と貴方の関係は、これで“清算”されました。では――ごきげんよう、【吉良吉影】さん」
そう言って黒服は、くるりと背を向けた。
「ま、待てッ!!……オマエッ!? まだ私は―――ッ!!」
それ以上の言葉は、もう出てこなかった。
視界がぐらつく。耳鳴りが響き、体の感覚が少しずつ消えていく。
出血多量――それが原因だった。薄れゆく意識の中で、吉良が最後に見たのは、不気味なまでに笑顔に見える“亀裂”と、揺らめく黒炎に包まれた黒服の瞳だった。
―――
*
「はッ――」
まるで水面から引き上げられたかのように、吉良は突然、目を見開いた。
ひゅう…と、風が頬を撫でていく。まだ冬の冷たさを宿した空気が肌に刺さり、じわじわと体温を奪っていくのが分かる。
気づけば、わたしは――ブランコに座ったまま居眠りをしていたようだった。
「……公園…だと…?」
先ほどまでの異様な空間はどこへやら、そこには見慣れた風景が広がっていた。D.U.地区の公園。
陽はすでに落ち、空は闇に染まりつつある。耳に届くざわめきは、現実だ。少なくとも、今この瞬間は――夢じゃない。
吉良は反射的に首筋へ手をやった。
「……ッ」
だが、何もない。あの激痛も、流れたはずの血も、全て綺麗さっぱりと消えている。皮膚は滑らかで、傷一つ見つからない。あれは…幻だったのか?
その時――
「……ン?」
胸ポケットから何かが音もなく滑り落ちた。黒に近い漆のような色をした紙だ。風にさらわれる前にそれを拾い上げた瞬間、吉良の目に焼きついたのは、まるで地割れのように走る白い紋様と、その下に浮かび上がる、見覚えのない地図。
「夢オチじゃあ、なかった……ってワケか。」
呆然とした表情のまま、そのメモ用紙を握りしめる。冷たく、ざらりとしたその感触は、皮肉にも“現実”の証明に他ならなかった。
一瞬、何もかもを握り潰したくなる衝動が湧き上がる。
「………ッこのクソカスがッ!!」
怒鳴り声が公園に響いた。街灯だけが暗闇を照らす空気の中で、ただ一人、苛立ちを撒き散らすように立ち尽くす男の姿。拳は白く握りしめられ、掌にはまだ、あの紙の感触が張り付いていた。
■
「……ククッ」
静まり返った空間の中、ひときわ異質な笑いが響く。
暗く、狭く、無機質な室内。先ほどまで吉良がいた部屋。その中心に、デスクの前で背筋を伸ばして座っているのは――“黒服”
亀裂の走った顔に、常と変わらぬ不気味な笑みを浮かべながら、静かに椅子の背もたれに身を預けていた。彼の目はどこか遠くを見ている。いや、彼の思考の大部分を占めていたのは"彼女"の言葉であった。
――『【□□□□□□□】があるかもしれません。』――
その言葉が、脳裏で静かにこだまする。
「……やはり、あの可能性は否定できませんか。」
「個人的には不服ですが――」ぽつりと呟くと、黒服は掌の中に転がる“矢じり”へと視線を落とした。まるで胡桃の実を転がすかのように、玩具のように弄び、それを光の下にかざす。
(ギラリ)
鈍い金属のような光が反射する。だが、その色には何か不穏な色合いが混ざっていた。黄金というより――血に濡れた金。
コンクリートの壁にかけられたブラインドの隙間から、朱の陽光が差し込む。夕陽は無機質な空間に淡い色を落とすが、それすらも黒服の存在に飲み込まれていく。
そして――
「ククッ……クックックックック――――」
低く、喉を鳴らすような笑い声が部屋に響く。
その笑いに呼応するように、矢じりが淡く脈動し始める。まるで生きているかのように。いや、【目覚めた】と言うべきか。
“亀裂の笑み”がゆっくりと深くなった。
まるでこれから起こる出来事の予兆のように――
■後日
吉良は苦虫を噛み潰したような面持ちで、黒服から渡されたメモに記されていた住所へと足を運んでいた。
「ここが……ヤツの言っていた場所、か。」
目の前にそびえ立つのは、異様なまでの威容を誇る巨大なビル。あのサンクトゥムタワーほどではないにせよ、その存在感は並ではなかった。陽光を反射するガラスと鋼鉄の外装で覆われたそのビルは堂々たる威容を放つ。建物の上部には、王冠を被ったタコのロゴマークがでかでかと掲げられている。その下には煌びやかな金属文字で「Kaiser Corporation」の名。さらに副題のように「KAISER LOAN」の銘が輝いていた。
「……カイザーローン、ねェ。」
吉良は眉をひそめた。ここまで向かう際に少し調べたが、カイザーコーポレーションはキヴォトスでは知らぬ者などいない大企業のようだ。キャッチフレーズは「スプーンから大型人型兵器*1まで」 ――PMC(民間軍事会社)に銀行、コンビニエンスストア、不動産から兵器開発に至るまで、あらゆる分野に手を出す、悪名高き多国籍企業。彼が今立っているのは、軍事企業PMCと並ぶもう一つの”顔”。金融部門「カイザーローン」の本社だった。
(結局、あのタンカスの言っていた通りに来てしまうとはな……)
内心では忌々しく思いながらも、現状を変える手段が他にないのも事実だった。吉良はスーツの襟を整え、気配を殺すように深呼吸を一つした。
―――
*
――受付
『ようこそカイザーローンへ。ご用件をお伺いしても?』
ロビーに入った吉良を迎えたのは、機械的な美麗ボイスを持つ接客用ロボット。滑らかな光沢のボディと、表情を映し出す電子ディスプレイの笑顔。どこまでも「つくられた」対応だ。
「……すまない、この名刺の紹介で来た者だ。」
吉良は懐から、黒い名刺を静かに差し出した。その瞬間、ロボットの“顔”が一瞬で硬直する。次に表示されたのは驚愕に近い表情だった。
『…ッ、少々お待ちください!!』
ロボットは慌ただしくその場を離れ、奥の事務所へと消えていった。周囲の視線が不自然に集まっているのを感じ、なんとも居心地の悪さを覚えながらもじっと待つこと数分。
『吉良吉影様、お待たせいたしました。』
数分後。背後からかけられたのは、明らかに“通常の企業”では耳にしない、重厚な声。
振り向いた吉良の目に飛び込んできたのは、完全武装のオートマタ。鋭角的な装甲を身に纏い、目元には赤く点滅するスコープが輝いていた。
背後から機械的な声が響いた。完全武装したオートマタだった。金属製のボディにびっしりと施された武装パーツが無言の威圧感を放っている。
『理事が、あなたと直接面会したいと申しております。どうぞ、こちらへ。』
案内されるまま、吉良は無言で従った。
――最上階の応接室。
重厚な装飾が施された扉が開かれると、そこには豪奢な応接室が広がっていた。
『よく来たな、吉良吉影クン。』
低く重い声。
そこに待っていたのは、やはりオートマタだった。だがその姿は、ただの兵器ではない。異様なほどの巨体に艶やかなスーツと真紅のネクタイ、高級感のある赤いストールがその肩を飾った、その姿は、兵士というより企業幹部。だがその“仮面”のような金属の顔に浮かぶのは、ニヤニヤとした擬似的な笑みだった。
「あなたは…?」
『ああ、自己紹介が遅れたな。私はカイザーコーポレーションの理事を務めている者だ。』
「カイザーコーポレーションの……理事――」
『正確に紹介すると、このカイザーローンに、カイザーコンストラクション、そしてカイザーPMC三部門をまとめている。いわばこのビルの“ドン”というわけだよ。』
その物言いは、まるで目の前の吉良を見下すような響きを帯びていた。
『本来ならな、住所不定の中年の男なんざコッチから願い下げだが……黒服の紹介となれば、話は別だ。ヤツに借りを作れるのは悪くない。』
吉良はその無遠慮な態度に苛立ちを覚えながらも、ぐっと堪える。理事の顔は無機質なオートマタでありながらも、どこかその表情は(ニヤニヤ)と擬音が聞こえてくるような、下品な笑みを浮かべている印象を受けた。
『どうかな?私に感謝する気になったかな ン?』
(いちいちデカい態度こそ気に入らないが――これはチャンスだ。安定した平穏な生活を手に入れるためには……)
「寛大なご配慮、誠に感謝いたします。」ペコ
『フハハハハッ!! そうだ、そうだ! 礼儀正しいのはよろしい。じゃあ働け。ウチのために。死ぬほどな?』
「……はい。もちろんです。」ペコー
(クソが……機械のツラしてブ男め、このわたしをここまでコケにしやがって。死ねッ!!)
口元では微笑みながら、吉良は内心で歯噛みした。
こうして、カイザーローン営業部――そこが、吉良吉影の新たな“職場”となった。
今回、先生の出番はナシとなってしまいました。
うぅ、先生が登場しないとやる気が起きんのじゃあ…
あ、余談なのですがこのお話の時点で先生はアビドス編に突入しており、広大なアビドス自治区を彷徨っている最中です。アビドスの子たちの為に何日も歩き続けるなんて先生の鏡ですよ…