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読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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【⑰資料その1】『舞姫・うたかたの記 他三篇』『舞姫・うたかたの記』『ウィタ・セクスアリス』(岩波文庫版と新潮文庫版)『高瀬舟』、『鷗外 森 林太郎[復刻版]』『森鷗外の世界』『若き日の森鴎外』『森鷗外――日本はまだ普請中だ――』。西周の誤訳 

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『人間交際術』は元・元祖イルミナティの重鎮クニッゲが書いた今も役立つ本(鷗外と関係あり)。元祖イルミナティ資料集。元祖イルミナティ会員フーフェラント『マクロビオティック(長命術)』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-595.html

鷗外『智恵袋』『心頭語』(元祖イルミナティの重鎮クニッゲ『交際法』が元)。『慧語』『妄想』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-598.html




目次
『舞姫・うたかたの記 他三篇』
『舞姫・うたかたの記』
『ウィタ・セクスアリス』(岩波文庫)
『ヰタ・セクスアリス』(新潮文庫)
『高瀬舟』(新撰クラシックス。小学館文庫)
『鷗外 森 林太郎[復刻版]』
『森鷗外の世界』
『若き日の森鴎外』
『森鷗外――日本はまだ普請中だ――』
西周の誤訳について
その他の参考資料



※備忘録(メモ)における強調(太字や着色)は、特に注意書きしないかぎり、備忘録者によるもの。

『舞姫・うたかたの記 他三篇』

森鷗外『舞姫・うたかたの記 他三篇』(岩波文庫)

1981年1月16日 第1刷発行


舞   姫
特になし。


うたかたの記

p.39
 上

 幾頭の獅子(しし)の挽(ひ)ける車の上に、勢(いきおい)よく突立ちたる、女神(にょしん)バワリアの像は、先王ルウドヰヒ第一世がこの凱旋門(がいせんもん)に据(す)ゑさせしなりといふ。その下(もと)よりルウドヰヒ町を左に折れたる処に、トリエント産の大理石にて築(きず)きおこしたるおほいへあり。これバワリアの首府に名高き見ものなる美術学校なり。校長ピロッチイが名は、をちこちに鳴りひびきて、独逸(ドイツ)の国々はいふもさらなり、新希臘(ギリシア)、伊太利(イタリア)、璉馬(デンマーク)などよりも、ここに来(きた)りつどへる彫工(ちょうこう)、画工数を知らず。日課を畢(お)へて後(のち)は、学校の向ひなる、「カッフェエ・ミネルワ」といふ店に入りて、珈琲(カッフェー)のみ、酒くみかはしなどして、おもひおもひの戯(たわぶれ)す。こよひも瓦斯燈(ガスとう)の光、半ば開きたる窓に映じて、内には笑ひさざめく声聞ゆるをり、かどにきかかりたる二人あり。
本作のケツ社要素は、Bavaria、ミネルヴァ、クニッゲの著作、フーフェラントの著作。クニッゲもフーフェラントも元祖イルミナティ会員。
しかもメインヒロインが女神Bavariaに喩えられている↓


p.48から
美しき目よりは稲妻(いなずま)出づと思ふばかり、しばし一座を睨(にら)みつ。巨勢は唯呆(あき)れに呆れて見ゐたりしが、この時の少女が姿は、菫花うりにも似ず、「ロオレライ」にも似ず、さながら凱旋門上のバワリアなりと思はれぬ。
 少女は誰(た)が飲みほしけむ珈琲碗に添へたりし「コップ」を取りて、中なる水を口に銜(ふく)むと見えしが、唯一噀(ひとふき)。 「継子よ、継子よ、汝ら誰(たれ)か美術の継子ならざる。フィレンチェ派学ぶはミケランジェロ、ヰンチイが幽霊、和蘭(オランダ)派学ぶはルウベンス、ファン・ヂイクが幽霊、我国のアルブレヒト・ドュウレル学びたりとも、アルブレヒト・ドュウレルが幽霊ならぬは稀(まれ)ならむ。会堂に掛けたる『スツヂイ』二つ三つ、値段(ねだん)好く売れたる暁(あかつき)には、われらは七星われらは十傑、われらは十二使徒と擅(ほしいまま)に見たてしてのわれぼめ。かかるえり屑(くず)にミネルワの唇いかで触れむや。わが冷たき接吻にて、満足せよ。」とぞ叫びける。
 噴掛(ふきか)けし霧の下なるこの演説、巨勢は何事とも弁(わきま)へねど、時の絵画をいやしめたる、諷刺(ふうし)ならむとのみは推測(おしはか)りて、その面(おもて)を打仰ぐに、女神バワリアに似たりとおもひし威厳少しもくづれず、言畢(いいおわ)りて卓の上におきたりし手袋の酒に濡れたるを取りて、大股(おおまた)にあゆみて出でゆかむとす。
 皆すさまじげなる気色(けしき)して、「狂人」と一人いへば、「近きに報(むくい)せでは已(や)まじ」と外の一人いふを、戸口にて振りかへりて。「遺恨に思ふべき事かは、月影にすかして見よ、額に血の迹(あと)はとどめじ。吹きかけしは水なれば。」



 あやしき少女(おとめ)の去りてより、ほどなく人々あらけぬ。帰(かえ)り路(じ)にエキステルに問へば、「美術学校にて雛形(モデル)となる少女の一人にて、『フロイライン』ハンスルといふものなり。見たまひし如く奇怪なる振舞(ふるまい)するゆゑ、狂女なりともいひ、また外の雛形娘と違ひて、人に肌見せねば、かたはにやといふもあり。


p.55から
「かくて漁師の娘とはなりぬれど、弱き身には舟の櫂(かじ)取ることもかなはず、レオニのあたりに、富める英吉利人(イギリスびと)の住めるに雇(やと)はれて、小間使(こまづかい)になりぬ。加特力教(カトリックきょう)信ずる養父母は、英吉利人に使はるるを嫌ひぬれど、わが物読むことなど覚えしは、彼(かの)家なりし
やといじょきょうし
雇女教師
グェルナント
[引用者注:「雇女教師」の右に「やといじょきょうし」のルビ、左に「グェルナント」のルビがふられていることを、上記のように三段で示した]
の恵(めぐみ)なり。女教師は四十余の処女(しょじょ)なりしが、家の娘のたかぶりたるよりは、我を愛すること深く、三年(みとせ)がほどに多くもあらぬ教師の蔵書、悉(ことごと)く読みき。ひがよみはさこそ多かりけめ。またふみの種類もまちまちなりき。クニッゲが交際法あれば、フムボルトが長生術あり。ギョオテ、シルレルの詩抄半ばじゆしてキョオニヒが通俗の文学史を繙(ひもと)き、あるはルウヴル、ドレスデンの画堂の写
[注:ここまでp.55]
真絵、繰りひろげて、テエヌが美術論の訳書をあさりぬ。」
「去年(こぞ)英吉利人一族を率ゐて国に帰りし後は、然(しか)るべき家に奉公せばやとおもひしが、身元善(よ)からねば、ところの貴族などには使はれず。この学校の或る教師に、端(はし)なくも見出されて、雛形(モデル)勤めしが縁(えにし)になりて、遂に鑑札受くることとなりしが、われを名高きスタインバハが娘なりとは知る人なし。今は美術家の間に立ちまじりて、唯(ただ)面白くのみ日を暮せり。
(略)
見玉へ、我学問の博(ひろ)きを。狂人にして見まほしき人の、狂人ならぬを見る、その悲しさ。狂人にならでもよき国王は、狂人になりぬと聞く、それも悲し。悲しきことのみ多ければ、昼は蝉(せみ)と共に泣き、夜は蛙(かわず)と共に泣けど、あはれといふ人もなし。おん身のみは情(つれ)なくあざみ笑ひ玉はじとおもへば、心のゆくままに語るを咎(とが)め玉ふな。ああ、かういふも狂気か。」



 定(さだめ)なき空に雨歇(や)みて、学校の庭の木立(こだち)のゆるげるのみ曇りし窓の硝子(ガラス)をとほして見ゆ。少女(おとめ)が話聞く間、巨勢(こせ)が胸には、さまざまの感情戦ひたり。或ときはむかし別れし妹に逢(あ)ひたる兄の心となり、或ときは廃園に僵(たお)れ伏(ふ)したるヱヌスの像に、独(ひとり)悩める彫工の心となり、或るときはまた艶女(えんにょ)に心動され、われは堕(お)ちじと戒むる沙門(しゃもん)の心ともなりしが、聞きをはりし時は、胸騒ぎ肉顫(ふる)ひて、われにもあらで、少女が前に跪(ひざまず)かむとしつ。

p.60から
先の夜『ミネルワ』にておん身が物語聞きしときのうれしさ、日頃木のはしなどのやうにおもひし美術諸生の仲間なりければ、人あなづりして不敵の振舞(ふるまい)せしを、はしたなしとや見玉ひけむ。されど人生いくばくもあらず。うれしとおもふ一弾指(いちだんし)の間に、口張りあけて笑はずば、後にくやしくおもふ日あらむ。」かくいひつつ被(かぶ)りし帽を脱棄(ぬぎす)てて、こなたへふり向きたる顔は、大理石脈(だいりせきみゃく)に熱血跳(おど)る如くにて、風に吹かるる金髪は、首(こうべ)打振りて長く嘶(いば)ゆる駿馬(しゅんめ)の鬣(たてがみ)に似たりけり。「けふなり。けふなり。きのふありて何かせむ。あすも、あさても空(むな)しき名のみ、あだなる声のみ。」
 この時、二点三点、粒太(つぶふと)き雨は車上の二人が衣(きぬ)を打ちしが、瞬(またた)くひまに繁くなりて、湖上よりの横しぶき、あららかにおとづれ来て、紅(べに)を潮(さ)したる少女が片頬(かたほお)に打ちつくるを、さし覗(のぞ)く巨勢が心は、唯そらにのみやなりゆくらむ。少女は伸びあがりて、「御者、酒手(さかて)は取らすべし。疾(と)く駆(か)れ。一策(ひとむち)加へよ、今一策。」と叫びて、右手(めて)に巨勢が頸(うなじ)を抱(いだ)き、己(おの)れは項(うなじ)をそらせて仰視(あおぎみ)たり。巨勢は絮(わた)の如き少女が肩に、我頭(かしら)を持たせ、ただ夢のここちしてその姿を見たりしが、彼(かの)凱旋門(がいせんもん)上の女神バワリアまた胸に浮びぬ。
メインヒロインは金髪だが、ナチスが存在していない頃なので、特に青組的な意味はないと判断している


文 づ か ひ

p.73
かく二人の物語する間に、道はデウベン城の前にいでぬ。園(その)をかこめる低き鉄柵(てっさく)をみぎひだりに結ひし真砂路(まさごじ)一線(ひとすじ)に長く、その果つるところに旧(ふ)りたる石門あり。入(い)りて見れば、しろ木槿(もくげ)の花咲きみだれたる奥に、白堊(しろつち)塗りたる瓦葺(かわらぶき)の高どのあり。その南のかたに高き石の塔あるは埃及(エジプト)の尖塔(ピラミッド)にならひて造れりと覚ゆ。けふの泊(とまり)のことを知りて出迎へし「リフレエ」着たる下部(しもべ)に引かれて、白石(はくせき)の階(きざはし)のぼりゆくとき、園の木立を洩(もる)るゆふ日朱(あけ)の如(ごと)く赤く、階の両側(ふたがわ)に蹲(うずくま)りたる人首(じんしゅ)獅身(ししん)の「スフィンクス」を照したり。わがはじめて入る独逸貴族の城のさまいかならむ。さきに遠く望みし馬上の美人はいかなる人にか。これらも皆解きあへぬ謎(なぞ)なるべし。
(ピラミッドとスフィンクス)


p.81
 聞(き)き畢(おわ)りて眠(ねむり)に就くころは、ひがし窓の硝子(ガラス)はやほの暗うなりて、笛の音も断えたりしが、この夜イイダ姫おも影に見えぬ。その騎(の)りたる馬のみるみる黒くなるを、怪しとおもひて善(よ)く視(み)れば、人の面(おもて)にて欠唇なり。されど夢ごころには、姫がこれに騎りたるを、よのつねの事のやうに覚えて、しばしまた眺めたるに、姫とおもひしは「スフィンクス」の首(こうべ)にて、瞳(ひとみ)なき目なかば開きたり。馬と見しは前足おとなしく並べたる獅子(しし)なり。さてこの「スフィンクス」の頭(かしら)の上には、鸚鵡(おうむ)止まりて、わが面を見て笑ふさまいと憎し。


p.82から
 夕暮に城にかへれば、少女(おとめ)らの笑ひさざめく声、石門の外(と)まで聞ゆ。車停むるところへ、はや馴れたる末の姫走り来て、「姉君たち『クロケット』の遊(あそび)したまへば、おん身も夥(なかま)になりたまはずや、」とわれに勧(すす)めぬ。大隊長、「姫君の機嫌損じたまふな。われ一個人にとりては、衣(ころも)脱ぎかへて憩(いこ)ふべし。」といふをあとに聞きなして随行(したがいゆ)くに、尖塔(ピラミッド)の下の園にて姫たちいま遊の最中(もなか)なり。
(略)
 メエルハイムはわれに向ひて、「いかに、けふの宴おもしろかりしや、」と問ひかけて答を待たず、「われをも組に入れ玉へ、」と群のかたへ歩みよりぬ。姫たちは顔見あはせて打笑ひ、「あそびには早(はや)倦(う)みたり、姉ぎみと共にいづくへか往(ゆ)きたまひし、」と問へば、「見晴らしよき岩角わたりまでゆきしが、この尖塔(ピラミッド)には若(し)かず、小林(こばやし)ぬしは明日わが隊とともにムッチェンのかたへ立ちたまふべければ、君たちの中にて一人塔の顛(いただき)へ案内(あない)し、粉ひき車のあなたに、滊車(きしゃ)の烟(けぶり)見ゆるところをも見せ玉はずや、」といひぬ。
 口疾(と)きすゑの姫もまだ何とも答へぬ間に、「われこそ」といひしは、おもひも掛けぬイイダ姫なり。物おほくいはぬ人の習(ならい)とて、遽(にわか)に出(いだ)ししこと葉と共に、顔さと赤(あか)めしが、はや先に立ちて誘(いざな)ふに、われは訝(いぶか)りつつも随ひ行きぬ。あとにては姫たちメエルハイムがめぐりに集まりて、「夕餉(ゆうげ)までにおもしろき話一つ聞かせ玉へ、」と迫りたりき。
 この塔は園に向きたるかたに、窪(くぼ)みたる階(きざはし)をつくりてその顛を平(たいらか)にしたれば、階段をのぼりおりする人も、顔に立ちたる人も下より明(あきらか)に見ゆべければ、イイダ姫が事もなくみづから案内せむといひしも、深く怪(あやし)むに足らず。姫はほとほと走るやうに塔の上口(のぼりくち)にゆきて、こなたを顧みたれば、われも急ぎて追付き、段の石をば先に立ちて踏みはじめぬ。ひと足遅れてのぼり来る姫の息促(せま)りて苦しげなれば、あまたたび休みて、漸(ようよ)う上にいたりて見るに、ここはおもひの外に広く、めぐりに低き鉄欄干をつくり、中央に大なる切石一つ据ゑたり。
 今やわれ下界を離れたるこの塔の顛にて、きのふラアゲヰッツの丘の上より遙(はるか)に初対面せしときより、怪しくもこころを引かれて、いやしき物好にもあらず、いろなる心にもあらねど、夢に見、現(うつつ)におもふ少女と差向ひになりぬ。ここより望むべきザックセン平野のけしきはいかに美しくとも、茂れる林もあるべく、深き淵(ふち)もあるべしとおもはるるこの少女が心には、いかでか若(し)かむ。
 険(けわ)しく高き石級をのぼり来て、臉(ほお)にさしたる紅(くれない)の色まだ褪(あ)せぬに、まばゆきほどなるゆふ日の光に照されて、苦しき胸を鎮(しず)めむためにや、この顛の真中なる切石に腰うち掛け、かの物いふ目の瞳をきとわが面(おもて)に注ぎしときは、常は見ばえせざりし姫なれど、さきに珍らしき空想の曲かなでし時にもまして美しきに、いかなればか、某(なにがし)の刻みし墓上の石像に似たりとおもはれぬ。
 姫はこと葉忙(せわ)しく、「われ君が心を知りての願(ねがい)あり。かくいはばきのふはじめて相見て、こと葉もまだかはさぬにいかでと怪み玉はむ。されどわれはたやすく惑(まど)ふものにあらず。君演習済みてドレスデンにゆき玉はば、王宮にも招かれ国務大臣の館(やかた)にも迎へられ玉ふべし。」といひかけ、衣の間より封じたる文(ふみ)を取出でてわれに渡し、「これを人知れず大臣の夫人に届け玉へ、人知れず、」と頼みぬ。大臣の夫人はこの君の伯母御(おばご)にあたりて、姉君さへかの家にゆきておはすといふに、始めて逢へること国人(くにびと)の助を借らでものことなるべく、またこの城の人に知らせじとならば、ひそかに郵便に附しても善からむに、かく気をかねて希有(けう)なる振舞したまふを見れば、この姫こころ狂ひたるにはあらずやとおもはれぬ。されどこはただしばしの事なりき。姫の目は能(よ)くものいふのみにあらず、人のいはぬことをも能く聞きたりけむ。分疏(いいわけ)のやうに語を継(つ)ぎて、「ファブリイス伯爵夫人のわが伯母なることは、聞きてやおはさむ。わが姉もかしこにあれど、それにも知られぬを願ひて、君が御助(みたすけ)を借らむとこそおもひ侍(はべ)れ。ここの人への心づかひのみならば、郵便もあめれど、それすら独(ひとり)出づること稀なる身には、協(かな)ひがたきをおもひやり玉へ。」といふに、げに故あることならむとおもひて諾(うべな)ひぬ。
重要場面の舞台がピラミッド



そめちがへ

ふ た 夜 FRIEDRICH WILHELM HACKLAENDER


解  説 (稲 垣 達 郎)
p.165から

 2 『舞姫』は、1890年1月3日、「国民之友」第六巻第六十九号新年附録として掲載された。鷗外森林太郎と署名している。その年十月、「国民之友」掲載の諸家作品のアンソロジー『国民小説』へ、幸田露伴『一口剣』、春の屋主人=坪内逍遥『細君』などといっしょに収録された。
 3 『うたかたの記』は、1890年8月25日、「しがらみ草紙」第十一号に掲載。署名鷗外。
 4 『文づかひ』は、1891年(明治24)1月28日、吉岡書籍店刊行の「新著百種」第十二号に、幸田露伴の『真言秘密聖天様』(この方少ページ)とあわせて収録された。鷗外漁史と署名している。「新著百種」は四六判の小冊子だが、文芸方面での鷗外の処女出版である。



 『水沫集』は、1906年(明治39)五月二十日、改訂版が出た。『水沫集』には異版が多いが、これがもっとも版を重ねた。
 鷗外は「改訂水沫集序」を書き、諸作についてコメントをつけている。左に抄出する。
 うたかたの記。篇中人物の口にせる美術談と共に、いと穉き作なり。多くこれに資料を供せし友人原田直次郎氏は、谷中墓地の苔の下に眠れり。
 ……ふた夜。(メモ者略)ふた夜を見ば思半に過ぎん。……
 舞姫。小なる人物の小なる生涯の小なる旅路の一里塚なるべし。
 文づかひ。(メモ者以下略)

穉が「おさな」か「いとけな」か「わか」か分からないが、『舞姫』だと「穉(をさな)き思想 」って箇所があるので「おさな」だと思う


p.171から
鷗外の初期文体を、すべて、ひと口にいう雅文体だと錯覚しないともかぎらない。が、『水沫集』をみればすぐわかる。いわゆる言文一致も混在する。しかも、言文一致の諸作(翻訳だが)の方が先に発表されているのである。『舞姫』へ来て(『うたかたの記』などとの制作順の問題もあるが)、一気にこういう特別な文体があらわれた。

p.173
 制作では、『うたかたの記』の方が『舞姫』に先だつ、との説は、鷗外没後、第一回の鷗外全集が刊行された時点で既に出ていた。兄へもっとも献身的だった末弟潤三郎の文章にもふれられている。けれども、今のところ確証は得られない。前にみたように、『水沫集』巻頭に据えられているのが、わずかに暗示的であるといえなくもない。
 ドイツ留学中、あるいは最も心持よく研究生活を送れたのではないかと思われるミュンヘンを背景にしている。
(『うたかたの記』の方が執筆が先だと仮定すると、最初に書いた小説の方がケツ社がより高かったということになる。『うたかたの記』と『舞姫』を平行して執筆していた可能性もある)


p.175
(『うたかたの記』について)私見では、三部作中、もっとも浪漫味に富む、小説らしい小説である。『水沫集』巻頭へ据えたについては、制作期はとにかくとして、そのへんの事情もあったかもしれない。

(稲垣達郎の解説はここまで)


p.184
 〔編集付記〕
 本文庫の底本には、
 舞姫・ふた夜(『鷗外全集』第一巻、昭和四十六年十一月刊、岩波書店)
 うたかたの記(『鷗外全集』第二巻、昭和四十六年十二月刊、岩波書店)
 文づかひ(『鷗外全集』第二巻、昭和四十六年十二月刊、岩波書店)
 そめちがへ(『鷗外全集』第三巻、昭和四十七年一月刊、岩波書店)
を使用し、石川淳編『鷗外選集』第一巻(昭和五十三年十一月刊、岩波書店)、岩波文庫旧版(昭和二年九月刊)を参照した。

(本書の備忘録は以上だ)




『舞姫・うたかたの記』

森鷗外『舞姫・うたかたの記』角川文庫

昭和29年 6月30日 初版発行
平成25年 6月20日 改版初版発行

本書は、角川文庫旧版(1968年5月30日改版初版)を改版したものです。このたびの改版にあたり、新たに「普請中」を加え、岩波書店版『鷗外全集』第一、二、七巻(1971―2年、第二刷1986―7年)を底本とし、同『新日本古典文学大系 明治編25 森鷗外集』(2004年)を参考にしました。また角川文庫旧版ほかを参照して、原文を新字・新かなづかいに改めました。なお本書中には、今日の人権擁護の見地に照らして、不適切と思われる語句や表現がありますが、著者自身に差別的意図はなく、また著者が故人であること、作品自体の文学性、芸術性を考え合わせ、原文のままとしました。
                                 (編集部)

〈差別的意図がある場合もあるだろうけど、こう書いておかないと面倒だからな〉


うたかたの記

p.147からの注釈。
 うたかたの記

p.147
五(のように何ページへの注釈かまで書いてくれていて親切だ)
女神バワリアの像 バワリア(Bavaria)はバイエルン(Bayern)のラテン語・英語名で、バイエルンはドイツ南東部に位置する最大の州名。当時はドイツ帝国を構成するバイエルン王国であり、その首都ミュンヘン(現在は州都)中心部を南北に貫くルートヴィヒ街の北端に凱旋門がある。その門上にある国の守護神、女神バワリア像。
元祖イルミナティが誕生した地がバイエルン王国なので、この場所でクニッゲやゲーテやフーフェラントを強調したことにはケツ社的な意味があるだろうな

ルウドウィヒ第一世 LudwigⅠ ルートヴィヒ一世 1786-1868年。バイエルン国王。藝術を愛好し、工業化を奨励して首都ミュンヘンを芸術の都としたが、女性スキャンダルにより、子のマクシミリアンに譲位。1825-48年在位。

トリエント Trient(独) イタリア北部のトレント(Trento)のドイツ語名。良質な大理石の産地として知られる。

美術学校 Akademie der Bildenden Künste 造形芸術国立専門学校のこと。


ピロッチイ Carl Theodor von Piloty ピロティ 1826-86年。ドイツの画家。当時、美術学校校長。写実的な歴史画で知られる。

カッフェエ・ミネルワ Café Minerva 鷗外の『独逸日記』にも名前が出る、美術学校の正面玄関向かいに実在した店。新聞・雑誌が閲覧ができるウィーン風のカフェ。


p.149

いいけたで 言い消たで。「で」は打消しの接続助詞。言い消さないで、否定しないで、

謝肉の祭 Karneval(独) 謝肉祭。カーニバル。カトリック教国で、復活祭(イースター)の四十日前から始まる四旬節に先立ち、三日から八日くらいにわたって行われる祝祭。道化、滑稽、歓楽が許され、仮面劇などが行われる。鷗外の『独逸日記』明治十九年三月八日の条(鷗外がミュンヘンに到着した日)に記述がある。


p.150から
一三
ロオレライ Lorelei(独) ライン川中流の右岸にある岩山。また、この岩山に憩い、美貌と美声で舟人を誘惑しては、舟もろとも沈めてしまうという伝説のある、乙女の姿をした妖精。ハイネの詩に歌われ、巨勢もこの画題を構想している。

一四
われをもすさめ玉わんや 私とも遊び戯れてくれませんか、の意。「すさめ」は「すさむ(荒む・遊む・進む)」の活用形で、からかう、慰みにする。

フィレンチェ派 イタリアの都市フィレンツェを中心に、十四世紀から十六世紀にかけて、ルネサンス技術の主流をなした絵画の流派。フィレンツェ派。


ウィンツィ da Vinci ダ・ヴィンチ

和蘭派 フランドル派。十五世紀、フランス北部、ベルギー西部、オランダ南部にまたがるフランドル地方に興った美術の流派。絵画における写実主義の先駆となった。

ルウベンス ルーベンス 1577-1640年。フランドルの画家。バロック絵画を代表する巨匠。

ファン・ヂイク ファン・ダイク 1599-1641年。フランドルの画家。ルーベンスの弟子で、肖像画を得意とした。

アルブレヒト・ドュウレル アルブレヒト・デューラー 1471-1528年。ドイツ・ルネサンス期を代表する画家、版画家、数学者。

スッジィ Studie(独) 習作。



p.17
「まづ何事よりか申さん。此(この)学校にて雛形の鑑札受くるときも、ハンスルという名にて通したれど、そは我真(わがまこと)の名にあらず。父はスタインバハとて、今の国王に愛(め)でられて、ひと時(とき)栄(さか)えし画工なりき。わが十二の時、王宮の冬園(ウィンテルガルテン)に夜会ありて、二親(ふたおや)みな招かれぬ。宴(うたげ)闌(たけなわ)なる頃、国王見えざりければ、人々驚きて、移植(うつしう)えし熱帯艸木(そうもく)いやが上に茂れる、硝子(ガラス)屋根の下、そこかここかと捜しもとめつ。園の片隅にはタンダルジニスが刻(きざ)める、ファウストと少女との名高き石像あり。わが父のそのあたりに来たりし時、胸裂くるようなる声して、『助けて、助けて』と叫ぶものあり。
クニッゲも、フーフェラントも、ゲーテも元祖イルミナティ会員

p.152の注釈
一七
スタインバハ マリイの本姓。この姓の宮廷画家は実在せず、架空。

タンダルジニス タンダルディーニ。イタリアの彫刻家。

ファウスト ゲーテの長編詩劇『ファウスト』の主人公。悪魔メフィストフェレスと契約を結んで享楽におぼれ、少女グレートヘンを悲劇的な死へ追いやる。



p.21
「かくて漁師の娘とはなりぬれど、弱き身には舟の櫂(かじ)取ることもかなわず、レオニのあたりに、富める英吉利(イギリス)人の住めるに雇われて、小間使(こまづかい)になりぬ。加特力(カトリック)教信ずる養父母は、英吉利人に使わるるを嫌いぬれど、わが物読むことなど覚えしは、彼(かの)家なりし雇女教師(グェルナント)の恵(めぐみ)なり。女教師は四十余の処女(しょじょ)なりしが、家の娘のたかぶりたるよりは、我を愛すること深く、三年(みとせ)が程に多くもあらぬ教師の蔵書、悉(ことごと)く読みき。ひがよみはさこそ多かりけめ。又ふみの種類もまちまちなりき。クニッゲが交際法あれば、フンボルトが長生術あり。ギョオテ、シルレルの詩抄半ばじゅしてキョオニヒが通俗の文学史を繙(ひもと)き、あるはルウヴル、ドレスデンの画堂の写真絵、繰りひろげて、テエヌが美術論の訳書をあさりぬ。」

注釈
p.154
二一
*レオニ Leoni シュタルンベルク湖東岸、ベルクから一キロほど南にある地名。

*加特力(カトリック)教信ずる養父母…… カトリック信徒である養父母は、英国国教会を国教とするイギリス人のもとでの奉公を嫌ったことを指す。

*ひがよみ 我流の誤った読み方。僻読み。

*クニッゲ Adolf Freiherr von Knigge 一七五二-九六年。ドイツの作家、評論家。著書に、『人との交際について』がある。

*フンボルト フフェーラントの誤り。Christoph Wilhelm Hufeland 一七六二-一八三六年。ドイツの内科学者、宮廷医で、その著書『長命術』は広く読まれた。
クニッゲにの注釈にメイソンや元祖イルミナティについては一切書いていない。
引用するかもしれないので、クニッゲとフフェーラントの箇所は本文に忠実に記した


*ギョオテ ゲーテ。シラーと共にドイツ古典主義を完成。
*じゅして 「誦して」。暗誦して。
*キョオニヒ ケーニヒ。ドイツの文学史家。著書に『ドイツ文学史』がある。
*ルウヴル パリにあるルーブル美術館。
*テエヌ テーヌ。フランスの歴史家、評論家。実証主義にたち、民族・環境・時代の三条件から人間及び文芸作品を分析。


p.156
二五
*一弾指 指をはじくほどのごく短い時間。瞬間。仏教語から。

二六
*酒手 心づけ。チップ。

*神 雷。鳴神も同じ。


p.157
三一
*うたかた 水面の浮かぶ泡。消えやすくはかないもののたとえ。

*耶蘇暦 西暦。キリストの生まれたとされる年を紀元元年とする暦。



ふた夜(よ)
特になし。


舞姫

p.95から
 此時余を助けしは今我同行の一人なる相澤謙吉*なり。彼は東京に在りて、既に天方伯*の祕書官たりしが、余が免官の官報に出でしを見て、某新聞紙の編輯長に説きて、余を社の通信員となし、伯林に留まりて政治学芸學藝の事などを報道せしむることとなしつ。


p.162から
*相澤謙吉 鷗外の大学同窓生で親交のあった賀古(かこ)鶴所(つるど)(1855 – 1931)がモデルに擬せられている。明治二十一年(1888)の山縣有朋の欧州視察に従った。
*天方伯 長州出身の藩閥政治家(1838 – 1922)を髣髴とさせる。山縣は明治21年11月2日から翌22年10月2日まで欧州の政治情勢を視察し、異国後の12月、首相に就任。伯は伯爵。



文づかい

p.124
「見晴らしよき岩角わたりまでゆきしが、この尖塔(ピラミイド)には若(し)かず、小林ぬしは明日わが隊とともにムッチェンのかたへ立ちたもうべければ、君たちの中にて一人塔の顚(いただき)へ案内(あない)し、粉ひき車のあなたに、汽車の烟(けぶり)見ゆるところをも見せ玉(たま)わずや、」といいぬ。
 口疾(と)きすえの姫もまだなんとも答えぬ間に、「われこそ」といいしは、おもいも掛(か)けぬイイダ姫なり。物(もの)おおくいわぬ人の習(ならい)とて、遽(にわか)に出(いだ)ししこと葉(ば)と共に、顔さと赤めしが、はや先に立ちて誘(いざな)うに、われは訝(いぶか)りつつも随(したが)い行きぬ。
(略)
 この塔は園に向きたるかたに、窪(くぼ)みたる階をつくりてその顚(いただき)を平(たいらか)にしたれば、階段をのぼりおりする人も、顚(いただき)に立ちたる人も下より明(あきらか)に見ゆべければ、イイダ姫が事(こと)もなくみずから案内せんといいしも、深く怪(あやし)むに足らず。姫はほとほと走るように塔の上(のぼり)口にゆきて、こなたを顧(かえり)みたれば、われも急(いそ)ぎて追付(おいつ)き、段の石をば先に立ちて踏みはじめぬ。ひと足遅れてのぼり来る姫の息促(せま)りて苦しげなれば、あまたたび休みて、漸(ようよ)う上にいたりて見るに、ここはおもいの外(ほか)に広く、めぐりに低き鉄欄干をつくり、中央に大なる切(きり)石一つ据(す)えたり。


注釈
p.173
一二四
*この尖塔 デーベン城内に巨大なピラミッドがあるとする設定は架空のもの。
初見の時に、この注釈を読んで笑った記憶がある(笑) わざわざピラミッドを追加。
切石もメイソンの象徴かもね

*ムッチェン Mutzen デーベンの東北、グリンマの東に位置する地名。
*口疾き 何事にもすぐ口に出すこと。



普請中

p.139から
 渡辺はソファに腰をかけて、サロンの中を見廻(まわ)した。壁の所々には、偶然ここで落ち合ったというような掛物が幾つも掛けてある。梅に鶯(うぐいす)やら、浦島が子やら、鷹(たか)やら、どれもどれも小さい丈(たけ)の短い幅(ふく)なので、天井の高い壁に掛られたのが、尻(しり)を端折(はしょ)ったように見える。食卓の拵えてある室の入口を挾んで、聯(れん)のような物の掛けてあるの
(注:ここからp.140)
を見れば、某大教正の書いた神代文字(じんだいもじ)というものである。日本は芸術の国ではない。
 渡辺は暫く何を思うともなく、何を見聞くともなく、唯煙草(たばこ)を呑(の)んで、体の快感を覚えていた。


注釈
p.180
138 サロン salon(仏) 客間。応接間。

一三九
浦島が子 浦島伝説の主人公。浦島太郎のこと。

聯 書画や彫刻を施した細長い板を、柱や壁の左右に相対して掛けて飾りとしたもの。対 聯。はしらかくし。

一四〇
大教正 明治五年(1872)、政府は神道布教のため、教導職という役職を設けた。大教正はその十四級中の最高位。明治十七年に廃止。

神代文字 漢字渡来以前に、神代から日本にあったとされる文字。江戸時代の国学者・平田篤胤らによって唱えられたが、現在では後代の偽作として否定されている。

「日本は芸術の国ではない」は神代文字の作品に対してのみではないが、神代文字の作品への言及の直後なので、「鷗外が神代文字を良く思っていないでのは?」と思ってしまう。鷗外は神代文字を肯定する神道派閥の信者ではないので、本当に神代文字を良く思っていないのかもしれない。鷗外ほどに博識なら捏造されたって分かるだろうし。なお、出身地の津和野は、神道重視の土地である。

森鴎外『かのように』と大日本帝国の世俗合理主義
https://www.nicovideo.jp/watch/sm40393137
の一部(動画時間11分18秒~)を私が要約用に加工すると、
森鴎外が生まれた津和野(島根県)は特異な土地でもある。
城下町だというのにほとんど寺院がない。
津和野は、神仏分離を徹底した数少ない地。
藩主である亀井氏は、家紋の通り佐々木流の源氏で、神官の家系ではないのだが、代々神道を重んじてきた。特に幕末の11代藩主、亀井茲監(1825-1885)は、国学者をブレーンとして重用し、神葬祭運動を進めた。その神道系の人脈と、統治者としてのバランス感覚を見込まれて、国家神道政策を任されるようになる。
森鴎外の小説には神葬祭が登場したりするのが、他の小説家とはちょっと違う点だと思います。
(動画の要約は以上だ)




p.183
解説
森鷗外――人と文学
          渋川驍(ぎょう)

p.184
森鷗外は、文久二年(1862)陰暦の一月十九日に島根県鹿足(かのあし)郡津和野町字横堀に生まれた。新暦では、二月十七日にあたる。父森静男は、藩主亀井家の典医で、吉次(よしつぐ)家から入って(ママ)養子だったが、利害に心を煩わされない穏やかな性質だった。母峰子は、家つきの娘だけに、気位も高く、負けずぎらいの強い性格だった。鷗外は、この母の性質を受けついでいるようである。十歳のとき、父とともに上京し、遠縁の西周家に預けられて、進文学舎(ママ)に通い、ドイツ語を学んだ。この西周は、幕末から明治にかけての蘭学者、哲学者であり、森有禮(ありのり)らと明六社を起こし、西洋文明を熱心に紹介した先覚者だった。

明六社はメイソン系だよ。
演繹(ディダクション)と帰納(インダクション)は語源を使って、導出と導入か
下導と上導と訳した方が良かったのでは?
deductio(デドゥクティオ)は
より上位に位置する普遍的な概念から、その「下」位に位置づけられる個別的な概念や具体的な事物の存在を「導」き「出」すという推論の形式。
deductioは上から下に下る。
インドゥクティオは具体的事物や個別的な事例を挙げることによって、そこから普遍的な結論を導き出すから、上へ導くまたは上を導く。
インダクションは下位に位置する個別的な概念や具体的な事例を「上」位の普遍的な概念へと「導」き「入」れ昇華するとという推論の形式。
朱熹〔中庸章句の序〕: 是(ここ)に於て、堯舜以來相ひ傳ふるの意を推本し、質(ただ)すに平日聞く所の父師の言を以てし、更互に演繹して、此の書を作爲す。
(私の不正確であろう訳:
ここにおいて、堯舜以来伝わってきた意味を大本まで推し量り[徹底究明して]、父のように敬愛する師のおっしゃったことをもって不明な点を明らかにし、交互に「演繹[意義をのべ明らかに]」して、この書を作った)
更互(こうご):かわるがわる。交互。
交互なので「上から下を導き出す」という意味ではないからdeductionを演繹と訳すのは誤訳。おそらく儒教を破壊するための意図的な誤訳。
観念(イデー)も誤訳。

西周「観念の字は仏語に出づ、今此書には英のアイデア、仏のイデーなる語を訳す」
仏教用語だと観念は「心静かに智慧で一切を観察すること。物事を深く考えること」。
イデー(心に現れる表象、想念、意識内容)の訳語にあてるのは不適切。仏教だと自覚しているから意図的な誤訳だろうな。憑依戦術。
思考と推論に関係する誤訳で思考に干渉し続けているから注意。


直接影響を受けるようなことは、あまりなかったようだが、それでも西の存在が、鷗外にあたえた刺激は否定することはできないだろう。東京医学校に入学し、それの改称された東京大学医学部を卒業。父母の希望で、陸軍の軍医副となり、二十二歳の若さで、ドイツに留学を命ぜられた。
(優秀すぎる。勉強ができすぎだよ)
これから四年間の滞在が、鷗外にあたえた教養の蓄積は、計り知れないものがあった。それは医学を中心としたものだったが、文学、美術、哲学などの広い範囲にわたっていた。

p.185にある、「ドイツ留学時代の鷗外」の写真。

両目ともに横に細長い。眉毛⌒と合わせると、丸みのある△を潰したものに少し見えるが、目単独で△ではない。▽でもない。
なぜこんなことを気にしているのかというと『ヰタ・セクスアリス』にて主人公(鷗外が元ネタだが、鷗外そのものではない)の「目は基線を上にした三角だと云ったが、その倒三角形の目」とあるからだ。倒三角形で画像検索すると▽なので▽みたいな目だ。
三角形でたいていの人が思い浮かべるのは△だろうから、「倒」をつけると▽になる。
基線は、基準になる三角形の一辺。おそらく、底辺(三角形の頂点に対する辺)の意味。
基線が上なのだから、▽。
▽みたいな目って

▽ ▽
 鼻
 口
みたいな目。どんな目だよ。
ただし、実際に倒△の目だと言われたことがあるのかもしれない。学生時代の写真をもっと見たいんだけどなあ。
倒三角の角を丸くしたり 横長にすると結局楕円になるよな。
気にしている理由は、目と三角はケツ社が好きな象徴だから、わざわざケツ社要素のために創作した設定かどうか気になるからだ。
「目を三角にする」(目に角を立てる )という、「目を怒らす」「怖い目つきをする」を意味する表現があるが、比喩ではなく物理的な形を指している文脈なんだよな。
「僕はこの間接の保護を失わねばならない。そして頗る危険なる古賀の室へ引き越さねばならない。僕は覚えず慄然(りつぜん)とした。
 僕は獅子の窟(いわや)に這入るような積(つもり)で引き越して行った。埴生が、君の目は基線を上にした三角だと云ったが、その倒三角形の目がいよいよ稜(かど)立っていたであろう。古賀は本も何も載せてない破机(やぶれづくえ)の前に、鼠色になった古毛布を敷いて、その上に胡坐(あぐら)をかいて、じっと僕を見ている。大きな顔の割に、小さい、真円(まんまる)な目には、喜の色が溢(あふ)れている。 」の箇所は、物理的な形(▽目)に、「目を三角にする」の意味を掛詞した表現だろうな。
獅子の窟(いわや)に這入るつもりなら、目つきは恐くなるだろう。


p.187
『国民之友』誌上の「舞姫」(明治23年1月)
(「國民之友第六拾九號附録 (明治二十三年一月三日發売)」「鷗外森林太郎著」とある)
(一月三日は壱月参日ではないんだな)


小倉時代と軍医総監就任
明治三十二年、三十七歳のとき、鷗外は、近衛師団軍医部長から第十二師団軍医部長に左遷され、小倉(こくら)におもむくことになった。それは、上官小池正直医務総長から、常に文筆の仕事にふけり、本務の仕事をおろそかにすると見なされたからである。しかし、この雌伏の時期を彼はおろそかに過ごさなかった。前からの希望であったフランス語の学習を、その地の宣教師ベルトランについて行なった。
宣教師とも交流あり
それだけでなく、師団長井上光(いのうえひかる)の勧めで、将校たちのためにクラウゼウィッツの「戦論」の(ここからp.188)講義をも行なった。この講義は、この師団で石板印刷されたが、これが思いがけなくも、彼をこの逆境から救いあげる機縁となった。というのは、陸軍の大御所であった山縣有朋がこれを見て、クラウゼウィッツの分析力に驚くとともに、この難解の論文を立派な日本文に訳出した鷗外の力量にも、目を見張ったからである。山縣は、その後鷗外を引きたてようと心を用いたに違いなかった。また鷗外の親友であった賀古(かこ)鶴所(つるど)は、山縣が外務大臣として外遊したとき、その随行員の一人であったことから、山縣と親しく、鷗外のことをよく伝えたことも、あずかって力があったろう。
 それが実を結んで、約三年後荒木しげと再婚すると間もなく、第一師団軍医部長として、東京にもどった。再び文壇に進出しようと努めている矢先に、日露戦争が起こり、第二軍軍医部長として出征しなければならなかった。二年後、東京に凱旋すると間もなく、山縣有朋を中心とする常盤(ときわ)会という短歌会がはじまり、その幹事として、山縣と一そう親しく交わるようになった。その擁護もあって、明治四十年十一月、小池正直に代わって、陸軍軍医総監、陸軍省医務局長になった。
出世しまくりだな。完全に政府側の人なんだよな
それから一年後、彼を中心とする「スバル」が創刊されたが、上京以来しだいに積極的になっていた彼の文学活動は、にわかに旺盛になった。

p.189から
明治29年自邸「観潮楼」(本郷駒込千駄木町)の庭で。
(左より鷗外、幸田露伴、斎藤緑雨)
[少し遠いが、やはり横長だな、鷗外の目]

『スバル』誌上の活躍
このころのものは、私小説的なものが多く、そのなかで、「ヰタ・セクスアリス」は、主人公は、金井湛(しずか)とあるが、彼自身の性生活をモデルにしていることが、よくわかる作品だけに、当時としてはきわめて大胆なものだった。しかも、陸軍の官職にあっての制作であるから、なおさらのことだった。案の定、それの載った「スバル」第七号は、発禁になり、彼は陸軍次官石本新六(いしもとしんろく)に呼ばれて、内務省警保局から注意をうけたから、気をつけるようにとの訓戒をうけたりしている。


p.191
晩年の鷗外(の写真。左向きで左目のみ見せる。目の箇所が黒色になってよく見えない。
左目が◣みたいに見える)


p.192から
 晩年の生活
しかし、これらの史伝小説は、「東京日日新聞」と「大阪毎日新聞」に連載中は読者に歓迎されず、絶えず非難を浴びせかけられたものだった。彼は「渋江抽斎」に着手する前に、医務局長を辞して、文筆だけの生活に専念していたが、この非難が心に重くかかることもあり、また彼の従来の官職上の関係もあって、一年半ぐらいの閑地生活ののち、再び帝室博物館総長兼図書頭の公職についた。その勤務ぶりは、普通の長官には見られない精勤さであった。下僚にまかせてもよい仕事である「帝諡考(ていしこう)」「元号考(げんごうこう)」を自ら執筆し、前者は生前刊行して、図書寮から出版してもいるのだ。また自分の所管する奈良の正倉院には、毎秋曝凉(ばくりょう。ママ)のため立ち合い、そこに秘蔵されている品物の研究に役立つため、正倉院拝観の道を開いたりもしているのだ。
天皇制に批判的な立場ではない。
曝凉表記。曝涼(さんずい編)表記ではない。意味は虫干し。
図書寮[ずしょりょう]は、宮内省に属する。皇統譜の編集、詔勅の保管などを担当した役所。
なので、図書館担当の機関という意味ではない。
図書頭[ずしょのかみ]は図書寮の長官。
鷗外は宮内省にも属するまでに出世したんだな



最後は、親友賀古鶴所の熱心の勧告で診察をうけたが、すでに手のつくしようもない状態であり、ついに六十歳で世を去った。死因は肺結核と萎縮腎(いしゅくじん)であった。
自殺ではない


p.194から
作品解説
    五味渕(ごみぶち)典嗣(のりつぐ)

 本書には、森鷗外にとって最初の作品集である『水沫(みなわ)集』(1892年、春陽堂刊)中の創作三篇・翻訳一篇に、表題作『舞姫』と関連の深い短篇『普請中』を加えた五つの作品を収めた。発表の年代順では『ふた夜』『舞姫』が最も早いが、ここでは、『水沫(みなわ)集』の作品配列に従った。
 鷗外森林太郎の事跡を語る上で忘れてはならないのは、彼が生きた歴史的・社会的条件であり、時代の要請である。鷗外はその生涯に、西周と山県有朋という二人の庇護者を持った。周知のように、前者は明治維新と日本の近代化の道すじをつけたすぐれた啓蒙思想家であり、後者は軍人・政治家として文字通り明治国家の屋台骨を担った人物である。

彼(鷗外)が、日本におけるロマン主義文学のパイオニアでもあった、ということである。一般に西洋思想史では、18世紀に広がった啓蒙思想に対する批判・反動から、19世紀にはロマン主義の思想が興隆したとされる。だから〈ロマン主義思想を啓蒙する〉とは、西洋思想史の常識からすれば奇妙な転倒なのだが、非西洋世界においては普遍的な課題でもある。
(ロマン主義だが、啓蒙主義系の元祖イルミ要素を入れているのが『うたかたの記』)


p.202
 初出一覧

うたかたの記
明治二十三年八月「しがらみ草紙」(明治二十五年七月、春陽堂刊『水沫集(美奈和集)』に収録)

ふた夜
「読売新聞」明治二十三年一月一日-二月二十六日(明治二十五年七月、春陽堂刊『水沫集(美奈和集)』に収録)

舞姫
明治二十三年一月「国民之友」(明治二十五年七月、春陽堂刊『水沫集(美奈和集)』に収録)

文づかい
明治二十四年一月「新著百種」(明治二十五年七月、春陽堂刊『水沫集(美奈和集)』に収録)

普請中
明治四十三年六月「三田文学」(明治四十三年十月、新潮社刊『涓滴』に収録)
(「涓」の音読みはケン。訓読みは、しずく・ わず[か]。
涓滴は「けんてき」で、「水のしずく」「わずかなこと」の意)



p.203から
年譜
内容は、公職、医事、文芸、家庭の順。『 』印は単行本を示す。

明治九年(1876) 14歳
12月、東京医学校移転に伴い、本郷の寄宿舎に入る。

明治一〇年(1877) 15歳
東京大学医学部本科生となる。同窓に賀古鶴所・小池正直・中浜東一郎らがいた。


明治20年(1887) 25歳
四月、ベルリンへ移る。五月、コッホの衛生試験所へはいった。九月、石黒軍医監に随行して赤十字の会議に出席、日本代表に代って演説した。



明治31年(1898) 36歳
10月、近衛師団軍医部長兼軍医学校長になった。
二月-九月、「めさまし草(ぐさ)」に「審美新説」を連載。11月、西家から『西周伝』、12月、画報社から『洋画手引草』(大村西崖・久米桂一郎との共著)が出た。


明治33年(1900) 38歳
一月、「鷗外漁史とは誰(た)ぞ」を「福岡日日新聞」に書き、二月、「心頭語」を東京の「二六新報(にろくしんぽう)」に連載した。
三月、春陽堂から『審美新説』を出した。
二月、弟篤次郎(三木竹二)が「歌舞伎」をはじめた。
33年に「心頭語」を発表したのは狙ったのかよく分からない。明治33年が1900年というのは覚えておくと便利だよ


以上。





『ウィタ・セクスアリス』(岩波文庫)
森鷗外 作

1935年11月15日 第1刷発行
1960年 9月 5 日 第25刷改版発行ⓒ

「昴(スバル)」第七号(明治四十二年七月発行)による。


p.29
 同じ年の十月ごろ、僕は本郷(ほんごう)壹岐坂(いきざか)にあった、ドイツ語を教える私立学校にはいった。これはおとう様が僕に鉱山学をさせようと思っていたからである。
 向島(むこうじま)からは遠くて通われないというので、そのころ神田(かんだ)小川町(おがわまち)に住まっておられた、おとう様の先輩の東(あずま)先生というかたの内に置いてもらって、そこから通った。
 東先生は洋行がえりで、摂生のやかましい人で、盛んに肉食をせられるほかには、別に贅沢(ぜいたく)はせられない。ただ酒をずいぶん飲まれた。それも役所から帰って、晩の十時か十一時まで飜訳なんぞをせられて、その跡で飲まれる。奥さんは女丈夫(じょじょうふ)である。今から思えば、当時の大官であのくらい閨門(けいもん)のおさまっていた家は少なかろう。おとう様はよい内に僕を置いてくだすったのである。
東先生はどうみても西周だ。西を東にしただけ。
女丈夫(じょじょうふ):気が強くて、度量が広く、しっかりしている女性。


p.33(を本文そのままではなく、私にとって必要な箇所のみ記す。つまり加工済み)
 十三になった。東京英語学校にはいった。僕は寄宿舎ずまいになった。生徒は十六七ぐらいなのがごく若いので、多くは二十代である。

p.34(を本文そのままではなく、私にとって必要な箇所のみ記す。つまり加工済み)
 性欲的に観察して見ると、そのころの生徒仲間には軟派と硬派とがあった。
軟派は数においては優勢。硬派は九州人が中心。その頃の予備門(東京大学予備門)には鹿児島県の人は少いので、九州人は佐賀と熊本との人。これに山口の人の一部が加わる。そのほかは中国一円から東北まで、ことごとく軟派。
ケツ社が好きそうな、同性愛ネタ。
硬派:女性と交際したり服装に気をつかうことを軟弱とみなす態度。
本作では、後に、賀古鶴所が雛形(モデル)の登場人物が、性欲の対象を少年に向けている。
他にも同性愛描写が登場する。ただし、本書では直接の性行為の描写は一切ないので、現在では年齢制限されそうな箇所はない。それでも当時は発禁処分になったことがある


p.50から(本文そのままではなく、私にとって必要な箇所のみ記す。つまり加工済み)
(もういちいちそう書かないかも)
 十五になった。このころ僕に古賀と児島との二人の親友ができた。
古賀は古賀は顴骨(かんこつ)の張った、四角な、あから顔の大男である。安達(あだち)という美少年に特別な保護を加えているところから、服装から何から、だれが見ても硬派中の鏘々(そうそう)たるものである。それが去年の秋頃から僕に近づくように努める。僕は例の短刀の欛(つか)を握らざることを得なかった。
 しかるに淘汰のあとで、寄宿舎の部屋割が決まって見ると、僕は古賀と同室になっていた。
(ここからp.51)
鰐口(わにぐち)は顔に嘲弄(ちょうろう)の色を浮べて、こう言った。
「さあ。あんたあ古賀さあのところへいってかわいがってもらいんされえか。あはははは。」

人が彼をおそれはばかる。それが間接に、僕のためには保護になっていたのである。
 僕はこの間接の保護を失わねばならない。そして頗る危険なる古賀の室へ引き越さねばならない。僕は覚えず慄然(りつぜん)とした。
 僕は獅子の窟(いわや)にはいるようなつもりで引き越して行った。埴生が、君の目は基線を上にした三角だと言ったが、その倒三角形の目がいよいよかど立っていたであろう。古賀は本も何も載せてない破れ机の前に、ねずみ色になった古毛布を敷いて、その上にあぐらをかいて、じっと僕を見ている。大きな顔のわりに、小さい、まん丸な目には、喜びの色があふれている。
「僕をこわがって逃げ回っていたくせに、とうとう僕のところへ来たな。はははは。」
 彼は破顔一笑した。彼の顔はおどけたような、威厳のあるような、妙な顔である。どうも悪いやつらしくはない。


p.101

Möbius――Paul Julius (1853 - 1907)はドイツの神経学者。ルソー、ゲーテ、ショウペンハウエル、ニーチェなどの天才を病理学的特徴と関係させて説明しようとしたことで有名。

p.103から
 解説(斎藤茂吉)

本書は、1935年11月15日 第1刷発行。
斎藤茂吉の没年は1953年2月25日なので第二次世界大戦後も生存している。


斎藤茂吉|近代日本人の肖像
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6255/
”生没年
明治15年5月14日 〜 昭和28年2月25日
(1882年5月14日 〜 1953年2月25日)
出身地
山形県
職業・身分
文学者 、 医師・薬剤師等
別称
童馬山房主人(別号)

解説

歌人、精神科医。明治38(1905)年東京帝国大学医科大学入学、翌年伊藤左千夫に入門、『馬酔木』から『アララギ』にかけて短歌を発表する。大正2(1913)年第一歌集『赤光』で一躍名声を得、次いで第二歌集『あらたま』(1921)を発表。6(1917)年長崎医学専門学校教授となり、10(1921)年文部省在外研究員として欧米留学、13(1924)年に帰国後、青山脳病院長に就任した。以降作歌のほか評論や随筆でも旺盛な創作活動を行い、評論『柿本人麿』(1934-40)等を出す。敗戦に深い衝撃を受け、戦後は歌集『ともしび』(1950)等を発表した。昭和26(1951)年文化勲章受章。
” ※着色は引用者


 ウィタ・セクスアリスは、明治四十二年七月発行の雑誌スバル第一巻第七号に載ったもので、森鷗外先生四十八歳のときの作ということになっている。雑誌は月末になって発売禁止になった。あたかも観潮楼(かんちょうろう)歌会があり、その発売禁止を話題に、先生はにこにこしておられたことも、もはや夢のように追憶せられるまでになった。
 この人間の性欲を取り扱った自伝体小説は、当時流行した自然主義の運動に刺激せられて書いたものだという具合に大概の文芸史家が解釈している。なるほどこの小説を発表した時は、ちょうどそういう時勢であったから、全然関係がないとは言わぬが、愚見は一般の文芸史家の解釈と少し違っている。
 十九世紀の末から二十世紀の初めにかけて、ドイツでは、メービウス一派の「境界状態」(Grenzzustände)ということの研究が盛んになって、一種の流行ともいうべきほどであったが、それらの手軽な論文が日本の学会にもはいって来た。鷗外先生は一々それに目を通されたことは明らかで、私もニーチェの「病志」について先生と話し合ったことがある。ウィタ・セクスアリスの中にメービウスの名が出ているのはただその片鱗をのぞかせたに過ぎぬのである。そういうメービウス一派の研究方向とともに、ロンブロゾーの天才と狂人の説、犯罪者の研究などという学説が
(ここからp.104)
舶載し、それとまた相前後して、クラフト・エビングとかフォレルとかモールとかレーウェンフェルドとかシュルツェとかの性欲研究の書がどしどし舶載せられ、なかには、一般の学術書のほかに、ただ専門の研究室だけのものとしての、世界諸民族のあらゆる性欲を研究した、二十冊に近い厖大なものさえもある。また、フロイド一派の精神分析学はリビドオの色調の濃い学説であるが、それが医学者でない民衆と合体し、通俗説となって、日本にも渡来して来た。それを先生は大概読まれたようである。この小説のはじめに出て来るエルサレムの芸術に関する哲学説なども、この性欲に関連しているので、先生はそういうものまで見のがしてはいないのである。
 エルサレムの哲学説はフロイドなどのそういう性欲説と相関連しているかどうかあまり明瞭でないが、この小説のはじめのほうに、エルサレムの説が出て来て、「あらゆる芸術はLiebeswerbungである。口説くのである」というところがある。しかるにこの説については先生は、すでに小説よりもずっと前(明治三十三年)の「心頭語」という中に次のように書いているのである。
 エルサレムのいわく、美は游戯(ゆうぎ)と求配(きゅうはい)(Spiel und Liebeswerbung)とより出(い)ず。游戯とは生物の余力を発揮するゆえんにして、動物界において早くその萌芽を見、人間界においてその大いに幼稚の時期を支配するを見る。芸術の技巧は游戯の一変したるものなり。求配はなお俗言に口説くというごとく、雄(お)の雌(め)を求め雌の雄を求むるをいう。動物は早くその配を得んがために自らいろどり、未開人は女少なきとき男自ら飾り、男少なきとき女自らかたちづくる。配を求めて得(う)るときは、その所求者は能求者を認めて美となす。美はかくのごとく恋の成就より生まる。芸術の評価は、作者の求配と公衆の許嫁(きょか)とより成るものなり。
(ここからp.105)
こう言っているのである。すなわちこの小説公表の十年ほども前にすでにひとたび書いた資料がこの小説の中に織り込まれているのである。そのほか、この小説に出て来る性欲学上の術語、色情倒錯上の術語なども、すでに年末の知識の蓄積にもとづくものと解釈すべく、また、こういう学問上のことは、一夜にして仕上げることのできないものであって見れば、おそらくはこの小説を書く意図は日本の自然主義などの流行しない以前からあったものと考えていいだろう。ただ公表の機運が熟さなかっただけであったろう、私は今でもそう解釈している。

現今では、社会衛生ということ、産児制限ということ、優生学ということ、そういうことはすでに常識となり家常茶飯の話題となっているが、これをば明治四十年ごろの社会に引きもどして考察すれば、このウィタ・セクスアリス制作の意図も決して軽々に看過してはならない、ここで先生の社会観はグンプロウウィッツなどの意見などと握手するに至るのである。

  (昭和十年十月吉日)
(昭和十年=西暦1935年)




『ヰタ・セクスアリス』(新潮文庫)

『ヰタ・セクスアリス』新潮文庫、新潮社

昭和二十四年十一月三十日 発行
平成二十三年十二月十日 八十六刷改版


p.129から
注解
(ページ)五
金井湛(しずか) 「湛」は、鷗外の諱(いみな)高湛(たかやす。一説に、たかしず)からとられた。戯曲「仮面」(明42・4)、小説「魔睡」(同)にもこの名がある。

性欲的写象 「写象」は、ドイツ語Vorstellung フォルステルングの訳。客観が主観に知覚され、心に映じたもの。観念。性欲的観念イメージ、の意。

Möbius メビウス Paul Julius Möbius (1853 ~ 1907)。ドイツの神経科医。精神科方面にも業績があり、両性や心身の界域問題などを研究。東京大学総合図書館の森鷗外文庫にメビウスの『ルソーの病跡』『ニーチェにおける病理』の二著がある。

Jerusalem  エルザレムWilhelm Jerusalem(1854~1923)。オーストリアの哲学者。人間の精神活動を発生的、生物学的、社会学的見地から追及。主著に『哲学入門』。鷗外は『心頭語』(明治33・2・1~34・2・18『二六新報』)の第五十八節に同書の内容を要約・紹介している。

Liebeswerbung (独) リーブスヴェルブング。求愛。

ルソー。フランスの思想家・文学者。文明否定の立場から自然状態への復帰を理想とした。また、社会契約説を説き、人民主権と共和制を主張、フランス革命に思想的影響を与えた。

懺悔記 『告白録』。原題〝Les Confessions〟二部十二巻(1765~78)。赤裸な告白文学の傑作で近代小説の起源をなすともいわれる。


p.134
鷗外の父は典医(殿様付きの医者)。


p.141から
36ページからの注
独逸語を教える私立学校にはいった 鷗外は明治五年、医学修行の前提として、当時本郷元町二丁目(現本郷一丁目)にあった進文学舎(社)でドイツ語を学んだ。

東(あずま)先生 モデルは西周(1829~97)。明治初期の啓蒙思想家。明六社同人。コントの実証主義、ミルの帰納論理の影響をうけ、日本に西洋哲学を初めて紹介し、哲学を統合の学として諸学の関係を定め、学術と社会との有機的結合を主張した。その政治論は保守的で軍人勅諭(明15)の起草にも参画。著書に『百学連環』『致知啓蒙』など。『西周全集』三巻がある。西家は津和野藩医で、鷗外とは親戚関係にあり、寄寓(きぐう)時は陸軍大丞(だいじょう)・宮内省侍読(じどく)の職にあった。
(オランダ系メイソン。作り出した訳語の一部は誤訳であり、しかも有害な誤訳である。帰納、演繹、観念って訳は駄目でしょ)


37
奥さんは女丈夫 「女丈夫」は、男勝りのはっきりした女性。モデルは、西の夫人升(舛)子。

閨門(けいもん)のおさまっていた家 夫婦関係がよく、夫がよそに妾などを置かなかった家、の意。

p.42
そこへ年齢の不足ということが加勢して、何事をするにも、友達に暴力で圧せられるので、僕は陽に屈服して陰に反抗するという態度になった。兵家(へいか) Clausewitz は受動的抗抵を弱国の応(まさ)に取るべき手段だと云って居る。僕は先天的失恋者で、そして境遇上の弱者であった。
 性欲的に観察して見ると、その頃の生徒仲間には軟派と硬派とがあった。

p.144
Clausewitz クラウゼヴィッツ Karl von Clausewitz(1780~1831)。プロシャ(ドイツ)の軍人・戦争理論家。プロシャ軍の創設者。主著『戦争論』を鷗外が『大戦学理』二巻(明36・11)として訳した。

受動的抵抗 『戦争論』第一篇「戦争の本性について」第二章「戦争における目的と手段」に示される概念。「闘争を長びかせて敵を疲れさせる自然的手段」であり、「強国に抵抗しようとする弱国によって極めてしばしば用いられた」(篠田英雄訳)。鷗外の処世観に大きく影響したとされる概念。
(ケツ社への姿勢も受動的抵抗だったのかもね)



p.145
四四
埴生(はにゅう)庄之助 モデルは、土生(つちう)荘之助。生歿(せいぼつ)年不明。明治10年12月、鷗外の三等下、一等予科生として東大医学部に在籍。(入澤達吉「明治十年以後の東大医学部回顧談」に拠る)

p.45
 学校に這入(はい)ったのは一月である。寄宿舎では二階の部屋を割り当てられた。同室は鰐口弦(わにぐちゆづる)という男である。この男は晩学の方であって、級中で最年長者の一人であった。白菊石(あばた)の顔が長くて、前にしゃくれた腮(あご)が尖(とが)っている。痩(や)せていて背が高い。若(も)しこの男が硬派であったら、僕は到底免れないのであったかと思う。
 幸に鰐口は硬派ではなかった。どちらかと云えば軟派で、女色の事は何でも心得ているらしい。さればとて普通の軟派でもない。軟派の連中は女に好かれようとする。鰐口は固(もと)より好かれようとしたとて好かれもすまいが、女を土苴(つちづと)の如くに視ている。女は彼の為に、只性欲に満足を与える器械に過ぎない。彼は機会のある毎にその欲を遂げる。そして彼の飽くまで冷静なる眼光は、蛇の蛙(かわず)を覗(うかが)うように女を覗っていて、巧(たくみ)に乗ずべき機会に乗ずるのである。だから彼の醜を以てして、決して女に不自由をしない。その言うところを聞けば、女は金で自由になる物だ。女に好かれるには及ばないと云っている。
 鰐口は女を馬鹿にしているばかりはでない。あらゆる物を馬鹿にしている。彼の目中(もくちゅう)には神聖なるものが絶待(ぜったい)的に無い。

本書は、青空文庫版とほぼ同じ文章である。理由は、
ヰタ・セクスアリス
https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/695_22806.html
”底本:「ヰタ・セクスアリス」新潮文庫、新潮社
   1949(昭和24)年11月30日発行
   1967(昭和42)年11月10日27刷改版
   1989(平成元)年8月20日69刷”

だからだ。実に記事を作成するのが楽でありがたい。


p.146
45
鰐口弦(わにぐちゆづる) モデルは、谷口謙(1856~1929)。江戸麻布の生れ。東大医学部卒。鷗外の同期生。明治14年、陸軍に入り、同17年から22年にかけてドイツに留学。同40年まで軍医として活躍。『独逸日記』にもしばしば登場。
ワニは爬虫類であり、蛇に喩えられているのでレプティリアン属性なのだが、この頃からすでに爬虫類人思想が日本列島に流入していたかどうか分からない。それは後述の、主人公と三角同盟を結ぶ者の1人が蛇属性であることについても同様である。たまたまかもしれない。しかもその男性には青色の印象が伴っている。当時は、今現在の赤組と青組の対立はまだ誕生していないのでこの男性が青組という意味ではない。
鷗外のケツ社の派閥は赤組の先祖だろうな


土苴(つちづと) 肥料用の藁の束。ごみ、くずの意。

48
韓非子 中国・春秋戦国時代末期の思想家、韓非(?~B.C.233)の著。専制君主のために臣下を統率する法と術を説く。その基本に、利を求め、害を避けることを人間の本性とみる冷眼な人間観がある。法家の代表的書物。


p.64から
 十五になった。
 去年の暮の試験に大淘汰(とうた)があって、どの級からも退学になったものがあった。そしてこの犠牲の候補者は過半軟派から出た。埴生なんぞのようなちびさえ一しょに退治(たいじ)られたのである。
[中略]
 この頃僕に古賀と児島との二人の親友が出来た。
 古賀は顴骨(かんこつ)の張った、四角な、赭(あか)ら顔の大男である。安達(あだち)という美少年に特別な保護を加えている処から、服装から何から、誰が見ても硬派中の鏘々(そうそう)たるものである。それが去年の秋頃から僕に近づくように努める。僕は例の短刀の欛(つか)を握らざる
(ここからp.65)
ことを得なかった。
 然るに淘汰の跡で、寄宿舎の部屋割が極(き)まって見ると、僕は古賀と同室になっていた。鰐口は顔に嘲弄(ちょうろう)の色を浮べて、こう云った。
「さあ。あんたあ古賀さあの処へ往って可哀がって貰いんされえか。あはははは」
 例のとおりお父様の声色(こわいろ)である。この男は少しも僕を保護してはくれなんだ。しかし僕は構わぬのが難有(ありがた)かった。彼の cynic な言語挙動は始終僕に不愉快を感ぜしめるが、とにかく彼も一種の奇峭(きしょう)な性格である。同級の詩人が彼に贈った詩の結句は、竹窓夜静にして韓非(かんぴ)を読むというのであった。人が彼を畏(おそ)れ憚る。それが間接に、僕の為めには保護になっていたのである。
 僕はこの間接の保護を失わねばならない。そして頗る危険(きけん)なる古賀の室へ引き越さねばならない。僕は覚えず慄然(りつぜん)とした。
 僕は獅子の窟(いわや)に這入るような積(つもり)で引き越して行った。埴生が、君の目は基線を上にした三角だと云ったが、その倒三角形の目がいよいよ稜(かど)立っていたであろう。古賀は本も何も載せてない破机(やぶれづくえ)の前に、鼠色になった古毛布を敷いて、その上に胡坐(あぐら)をかいて、じっと僕を見ている。大きな顔の割に、小さい、真円(まんまる)な目には、喜(よろこび)の色
(ここからp.66)
が溢(あふ)れている。
「僕をこわがって逃げ廻っていた癖に、とうとう僕の処へ来たな。はははは」
 彼は破顔一笑した。彼の顔はおどけたような、威厳のあるような、妙な顔である。どうも悪い奴らしくはない。
「割り当てられたから為方(しかた)がない」
 随分無愛想な返事である。
「君は僕を逸見と同じように思っているな。僕はそんな人間じゃあない」
 僕は黙って自分の席を整頓(せいとん)し始めた。僕は子供の時から物を散らかして置くということが大嫌である。学校にはいってからは、学科用のものと外のものとを選(よ)り分けてきちんとして置く。この頃になっては、僕のノオトブックの数は大変なもので、丁度外の人の倍はある。その訳は一学科毎に二冊あって、しかもそれを皆教場に持って出て、重要な事と、只参考になると思う事とを、聴きながら選り分けて、開いて畳(かさ)ねてある二冊へ、ペンで書く。その代り、外の生徒のように、寄宿舎に帰ってから清書をすることはない。寄宿舎では、その日の講義のうちにあった術語だけを、希臘拉甸(ギリシャラテン)の語原を調べて、赤インキでペエジの縁に注して置く。教場の外での為事は殆どそれ切である。人が術語が覚えにくくて困るというと、僕は可笑しくてたまらない。何故語原を調べずに、器械的に覚えようとするのだと云いたくなる。僕はノオトブックと参考書とを同じ順序にシェルフに立てた。黒と赤とのインキを瓶のひっくり反(かえ)らない用心に、菓子箱のあいたのに、並べて入れたのに、ペンを添えて、机の向うの方に置いた。大きい吸取紙を広げて、机の前の方に置いた。その左に厚い表紙の附いている手帖を二冊累(かさ)ねて置いた。一冊は日記で、寝る前に日日の記事をきちんと締め切るのである。一冊は学科に関係のない事件の備忘録で、表題には生利(なまぎき)にも紺珠(かんじゅ)という二字がペンで篆書(てんしょ)に書いてある。それから机の下に忍ばせたのは、貞丈(ていじょう)雑記が十冊ばかりであった。その頃の貸本屋の持っていた最も高尚なものは、こんな風な随筆類で、僕のように馬琴京伝の小説を卒業すると、随筆読(よみ)になるより外ないのである。こんな物の中から何かしら見出(みいだ)しては、例の紺珠に書き留めるのである。
 古賀はにやりにやり笑って僕のする事を見ていたが、貞丈雑記を机の下に忍ばせるのを見て、こう云った。
「それは何の本だ」
「貞丈雑記だ」
「何が書いてある」
「この辺には装束(しょうぞく)の事が書いてある」
「そんな物を読んで何にする」
「何にもするのではない」
「それではつまらんじゃないか」
「そんなら、僕なんぞがこんな学校に這入って学問をするのもつまらんじゃないか。官員になる為めとか、教師になる為めとかいうわけでもあるまい」
「君は卒業しても、官員や教師にはならんのかい」
「そりゃあ、なるかも知れない。しかしそれになる為めに学問をするのではない」
「それでは物を知る為めに学問をする、つまり学問をする為めに学問をするというのだな」
「うむ。まあ、そうだ」
「ふむ。君は面白い小僧だ」
 僕は憤然とした。人と始て話をして、おしまいに面白い小僧だは、結末が余り振(ぶ)
(ここからp.69)
ってい過ぎる。僕は例の倒三角形の目で相手を睨(にら)んだ。古賀は平気でにやりにやり笑っている。僕は拍子抜けがして、この無邪気な大男を憎むことを得なかった。
 その日の夕かたであった。古賀が一しょに散歩に出ろと云う。鰐口なんぞは、長い間同じ部屋にいても、一しょに散歩に出ようと云ったことはない。とにかく附いて出て見ようと思って、承諾した。

記す際には、註釈があることを示す「*」は省いている。

この『ヰタ・セクスアリス』にて主人公(鷗外が元ネタだが、鷗外そのものではない)の「目は基線を上にした三角だと云ったが、その倒三角形の目」とある。倒三角形で画像検索すると▽なので▽みたいな目だ。
基線は、基準になる三角形の一辺。おそらく、底辺(三角形の頂点に対する辺)の意味。
▽みたいな目って

▽ ▽
  鼻
 口
みたいな目。どんな目だよ。目の周囲の影や眉を含めてそう見えたのか?

青空文庫  ヰタ・セクスアリス
https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/695_22806.html
”埴生が、君の目は基線を上にした三角だと云ったが、その倒三角形の目がいよいよ稜(かど)立っていたであろう。古賀は本も何も載せてない破机(やぶれづくえ)の前に、鼠色になった古毛布を敷いて、その上に胡坐(あぐら)をかいて、じっと僕を見ている。大きな顔の割に、小さい、真円(まんまる)な目には、喜の色が溢(あふ)れている。

(引用元はルビなのだが、コピペすると勝手に( )になる)
(おそらく、▽目と○目の対比)


写真の中の鷗外 人生を刻む顔
https://www.youtube.com/watch?v=jjuEaQ4RHZQ
”2022/02/04
ぶんきょう浪漫紀行
令和4年1月31日~放送

や、鴎外関係の本の写真をたくさん見ているのだが、これぞ▽って形のものはないな。
医学生時代やそれ以前の写真を見ても▽ではない。
上記の動画では、父親である静男の両目が横に細長いのでそれが遺伝していると分かる。
上記の動画に登場する「医学部 学生時代の写真」。出典は、『鷗外全集』15巻 鷗外全集刊行会 大正14年より。6歳年上で終生の友となる賀古鶴所の隣に写っているのが鷗外であり、両目とも横に細長い。▽ではない。なので学生時代に実際に▽だと言われたこともないだろうから、創作だろうな。目と三角形ってケツ社要素じゃん。△ではないのは、人間の目で△はおかしいと思ったのかもしれない。△目の人も探せばいるだろうけど。
△ △
 鼻
 口

▽ ▽
 鼻
 口
△目も▽目どっちも探せばいそうだな。△ではなく▽にした理由は不明だ。重要なのは、三角形と目を結び付けたことと、本作では「三角同盟」という三角強調箇所があることだ。
上記の動画は大写しにしてくれるので親切だ。上記の学生時代の鷗外は眉毛も横に伸びているので、眉毛を含めれば▽だということもない。

鴎外自身の勉強法であろう箇所は実は参考になる。語源学習は重要。覚えやすくなる。

今[この本の備忘録を作成した頃。この公開記事に引っ越しするまで間にさらに足した]のところ、鷗外の作品でケツ社要素込みで面白かったのは、
『智恵袋』『心頭語』『慧語』
『うたかたの記』『文づかひ』
『魔睡』『ヰタ・セクスアリス』
『沈黙の塔』『食堂』
『仮名遣意見』、
遺言状。遺言状も作品とみなす。

『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』『そめちがへ』『青年』
『ヰタ・セクスアリス』『雁』『阿部一族』『高瀬舟』『高瀬舟縁起』
『堺事件』『安井夫人』『魔睡』『鶏』『金貨』
『牛鍋』『普請中』『沈黙の塔』『食堂』『カズイスチカ』
『妄想』『天寵』『渋江抽齋』『仮名遣意見』『かのように』
『山椒大夫』『花子』『寒山拾得』 『追儺』『杯』、
『木精』『空車』『天寵』『最後の一句』『佐橋甚五郎』、
『興津弥五右衛門の遺書』、『智恵袋』『心頭語』『慧語』、遺言状、
海外作品の和訳(『ふた夜』『ファウスト』など)など色々読んだのだが(列挙した作品以外にも読んでいる。40作品以上は読んでいる[朗読を聞き、一部を文章でサッと読んだ場合も含む])、面白さの平均値は芥川の方が上だな。あくまで私の好みであることに注意ね。



p.152から
64
十五になった 明治14年の設定だが、作品内の事実は、明治11年、鷗外17歳の体験と思われる。

古賀 名は鵠介 ( こくすけ )(本文後出)。モデルは賀古鶴所(1855〈6〉~1931)。医者。東大医学部卒。浜松の人。明治21年から翌年にかけて山県有朋に従って渡欧、ベルリン大学で耳鼻咽喉科を学ぶ。日本における耳鼻咽喉科の創始者。鷗外終生の親友で、その遺言状の口述筆記にも当った。『耳科新書』の著がある。

児島 名は十二郎(本文後出)。モデルは、緒方収二郎(1857~1942)。医者。東大医学部卒。幕末の蘭学者緒方洪庵の六男で、第12子。『雁(がん)』(大3・5)の主人公岡田のモデルともいう。

緒方収二郎 前編
2022年09月27日(火) 01時42分26秒
https://ameblo.jp/chipmunk1080park/entry-12766406481.html
”「緒方収二郎(1857~1942)」

画像は緒方惟準伝より

 緒方収二郎は、安政4年(1857)2月25日、大阪の洪庵宅(現適塾)で第12子として生まれた。

文久3年(1863)、収二郎7歳の時に父洪庵が医学所頭取となったため、この年の3月に母の八重に連れられ六人の兄弟と共に医学所頭取宅へ転居する。同年6月10日に洪庵が突如大喀血して死去するが、その父の死の刹那を幼い収二郎は目の当たりにして居る。



「庭で遊んで居た時に、厠から出られたと思うと、手洗いの所でひどく喀血せられました。それをただ立って、じっと見て居た」。



と、収二郎が話していた事を小金井喜美子が記憶して居る。

その後、慶応4年(1866)に幕府が瓦解すると、幕府からの給付が得られなくなり、八重は収二郎ら子供を連れて大阪に戻った。尚この時、収二郎の長兄惟準はオランダへ、次兄惟孝はロシア、三兄惟直はフランスへ留学中であった。

 収二郎は、江戸で漢学を保田東潜から学び、家族と帰阪してからは明治2年(1869)より大阪に来ていた仏人宣教師クーザン(Jules Alphonse Cousin)からフランス語を習ったと云われて居る。またこの辺りの頃に、適塾門人の大村益次郎より「再び東京へ来ることがあれば、外遊することに尽力しよう」と、励まされたと云うが、程なくして明治2年9月4日に益次郎は京都の木屋町に於いて刺客に襲われる。右膝を負傷し感染壊死を来して居た為、大阪府医学校病院に運ばれ、ボードインと惟準らにより右大腿切断術が施行された。しかしこの時すでに時期を逸して居た為、11月5日にあえなく敗血症で死去する。生前に益次郎は、「せめては恩師洪庵先生の墓側に埋めてくれるように」、と希望して居たので、切断された右足は大阪龍海寺の緒方家墓地に埋められた。



 明治4年(1871)、15歳の時に上京し大隈重信宅に寄寓して、フランス語を学ぶため司法省明峰寮の試験を受け合格するが、仏人教師のボアソナード(Boissonade de Fontarable Gustave Emile)がまだ来日して居なかったため(明治6年に来日)、その授業を受けられずに居た。その際に親戚から医学校を勧められたので、医の道を志し明治10年(1877)東京大学医学部本科に入学する。同期には森林太郎、賀古鶴所、小池正直らが居るが、病気の為に1年遅れて明治15年(1882)26歳で卒業する。卒後は、明治20年まで眼科教室の助手として勤務して居る。



ここで収二郎の学生時代について、「ヰタ・セクスアリス」の児島十二郎と「雁」の岡田とを通して見てみよう。



 先ず「ヰタ・セクスアリス」で金井湛が紹介して居るところより。

 児島十二郎(収二郎、児島は洪庵の出身地岡山)は、錦絵の源氏の君のような顔をしている男である。体中が青みがかって白い。あだ名を青大将と云うのだが、それを云うと怒る。もっともこの名は、児島の体の在る部分を浴場で見て附けられた名だそうだから、怒るのも無理はない。児島は酒量が無い。言語も挙動も貴公子らしい。名高い洋学者で、勅任官になって居る人(惟準)の弟である。十二人目の子なので、十二郎と云うのだそうだ。



 どうして古賀(賀古鶴所)と児島が親しくして居るのだろうと、僕は先ず疑問を起した。さて段々観察して居ると触接点があった。

 古賀は父親を、児島は母親をひどく大切にしている。古賀の神童じみた弟が夭折したのを惜しんで、父親が古賀を不肖の子と扱ったため、その分亡き弟の穴埋めをして父親を安心させねばならないように思って居たのである。

 

 児島は、父親が亡くなって母親がある。母親は何十人と云う子を一人で生んだのである。弟の十三郎(重三郎)というのが才子(才能優れた人物)で、十二郎よりも可愛がられて居るらしい。その弟が醜聞記事に出たことになって、予定して居た縁談が破談になり母親は十三郎の為めに心痛する。その母親の心を慰めようと熱心に努めているのである。



 僕は次第に古賀と心安くなる。古賀を通じて児島とも心安くなる。

 そこで三角同盟が成立した。暇さえあれば三人集まる。



 児島は生息子である。彼の性欲的生活は零である。児島の性欲の獣は眠って居る。

 古賀の獣は縛ってあるが、をりをり縛を解いて暴れるのである。併せし古賀は、あたかも今の紳士の一小部分が自分の家庭だけを清潔に保とうとして居る如くに、自分の部屋を神聖にしている。僕は偶然この神聖なる部屋を分かつことになったのである。



 二十になった。

僕は官費で洋行させられることになりそうな噂がある。併しそれがなかなか決まらないので、お父様は心配してお出でなさる。僕は平気で小菅の官舎の四畳半に寝転んで、本を見て居る。遊びに来るものもめったに無い。

 古賀は某省の参事官になって、女房を持って、女房の里に同居して、そこから役所へ通って居る。

 児島はそれより前に、大阪の或る会社の事務員になって、東京を発った。それを送りに新橋へ行ったとき、古賀が僕に囁いだ。「僕のかかあになってくれると云うものがあるよ。妙ではないか。」

これは謙遜したのではない。児島に比べては、余ほど世情に通じて居る古賀も、さすが三角同盟の一隅だけあって、無邪気なものである。僕は妙とも何とも思は無かった。



 以上。

 収二郎(しゅうじろう)の名前を濁らせたのが十二郎(じゅうじろう)であるので、鷗外が収二郎を濁らせて、どこまで真実を語って居るのか分からない。例えば十二郎の学生時代、性欲的生活はゼロだったと云うが、その後を追って見てみるとゼロではない事が確認出来る。

 森の独逸日記の明治18年4月15日の條には、「小山内建、清水郁太郎の病歿、緖方收二郎の結婚を知る。」とある。収二郎は山本瓊江(たまえ)と結婚し、三男六女が生まれている。従って大学卒業後に局部の青大将は見事に脱皮を遂げ、収二郎の性欲の獣は長い眠りから覚醒して居ることが分るのである。



 次に、神聖な部屋の壁隣りに住んで居たと云う「雁」の岡田(緒方)について、語り手の「僕」が紹介しているところを見てみよう。



 古い話である。僕は偶然それが明治13年の出来事だと云うことを記憶して居る。どうして年をはっきり覚えて居るかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門(赤門と区別して医学部を云う)の真向かいにあった、上条と云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んで居たからである。その上条が明治14年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人であった。その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えて居るからである。僕は今この物語を書いてしまって、指を折って数えて見ると、もうその時から35年を経過して居る。

 

 僕の壁隣りの男は頗る趣を殊にしていた。この男は岡田と云う学生で、僕よりも一学年若いのだから、兎に角もう卒業に手が届いて居た。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。それは美男だと云う事である。色の蒼い、ひょろひょろした美男ではない。血色が好くて、体格ががっしりして居た。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。強いて求められれば、大分あの頃から後になって、僕は青年時代の川上眉山(大阪生まれの小説家)と心安くなった。あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。



川上眉山

不遇の晩年を送り40歳で自殺する。画像はwikipediaより。



あれの青年時代がちょっと岡田に似て居た。もっとも当時競漕(ボートレース)の選手になっていた岡田は、体格では遥かに川上なんぞに優って居たのである。

 そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田ほど均衡を保った書生生活をして居る男は少なかろうと思って居た。学期ごとに試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。やるだけの事をちゃんとやって、級の中位より下には下らずに進んで居た。遊ぶ時間はきまって遊ぶ。夕食後には必ず散歩に出て、10時前には間違いなく帰る。日曜日には舟を漕ぎに行くか、そうでない時は遠足をする。競漕前に選手仲間と向島に泊まり込んで居るとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人の居る時刻と、留守になって居る時刻とが狂わない。誰でも時計を号砲(正午になると空砲を撃って時報とした)に合わせることを忘れた時には岡田の部屋に問いに行く。上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計によってただされるのである。久しくこの男の行動を見て居れば居る程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

 岡田の日々の散歩は大抵道筋がきまって居た。この散歩の途中で、岡田が何をするかと云うと、ちょいちょい古本屋の店を覗いて歩く位のものであった。岡田が古本屋を覗くのは、今のことばで云えば、文学趣味があるからであった。

 

 岡田と少し心安くなったのは、古本屋がなかだちをしたのである。「よく古本屋で出くわすぢゃないか」と云うような事を、どっちからか言い出したのが、親しげに物を言った始めである。

そこである時僕が唐本の金瓶梅(中国明代の小説)を見つけて亭主に値を問うと、七円だと云った。五円に負けてくれと云うと、「先刻岡田さんが六円なら買うと仰いましたが、お断り申したのです」と云う。偶然僕は工面が好かったので言い値で買った。2、3日立ってから、岡田に逢うと、向こうからこう云い出した。

「君はひどい人だね。僕がせっかく見つけて置いた金瓶梅を買ってしまったぢやないか。」

「そうそう君が値を附けて居り合わなかったと、本屋が云って居たよ。君欲しいのなら譲って上げよう。」

「なに。隣だから君の読んだ跡を貸して貰えば好いさ。」

僕は喜んで承諾した。こんな風で、今まで長い間壁隣りに住まいながら、交際せずに居た岡田と僕とは、往ったり来たりするようになったのである。



以上。

 さて明治20年3月25日の独逸日記を見ると、ドイツ留学中の森のもとへ、収二郎が政治小説の「佳人之奇遇」数巻を寄越して居る。「大に覊愁(きしゅう、旅愁のこと)を慰む。」と森は日記に記しており、文学趣味を通して両者の同盟は卒業後もしばらく続いて居た事が伺える。



 まとめとして児島十二郎と岡田を併せて、オカダジュウジロウ(オガタシュウジロウ)としておくと以下のようになるだろう。



 容貌は、青年時代の川上眉山をボートで鍛えて体格をがっしりさせたような色白の美男子であるが生息子である。あだ名は青大将。青白い容貌から付いたのではなく、体の一部の形態がヘビの様で、未熟と云う意味の青いと云う洒落も含まれて居ると察せられよう。性格は、言語も挙動も貴公子のような振る舞いで、母親孝行である。勉学や部活や遊びなどに於いて均衡を保った書生生活をして居り、非常にパンクチュアルな生活を送って居る。

「僕」と少し心安くなったのは、互いに文学が趣味で古本屋がなかだちをして、古賀の存在により更に心安くなって行った。



こうしてみると収二郎がボート部であったかどうかは分からないが、その他はだいたい真実を伝えて居ると見做して良いのではないだろうか。



 収二郎が、学生時代について「森鷗外君の追憶」で「かれこれ五十年の交際を続けては来たが、森君と特に親しくしたのは、最初の十年ばかりだった。・・・」と書いて居るが、これは既に「続・追賁之碑」で記したので省いて置くが、他に「東京医学校寄宿寮時代」と題した収二郎の談話が「男爵小池正直伝」に載って居るので、ここに記しておこう。



「私は明治6年(1873)に16歳で東京医学校に入学しましたが、当時フランス語を学んで居ましたから、ドイツ語の力が十分でないので、小池君等より一級遅れて居ましたが、半年の後には上級に編入されて同級となりました。

同級生で陸軍に出た人は、小池君はじめ森林太郎、賀古鶴所、江口襄(明治16年卒)、谷口謙等済々たる諸君でした。この諸君の内、森君の他は陸軍の給費生でした。森君は卒業後陸軍に入られたのです。一同は寄宿寮に籠居しましたが、なにぶん森君が14歳(13歳の誤り)、私が16歳の最年少者で、小池君は20歳以上で、・・・(中略)。

大学卒業の時は、学士試験を受けねばならぬ事になって居て、その当時私は病気の為に休み、翌年受験しましたから卒業年次は一年後れたことになりました。

その後私がドイツに居た時、小池君は陸軍から衛生学の研究にドイツに留学され、ベルリンで会合し、恰も万国医学大会がベルリンに開かれた時で、小池君は日本の代表者として出席されまして、久し振りに異域で同窓相会し、時々往復しましたが、研究方面も異なり、また小池君が余り珍談奇聞を作る人でもありませんから、特に取り立てて申す程の逸話もなかった様です。」



後編へ。
” ※着色は引用者 画像は省略


緒方収二郎 後編 | 鴎外全集を読む
2022年10月10日(月) 00時26分45秒
https://ameblo.jp/chipmunk1080park/entry-12768569259.html
” 明治19年2月7日、多くの適塾門人から敬慕された緒方収二郎の母八重は、65歳を一期として死去した。遺言により遺骨は大阪の龍海寺と、東京の高林寺に分けられて埋葬された。

 その翌年の明治20年(1887)2月1日、収二郎は、それまで勤めて居た大学の眼科助手を辞して大阪へ帰って居る。事の発端は、軍医監の長兄緒方惟準が表向き病弱を理由に陸軍を依願免官したからであるが、真相は陸軍内での兵食給与に於いて、脚気の予防として麦飯採用を唱える惟準が石黒忠悳と対立した事が原因と考えられて居る。

そうして惟準が大阪で緒方病院を起ち上げるに際して、三男惟孝(薬剤師)も呼応し東京帝大病院薬局取締を辞して帰阪、大阪の適々斎病院長である義兄の拙斎を加えた緒方四兄弟が力を結集して開設する事になったのである。

 拙斎は大阪の北浜四丁目にあった適々斎病院の院長を務めて居たが、同院を緒方病院と改称して、かつ院長職を惟準に譲り自らは院主として診療に尽力する。

 その2カ月後、廃院となって居た回春病院を購入して改築を行い、同年4月2日に今橋四丁目に移転して居る。北浜では手狭になったからだろう。今橋の緒方病院は、北病棟2階、南病棟3階建てで病床数は60床。収二郎は副院長として兄を支え、外科と眼科の診療を担当して居る。

 当初の外来診察時間は、毎日午前7時から受け付け開始で、往診は午後1時からとなって居り、但し同業者の紹介によるもので、危急の場合や薬剤を請求するのみであれば応じられないとして居た。外来診療は、内科の午前は拙斎が、午後惟準となって居り、外科と眼科は午前午後とも収二郎が受け持った。この時代の内科は循環器や呼吸器などの総ての内科領域疾患が含まれ、外科も同様に外傷や消化器や泌尿器、整形など全部ひっくるめられて診療されて居た。入院患者の回診は、午前は院長惟準が、午後は副院長の収二郎並びに医長の正清(隔日交代)が担当し、その他医師数名が在籍して居たと云う。

 尚、日曜日が手術に当てられて居たとの事で、休診日と云うものがあったのかどうか疑わしい。



 父洪庵の地盤を受け継いだ緒方病院は、院長の惟準が明治天皇の侍医を務めた元軍医監で、収二郎始め緒方一族がその脇を固めているのである。流行らない道理が無い。開設してから早速一日約180名が外来に殺到受診したと云う。その様にして緒方病院の経営は日毎に盛大になって行ったのである。

 また緒方病院が開設してから約7カ月後の9月に、緒方病院医事研究会の発足と同年10月に会誌の発刊が行われ、その会長に惟準が、収二郎は副会長に選出されて居る。近隣の開業医への教育を行い大阪の医療の進歩に大いに貢献しただろう。

中山沃氏(「緒方惟準伝」の著者)は、「市井の一私立病院で、学術研究科医を開き、その上雑誌を発行することは、当時として画期的なことであった。」と記して居る。

 

 明治22年(1889)に、緒方病院とは別に兄惟準が貧民救済の為に大阪慈恵病院と医学校を創設。収二郎もまた同校の眼科学講師に就いて居る。この年の4月に収二郎は惟準の差配で、正清、嗣子の銈次郎、堀内謙吉(義弟堀内利国の息子)らと共にドイツへ留学する。四人はドイツで北里柴三郎の指導を仰ぎ、収二郎はベルリンとウイーンで眼科を学んで居る。



留学中の明治23年8月に、ベルリンに於いて第10回国際医学会が開催され参加した時の写真を以下に提示する。

上写真、収二郎は第2列右から二人目で、その他前列右から入沢達吉、山根正次、第3列右から3人目、北里柴三郎、同左端三浦謹之助ら。小池正直もミュンヘンから参加しているのであるがこの写真の中には入って居ない。



明治25年(1892)2月に留学を終えた収二郎は、惟直の遺児・豊を連れ帰国する。



明治26年(1893)9月、緒方病院分院が立売堀(いたちぼり)に新設される。分院は和洋折衷で換気排水の設備があり、院内全てに電灯が用いられたと云う。収二郎は、本院で毎日午前7時から10時まで眼科外来診療を行い、休む間もなく分院で午前10時から午後1時まで外来診察して居る。その後、分院に眼科と婦人科病棟が出来た為、本院眼科は午前8時から正午12時までとし、分院は午後より4時までと診療時間の延長がなされて居る。



明治27年(1894)、惟準の嗣子・銈次郎(23歳)が6年のドイツ留学を終え帰朝し、緒方病院の内科医長として就任。



明治28年(1895)、惟準(54歳)が緒方病院長を退いて、収二郎(48歳)に病院長を譲った。その際に銈次郎は副院長に据えられ、三男惟孝は薬剤師で事務長も兼ねており、四男は既に幼没。五男惟直もヴェネチアで没しており、弟の重三郎は明治19年に既に病没して居ることから、収二郎が病院長に就くのが順当であった。



 明治32年6月、緒方病院長の収二郎は、第12師団軍医部長として小倉へ向かう森の壮行会のようなものを大阪で開いて居る。

 森林太郎の小倉日記には、小倉赴任のため新橋駅を発ち、その途中大阪で収二郎と会って居ることが記されて居る。従来はこれを小倉左遷と考えて居られたが、そうではないとする説が有力となって居るが、森はこの人事に不満なところも在ったようだ。




 小倉日記の明治32年6月17日、午に近づきて大坂道修町花房に投ず。桐田凞来り訪ふ。夜、菊池常三郎、緒方収二郎と灘萬に飲み、帰途、中嶋朝日軒に遊ぶ。子女の風俗の殊なる、頗る奇とすべし。女俗の東に殊なるは、主として顔の表情作用及び全身の姿勢に在り。灘萬の割烹は好し。朝日軒は西洋骨喜店に似たり。東京の無きところなり。夜蚊なきをもて幮を垂れず。



 学生時代の同期で第四師団軍医部長の菊池常三郎(後に大阪回生病院院長)と、緒方収二郎の三人で、なだ万で会食して居る。学生時代に賀古鶴所と三人で里見義弘の墳を弔い、天文永禄時代の昔話などを語って、枯魚(干し魚)を嚙みて酒酌みかはしたことなど、思い出話に花が咲いたであろうか。日記からは、兵食が専門であった森に、大阪発祥のなだ万の割烹料理は好みであると舌鼓を打たせており、中の島の朝日軒は西洋のコーヒー店に似て居り、なだ万も朝日軒も東京にその様な店は存在しないとまで驚嘆させている。

 また大阪の子女は東京と異なり、その若い女性の立ち振る舞いや生活習慣などが違っている。頗る奇なのは、顔の表情や全身の姿勢の良さにあると、小倉行きで沈んで居た森を、すっかり吹き飛ばして居るのではないか。

 以上の如く旧友の菊池と収二郎のおもてなしは、森を頗る喜ばせただろう。

終いには、「大阪の夜は蚊が多いと聞いて居たが、蚊帳を垂れないでぐっすり眠れそうだ、お休みなさーい」、と私の想像が混じっているが、まあそう云うことになったのであろう。



 6月18日の小倉日記には、朝7時24分大坂を発す。菅野順(陸軍軍医)、林徳門、及び緒方送りて停車場に至る。是日風日姸好(ふうじつけんこう)車海に沿いて奔る。私(ひそか)に謂う、師団軍医部長たるは、終に舞子駅長たることの優れたるに若(し)かずと。岡山を過ぐ。井上通泰、荒木、有森等停車場に至りて相見る。夜徳山に至り船に上る。とある。



 翌朝に森は、大阪の軍医らと収二郎に駅まで見送られている。収二郎は朝7時から始まる外来を遅らせて見送りに来たのであろう。森も収二郎に最敬礼をして汽車に乗ったことと私は思う。

 その日の日記文は、風が心地よく天気が良い。瀬戸内海の波もさわやかで、舞子の浜の風景は麗しく、初夏の6月であるが秋の9月の様でもある。一人汽車の車窓を眺めて居たところ舞子駅に停車した。駅長が、「遊ぶには丁度よい季節ですよ」と謂う。

森は「師団軍医部長たるは、終に舞子駅長たることの優れたるに若かず」と詠んでいるが、つまり田舎の町でも多忙ながら楽しんで働いて居る駅長の方が、鬱屈として田舎に赴く軍医部長よりも優れて居るではないか。たとえ小倉での仕事は予想より多忙であったとしても、仕事に慣れてくれば心の余裕も出て来るだろう。研究室のない小倉に住んでも、じきに住みよい街になるだろう。と考えるに至ったのではないだろうか。

 それに加えて小倉赴任に合わせて軍医監に昇進した。これは昇給をもたらして居る。一等軍医正の月収は143円(年収1716円)であったが、軍医監は193円(年収2316円)。つまり年収にすると600円も増えてるヨ。いや、よこしまな事は考えず、ただ軍人は小池上官の命に従うのみ。



と、白居易風に考えて見たのだが、「師団軍医部長たるは、終に舞子駅長たることの優れたるに若かず」の解釈は通説では竹盛天雄氏の説が一般的で在る。その著書「鷗外その紋様」より、

「大鏡に描かれているような、周知の菅原道真の貶謫の情景を下敷きにしたものと読み取られる。明石の駅で「駅長無驚時変改 一栄一落是春秋」の一句を誦しつつ、自分の左遷されて行く旅路をひそかに配流の境涯に見立てるところがあったかも知れない。」とある。

 しかしこれは左遷に拠って考えられたものである。左遷でないのなら、この解釈も考え直した方が宜しいだろう。まあ浅学の私にはこの程度のことしか思いつかないので鷗外研究の諸大家らの論説を俟とう。



 明治35年、緒方病院は順調に発展し今橋の本院を廃止して、立売堀に新町緒方病院と改名し、隣接する土地を購入して増改築を行い絶頂期を迎える。立売堀の本館(3棟)と新町の別館(2棟)を併せて1200坪、標榜診療科は内科、外科、眼科、産婦人科、耳鼻咽喉科、歯科、小児科で総職員数130名。

防火、給水、暖房、消毒などの最新の設備が整い、また斬新な様式の蒸気や汽鑵(ボイラー)、発電、昇降機などの装置を備えたと云う。

緒方病院創立20周年絵葉書。明治40年ころ。左上は緒方収二郎院長。



明治37年(1904)、薬剤科兼事務長であった惟孝が死去する。



明治42年(1909)6月8日、洪庵に従四位が追贈され、鷗外森林太郎が書の追賁碑が明治45年に建立されたが、先に「追賁碑」で記したので省く。

明治42年(1909)7月20日、惟準、67歳で胃癌のため逝去。



大正11年(1922)7月9日、森林太郎が60歳で死去する。その死の直前の口述を賀古鶴所が筆記して居る。「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という言葉を含む遺言書である。収二郎が大阪に帰って居なければ、「少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ 一切秘密無ク交際シタル友ハ 賀古鶴所君ト緒方収二郎君ナリ」と記されて居た可能性はあるだろう。
引用者注:写真略。鷗外の両目は横に細長い。鮮明でない写真でも横に細長い目なのは分かるのが鷗外の目だ
明治10年頃の医学部本科入学頃。前列右が森林太郎、収二郎は後列左であるが写真うつりが良くない、後列右の左手を付いて居るのが山形仲芸。



大正14年(1925)、収二郎は長年に渡って務めた病院長の職を銈次郎に譲り引退する。晩年は芦屋市から京都の長男宅(京府医大衛生学教授)に移って余生を過ごした。



大正15年(1926)、緒方病院婦人科で治療上の不祥事が発生し、銈次郎は責任をとって院長を辞任し、銈次郎の長男準一が院長となった。



昭和2年(1927)、銈次郎は収二郎名義の旧適塾を担保に日本生命保険会社から七万円を借金して居る。これは銈次郎の妹寿子が嫁いだ白戸隆久が、造船業の大事業にとり掛かって居たその矢先に脳溢血で急死した為、その事業は頓挫し多額の負債を抱えることに成った。その事業資金を白戸隆久の要請を受けた銈次郎が中心となって、親戚知人を説いて回り、資金を集めて援助して居たのである。銈次郎は債務弁済のため自己の財産を充てても足りず、仕方なく緒方病院各位からの資金援助を受けて整理をして居たのである。



昭和4年(1929)、白戸家の整理にあたり、ついに緒方病院の資金の一部を割いて弁済を行ったが、これが原因となり、また不祥事の発生が追い打ちをかけ、緒方病院は廃院となった。銈次郎は、「先人の偉業である病院事業を中絶させ、子孫に永く継承することが出来ぬようにしたのは、全く私の不敬の致すところであり、終生ぬぐうことの出来ない汚点を家名に残してしまった。その罪、万死に値する。」と。



昭和6年(1931)1月1日、賀古鶴所、脳溢血により逝去。享年75歳。



昭和16年(1941)11月13日、適塾は文部大臣指定の「緒方洪庵旧宅及び塾」として史跡指定され、翌年に大阪帝国大学に寄付された。

「適塾」、現在は大阪大学が管理して居る



昭和17年(1942)9月25日、収二郎は京都の長男宅で逝去する。享年86歳。

 号はみずから樗山(ちょざん)と云った。「樗」は役に立たない木のことを云い、それが関の山だと云う意味だろう。役に立たぬ木を焼くのだから、新聞や葉書などの告知不用の葬式を、と遺言して居る。収二郎が院長を退いてから僅か数年で緒方病院が廃院となった。この緒方病院の悲痛事に際し、有為の奥山今日越えてと云って居るのだろうか。

 しかしそうではない。惟準ら緒方一族とともに父洪庵の遺志を受け継ぎ、大阪で数えきれない程の病者を救済し、その任に当たる有用な多くの医師を育てたのである。生前に樗山と云うその相応しくない号をはぎ取ろうとした人は居なかったのだろうか。あの世において森林太郎が一笑に付して駁撃し、傍に坐した四角い顔の賀古が大笑しているだろうと容易に想像出来よう。



億川摂三氏の追悼文より引用、

「資性温厚にして洪庵の風格を伝ふ、容貌は秀麗にして人格衆に超ゆ。人に接する時は極めて平民的で城府(仕切り)を設けず。後進を威圧するが如きことは決してなかった。」と。





<参考>

〇 鷗外全集1巻(舞姫)、2巻(即興詩人)、5巻(ヰタセクスアリス)、8巻(雁)、35巻(独逸日記、小倉日記)

〇「日本からの手紙」、日本近代文学館

〇「緒方惟準伝 緒方家の人々とその周辺」、中山沃 

〇「医の系譜~緒方家五代~」、緒方惟之

〇 鷗外「ヰタ・セクスアリス」考(「雁」の哀歓)、長谷川泉 

〇「鷗外の思い出」(賀古氏の手紙より)、小金井喜美子 

〇「男爵 小池正直伝」、佐藤恒丸 

〇「明治期のイタリア留学」、石井元章 

〇「緒方洪庵の子供たち」、西岡まさ子 

〇「小説森鴎外 ヴェネチアの白い鳩」、中尾實信。中編の冒頭で豊への緒方収二郎の返答を、筆者はこの中實氏の書籍から引用して居る。そのソースを調べてみたが確認出来なかったので悪しからず。

〇「鷗外 その紋様」、竹盛天雄
” ※着色は引用者 画像は省略

上記のブログは重要な記録だと判断し、画像以外をコピペした。
緒方洪庵とその子孫ってオランダ系メイソンの関係者が含まれているんだろうな。



顴骨(かんこつ) 頬骨。

65
奇峭(きしょう)な性格 風変りで険しい性質。「奇峭(きしょう)」は、もと山などが峙(そばだ)つさま。

67
シェルフ (英)shelf。本立て。
生利(なまぎき) よく聞きもしないのに、知ったふりをすること。ここは、生意気の転。
紺珠(かんじゅ) 中国で、撫でると記憶が蘇るという紺色の珠。鷗外も備忘録に「小紺珠」と題した。

69
余り振(ぶ)ってい過ぎる あまりに奇抜すぎる。あまりに無礼だ、の意をユーモラスに表現。


p.72から
 古賀鵠介(こくすけ)の平常の生活はこんな風である。折々古賀の友達で、児島十二郎というのが遊びに来る。その頃絵草紙屋に吊るしてあった、錦絵の源氏の君のような顔をしている男である。体じゅうが青み掛かって白い。綽号(あだな)を青大将というのだが、それを言うと怒る。尤(もっと)もこの名は、児島の体の或る部分を浴場(ふろ)で見て附けた名だそうだから、怒るのも無理は無い。児島は酒量がない。言語も挙動も貴公子らしい。名高い洋学者で、勅任官になっている人の弟である。十二人目の子なので、十二郎というのだそうだ。
 どうして古賀と児島とが親しくしているだろうと、僕は先ず疑問を起した。さて段々観察していると、触接点がある。
 古賀は父親をひどく大切にしている。その癖父親は鵠介の弟の神童じみたのが夭折(ようせつ)したのを惜んで、鵠介を不肖の子として扱っているらしい。鵠介は自分が不肖の子として扱われれば扱われるだけ、父親の失った子の穴填(あなうめ)をして、父親に安心させねばならないように思うのである。児島は父親が亡くなって母親がある。母親は十
(ここからp.73)
何人という子を一人で生んだのである。これも十三人目の十三郎というのが才子で、その方が可哀がられているらしい。しかし十三郎は才子である代りに、稍(や)や放縦で、或る新聞縦覧所の女に思われた為めに騒動が起って新聞の続物(つづきもの)に出た。女は元(も)と縦覧所を出している男の雇女で、年の三十も違う主人に、脅迫せられて身を任せて、妾(めかけ)の様になっていた。それが十三郎を慕うので、主人が嫉妬から女を虐遇する。女は十三郎に泣き附く。その十三郎が勅任官の家の若殿だから、新聞の好材料になったのである。その為めに、十三郎は或る立派な家に養子に貰われていたのが破談になる。母親は十三郎の為めに心痛する。十二郎はその母親の心を慰めようと、熱心に努めているのである。
 こんな事をだらだらと書くのは、僕の性欲的生活に何の関係もないようだが、実はそうでない。これが重大な関係を有している。
 僕は古賀と次第に心安くなる。古賀を通じて児島とも心安くなる。そこで三角同盟が成立した。
 児島は生息子(きむすこ)である。彼の性欲的生活は零(ゼロ)である。
 古賀は不断酒を飲んでぐうぐう寝てしまう。しかし月に一度位荒日(あれび)がある。そう
(ここからp.74)
いう日には、己(おれ)は今夜は暴れるから、君はおとなしくして寝ろと云い置いて、廊下を踏み鳴らして出て行く。誰かの部屋の外から声を掛けるのに、戸を締めて寝ていると、拳骨(げんこつ)で戸を打ち破ることもある。下の級の安達という美少年の処なぞへ這入り込むのは、そういう晩であろう。荒日には外泊することもある。翌日帰って、しおしおとして、昨日は獣になったと云って悔んでいる。
 児島の性欲の獣は眠っている。古賀の獣は縛ってあるが、おりおり縛(いましめ)を解いて暴れるのである。しかし古賀は、あたかも今の紳士の一小部分が自分の家庭だけを清潔に保とうとしている如くに、自分の部屋を神聖にしている。僕は偶然この神聖なる部屋を分つことになったのである。
 古賀と児島と僕との三人は、寄宿舎全体を白眼に見ている。暇さえあれば三人集まる。平生性欲の獣を放し飼にしている生徒は、この triumviri の前では寸毫(すんごう)も仮借せられない。中にも、土曜日の午後に白足袋を穿(は)いて外出するような連中は、人間ではないように言われる。僕の性欲的生活が繰延(くりのべ)になったのは、全くこの三角同盟のお陰(かげ)である。後になって考えて見れば、若(も)しこの同盟に古賀がいなかったら、この同盟は陰気な、貧血性な物になったのかも知れない。幸に荒日を持っている古賀が加わっていたので、互に制裁を加えている中にも、活気を失わないでいることを得たのであろう。

p.154から
名高い洋学者 モデルは、緒方洪庵の次男、緒方惟準(これよし)(1843~1909)。長男死亡のため嗣子。オランダに留学後、明治元年、西洋医として最初の天皇侍医となり、のち陸軍軍医監(少将相当官)。

鵠介の弟 モデルは、賀古鶴所の弟篤雄(1858~72)。死亡時、15歳。

73
十三郎 モデルは緒方洪庵の七男で第13子(末子)の重三郎(1858~86)。のち内務省官吏。

74
triumviri(ラテン語)トリウムビリ。古代ローマの専制的統治体制である三頭政治の執政官。ここでは、三人組のこと。
寸毫(すんごう)も仮借せられない 少しも容赦されない

p.120
 古賀が、後々の為めに好かろうと云うので、僕を某省の参事官の望月(もちづき)君という人に引き合せた。この人は某元老の壻(むこ)さんである。
p.169 註釈
望月君 モデルは都築(つづき)馨六(けいろく)(1861~1923)。政治家・外交官・男爵。東京大学を明治14年卒業(鷗外と同年)後、翌年、国法・行政法研究のためドイツ留学を命ぜられ、鷗外を知る。帰国後、外相井上馨(かおる)、首相山県有朋の秘書官となり、井上の養女と結婚。鷗外の政治家とのつきあいのきっかけを作った人。
元老 天皇を補佐し、重要な政治的事項の決定に携わった政治家。

p.170
円朝 初世三遊亭円朝(1839~1900)。講釈師・落語家。江戸の人。芝居噺に新機軸を出し、迫真の話術で人気を得た。その口演の刊本は、言文一致運動に影響を与えるとともに、日本における速記の起源ともされる。代表作「怪談牡丹灯籠」「塩原多助一代記(しおばら たすけ いちだいき)」「真景(しんけい)累(かさね)が淵(ふち)」など。
[「死神」も書いたら良かったと思う。超有名な演目なので。
圓朝の落語が日本語の言文一致運動に影響したことは、日本語の歴史において重要


p.174 注釈
VITA SEXUALIS (ラテン語)ヰタ・セクスアリス。正しくはウィタ・セクスアリス。性欲的生活。
文庫 手文庫。書類などを入れて、身辺に置く小ぶりな函(はこ)。

  小泉浩一郎


p.175から
解説
高橋義孝

 成立史のために 鷗外の生涯をその閲歴の上から区切ってみるには、明治四十年十一月十三日の陸軍軍医総監就任を一つの境界石とするのがいい。その前半には、おびただしい量の評論文執筆がある。若干の抒情的小説の制作がある。小倉左遷のことがある。再婚のことがある。日清・日露両戦役出征のことがある。その後半には幾多近親の死去のことがある。文学博士号授与のことがある。明治帝崩御、続いて乃木大将自殺のことがある。陸軍退役、東京日日新聞社客員、博物館長就任のことがある。世に知られている鷗外の作品の多くは、この後期に書かれたものであるが、『ヰタ・セクスアリス』は、制作欲の旺盛を極めた後期の冒頭になった作品である。脱稿は、明治四十二年六月九日、発表は同年七月一日発行の雑誌『昴(すばる)』第七号誌上であった。月末、『昴』はこの小説のために発売禁止の処分に付せられた。

  (昭和二十四年十一月、ドイツ文学者)




『高瀬舟』(新撰クラシックス。小学館文庫)
2000年1月1日 初版第一刷発行


収録作の、堺事件、最後の一句、山椒大夫、高瀬舟、高瀬舟縁起、じいさんばあさん
については特に書くことなし。

p.208から
写真で知る鷗外

医学部第2組卒業試験終了記念写真
鷗外は最年少の19歳で卒業。左から2番目が鷗外、3番目が後の陸軍でライバル視するようになる小池正直。
学生時代も細長い両目だな

ドイツ留学時代、ミュンヘンにて(右が鷗外)
文部省留学生が叶わなかった鷗外は、卒業後陸軍に入り、22歳で念願のドイツ留学を果たす。中央が「うたかたの記」で巨勢のモデルとなった原田直次郎。
(細長い両目だな)

最初の妻・登志子
西周の世話でまとまった海軍中将男爵長女との縁談は、長男誕生、結婚生活1年半でスピード破局。激怒した西周とは絶交。


「文づかひ」の挿画
ドイツ留学中に知り合った原田直次郎の筆によるもの。小林士官は鷗外がモデル。

石膏像制作用に撮った写真(明治44年)
読者投票で翻訳家第一位となった鷗外には石膏像が贈られることになった。その後も鷗外は「ファウスト」や「マクベス」など大作の翻訳を手がけた。
右目はいつものような細長さではない。左目はいつも通り細長い

「スバル」掲載の『魔睡』
妻志げの体験が基といわれている。「スバル」にはこの他、家庭内不和を描いた『半日』や発禁処分となった『ヰタ・セクスアリス』も発表された。



p.220から
森鷗外の生涯と歴史小説
       勝又浩

p.223から
 公人としての鷗外については、たとえば彼が「臨時脚気病調査会会長」であったために日本の陸軍、ひいては医学界が脚気対策において後(おく)れを取ったこと(これについては吉村昭の小説『白い航跡』に詳しい)、あるいは「臨時仮名遣調査委員会」に鷗外がいたために、旧仮名遣いが数十年生き延びることになったこと、そのほか山県有朋のブレーンの一員として鷗外の果たした役割等々、政治的にも文化的にも考えるべき問題はたくさんあるが、ここではそういった問題には立ち入らない。

本記事に上記のメモを引っ越した後に追加した資料:

轟亭の小人閑居日記    馬場紘二
鴎外の最初の妻、その華麗なる姻戚 ― 2010/07/02 06:50
https://kbaba.asablo.jp/blog/2010/07/02/5195744
” 禅林寺の墓地を歩きながら同行のWさんと雑談、鴎外の最初の妻、登志子の 話になる。 私はその登志子の父親が、福沢が咸臨丸でアメリカに行った時、 同行していたと記憶していた。 帰宅してから、森まゆみさんの『鴎外の坂』 で確認する。 長男於莵を産み、一年ほどで離別した登志子の父は幕臣、深川 の御徒士の出で赤松大三郎則良、長崎海軍伝習所で学び、咸臨丸渡航の時は19 歳、少年士官として参加している。 のちに西周、榎本武揚、林研海(のちの 陸軍軍医総監林紀(つな))、津田真一郎(真道)と一緒にオランダへ留学し、 海軍の知識と造船技術を学び、後年海軍中将になった。

幕末の混乱でオランダから急遽帰国したが、幕府は瓦解、到着したのは上野 戦争の二日後であった。 帰国後、赤松は林紀の妹貞を妻とし、榎本武揚も林 紀の妹多津を妻とした。 西周は林の弟紳六郎を養子とし、林、榎本、赤松、 西は深い姻戚関係を結ぶ。 実は林紀の父は林洞海で、母つるは佐倉順天堂の 佐藤泰然の娘だから、尚中(しょうちゅう・養子…東京下谷→湯島の順天堂病 院創始者)、順(良順…陸軍軍医総監)、董(ただす…林洞海の養子、外務大臣) は、母の兄弟である。 西周は森家と同じ津和野の藩医の子で、森家と親戚筋 に当る。 維新後、いったん慶喜に従って静岡に赴き、沼津兵学校の校長を務 めたことは、昨年の一日史蹟見学会で見てきた。 新政府の要職をつとめなが ら『万国公法』を訳し「明六社」を興した開明的知識人である。 森家が上京 したのも西のすすめで、鴎外と登志子の結婚に際しては、西周が仲人をつとめ た。 中村楼での披露宴には、林紀や榎本武揚も姻戚として出席したという。

一年ほどでの離別について、森まゆみさんは、『鴎外の坂』に鴎外自身が書い たものをいくつか引いている。 その一つ『智恵袋』(明治31年)「つまさだ め」の項。 「政治上財産上の都合、恩義、脅迫、思ふに副(そ)はれぬより の焼け、手当(てあたり)放題、出来心、劣情等」で妻を選んではならない、 会ってよく心を知ってからがよいが、ここに至っても「世間の噂、媒口(なか うどぐち)、乃至誠あれども慮(おもんばかり)足らず栄誉を重んじ性情を軽ず る老父母の勧説は、猶つまさだめの主たる動因とならんとするなり」
” ※着色は引用者





『鷗外 森 林太郎[復刻版]』

2012年1月19日 発行


鷗外 森林太郎[復刻版]|森北出版株式会社
https://www.morikita.co.jp/books/mid/097039
”(初版1983年9月刊行)森鴎外生誕150年!!
鴎外の末弟による精緻な考証作業の中に,偉大なる兄への愛情が感じられる鴎外学の貴重な道標を築いた名著.昭和17年の刊行後,戦時下でさえ多くの人々に読み継がれた貴重な一冊.時を経て30年ぶりに再復刻.※活字は旧字体です.


(昭和17年は)西暦1942年。
昭和十七年四月一日 印刷
昭和十七年四月十日 發行


本書は, 弊社から昭和58年(1983年)に発行された覆刻版第1刷をスキャニング処理により復元したものです.

口絵1
明治三十二年六月豊前国小倉に出発の前
(本書だと横書きは、右から左に記述されるが、私は左から右に進む形になおす。
旧字も旧仮名もなおす方針だ。一部、なおさないかもしれない。
口絵の写真の鷗外の目は▽ではないな。鷗外の目は横に細長いな)


口絵2
明治三十八年奉天の宿営にて撮影、机上の書籍中に佐々木信綱博士より贈られたる万葉集あり
こちらでも目は▽に見えない

口絵4
大正五年彫刻家武石弘三郎氏のアトリエにて撮影
左向きで、右目が暗くて見えない白黒写真。左目の形が◣に見えるが▼には見えない。大正五年は西暦1916年。

森鷗外 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E9%B7%97%E5%A4%96
で「54歳の森鷗外(1916年)」とある写真だ。


口絵5
大正十一年七月十一日通夜の寄せ書(本文274頁参照)


凡例
一、文中に掲げる書名、題名は、兄の作に係るものは括弧「 」を附け、他人のは〔 〕を附けて区別した。


p.1から
1 出生より上京まで

鷗外漁史の号は留学より帰った後から用ひ出したとは今迄の説であつたが、独逸滞在中に愛読したギヨオテ全集に既にこの号を用ひてゐた證跡があり、
[
證=証。
証跡(しょうせき):後の証拠となる痕跡。
「證跡」や「用ひ」など原文通りの旧仮名表記の場合あり。
ドイツ滞在中にゲーテ全集を愛読していたんだ。]


 兄(=鷗外。著者は鷗外の弟)は文久二年正月十九日石見国鹿足群津和野町字(あざ)横堀に生れた。森家は慶安年間の玄篤から明かに知られてゐるが、それから天保年中に歿した周庵まで十一代、皆藩の典医であつた。

「ギヨオテ全集タイトル」の画像があり、「明治十九年一月」や「鷗外漁史」などと書かれている。

周防三田尻から医学修行に来てゐた吉次泰造が、白仙の眼識によつて一女峰子の婿となり、名を静泰といひ、後に和蘭(オランダ)医学を修め、維新後静男と改めた。白仙の歿した翌文久二年男子が生れたのが卽(すなわち)林太郎である。
(「(オランダ)」や「(すなわち))」は元の本には無い、私の補足。これからはいちいち書かないと思う

 兄は慶應二年五歳の春から親戚で藩の儒者米原綱善翁に就いて学問を始めた。当時学問といへば漢学が主流であつたから、先づ大学より初めて(原文ママ)中庸、論語、孟子の素読を受ける事となつた。父は藩命で蘭医方を学ぶために、江戸の松本良順翁、佐倉の佐藤尚中翁など斯道の大家に随って、修行に餘念(よねん)がなかつたから、兄の復習の監督は母の任であつた。

従来漢医方は勿論のこと、本邦の古方を書いたものも、悉くが漢文であるから、漢学の力が無ければ咀嚼することが出来ない。そのため五六歳から漢籍の師匠に入門することになつてゐる。

古方:漢方医学の古医方 (こいほう) 。


古医方(こいほう)とは? 意味・読み方・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%8F%A4%E5%8C%BB%E6%96%B9/#jn-71392
”漢方医学で、後漢時代の医学を行う一派。「傷寒論」「金匱 (きんき) 要略」などに示された処方を行う。日本では江戸前期から行われ、後藤艮山 (こんざん) ・山脇東洋らがいる。古方家。→後世方 (ごせいほう) 

出典:デジタル大辞泉(小学館)”


 時勢は進んで、漢学万能の時代は去り、洋学勃興の機運に向つて来たから、明治三年より父に就して和蘭文典を学んだ。
(鷗外[林太郎]は父がオランダ医学を修めた。林太郎は最初は漢籍を学び、次にオランダ語。医者の家系でオランダ語を学習。オランダ系メイソンが狙うのはこういう家だよな)

p.5から
兄は医学を研究するにはドイツ語を知らねばならぬとて、当時本郷壹岐殿坂にあつた進文学社に入ることゝ定めたが、向島からでは通学に不便なため、神田小川町の西周氏邸に置いて貰つて、其處から通学する事となつた。

オランダ系のメイソンの西周が登場。西家と森家は親戚。
森鷗外ってケツ社員になりたくなくても、ならざるをえない家と人脈だよなあ。
明治維新(江戸瓦解)前後のオランダの動きはマジで怪しい。出島にいたからな。蘭学経由でスパイも入れやすいし。


壹=壱。
處=処。
医の旧字である醫は手書きするのは大変すぎるので、簡略化して正解だと思う。
もし「醫」のままでなら、手書きではカタカナで「イ」って書いていたと思う。

西氏の先は遠江相良の名族、その裔故あつて医となつて、肥後佐敷に移り、
(略)、肥前長崎に遷る。

時雍森高亮の二男を養子として時義といひ、時義の子が周である。高亮の長子立本早く死し、三男秀庵を嗣としたが、故ありて周防山口に逃げた為に、森家は佐々田氏の男綱淨が高亮の後を承けることとなり、これがわたくし共の祖父で、西家と森家とは親戚の間柄である。周は安政元年(1854年)藩を脱して江戸に留り、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)に入り、文久二年六月幕府留学生と共に和蘭(オランダ)に赴き、政事諸科をLeyden大学教授Visseringに受け、慶應元年十月業を卒へ、佛國船に搭じて帰朝の途に就き、十二月横濱に着して江戸に入り、二年正月開成所教授手傳(=伝)となり、三月十三日擢(ぬきん)でられて幕府直参に列し、開成所教授となり、(略) 大政奉還後は沼津に赴き、明治元年十月兵学校頭取を命ぜられ、二年津和野脱藩の罪を赦免せられ、十一月沼津を発して帰国し、三年九月朝廷より徴されて兵部省出仕兼学制取調御用掛を拝し、四年八月兵部大亟に任ぜられ、侍讀の命を受け、その秋神田西小川町に邸を定め、五年二月兵部省廃せられて陸軍大亟となつた。兄が寄寓したのはこの頃であらう。

日本では亟/焏が丞の異体字として使われることがあるらしいので、
兵部大丞。ひょうぶたいじょう。
兵部の丞(じょう)は、兵部省の判官(じょう。四等官の第三位)であり、大・少・権の区別がある。

侍讀=侍読(じとう。じどく) :
天皇・東宮(皇太子)に仕え、学問を教授する学者。また、その職。侍講。


オランダ系メイソンが天皇家に学問を教える人になった。
『石の扉』p.199の一部を要約して書く。
西周は、ライデン大学から徒歩五分のところにある「ラ・ベルトゥ・ロッジNo.7」でフリ目に加盟。推薦はフィッセリング教授。
このページには西周入会申し込み書署名の写真があり、「西周」と漢字で書いてある。



シーア兄貴(来世触手)2023/7/23~8/3と良呟きや記事の保管庫。ワールドSTAP石森メイト。『ゼイリブ』。プロイセン。満鉄。オーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会。ライデン大学、ホフマン、西周、津田真道
Posted on 2023.08.04 Fri 19:28:33
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-531.html
”https://twitter.com/aoJvqLcHOrs7UWg/status/1686133348878483457
”来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
オーアーゲーの創設者メンバーにいるヨハン・ヨーゼフ・ホフマンで調べてご覧
嘘周と津田虚道の案内役やっていやがるし、どうやらフルチンソーメン辺りの伝諸々は相当コイツが怪しい
結局、英米・ユダ公陰謀論は所詮英語止まりのしょうもない連中が流布しているだけのゴミカスが実態臭い
午前6:54 · 2023年8月1日
·
702
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ドイツ人であるヨハン・ヨーゼフ・ホフマンは世界で最初の日本語学の教授職が置かれた(1855年)オランダのライデン大学の教授。
ライデン大学だし、西周と津田真道と関係しているので目イソンだろう。ホフマンと西周と津田真道は近所に住んでいた。完全に日本語研究の協力関係にある。


森鴎外を詳しく解説しようとすると、西周の解説も必要なので、西周の解説も登場する。



2 大學より陸軍出身まで

p.8
大学卒業当時の兄
の写真がある。▽の目に見えない

七月四日表向き二十歳、大学始まっての弱年(ママ)で卒業して医学士となった。

p.10
陸軍二等軍医時代の兄
の写真。鷗外の目は横に細長い楕円みたいな形だな。▽ではない


3 留學時代

p.13
留学中
の写真。実に横に細長い目だな

4 文壇に乗出した時代

p.42

 一月三日國民之友第六巻第六十九號新年附録に「舞姫」、八月しがらみ草紙第十一號に「うたかたの記」 を發表した。掲載は前後するが、「うたかたの記」の方が前に書かれたと聞いてゐる。兎に角この二作の發表が、兄の文壇に於ける位地を確固たらしめたものであつた。

『うたかたの記』の方が前に書かれたとするなら、ケツ社度が高い方の作品が先ということになる[それなら二作目でいきなりケツ社度が上がる人ではないということになる]。だが、発表はケツ社要素が無いまたはほぼ無い『舞姫』が先。先ずはケツ社要素が無いかほぼ無い作品を発表して、自身の物語を作る能力を判断してほしかったのかもしれない。ケツ社的要素抜きでの評価が欲しかったのかもしれない


5 文壇活躍時代の上(花園町時代)


6 文壇活躍時代の中(太田の原時代)

p.59
 第三の創作「文づかひ」は、一月二十八日新著百種第十二號として吉岡書店から刊行された。四六判、仮綴、紙装、五十六頁、幸田露伴氏の〔聖天様〕三十頁と合綴、表紙は木版でピラミツト及びスフインクスを現はせる風景畫(=画)の上に、留針で蝸牛の畫を附けた圖案(ずあん)で、巻首に落合直文氏の書簡が木版刷にしてある。挿繪(=絵)は原田直二郎氏の筆に成り、日本の陸軍将校が腰かけた西洋貴婦人と對(たい)して椅子に身を寄せて立てる図であるが、その将校の顔が兄に似てゐるといはれた。
(對=対)

文づかひ表紙
にて、ピラミッドとスフィンクスが描かれている。エジプト強調。
カタツムリも描かれている)

独逸日記に十八年八月二十七日独逸第十二軍団の秋季演習に参加し、(略)。

p.60
(略)と記してある。これに架空の筋を織り交ぜて一篇の小説とした。
鷗外自身の体験に基づく箇所と、架空の箇所がある

p.61
ルウソオの懺悔記を訳載したことを知つた。


7 文壇活躍時代の下(觀潮樓時代)


8 目不醉草時代(觀潮樓時代の二)

p.96
 同三十一年(の記述が以下だ:)

 八月九日から時事新報に「智慧袋」を連載したが、序言に觀潮樓主人と署し、(二)から鷗外譯補となつてゐるが、その據る所の原書は不明である。

(一)序言八月九日、(二)十日、(中略)
(ここからp.97)
(三十九)十月一日、(四十)二日、(終)五日。

智慧袋は原文ママ。智恵袋が正しい。惠の旧字は惠なので、慧は恵の旧字ではない。
譯=訳。
據=拠。
まだクニッゲ『交際法』が元ネタだと知られてしなかった頃の本だ。
1898年=明治31年の箇所。


十一月二十一日「西周傳」が(略)西男爵家から刊行された。養嗣子紳六郎男から依嘱により、手記その他の資料によりて編纂し、十月仮印刷に附して勝海舟伯以下故人の知友に配布して訂正増補を受け、それを整理したもので、固より非賣品である。
(賣=売。
ケツ社に貢献する仕事をしている鷗外。
勝海舟の生存期間は、文政6年1月30日〈1823年3月12日〉- 明治32年〈1899年〉1月19日)なのでギリギリ生存中だ)



9 沈黙時代(觀潮樓時代の三)

p.112
二月一日の二六新報から千八の名を以て「心頭語」を載せ始めた。これは岡野碩氏の依頼に応じたもので、執筆に当つて新聞社と左の如き約束を結んだ。
(小堀の『智恵袋』本の解説に書いてある約束。すでに過去記事で記したので省略)

p.117
五月二六新報に無名氏の書名を以て、マキアヴエリイの著作で小冊子ながら難解を以て知られた「人主策」の提要鈔解を二十四回に分載した。
鈔には抜き書きするという意味があるので、一部のみの和訳だと分かる


10 藝文及び萬年艸時代(觀潮樓時代の四)

11 日露戰役出征(觀潮樓時代の五)


12 活躍準備時代(觀潮樓時代の六)
p.176
 二十六日文部大臣官舎に開かれた臨時仮名遣調査会で意見を述べ、更に三十日会で陸軍を代表して現在の仮名遣に対して絶対反対の演説をなし、その結果文部省案が撤回され、ついで委員会も廃されるに至った。

新仮名遣いに反対した森鴎外 「日本語を作った男」上田万年とその時代(山口謠司著)より
新板さん
新板さん
2021年7月15日 19:10
https://note.com/itakurarosen/n/n66f8f25b94b5
”上田万年は言語学を修めるため、文部省からの派遣留学にドイツに3年・フランスに半年行きました。

その成果として、万年は、明治31(1898)年の7月に「国語改良会」を設置することの必要を説いて、それが明治35(1902)年の文部省の「国語調査委員会」となり、何度も議論を重ねてきました。

万年が「国語改良会」を作ったのは、みんなが共通に使うことができる「国語」を作るためです。日本語を研究することによって、「国語」が必要だと万年は感じました。

「国語」は、「すべての日本国民のための言語」です。

「これから日本が世界に向かって大きく前進するためには、地方の人と都会の人が同じ言葉で意見を言い合えるようにならなければならない。身分の上下、職業の違いを超えて、話ができる「国語」が必要なのだ。」
万年はそう考え、みんなで新しい日本語である「国語」を作ろうとしていました。

明治38(1905)年、夏目漱石が「ホトトギス」に書いてくれた「吾輩ハ猫デアル」は、まさにその大きな布石でした。この調子で、漱石がもっとおもしろいものを書いてくれれば、これが日本中に広がって、新しい口語表現の新仮名遣いが普及してくれるに違いないと思っていたのだが、・・・ここで鴎外が出て来てしまった・・・

明治41(1908)年6月26日、臨時仮名遣調査委員会、第4回委員会に、「陸軍軍医総監・陸軍省医務局長 森林太郎」森鴎外が、万年の意図する仮名遣いに反対するために参加したのでした。

森鴎外の主張のポイントは以下の通りです。
〇仮名遣いの改定は、国語表記の伝統を乱すものである
〇発音通りに表記することは実際上不可能なことである
〇それを無理して行えば、表現を乱雑にし、かえって混乱を招くことになる
〇発音は変化するもの、表記は固定的である。この両者の異なりをどちらかで確定してしまうことはそもそも不可能なことである
〇文字や言語は自然の推移に任せるべきであり、法令などでこれを統一することは行うべきではない

森鴎外は、明治41(1908)年の臨時仮名遣調査委員会で、上記の主旨で大演説をして、結果として仮名遣い改正案をひっくり返します。

しかし、その後、旧仮名遣いを主張した鴎外の文章は、年を追うごとに人気が無くなっていきます。読み難いからです。これに対して、漱石の書くものは非常によく読まれるようになります。


しかし、その漱石も後期三部作を書き終わると、もうまとまったものが書けなくなってしまいます。

ただ、漱石には、漱石の文体を引き継ぐような、「木曜会」にいた弟子たちが育っていました。小宮豊隆・鈴木三重吉・内田百閒・寺田寅彦・芥川龍之介・久米正雄等。彼らがその後の「日本語」を作っていきます。

そして、鴎外も、大正に入って以降は次第に、「言文一致」に近い日本語で、小説を発表するようになっていきます。

そしてそれから38年後の昭和21年(1946)年に当用漢字ならびに新仮名遣いの告示がなされるのです。


私たちは、生まれた時から新仮名遣いの「国語」に浸かってきましたから、それ以前の「日本語」を読むことはできても、書いたり・話したりすることはほぼ不可能です。

「現代国語」が当たり前になってから、実はまだそれほど時がたっていないのだと、この本を読んで今更ながら気づかされました。
” ※着色は引用者

《仮名遣意見》(かなづかいいけん)とは? 意味や使い方 - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%AE%E5%90%8D%E9%81%A3%E6%84%8F%E8%A6%8B-1291389
”世界大百科事典(旧版)内の《仮名遣意見》の言及
【森鷗外】より

…しかし,現実の時代状況への対応も敏感で,華族の嫡男を主人公とする《かのやうに》(1912)以下一連の秀麿(ひでまろ)物や《沈黙の塔》(1910)では,大逆事件に象徴される政府の社会主義弾圧政策に対して,強い危惧を表明している。文部省の国語政策に干渉して,歴史的仮名遣いの改定を阻止した《仮名遣意見》(1908)もあった。やや長編の作では,知識青年の個性形成史を追った《青年》(1910‐11),薄幸な女性のひそかな覚醒と失意のドラマを描いた《雁》(1911‐13)などがあり,後者は青春の追憶をこめたロマンティックな抒情がただよう。…

※「《仮名遣意見》」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
” ※着色は引用者

青空文庫
森鴎外 假名遣意見
https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/677_22837.html
”言語の變遷は口語の上にあります。それは自然に行はれて行く。文語の方になりますと云ふと、是れは人工の加つたものである。假名遣も同樣である。併し文語になつてから初めて言語は完全になる。言語が思想を十分に表はすと云ふことが初めて文語になつてから完全になる。假名遣は其の文語の方の法則である。
(略)
(明治四十一年六月)
” ※着色は引用者

「文語になつてから初めて言語は完全になる」ってのは文語だと変化が抑制されて固定されるからなんだろうな。
この文章にて、「弖爾乎波(てにをは)」という言葉が登場する。かめはめ波みたいな必殺技名に使えそうな語だ。




13 文壇再活躍時代(觀潮樓時代の七)

p.182
 同四十二年は一時文壇と関係を絶った兄が、再び旺盛な創作的活動を開始した年である。
[1909年(明治42年) ]

p.183
魔睡  昴 第六號 六月一日

ヰタ・セクスアリス   昴 第七號 七月一日

鶏  同 第八號 八月一日
催眠でえっちなことをされた疑惑の話と、性欲的生活の話が同時期なんだ
 

p.206から
 フアウストの翻訳も是月からで、日記に
三日(月)。雨。文藝委員会を開く。岡田委員長良平病めるをもて予その職務を代理す。Faustを訳することを嘱託せらる。
十月三(火)。陰。Faust第一部訳稿を校し畢る。
(ファウストの和訳は嘱託だったんだな。自発的でなくてもケツ社に貢献したのは変わらない)


p.219
Poeの「病院横町の殺人犯」(略)を訳出した。
推理小説で極めて重要な作品も和訳している。
モルグ街の殺人を訳したのは確かだが、ドイツ語からの重訳らしい


p.220
(日記)
七日。晴。Macbethの翻訳に着手す。
ケツ社的な重要な作品を色々訳しているのが鷗外


14 歴史小説の製作(觀潮樓時代の八)
15 考證學者傳記の研究(觀潮樓時代の九)


16 帝室博物館總長兼圖書頭(觀潮樓時代の拾)
p.275
姉崎(正治)、鈴木(三重吉)、芥川(龍之介)の諸氏が書名された。
[口絵5
大正十一年七月十一日通夜の寄せ書(本文274頁参照) について。
姉崎正治も署名している。
大正十一年七月十一日通夜の寄せ書の色付き画像(おそらく写真):

https://x.com/100nen_/status/1546464573175250952
”百年前新聞
@100nen_
速報◆11日、故・森鷗外の自宅「観潮楼(かんちょうろう)」で通夜。多くの文化人が参列し、「哀悼寄書」を書く。 =百年前新聞社 (1922/07/11)

▼頭書は山根武亮男爵。右上の漢詩は鷗外の作。北原白秋、与謝野鉄幹らの短歌のほか、永井荷風、小山内薫、鈴木三重吉、芥川竜之介などが署名を寄せる。
画像
午後9:01 · 2022年7月11日”
(上記の続き)
https://x.com/laurusesq/status/1546469180832362496
”百年前新聞社・社主
@laurusesq
漢詩は歴史学者の萩野由之と市村瓚次郎が書き写したもので、書家の黒木欽堂(安雄)が来歴を書いています。

画を描いたのは日本画家の久保田米斎(水鳥)、洋画家の石井柏亭(花)、山本鼎(アメンボ)です。
午後9:19 · 2022年7月11日

https://x.com/laurusesq/status/1546469735751364608
”百年前新聞社・社主
@laurusesq
署名は、中央に永井荷風、小山内薫。
その左に吉井勇、内田魯庵(貢)。
左下に、右から順に鈴木春浦、小島政二郎、姉崎正治、鈴木三重吉、芥川龍之介です。

そのほかはどれがだれなんでしょう……。
白秋と鉄幹(与謝野寛)がわからない……。
引用
百年前新聞
@100nen_
2022年7月9日
【号外】午前7時、文豪・森鷗外、萎縮腎により死去。60歳。代表作『舞姫』『ヰタ・セクスアリス』『山椒大夫』『高瀬舟』など多数。 =百年前新聞社 (1922/07/09)
画像
午後9:21 · 2022年7月11日


https://x.com/100nen_/status/1545603892922257410
”百年前新聞
@100nen_
【号外】午前7時、文豪・森鷗外、萎縮腎により死去。60歳。代表作『舞姫』『ヰタ・セクスアリス』『山椒大夫』『高瀬舟』など多数。 =百年前新聞社 (1922/07/09)
画像
午後0:00 · 2022年7月9日”
(この鷗外の写真は右目は潰れて丸くした△にはまったく見えないが、左目は、潰して細長くした△に見えないこともない。▽ではない)
(上記の続き)
【社主のニュース解説】《訃報》
本日、大文豪の森鷗外先生が萎縮腎のため亡くなりました。享年60。本名、森林太郎。陸軍軍医としても活躍するかたわら、『舞姫』や『高瀬舟』などの作品を執筆。さらに『即興詩人』『ファウスト』などの名訳も名高く、日本を代表する文豪として名声を得ました。
午後8:30 · 2022年7月9日

【社主のニュース解説】《訃報》
鷗外先生は、幼いころから論語や老子を学び、将来を嘱望されました。さらに11歳にして東京医学校(現、東京大学医学部)に入学し、史上最年少の19歳で卒業するなど類いまれなる才能を発揮。卒業後は軍医となり、45歳で軍医の最高階級にあたる軍医総監に就任しました。
午後8:45 · 2022年7月9日

【社主のニュース解説】《訃報》
文筆家としては、ドイツ留学時代を扱った『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』のドイツ三部作が初期の代表作です。特にロマン主義の『舞姫』は、国か恋かを選ぶ苦悩を通じて、個人の心の内という「近代的な自我」を描き、文学史の上でも記念碑的な作品となりました。
午後9:00 · 2022年7月9日

【社主のニュース解説】《訃報》
小説とは理想を描くものだとする鷗外先生は、主観を捨ててありのままに人間を描く写実主義を貫く坪内逍遥氏(63)と論争を繰り返しました。晩年には歴史小説も執筆し、史実に比較的忠実な『阿部一族』や、創作を加えた『山椒大夫』『高瀬舟』などが知られています。
午後9:15 · 2022年7月9日

【社主のニュース解説】《訃報》
また、軍医としては兵士に蔓延する脚気を伝染病だと考えました。日露戦争当時はまだビタミン不足が原因だと分かっておらず、麦飯を食べれば脚気が改善されるとする寺内正毅陸軍大臣(当時)との口論もあったようです。

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引用
百年前新聞
@100nen_
·
2021年11月21日
科学◆21日、慶應義塾大学の大森憲太教授(32)が、東京医師会で発表。脚気の原因がビタミン(オリザニン)の不足であることを実証した。かつては伝染病や中毒とも言われていたが、これにより脚気の原因がビタミン不足でほぼ確定する。 =百年前新聞社 (1921/11/21)

関連記事:
https://x.com/100nen_/status/720235131844366337
午後9:30 · 2022年7月9日

【社主のニュース解説】《訃報》
鷗外先生は昨年ごろから体調が悪化。肺結核の症状を併発しながら、偏見を避けるため萎縮腎の診断だけを受けたようです。遺言では「森林太郎として死せんと欲す」と残しており、墓には「森林太郎墓」とだけ彫られる予定です。

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引用
百年前新聞
@100nen_
2022年7月6日
速報◆6日、病状が悪化した文豪・森鷗外(60)が、遺言を残す。「余は石見人 森林太郎として死せんと欲す。墓は森林太郎墓の外(ほか)一字もホル可らず」と述べる。親友の賀古鶴所(かこ・つるど)(67)が、聞き取って記述した。夜から容態が悪化。 =百年前新聞社 (1922/07/06)
午後9:45 · 2022年7月9日

【社主のニュース解説】《訃報》
語学にも堪能だった鷗外先生は、子に於菟(おと)、茉莉(まり)、杏奴(あんぬ)、不律(ふりつ)、類(るい)と珍しいドイツ風の名前をつけました。とにもかくにも、高踏派・森鷗外は、余裕派・夏目漱石とともに一時代を築いた文豪として語り継がれることでしょう。
午後10:00 · 2022年7月9日
鷗外は芥川と対照的に、完全に政府側の人。芥川も海軍と関わっていたころはあるけど生涯そうだったのではない。芥川は、西周というメイソンと親戚じゃなかったのが大きいだろうな。
鷗外の軍医つまり医療系での分析もわずかにしておく。コッホ人脈なのでノーベル賞人脈でもある。その意味でも赤だな。
コッホはノーベル生理学・医学賞を1905年に受賞


百年前新聞
@100nen_
速報◆6日、病状が悪化した文豪・森鷗外(60)が、遺言を残す。「余は石見人 森林太郎として死せんと欲す。墓は森林太郎墓の外(ほか)一字もホル可らず」と述べる。親友の賀古鶴所(かこ・つるど)(67)が、聞き取って記述した。夜から容態が悪化。 =百年前新聞社 (1922/07/06)
午後8:30 · 2022年7月6日

百年前新聞
@100nen_
訃報◆14日、海軍軍医・高木兼寛(かねひろ)、没。70歳(誕生:1849/10/30)。医学博士として兵士の食事に「海軍カレー」を導入し、兵士に蔓延する脚気を激減させた。脚気をめぐっては、陸軍軍医・森林太郎(森鷗外)と対立した。本日散歩中、突如倒れ、死去。 =百年前新聞社 (1920/04/14)
午後8:00 · 2020年4月14日

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百年前新聞
@100nen_
訃報◆14日、海軍軍医・高木兼寛(かねひろ)、没。70歳(誕生:1849/10/30)。医学博士として兵士の食事に「海軍カレー」を導入し、兵士に蔓延する脚気を激減させた。脚気をめぐっては、陸軍軍医・森林太郎(森鷗外)と対立した。本日散歩中、突如倒れ、死去。 =百年前新聞社 (1920/04/14)
午後8:00 · 2020年4月14日

古典厩
@T_KOTEN_Q
高木兼寛が主人公の歴史小説、吉村昭『白い航跡』(講談社文庫)
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午後8:10 · 2020年4月14日

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百年前新聞
@100nen_
科学◆25日、臨時脚気病調査会が解散。1908年に当時の陸軍省医務局長・森林太郎(鷗外)の主導で設立され、国家の総力を上げて研究を進めてきた。脚気の原因がビタミンBの欠乏にあることが判明し、その役割を終えた。 =百年前新聞社 (1924/11/25)
午後9:00 · 2024年11月25日
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百年前新聞
@100nen_
科学◆21日、慶應義塾大学の大森憲太教授(32)が、東京医師会で発表。脚気の原因がビタミン(オリザニン)の不足であることを実証した。かつては伝染病や中毒とも言われていたが、これにより脚気の原因がビタミン不足でほぼ確定する。 =百年前新聞社 (1921/11/21)

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引用
百年前新聞
@100nen_
·
2016年4月13日
速報◆13日、陸軍に設立された「脚気病調査会」の初代会長・森林太郎(54)が辞任する。脚気を伝染病として研究したが、改善が見られなかった。 =百年前新聞社 (1916/04/13)
▼『舞姫』『高瀬舟』などの小説でも知られる森林太郎
画像
午後9:00 · 2021年11月21日


https://x.com/100nen_/status/720235131844366337
”百年前新聞
@100nen_
速報◆13日、陸軍に設立された「脚気病調査会」の初代会長・森林太郎(54)が辞任する。脚気を伝染病として研究したが、改善が見られなかった。 =百年前新聞社 (1916/04/13)
▼『舞姫』『高瀬舟』などの小説でも知られる森林太郎
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午後10:00 · 2016年4月13日”
この森林太郎の左目の形は三角っぽさがないが、右目は、潰して丸くした△に見えなくもないが、単なる楕円の変形にみ見える。▽ではないな。
『ヰタ・セクスアリス』では「君の目は基線を上にした三角だと云ったが、その倒三角形の目 」なので、◀みたいな形ではない、『ヰタ・セクスアリス』の目の形は創作っぽいな



17 餘録

擱筆の辭





『森鷗外の世界』

『森鷗外の世界』(小堀桂一郎、講談社)
『森鷗外の世界』講談社 1971

小堀桂一郎 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%A0%80%E6%A1%82%E4%B8%80%E9%83%8E

『森鷗外の世界』講談社 1971 - 訳・解説
• 改訂『森鷗外の「智恵袋」』講談社学術文庫 1980

「改訂」(内容を改め正すこと)って合っているのか?
その確認ために読んだ。


『人間交際術』は元・元祖イルミナティの重鎮クニッゲが書いた今も役立つ本(鷗外と関係あり)。元祖イルミナティ資料集。元祖イルミナティ会員フーフェラント『マクロビオティック(長命術)』
Posted on 2025.05.02 Fri 07:24:56
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-595.html

小堀桂一郎 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%A0%80%E6%A1%82%E4%B8%80%E9%83%8E

『森鷗外の「智恵袋」』(講談社学術文庫 1980)は、『森鷗外の世界』(講談社 1971。訳・解説)を改訂したものだ。



小堀桂一郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%A0%80%E6%A1%82%E4%B8%80%E9%83%8E
”『森鷗外の世界』講談社 1971 - 訳・解説
• 改訂『森鷗外の「智恵袋」』講談社学術文庫 1980

の箇所が誤りだと確定した。どこが訳・解説と改訂だよ。全然違う内容だ。


『森鷗外の世界』
昭和46年5月8日 第1刷発行
(1971年)
著者 小堀桂一
発行者 野間省一
発行所 株式会社講談社

本書は、旧字旧かなで書かれていないので読みやすい。

p.7から
 第一部 ミュンヘンにおける鷗外の世界

 上『うたかたの記』

 一 ミュンヘン――1886年

『うたかたの記』は『舞姫』につぐ森鷗外の創作第二作として明治二十三年(1890年)八月二十五日刊行の「しがらみ草紙」第十一号誌上に発表された。制作の順序から言えば、発表のそれとは逆に『舞姫』の方があとで、すなわち『うたかたの記』が鷗外の創作小説の処女作であったというのが定説になっている。この説の典拠は、おそらくは鷗外全集刊行会編の「鷗外全集」第五巻(昭和二年)の後記で与謝野寛が『うたかたの記』について〈これが先生の小説の処女作である〉と書いていることであろう。森潤三郎もその『鷗外森林太郎』(昭和十七年)で〈掲載は前後するが、『うたかたの記』の方が前に書かれたと聞いてゐる〉と言う。この〈聞いてゐる〉が鷗外自身から直接にか、あるいは近親からの伝聞かとすれば信憑性は高いわけだが、上記の「鷗外全集」後記に依っての発言だろうということも考えられよう。この作品は発表された当初から、『舞姫』と同様、鷗外がドイツ留学中の見聞・体験に素材を得て成った小説であるということは、どの読者の眼にも明らかだったであろう。
[『うたかたの記』が処女作って定説らしい。『舞姫』と平行して書かれた可能性もある。
処女作って意味が、最初に完成したって意味だとするなら、ケツ社度が高い作品を最初に完成させたことになる。だが、発表は『舞姫』が先。もしかしたら、最初からケツ社度が高い作品を発表すると、公平な評価(物語の質への評価)を得られないと判断したからかもしれない。]


p.27
鷗外は自由な創作の中においても、一旦自分の経験を基にして書くとなると、なかなかそこから思い切って離れることのできない人であった。
(だから鷗外が雛形[モデル]の作品での描写が参考になるんだな)


p.56から

クツツゲが交際法あれば、フムボルトが長生術あり。
(などと引用されているが略す)

 ここで作者はカトリック勢力の強い南ドイツの民衆の素朴な宗教感情に一言言及している。プロテスタントとカトリックとの対立はヨーロッパ社会のかかえている根深い問題である。この件(くだ)りはそれに対する鷗外の興味の反映であろう。ここに記されたマリイの読書体験は(これはすなわちイギリス人一家の家庭教師をつとめていた夫人の蔵書なので)当時の平均的な知的水準にあるドイツ人の読書傾向としてみて面白い。クニッゲの《Über den Umgang mit Menschen》はよく、語られること多くして読まれること少ない本、などと言われるが、必ずしもそうとは言えない。クニッゲは1752年ハノーファーに生まれた文士で、小説、詩、戯曲等に一通り手を染めた間口の広い著述家だが、彼の著作中最も有名なもの、というよりもむしろ後世にまで残った唯一のものはこの『交際法』で、これが刊行されたのは1788年であるから、鷗外の留学当時においてみても、まさに百年のベストセラーであった。今日でも兎に角幾度か版を改めては刊行され、売れつづけている。鷗外も勿論夙に読んでいたし、殊に後年、自らを不遇と感じていた小倉時代とその少し前の時期にはこれは或る意味での座右の書であった。この時代に書かれた『智慧袋』(ママ)『心頭語』においては実はこの書物の翻案に他ならない「交際術」を講述していることがこの事実をうらづけている。〈フムボルトが長生術〉というのはおかしい。フーフェラントを誤記したものであろう。Christoph Wilhelm von Hufelandの《Die Kunst, das menschliche Leben zu verlängern》は鷗外が自分で買って持っていたもので、一七九八年刊行の古色蒼然たる書物である。『カズイスチカ』に、花房の父について〈翁の医学は Hufeland の内科を主としたもので、其頃もう古くなつて用立たないことが多かつた〉と出ている。我国でも緒方洪庵訳『扶氏経験遺訓』や、杉田成卿訳『医戒』(いずれも蘭訳からの重訳)によってよく知られていた医学者である。ケーニヒの通俗文学史も鷗外がドイツで所有していたものだ。『独逸日記』明治十九年一月二十日、ドレスデン滞在中の記事に、十九日の鷗外の誕生日の祝に、ロート、ヰルケ、マイエルの署名入りのこの書を贈られたことが見えている。テーヌが美術論の訳書とは、《Philosophie de l’Art》の独訳《Philosophie der Kunst》のことであるが、鷗外がこの書を自ら購求したのはずっと後のことのようである。

夙(つと)に:ずっと以前から。早くから。

鷗外『智恵袋』『心頭語』(元祖イルミナティの重鎮クニッゲ『交際法』が元)。『慧語』『妄想』
Posted on 2025.05.28 Wed 00:18:14
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-598.html
”小堀は、1961(昭和36)年から1963(昭和38)年にドイツに留学した。
「改訂」とあるのだが、『森鷗外の世界』の方も『智恵袋』の原文や口語訳や解説があるのかが気になる。
「そんな経験があってから十年近くも時を経たのち」ってことは、1971~1973年かその前後だろう。そんなにすぐに書き終わるとは思えないので、『森鷗外の世界』にクニッゲと『智恵袋』の関係が書いているのかどうかは、直接読まないと分からないな。


『森鴎外の世界』は
昭和46年5月8日 第1刷発行、つまり1971年発行なので上記の予測はだいたい合っていたようだ。この本を書きつつ気づいたのか、それ以前から気づいていたのかは分からない。



p.92から
近代日本文学の成立に対して外国文化の与えた影響ということを考えるとき、個々の作品の伝来や紹介よりも、鷗外のドイツ留学という事件こそより本質的で決定的な作用だったと認めざるを得ない所以であろう。

日本文学へのドイツの影響力は大きい。ドイツ以外の欧米文学の影響も大きいけどね


第二部 『妄想』の精神世界

p.177
だいいちあのようにニーチェの嘲罵をこうむっていた80年代のドイツに、何故日本の学会のエリートたちはこぞって留学したのか。ここでドイツの自然科学、就中鷗外の専攻学問だった衛生学の当時の水準と、彼の直接指導を受けた師であるツベルクリンの発見者コッホ、コレラ撲滅の功労者ペッテンコーフェル等の存在を考えてみるならば、自然科学の分野に於てドイツ人の果たしていた世界的役割は、当時においてこそとりわけ偉大であったには違いなかった。


p.225から
シュティルネルの自我哲学の要約が何に基づいているのか、結局断定はさけるべきであろうが、いずれにせよ『妄想』の著者がベルリン時代にすでにシュティルネルを読んだというのはフィクションである。そのことは何よりも『妄想』の行文自体が語っていよう。

 スチルネルを読んで見ると、ハルトマンが紳士の態度で言つてゐる事を、無頼漢(ぶらいかん)の態度で言つてゐるやうに感ずる。そしてあらゆる錯迷(さくめい)を破つた跡に自我を残してゐる。世界に恃(たの)むに足るものは自我の外には無い。それを先きから先きへと考へると、無政府主義に帰着しなくては已(や)まない。
 自分はぞつとした。

 ここで鷗外がおびえたようなポーズをとってみせているのはシュティルネルの排他的独占的な自我哲学の帰結に対してではなく、単に無政府主義という観念、むしろその名前に対してではなかったろうか。因みに言えば大逆事件(明治四十三年三月に発覚)の判決が下ったのは『妄想』執筆の少し前くらいに当るであろう、同年の一月十八日である。
 つまり著者にこのようなポーズをとらしめたのは決して二十年昔の思想的衝撃の記憶ではない。これは『妄想』より少し前に書かれている『沈黙の塔』(明治四十三年十一月「三田文学」に発表)、『食堂』(同年十二月同誌次号に発表)とまさしく連続している文脈の中で自然に生じた表現にほかならない。
『食堂』という作品が大逆事件の発覚に応じて書かれたものであり、殊にその被告たちへの判決が間近にせまった時期のものであることは、一篇の末尾に近い、「こん度の連中は死刑になりたがつてゐるから、死刑にしない方が好いといふものがあるさうだが、どういふものだらう」などという会話からもすぐに見てとれよう。
これはそうした時期にあった、無政府主義というものについていささか初歩的な解説を試みたものとも、また事件に対する要路の人々の反応を諷したものともとれる妙な性格の短篇だが、そこで無政府主義というものは〈五十年余り前(1856)に死んだMax Stirnerが極端な個人主義を立てたのが端緒になつてゐると、一般に認められてゐるやうです〉と解説され、そのあとにつづく系図として、プルードン、バクーニン、クロポトキンの名があげられることになる。いかにもこの三人は明治絶対主義政府の元老には恐しい名前であったろう。だがそれとシュティルネルがどうつながっているかは、すでに『食堂』中でも、〈スチルネルは哲学史上に大影響を与へてゐる人で、無政府主義者と云はれてゐる人達と一しよにせられては可哀相だ。あれは本名を Johann Kaspar Schmidt と云つて、伯林で高等学校の教師をしてゐた。有名な、唯一者と其所有を出す時に、随分極端な議論だから、本名を署せずに出したのだ。併し今では Reclam 版になつてゐて、誰でも読む〉といった註釈がつけられている。『妄想』の著者がシュティルネルの哲学の帰着が無政府主義にならざるをえないと悟って、すでに明治二十年という昔において〈ぞつとした〉記憶があるというのはいかにも見えすいたフィクションではなかろうか。


p.258から
鷗外は四十一年脚気問題解決のための専門的研究機関設立の必要を寺内陸相に建議していた。それが実現の運びに至って同年六月臨時脚気病調査会が官制として発足し、鷗外はその初代会長を引き受け、大正五年現役を退いて予備役に編入されるまでその地位にあった。退官の後もこの調査会には臨時委員の資格を以て、ほとんど皆勤の形で出席しておりそれが没年にまで及んでいる。
 脚気問題そのものに限ってみれば、鷗外の麦食採用を非とする説は結果的には当を得ていなかった。それは明治四十四年の鈴木梅太郎によるオリザニンの発見とその効果の実験的証明が示す通りである。また日露戦争当時には陸軍もその科学的根拠を実証できぬままに、経験からわり出して米麦混合食支給にふみきったものであった。しかしこのことは言うまでもなく、鷗外の主張の学問的敗北を意味するものではない。むしろ脚気調査の専門機関を設立までして問題の解決につとめた、彼の長い地道な努力と、伝えられているところの、セクショナリズムを厳に排した調査会運営の方針が称揚されるべきであろう。

https://x.com/100nen_/status/1861017220731539652
”百年前新聞
@100nen_
科学◆25日、臨時脚気病調査会が解散。1908年に当時の陸軍省医務局長・森林太郎(鷗外)の主導で設立され、国家の総力を上げて研究を進めてきた。脚気の原因がビタミンBの欠乏にあることが判明し、その役割を終えた。 =百年前新聞社 (1924/11/25)
午後9:00 · 2024年11月25日·6.1万 件の表示”

https://x.com/100nen_/status/1929870915518534123
”百年前新聞
@100nen_
速報◆3日、「脚気病研究会」が設立されることが決定する。昨年に解散された「臨時脚気病調査会」の研究を引き継ぎ、治療法・予防法の確立を目指す。 =百年前新聞社 (1925/06/03)

関連記事:
引用
百年前新聞
@100nen_
2024年11月25日
科学◆25日、臨時脚気病調査会が解散。1908年に当時の陸軍省医務局長・森林太郎(鷗外)の主導で設立され、国家の総力を上げて研究を進めてきた。脚気の原因がビタミンBの欠乏にあることが判明し、その役割を終えた。 =百年前新聞社 (1924/11/25)
午後9:00 · 2025年6月3日·2.6万 件の表示



 仮名遣改良の議論もあつて、コイスチヨーワガナワといふやうな事を書かせようとしてゐると、「いやいや、Orthographie はどこの国にもある、矢張コヒステフワガナハの方が宜しからう」と云つた。

 仮名遣改良の議論に対して鷗外が発言したのは食物問題や都市・住宅問題に関しての彼の立言に比べるとずっと後年のことである。彼に『假名遣意見』という極めて興味深く、そして影響の大きかった論文があり、そしてそれは、明治四十一年六月二十六日臨時仮名遣調査委員会第四回の会合における、委員の一人としての鷗外の講演筆記であることは、周く人の知るところであろう。この『仮名遣意見』には漸進的改良主義とも称すべき鷗外の立場は鮮明に表われている。そしてこの文章は、漸進的改良主義というのものが急進的改革主義と頑固な保守主義との中間に位する妥協的折衷的産物ではないのであって、それはこれらの両極端とは量的にではなく質的に異った独自の立場であることを示す好個の文献だと言ってよいであろう。即ちまた、『妄想』の翁自身の言葉に言う「本の杢阿弥説」などという皮肉な表現をあまりまともにうけとってはならない所以でもある。


p.434から
 終りに、この本が誕生するに至った経緯についても一言しておくとすれば、これは始めから終りまで講談社文芸図書第一出版部の渡部昭男さんのお力によるものだ。最初に渡部さんから「森鷗外の世界」という題名で鷗外の生涯と文学的業績の全体をおおう一巻の評伝を書くようにというおすすめをうけたのは今から三年前のことで、その仕事に大いに意欲を感じた私は喜んでこれをお引きうけした。ところがその後私の関心が森鷗外の個々の作品についてのいささか些末にわたる考証と解釈の方に向かってしまったり、また端的に私の力量の乏しさや、加えて時間的余裕の不足からみて、お約束した通りのものはなかなか書けそうにないことがわかってきた。約束の期限はとうに過ぎてもいたし、度々催促をうけることが心苦しくもなって、私はいままでに雑誌等に発表してあったものを寄せ集めて、こんなものでもまとめて一巻になるものなら、と言って渡部さんにお渡しした。これは同氏の最初の企画とはかなりちがった性質のものであったから、甚だ歓迎すべからざる原稿だったにちがいないのだが、渡部さんは寛大にこれをうけいれて下さり、この題名のもとにまとまった一巻の体裁をなすようにいろいろと助言を与えて下さった。

 末筆ながら、著者のこれらの仕事に対し、常に暖かな関心を寄せられ、懇切な御指導と御助言を惜しまれなかった富士川英郎先生に厚く御礼を申し上げたい。
   昭和四十六年三月末日     著者





『若き日の森鴎外』
小堀桂一郎 著
出版社は、東京大学出版会
1969年10月10日初版
(1969年は昭和44年)


著者略歴
1933年 東京都に生る.
1958年 東京大学文学部ドイツ文学科卒業.
1969年 東京大学大学院人文科学研究科比較文学博士課程終了.
現在 東京大学教養学部教授.

(現住所が書いてある。今ならありえないだろうな。
戦前生まれ。
ありがたいことに、人名索引でKの項目にKniggeとある。なのでクニッゲが登場する頁数が分かるから見逃すことがない)

先に あとがき から記す。
本書は旧字で書かれているのだが、旧字で書くとは限らない。


p.717から
あとがき

p.718
昭和三六年の夏、私は西ドイツ、フランクフルト・アム・マインの大學にドイツ文學を學んでいたが、夏の休みにイタリアへ旅し、帰りにスイスからチロルの谷を抜けてオーバー・バイエルンの高地へ出た。
(昭和三六年は、西暦1961年)

p.721
 とりわけ恩師島田謹二先生には、最初のささやかな作品論の段階以来一貫して、これらをまとめて若き日の鷗外の全体像を描き上げるようにとの御激励と御鞭撻とを絶えず頂いてきた。

p.722
昭和四四年四月 著者


p.75から
ドレスデン時代後半の読書生活の中心をなすものは前述のようにハイゼ、クルツ共編の「ドイツ短篇集」の通読と、一月半ばの『ファウスト』の読了であった。これから引きのばして推測すると、ミュンヘン時代に入って鷗外が手にしたのは、『ファウスト』と同じくレクラム版ゲーテ全集中に収められた諸篇、「ドイツ短篇集」の続篇をなすハイゼ、ライストナー共編の「新ドイツ短篇集」あたりがその主要なものだったと見て大過ないであろう。

 ゲーテの諸作については、ドレスデン時代に井上巽軒から『ファウスト』の翻訳をすすめられたり、それから間もなくこの大作を読了したり、ということでいわばある程度の自信が生じたのであろう。厖大な全集を着々と読みすすめている。


p.80から
 そこでミュンヘン時代にはすでに読んでいた、少なくとも入手していたと推定される文藝方面の研究書を次に列記してみよう。

(クニッゲがないか期待して確認したが無い。フンボルトがある)
Wilhelm von Humboldt : Briefe an eine Freundin. Leipzig
[
カール・ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Friedrich Wilhelm Christian Karl Ferdinand Freiherr von Humboldt)つまり兄の方。
弟はアレクサンダー・フォン・フンボルト。
Briefe an eine FreundinはDeepL翻訳だと、
英語では、Letters to a friend。日本語では、友人への手紙。
ここからp.81
]
フンボルトの書簡と同様文藝の研究書というべきものではないが、有名なクニッゲの教養書《Über den Umgang mit Menschen》のレクラム文庫本も同じ事情からミュンヘン時代に買っていたことがわかる。

p.86から
 鷗外はすでにここで学んでいた北里柴三郎に連れられて初めてコッホに会いに行った。


 『舞姫』の成立に影響するところがあったと考えられる事件が六月の末に持ち上る。『舞姫』を扱った章で立ち入って述べることになる武島三等軍医の免職事件である。武島三等軍医が私費留学生としてベルリンに来ていたが、故国からの送金が続かず、家賃を滞納し、家主から訴えられそうになった。在ドイツ陸軍留学生取締りの任に当っていた福島安正大尉は(多分日本陸軍軍人の体面を汚したとの理由であろうが)彼に帰国を命じ、武島は大いに屈辱を感じたという事件である。この事件の背後には谷口謙の策動があったとされている。谷口謙は『ヰタ・セクスアリス』に登場する鰐口弦のモデルと見ることができるらしい。つまり、森、谷口は古く学生時代から交際があるわけであるが両者の間に友情らしきものが展開しえなかった様子は小説からもうかがわれる。ミュンヘン時代、九月二五日の日記に、〈谷口謙伯霊(ベルリン)に到ると報ず。その受くる所の學資は余の額に比すれば頗る多しとぞ〉という文字が見えることも、森が谷口に大して友誼的な感情を抱いていなかったことを示していよう。谷口が陰険な人間で種々策謀を事としたことは、後に鷗外も遠廻しにその被害を被った事実からもよくわかる。


第四部 三つの創作
第一章 『舞姫』
p.451
 岩波版「鷗外全集」第三巻(昭和二六年九月刊)の「後記」、『舞姫』の項には、佐藤春夫氏の筆で以下のように記されている。
  明治二十三年一月三日発行雑誌「國民之友」第六巻第六十九號に附録として出づ。

「塵泥(ちりひぢ)」

p.503 から
福島が武島に帰朝を命じたについては谷口謙の讒言があったらしい。


武島のみならず鷗外自身が谷口にはかなりの被害を蒙っているようである。谷口謙は『ヰタ・セクスアリス』に出てくる鰐口弦のモデルであろう。非常にシニックな、陰険な性質だったらしく、冷静大度な『独逸日記』の文体を以てしても、この人物に対する悪感情はかなり頻繁に目につく。

大度(たいど):度量が大きいこと。小事にこだわらないこと。



p.546から
 第二章 『うたかたの記』
 『うたかたの記』は森鷗外の創作の、発表の順序から言えば『舞姫』につぐ第二作として明治二三年(1890年)8月25日、「しがらみ草紙」(明治22年10月25日創刊)第一一號の巻頭に初めて発表された。ついで明治25年7月刊行の単行本「水沫集」に収録され、さらに大正4年12月刊行の「塵泥(ちりひぢ)」に入った。

現在この作品の定本と見られる岩波書店版の鷗外全集(戦前版、戦後版とも)所収のものは以上三書のうち「塵泥」を底本としており、それに「しがらみ草紙」「水沫集」を参照して校訂を施した、とされている。

 『舞姫』の場合に倣って、この作品が「しがらみ草紙」から、「改訂水沫集」「塵泥」(岩波全集版)と版を重ねるにつれてどのような字句の訂正、変更を受けたか、その経過を跡づけてみたい。

本文の基準は岩波全集版に置き、これに対する先行の二つの稿体の字句を、その箇所ごとに〔 〕で表示する。(し)が「しがらみ草紙」における形を、(水)が「改訂水沫集」における形を示している。また「しがらみ草紙」には作者自身が読み方を指定したものと思われる特別なものを含めてルビがかなり多い。

女神バワリア〔「バワリヤ」(し) バワリヤ(水)〕の像は、
(再現してもあまり意味がないので、下線が引かれている箇所であっても下線は略す)

p.556
クニツゲ〔クニツゲ(し・水)〕が交際法あれば、フムボルト〔フムボルト(し・水)〕が長生術あり。

p.563から
 『うたかたの記』は『舞姫』に次ぐ鷗外の創作第二作として明治23年発表されたものだが、制作の順序は発表のそれとは逆に『舞姫』の方が二番目で、すなわち『うたかたの記』が処女作であったという説が強い。その説の典拠は、おそらくは鷗外全集刊行会編の「鷗外全集」第五巻(昭和2年)の後記で与謝野寛が『うたかたの記』について〈これが先生の小説の處女作である〉と書いていることであろう。森潤三郎氏もその『鷗外森林太郎』(昭和17年)で〈掲載は前後するが、『うたかたの記』の方が前に書かれたと聞いてゐる〉と言う。この〈聞いてゐる〉が鷗外自身から直接にか、あるいは近親からの伝聞かとすれば信憑性は高いわけだが、上記の「鷗外全集」後記に依っての発言だろうということも考えられよう。一方佐藤春夫氏は『森鷗外のロマンティシズム』(昭和25年)の中で、〈初期の三短篇のうち書かれたのは最も早かつたと聞くが何故か反つて最後に發表された『文づかひ』は……〉と言っているが、このことを何時誰から聞いたのか、またその確証があるのかどうかについては一言も語っていない。
 この三つの初期短篇の制作順序は直接にはもはや知り得ないことだし、また特に重要ではない問題であろう。鷗外の帰朝は明治21年九月八日であり、翌22年早々にはすでに彼の言わば「文壇的」活動が開始されるのだが、『舞姫』の完成がこの年の暮近くであることが小金井喜美子氏の文章(『森於菟に』昭和11年「文學」)からうかがわれるので、これら三作はいずれも構想から完成までに一年から二年くらいの幅を以て相重なりあう期間に書かれており、要するに同一時期の制作として「一応は」一つにまとめて考えてよいものである。
(『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』を並行して内容を考えていて、書き進めていて[どれが最初に書き始めたか不明]、たまたま最初に完成したのが『うたかたの記』ってだけかもしれない。それなら、最初に発表したのがケツ社要素がほぼない『舞姫』で2番目に発表したのがケツ社度が高い『うたかたの記』なのは重要だな。処女作ぐらいは物語自体を評価してもらいたかったのかもね。
私も並行して複数の考察を書き進めていて、完成したらすぐに公開するとは限らないからね。完成順と発表順が異なるのはおかしくない)


p.600
 ここで作者はカトリック勢力の強い南ドイツの民衆の素朴な宗教感情に一言言及している。同じキリスト教ながら新教と旧教の対立はヨーロッパ社会のかかえている根深い問題であるこの件(くだ)りはそれに対する鷗外の興味の反映であろう。ここの記されたマリイの読書経験は(これはすなわちイギリス人一家の家庭教師をつとめていた婦人の蔵書なので)当時の平均的な知的水準にあるドイツ人の読書傾向としてみて面白い。クニッゲの《Über den Umgang mit Menschen》はよく、語られること多くして読まれること少ない本、などと言われるが、必ずしもそうとは言えないようである。現在でもよく売れている。いくら古来有名でも読む人がなければ刊行されつづけているはずはない。蓋し隠然たる百年のベストセラーであろう。〈フムボルトが長生術〉というのはおかしい。フーフェラントを誤記したものであろう。Christoph Wilhelm von Hufelandの《Die Kunst, das menschliche Leben zu verlängern》は鷗外が自分で買って持っていたもので、一七九八年刊行の古色蒼然たる書物である。『カズイスチカ』に、花房の父について〈翁の医学は Hufeland の内科を主としたもので、其頃もう古くなつて用立たないことが多かつた〉と、出ている。我国でも蘭訳を通詞て知られていた医学者であろう。ケーニヒの通俗文学史も鷗外がドイツで所有していたものだ。『独逸日記』明治十九年一月二十日、ドレスデン滞在中の記事に、十九日の鷗外の誕生日の祝に、ロート、ヰルケ、マイヤーの署名入りのこの書を贈られたことが見えている。テーヌが美術論の訳書とは、《Philosophie de l’Art》の独訳《Philosophie der Kunst》のことであるが、鷗外がこの書を自ら購求したのはずっと後のことのようである。

p.636から
『うたかたの記』を代表とするドイツみやげの三作は、まぎれもなく日本現代文学の出発だった。

  第三章 『文づかひ』
 鷗外の創作小説の第三作にあたるこの小品は明治24年1月28日、吉岡書店刊行の「新著百種」第一二號として世に出た。「新著百種」は言わば書き下し小説叢書の嚆矢である。


翌年七月「水沫集」に収められて以後の本文の字句の変遷は『舞姫』『うたかたの記』の場合と似ている。

前二作と同じく岩波版全集の形を基礎にとり、傍線と嵌め込みによって先行の二版での字句を示す。

(新)が「新著百種」における、(水)が「改訂水沫集」における形である。

p.639
その南のかたに高き石の塔あるは〔ありて(新・水)〕埃及の尖塔〔(ルビ)ピラミイド(新)〕にならひて造れり〔造りし(新)〕

階の両側に蹲りたる人首獅身の「スフインクス」を照したり。
(ということは2匹いるってことね。今まで気づかなかった)

p.644
尖塔〔(ルビ)ピラミイド(新)〕の下の園にて姫たち

この尖塔〔(ルビ)ピラミイド(新)〕には若かず

p.659
午後はクロケットをして遊び、それから遊苑の中を散歩する。「埃及尖塔」(「尖塔」はオベリスクと読みたいところであるが「新著百種」ではピラミイドというルビが与えられている)を模した塔がある。



使用文献一覧

『舞姫』「國民之友」第六九號附録、明治二三年一月

『うたかたの記』「しがらみ草紙」第一一號、明治二三年八月

『文づかひ』「新著百種」第一二號、吉岡書店、明治二四年一月


https://x.com/exa_desty/status/1715001916143599823
”苦行むり
@exa_desty
言い換えると洗脳、誰もが侵食されている。それを薄めるか違う世界観に染まるかの違い。
引用
苦行むり
@exa_desty
2023年10月19日
私達が使用している言葉、外来語は近代なら主に西洋圏からの翻訳された言葉でそれの背景には西洋の観念と概念が含まれる、翻訳の際にも結社の観念が入るので世界観から抜け出すのはとてつもなく難しいし腹が立つよね。我々は常に誰かの思想と観念で生きている。
午後10:48 · 2023年10月19日·666 件の表示





『森鷗外――日本はまだ普請中だ――』

ミネルヴァ書房(日本評伝選) 2013
小堀桂一郎 著
2013年1月10日 初版第1刷発行


ミネルヴァ書房という、名前だけから判断すると赤優位であろう出版社で刊行された本。森鷗外は今の分類を適用すると赤側だからふさわしいな。
本書を、小堀は旧字旧仮名で書いているのだが、小堀は日本会議(にっぽんかいぎ )の副会長(令和5年6月1日現在)であり、統一教会系の機関紙に寄稿する人なので、「表面的に日本古来の文化を尊重しているフリをしているだけだろ」って思ってしまうな。
にっ「ぽん」会議って読み方自体が駄目だろ。
それと、「小堀が研究している鷗外はクニッゲ(元祖イルミの重鎮)属性つまり赤側(または赤の先祖)なんだから、統一教会(青組)とは対立する派閥だろ」とも思ってしまうな。
なので、本書は評伝(人物評をまじえた伝記)なのだが、評価の箇所には注意する必要がある。


『人間交際術』は元・元祖イルミナティの重鎮クニッゲが書いた今も役立つ本(鷗外と関係あり)。元祖イルミナティ資料集。元祖イルミナティ会員フーフェラント『マクロビオティック(長命術)』
Posted on 2025.05.02 Fri 07:24:56
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-595.html

小堀桂一郎 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%A0%80%E6%A1%82%E4%B8%80%E9%83%8E

『森鷗外の「智恵袋」』(講談社学術文庫 1980)は、『森鷗外の世界』(講談社 1971。訳・解説)を改訂したものだ。
統一教会の関連団体「世界平和教授アカデミー」の機関紙『知識』1984年7月号に寄稿するよりも前だ(『知識』彩文社、1984年7月号)。
小堀は、統一教会の関連団体「教科書正常化国民会議」の発起人であり、これの根拠が、青木慧『パソコン追跡勝共連合』(汐文社、1985年10月)。こちらも、『森鷗外の世界』の方が先だ。
ドイツ文学者の小堀が
①元々は赤組だから鷗外研究をしていて青組に鞍替えしたのか、
②もとから青組だったのか
③上記以外
かどうかは不明。
日本会議副会長であり、今も副会長だ。
日本会議(にっぽんかいぎ)の成立は1997年5月30日なので、『森鷗外の世界』(1980年。後に『森鷗外の「智恵袋」』)が先だ。

役員名簿  日本会議
https://www.nipponkaigi.org/about/yakuin



こんにちは、ミネルヴァ書房です。 今日からnoteをはじめます
ミネルヴァ書房/学問の街・京都から教養をひらく
2024年10月1日 12:02
https://note.com/minervashobo_/n/n4c398a690958
”[注:冒頭の画像は、フクロウの画像と、

Die Eule der Minerva beginnt erst mit
der einbrechenden Dämmerung ihren Flug.
――――Georg Wilhelm Friedrich Hegel

とある。ヘーゲル『法の哲学』(1821年)の序文の箇所だ。
和訳は、「ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏と共に漸く飛び始める」(速水敬二・岡田隆平訳『ヘーゲル全集9』岩波書店、1950年)。
ミネルヴァ書房のミネルヴァにはヘーゲルの意味が込められている。
元祖イルミの象徴の意味も込めてそうだけどね。
Eule(オィレ)はドイツ語で「フクロウ」。女性名詞。
Flug[フルーク] [男]:飛行、飛翔。


こんにちは、ミネルヴァ書房と申します。大学と学問の街・京都にある人文・社会科学の学術書の出版社です。創業は 1948(昭和23)年、今年で77年目です。

社名の由来は、ローマ神話に登場する知恵や教養の女神・ミネルヴァ。そのかたわらにいるフクロウがトレードマークです。


https://note.com/minervashobo_
”ミネルヴァ書房/学問の街・京都から教養をひらく
1948(昭和23)年創業、今年で77年目。読書人のために時代を超えた教養と好奇心を届ける出版社。ローマ神話の女神・ミネルヴァに寄りそうフクロウがトレードマークです。いろいろな情報を発信していきます。



では備忘録(メモ)に入る。
旧字旧仮名なので読書とメモに通常よりも時間がかかるのが面倒だ。
基本的に、旧字旧仮名では記さない方針だ。

帯より:
渡部昇一氏推薦

(本書の表紙の鷗外の写真について)
図版写真一覧
森林太郎(明治四十五年一月十四日、武石弘三郎アトリエにて)(文京区立森鷗外記念館提供)……………カバー写真
(鷗外の目は横に細長いのが特徴だ)


はしがき
特にメモする箇所はない。


本書で用ゐる記述記号・符号類について
『 』 学芸上の著作物で、読書界で広く安定した認識を得、主として単行本として刊行された書の題名。
「 」 右以外の作品名一般。著名な作品であっても、その文脈では雑誌掲載時、もしくは論集中の一篇として扱われているもの。又、文節中で注意を促すために重要な語句に付ける場合も多い。

〈 〉 引用文であることを示す。短い語句でも他書から引用であることを示す時に用いる。

( ) 著者による注を示す。

〔 〕 ( )の中で更に必要な注の場合、及び(引用者注)とことわるまでもない簡単な語注の場合に用いる。


第一章 少年時代
    ――漢學と津和野藩學

 1 出生・家族
p.1から
 鷗外(おうぐわい)森林太郎の出生は、『自記材料』(明治四十一年十一月、自筆を以て作成)に拠れば、文久二年(1862)1月19日(旧暦)、石見國(いはみのくに)鹿足(かのあし)群(ぐん)津和野横堀の地に於いてである。父は津和野藩主亀井茲監(これみ)の典医森静泰(せいたい)(明治維新後は静男を名告る)、母は峰子(みね)
で、林太郎の祖父で同じく藩の典医なる森白仙の一人娘であつた。

林太郎は森家の家系が二代続いて養子を以て相続してゐた後、久しぶりに生れた男子であり、森家の人々の喜びと、この長男にかけた期待の大きかったであらうことが優に想像できる。

 父の静泰は岳父(がくふ。妻の父。しゅうと)白仙の死後、津和野藩典医の地位を継承し、同時に藩主に意向で蘭医学の習得を命ぜられ、江戸に出て松本良順(りやうじゆん)、佐倉順天堂の開祖佐藤尚中(しやうちゆう)といふ、共に長崎海軍伝習所の医学校でポムペ・ファン・メールデルフォールトにオランダ医学を学んだ、当時最高の俊秀であつた洋方医に就いて洋医学を修めた。林太郎が長じて東京大学医学部(当時東京医学校)に進んだのは家業の医を継ぐものとして当然の進路であったが、その医業は父の直接の後継としてしてみても、既に旧藩医の古方・漢方の枠を脱して、当時医の道の最尖端と目されてゐた西洋医学の学統に連なっていたわけである。


 2 津和野藩の歷史

p5から
(亀井)茲監(これみ)が襲封して十年後、嘉永二年(1849)に二十七歳のこの若き藩主は養老館の教授内容に斬新な改革を施し、国学と蘭方医学とを取入れることに踏み切った。


茲監(これみ)の国学への関心は端的に同じ藩の出身である大国隆正(たかまさ)の強い影響を受けてのことである。大国隆正の学問については後に一節を設けて特に記する予定であるが、隆正から茲監(これみ)が受け継いだ思想も亦、明らかに合理主義といふ精神類型であつた。この様に結論を述べただけでは、国学者の学統として一見奇異の印象を与えるかもしれないが、その隆正の合理主義とは如何なるものであるかは、やがて述べる。とにかく、国学と蘭方医学との双方から鍛えられ、形成された茲監(これみ)の合理主義が、変動の時代の弱小藩の藩主としての彼の政治的進退・行動にどの様な役割を果したか、そしてそれがこの藩の空気を呼吸して幼少年期を過した森林太郎の性格形成に、何らかの影響を与えるものではなかつたかどうか、その含みを念頭に置いた上で、姑(しばら)く幕末維新期の津和野藩の政治的位相を検討してみよう。
(大国隆正は平田篤胤の門下だから、和風キリスト教系)

 3 漢學と蘭學

p.11から
林太郎がやがて東京へ出てドイツ語を学ぶ課程に進んだ時、故郷での幼年時のオランダ語学習は必ずや有益な基礎学習としての意味をなしたと推測できる。


 4 津和野國學・大國隆正

大国隆正の『本学挙要』は維新期には写本で知られているだけの存在だった。ただ鷗外自身が記していないから、ということで、津和野国学の重要性に触れずに済ますといふわけにはゆかない。
 『自紀材料』に於いて触れてはいないが、鷗外が津和野国学に対して懐いていた敬重の念については立派な文献的徴証がある。


岡熊臣(おかくまおみ)、大国隆正、福羽(ふくば)美静(よししづ)等津和野国学に係る名前


熊臣(くまおみ)は青年時代に江戸に遊学し、本居宣長の門弟であった村田春門(はるかど)に就き、一年の短期間であったが国学を学び、故郷津和野に帰ってからは単独で国学の研鑽に努めていた。
 熊臣は養老館の教授に補せられるに当ってそこに彼が「本學」と呼ぶ一科を置いて、生徒達に国語の古典を講ずることにした。熊臣の研究歴から見て、その國典とは先づ『日本書紀』の「神代巻」であり、又『古事記』であったろう。この国学を岡が名づけて「本学」と読んだのは言うまでもなく、従来の主要課程であった朱子学中心の漢学に対して、国学の方が学問として基本であり、本源であるとの認識を込めてのことである。国学を以て「本学」と称するのは大国隆正の年来の主張であり、隆正が天保七年(1836)45歳で招かれた播磨國小野藩で設立した藩校の帰正館、嘉永元年(1848)57歳で招かれた姫路藩の和学校好古堂では既に彼の主張が容れられて、国学を本学と改称して扱っていた。岡熊臣もそれに倣った。

大国隆正について
隆正は寛政四年(1792)十一月に、江戸桜田の津和野藩邸で父今井秀馨(ひできよ)の長子として生れた。つまり元来の姓は今井である。

p.17から
関白鷹司に招かれた嘉永三年(1850)の11月には、或いはこれは隆正が学の道で自信をつけたことの表れであろうか、脱藩中の身でありながら、津和野藩主の亀井茲監(当時26歳)に宛てて「学事意見書」なる藩學の学制改革についての上申書を提出する。これは本来津和野藩士であつた身として藩への忠誠心を忘れてはいなかった事の表白であったろうし、又前年に津和野藩が藩校養老館に平田篤胤門下の岡熊臣を迎え、教学体制を国学に傾斜させて行く姿勢を取った事への賛意の念が動いた故もあろうか。
 感嘆に値するのは、この時若い茲監が、曾て脱藩の不敬を冒した隆正に対して見せた寛容、というより、区々たる私情を離れて藩とその上にある國家といふ「公」の見地から人事を捌く事を知っていた、その聡明さである。斯くて嘉永四年(1851)9月、60歳の隆正は藩主から脱藩の罪を許されて津和野藩士たるの原籍に復し、「学事意見書」も採択され、養老館の国学教授に任用されるのだが、その際これも隆正の年来の主張により正式に「本学」と改称することが認められた。

p.19から
碑文によれば、凡そ茲監の藩政の特色は全て敬神尊皇の道に基いたものであって、故に冠婚葬祭は皆国風の礼式に則って斎行されていた。此れは所謂廃仏毀釈の風潮に染まっていた面もあったかもしれないが、藩校で孔子を祀る恒例(2月と8月の上の丁[ひのと]の日)の釈奠(せきてん)では儒式から神式に移行し、講堂の祠堂に祀られているのは、大国主命、楠木正成――、といった次第だったのだが、この大国主命を藩校の祀ったというのは抑〃(そもそも)が藩主茲監(これみ)の発想で、隆正は藩主の命を受けて邇摩郡大国村に赴いて大国主命の古蹟を探ったのか、それとも順序は逆で隆正による大国主命の遺蹟発見と神社再建の発案が、藩主を動かして藩校祠壇の神式化を実現させたのか。

林太郎少年と隆正の直接の接触はなかった。

p.20から
慶應から明治四年の閉校に至るまでの短い期間、養老館で隆正の代表作たる『本学挙要』(の写本)が必読書だったという間接的接触の口碑があるだけである。

隆正は、宋儒理気の説に対抗して、というよりも彼にはるかに立ち勝って、天地万物発生の根源を説明し得る「理」が我が國の古伝には記されていると見た。太(おほの)安万侶が『古事記』撰上の序文の中で〈太素(たいそ)は杳冥(えうめい)なれども、本教(もとつをしへ)に因りて土を孕み島を産みし時を識り〉と述べている時の〈本教〉こそがそれである。ところが我が國人は支那人や西洋人の様に「理」を窮めるための手懸りとしての標目(=範疇)を言語化して操作するという着想を開発してこなかった。本居宣長が『直毘靈(なほびのみたま)』の中で〈古は道といふ言挙げなかりし故に、古書どもに、つゆばかりも道々しき意(こころ)も語(ことば)も見えず〉と言ふ通り、道は存在していたのにただその名を挙げて論ずる言挙げがなかった故に、恰も道がまだ見出されていないかの様な事態が続き、人はとにかくそれを外来の教のうちに見出ださうとの徒(いたづら)な努力を重ねてきた。
 隆正の『本学挙要』ではこの事態を、〈わが古事・古言は、おもてに窮理をあらはさずして、裏に窮理の本を含めり〉と診断し、そこで自分・隆正は〈わが古事・古言をあはせて、支那・西洋のいまだつくさざる理を窮め得たること多かり〉と揚言する。
 これはおよそ学問の道に志す者に対しての洵(まこと)に見事な激励鞭撻の辞である。
 更に隆正の「大攘夷」の説も、これも直接にか間接にか、養老館に学んだ子弟の耳に入っていたであろう。即ち隆正は当時の世上に囂(かまびす)しかった尊皇攘夷論の文脈での「攘夷」を「小攘夷」と呼んで斥けた。彼の説く「大攘夷」とは夷狄を我が内に取り込んで、相手を凌ぐ大きさに自らが成長し拡幅することであった。『學統辨論』には〈永禄のころ仏法にて防がしめ給へる天主教は、わが國に害あるべき教法なれども、その教徒よりいでたる天文・暦學・窮理(引用者注、これは狭義の物理學であらう)・医術はくはしくてよきにつき〉、面白いことに〈八意(やこころ)思兼神(おもいかねのかみ)のみはからひにて〉〈これをひきよせ給へるなり〉と、南蛮時代に遡って西學の流入を肯定し、安政開国後の西學東漸の風潮についても、〈西洋はまた実測にすぐれたることありて、わが本教をたすくること多かり。異国の船しば〱くる時にあたりて、學事をなすもの、彼をしらずしてあるべきにあらず。されば今の世にあたりて、実学にこころざすものは、わが本教を明らめて、基をここにたて、西洋のことをしりて、彼が情をあきらかにするにあらざれば、ことにあたりてさしつかへあるべし。(中略)報国のこころざしをかため、西洋の訳書をひろく見て、彼が事情を察し、彼が文を侮らず、彼が武をおそれず、ことをはからふべきことと思ふなり〉と、その説は洵(まこと)に穏当で良識的と評し得よう。
 右に〈実学〉という語があるが、此は至って平易に実用の役に立つ学問の意味で、且つ此は隆正の「本教」の精髄ともいべき標語〈附本相扶〉即ち〈本につく〉〈あひたすく〉の実践を云つてゐる。〈本につく〉は忠・孝・貞なる我が国の古伝が教える人の道の経(たていと)であり、〈あひたすく〉は家職・産業というその緯(ぬきいと)であり、以て人の世の互いに持ちつ持たれつの相互扶助の構造を支える、といふ。

彼が津和野藩校に学んだ幼年時代に、隆正のかかる文言を備付の写本の中に読んでいたかどうかは、実際立証しようもない仮想にとどまる。
(少なくとも、「(平田系)神道は駄目!」って場所では育っていないから「(平田系)神道は駄目!」にはなりにくいだろうな。『普請中』にて、「もしかして神代文字が嫌いなのか?」って思える箇所はある。神代文字は否定するが、神道は否定しないって立場かもしれない。なお、鷗外の墓は寺にある)
[
平田篤胤系の大国隆正が本教を重視。本教は和風キリスト教の影響下だろうな。
津和野はケツ社的に重要な場所なんだろうな。本教だけでなく、オランダ医学経由でオランダ系メイソンも入ってきただろうな。西洋医学にはドイツ語が必要なのでドイツ系メイソンも入ってきただろうな。
鷗外は、本教については知識としては知っているが、信仰はしない態度だったのだろう。鷗外は芥川と違って宗教にそこまで興味がないことが作品で分かるからね。


西郷信綱『古事記注釈 第一巻』
第2 太安万侶の序
p.35から
一、回顧

太素(たいそ)は杳冥(えうめい)なれども、本教に因(よ)りて土(くに)を孕(はら)み島を産みし時を識(し)り、元始は(メモ者以下略)

p.41
安万侶は何も宇宙論をこころみようとしているわけではないのだから、「太素も元始も、世のはじめを云なり」(「記伝」)という程度のことでいいと思う。「本教」は根本の教、もととなる教、漢籍ではおもに孝のことをいうが、ここは神代の伝承を指すのであろう。すなわちこの句は、太古の世は遠くさだかではないが、神代の伝承によって、イザナギ・イザナミ二神が国土を産み成した時のことを知りうる、というほどの意になる。
]


 5 出 京

p.25から
(写真)上京の頃(明治5年10月頃)
左から西周、従者、森静男、林太郎、山邊丈夫、西紳六郎(森鷗外記念館〔津和野町〕提供)
(子どもの頃の林太郎の写真だ)

(『ヰタ・セクスアリス』について)
鉱山学はもちろん些細な虚構であり、東先生というのが、父の先輩というより津和野の郷党にとっての極めて有力・高名な先輩なる西周であることも広く知られているであろう。

父の静男も松本良順、佐藤尚中に蘭学を学んだ経歴を有する以上、オランダ医学と見られている学問が殆どドイツ医学の出店なのだという構造は見抜いていたであろうし、既に日本の医学界がドイツ医学に範を求めて展開せらるべきだとの大勢は決していたと見てよい。

 明治五年十月から六年末までの一年間、林太郎が西周の家に寄寓し、当時の高級官僚にして、且つ女丈夫型の夫人の許で、頗る〈閨門のをさまつてゐた〉家庭の内部を見ていたのは、慥(たし)かにめでたい経験であつたが、然し西周個人と鷗外との関係は、第六章でも『西周伝』に言及する際に触れることになるが、必ずしもそれほど温いものではなかつた。少年時代の一種の恩人として、といった情的結びつきが見られない、といった印象を与えることがむしろ特徴的である。


第二章 大學時代(含陸軍出仕時代)
    ――學問世界への開眼
 1 ドイツ學への立志

 2 東京醫學校と醫學部本科
p.31から
念の為に日本の大学での医学教育にドイツ系が主流をなした経緯を簡単に記しておくならば、明治二年(1869)に新政府の医学取調御用掛に任ぜられた大学権判事、佐賀藩の相良(さがら)知安(ともやす)と福井藩の岩佐(いはさ)純(じゅん)との二人は、『解体新書』(安永三年、1774)以来既に百年に近い學統を形成している蘭方医学なるものの本家が実はドイツ医学であるという事実を知っていた。文政六年(1823)長崎にオランダ商館の医師として着任し、天保元年(1830)の離任まで鳴瀧の塾と診療所で医学・博物学の分野に多くの俊秀(しゅんしゅう)を育成したフィリップ・フランツ・ジーボルト(Siebold)が、実はオランダ人を装ったドイツ人であり、彼の学識が要するにドイツの自然科学界の所産なのだといふことを、当時の日本人の弟子達は暗黙のうちに気づいていた。

 アメリカのプロテスタント教会の宣教師として安政六年(1859)に長崎に着任し、日本人の信任を得て佐賀藩致遠館でも教える様になっていたオランダ人ギド・フルベッキ(Guido Hermann Verbeck)が、丁度明治二年(1869)に東京に出、新政府から大学南校の頭取に任ぜられ、政府の政策顧問として発言権を得ていた。元来オランダ人であるフルベッキの眼から見ればドイツ医学が現世界の最高水準にあることが明らかだった。彼の証言はおそらく相良や岩佐の主張の有力な後盾となったであろう。かくて早くも明治二年に、日本の医学教育はドイツ流を採る、ということが政府の政策として決定され、翌明治三年(1870)早々に、政府はドイツ北部連邦の公使として日本に着任していたフォン・ブラントに医学教師二名の派遣を要請する交渉に入った。

ワクワクさん
@uxskf
青山霊園にオベリスクがある聖書の翻訳者フルベッキのように
大物っぽいSF作家=大体向こうの手先みたいなもん
要するに支配のための聖典を書いたり持ち込む役割なんだし

宗教の教典と違ってより拒絶しにくく受け入れやすいし凶悪ではある
午前4:57 · 2024年4月22日
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ーーー

ワクワクさん
@uxskf
息子がゴルフ場の開拓やってて例の門柱のスコットランド出身のグラバーや

聖書の翻訳やってて青山霊園にオベリスクがあるフルベッキなんかは

まぁほぼ間違いなくメーソンでしょうねと

オランダ改革派教会の宣教師の連中がメーソンってのはそもそも暴露されていたはずだけど笑
午前1:39 · 2024年4月30日
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ーーー

ワクワクさん
@uxskf
間違いなくメーソンだろうグラバーとフルベッキで
まぁ明治維新フリーメイソン革命ってあまりにも有名なネタなんだけど

みんな大好き大本教によるとフルベッキvsグラバーみたいな悪夢のドリームマッチがあったらしい
午後11:19 · 2024年5月1日
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ーーー

ワクワクさん
@uxskf
ジョン万次郎のコンパスとかフルベッキのオベリスクみたいにメーソンへの貢献みたいなので像置いたりシンボル置いたりそういうとこでその人に対する評価も分かるんだけど

ペリーってメーソン内だと多分微妙なんだよね

記念石とかもそれなりに面白い
午後8:07 · 2024年6月4日
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ーーー

ワクワクさん
@uxskf
ちなみに新約聖書和訳の中心人物で日本最初の神学塾を開いたS.R.ブラウンは横浜ロッジのフリーメイソンである

この人が墓がオベリスクのフルベッキを選び共に来日

そのフリーメイソンのブラウン塾がその後の日本のキリスト教界の中心人物を輩出して数ある神学校へと繋がるわけ
午前2:53 · 2025年2月1日
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ブラウン含めて日本の聖書翻訳の歴史と神学の歴史はそのままフリーメイソンの歴史

なのでフリーメイソンの理解は必須
午前2:56 · 2025年2月1日·483 件の表示

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ワクワクさん
@uxskf
フリーメイソンの訳した聖書が天皇へと渡されてメーソン歓喜みたいな構図

ヘボン ブラウン フルベッキ
午前3:01 · 2025年2月1日·429 件の表示

ーーー

ワクワクさん
@uxskf
ブラウン含めてあの当時の聖書翻訳の中心人物は結社員だと思うよ
天皇に聖書渡してキリスト教国家にするのがミッション

日本最初の神学塾のブラウン塾、横浜バンドなんかはその工作員部隊

ブラウンは新約聖書和訳の委員長だったくらいの人物だから
フルベッキ連れてきたのもこの人
午前4:15 · 2025年2月3日·1,266 件の表示

ま、ここらへんを日本の聖書原理主義、ラプトやその周りの信者はどう折り合いつけてるのかは知らん

フリーメイソン=悪魔崇拝なのに君たちが読んでる聖書を翻訳したのはメーソンとかギャグかよ

横浜ロッジにでも入会しときなさい
午前4:19 · 2025年2月3日
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ワクワクさんが、メイソンが悪魔崇拝と言っているのではなくて、メイソンが悪魔崇拝だと言っている勢力に対しての呟きね


 3 ドイツ醫學の自信

 4 ドイツ語力と文學的教養

p.49
緒方収二郎は「ヰタ・セクスアリス」で金井と古賀と児島とが〈三角同盟〉を結んだとされている児島十二郎のモデルとされている、緒方洪庵の六男である。森とは東大医学部の同期入学だった(卒業は一年遅れて明治15年)。


 5 陸軍入り
p.57(の写真)
卒業試験終了記念(明治14年3月)
左から佐藤佐, 森林太郎, 小池正直, 片山芳林(文京区立森鷗外記念館提供)
(拡大されていないので目はあまりよく分からないが、▽ではないことは分かる)


第三章 留學時代――自由と美の認識
 1 留學とは何か

 2 旅 程

p.78から
ミュンヘン時代を楽しく過すことができた一因として森がこの市で良き同胞の友を得たことがある。三月八日ミュンヘン到着当日に岩佐新をその住居に訪うたのだが、不在で会えなかった。然し18日には再訪して交友を結び、以降謂はば遊楽仲間となる。その一週間後には原田直次郎を訪ねて生涯の(と言っても原田の早逝によって短いものに終つたが)盟友となる。言うまでもなく小説「うたかたの記」の主人公巨勢(こせ)のモデルの一半となる画家であり、やがて鷗外漁史としての文藝生活にも大きな影響を与える人物である。
 五月の末に加藤照麿(てるまろ)がベルリンから移ってきて謂わば仲間に加わる。以降森、岩佐、原田、加藤は機会ある毎に市中のカフェや酒亭に会しては歓談し、酒杯を挙げては青春の歓楽に酔ふ間柄となる。

ペッテンコオフェル教授の指導下での研究生活も十分軌道に乗った頃、4月18日の事である。
とにかくバイエルン陸軍軍医部の高級将校三人と森が会見する。

ストラスブールからやってきた婦人科医学専攻の濱田玄達をも加えて湖畔のレオニイに行き、十一月には此も同船して渡独した仲間である薬学者丹波敬三につきあってレオニイに一泊している。

p.81から
(明治19年の8月などとあるので明治19年=西暦1886年)
 同じ八月にミュンヘンに帰ってからの事、原田直次郎がカフェ・ミネルヴァの給仕女マリイ・フウベルを愛人として同棲を始めた事への怪訝の念を記し、又ナウマンの日本時代の学生であった化石古生物学の研究者横山又二郎と識り合い交際を結んでいる。横山は旧師ナウマンの許にも出入りし、やがてナウマンが森との論争で不機嫌になる現場に居合わせるという面白い遭遇を経験することになる。

恐竜の名付け親の横山又次郎と、鷗外が交流していたことに驚いた。
横山又次郎(よこやま またじろう)は「dinosaur」を恐竜(恐龍)と和訳した。
オランダ通詞(通訳)横山家の分家である、7代又次右衛門の次男として生まれたので、おそらくオランダ系メイソンに、少なくともドイツ留学中に入会したのだろう。
1886年(明治19年)からドイツに留学して古生物学を専攻したので、本書の記述との矛盾はない。
もしかしたら、横山又二郎がメイソンに入会する際に鷗外が協力したかもしれないし、鷗外が入会する際に横山又二郎が入会に協力したかもしれない。



林 尚孝
ミュンヘン駅頭の怪 ─ 横山又次郎とエリーゼ ─
http://ntk884.blue.coocan.jp/tsushin8.html
”エリーゼ・ヴィーゲルトは、これまでベルリンの出身であると信じられてきた。筆者はこの定説に疑問をいだき、彼女はミュンヘンの「舞師」であると推論し、『通信』一六一号および『鴎外』八三号において、その根拠を述べた。本稿は「独逸日記」を検討した結果、鴎外がミュンヘンを去るとき、駅頭に見送りに来たのは、日記に明記されている横山又次郎だけではなく、エリーゼもいたに相違ないことを推論するものである。
 「独逸日記」一八八七(明治二〇)年四月一五日の項は、以下に示すように、同じ日付で二つの記述が別個に記されている。
 十五日。午前中浜に逢ふ。別を告ぐ。
 萬里離家一笈軽。郷人相遇若為情。今朝告別僧都酒。泣向春風落羽城。
又別に臨みて詩を舞師某の筆跡帖に題す。
  踏舞歌應囑
 雕堂平若鏡。電燈燦放光。(中略)
 午後六時五十五分汽車民顯府を発す。

 十五日。民顕府を発し、普國伯林府に赴く。ロオベルト、コッホ Robert Koch に従ひて細有機物學を修めんと欲するなり。発車場に来たりて余を送る者を横山又二郎と為す。他人は余が發程の時刻を知らず。蓋し国内を往返するに必ず之を送迎するは素と無益に属す。余故に諸人に報ぜず。(後略)

 この二つの記述は紛らわしいので、漢詩の書かれたものを日記(一)、後の方を日記(二)として区別することにする。
 日記(二)の記述には、いくつか不自然なところがある。「無益」と言いつつ、なぜ横山だけに出立を知らせたのか。午前、中浜に逢いながら、なぜ彼には出発時刻を知らせなかったのか。"必ず之を送迎するは素と無益に属す"などという「言い訳」を、ことさら書いたのは何故か。
 これらの謎を解くために、まず、中浜、横山との交友関係について見ておこう。
 中浜東一郎(一八五七~一九三七)は、東大医学部の同級生であり、かのジョン萬次郎の長男である。卒業席次は、森が八番、中浜は三番であった。ミュンヘン大学では、鴎外とともにペッテンコーフェル衛生学教授の下で学んでいる。
 ミュンヘンでは、鴎外、中浜のほか浜田玄達、岩佐新ら東大医学部出身者四人がグループをなしていたことは、「独逸日記」の四月の条からも明らかである。
五日。午後浜田、中浜、岩佐とグロオスヘツセルロオへに至る。
十一日。中浜、浜田、岩佐とスタルンベルヒ湖に泛ぶ。
十五日。午前中浜に逢ふ。別を告ぐ。

 一方、名前を又二郎と誤記している事実が示唆するように、横山とは前年八月三〇日、知り合ったばかりの仲である。
三十日。(略)夜王国骨喜店 Cafe Royal に至る。一邦人に逢ふ。横山又二郎と曰ふ。此に来て地底古物学 Palaeontologie を修むとぞ。痩小にして色黒し。洋服にて日本風の礼を行ひ、隣席の人々を驚かしたり。

 横山又次郎(一八六〇~一九四二)は、東京大学理学部を卒業した古生物学者である。ナウマンの指導のもと南アルプスの地質調査を行ったのち、一八八六年ミュンヘン大学に留学、チッテル教授の下で学んでいた。一八八九年に帰国、すぐに東大の初代古生物学教授となっている。
 横山の名前が次に「独逸日記」に現れるのは、一月一日で、"横山子来り訪ふ。この人は依然日本風なり"と記している。この日の記述には"午前零時加藤、岩佐、中浜及び浜田の四氏と英骨喜店Cafe l'Anglais の舞踏会に在りて、「プンシユ」酒 Punsch の盃を挙げ、新年を祝す"とも記されており、横山との交際は中浜らのグループとは別であることがわかる。
 この横山の名は、ミュンヘン駅見送りの二週間前の四月二日、さらにその一週間前の三月二五日にも出てくる。注目されるのは、四月二日の条である。
四月二日。横山又二郎と劇を輦下戯園に観る。男児のみにては余りに興なければとて、フアンニイ Fanny Grosshauser と云ふ少女を伴ふことゝなれり。

 この記述には不自然な点がある。フアンニイのあとにドイツ語でその姓名を書いているので、「独逸日記」の記入例からみて、初対面である可能性が高い。だが、女性が初対面の男性二人と観劇に出かけることはとても考えられない。彼女をよく知る女性Xが間にたち、四人で観劇したとみるのが自然である。この女性Xが横山の知人であるなら、鴎外は四人で観劇したと書くはずで、Xは鴎外の知人であったと推測される。不自然な記述は、女性Xの影を消し去ったために生じたものに相違ない。
 さらに、三月二十五日の「独逸日記」にも不自然な点がある。
二十五日。横山又二郎とヒルト Hirth を訪ふ。この人財巨万を累ぬ。所謂東洋癖ありて、好みて日域の骨董書画を聚む。(略)日本の刀槍甲胃を以て壁を飾る具と為す。奇と謂ふべし。一女客柄鏡 Lorgnette を手にし、嬌声を発して曰く。美なる哉。此の如き粧飾は天才あるにあらでは成就せざるべしと。余を以て之を観ればたゞ銭のみ。何ぞ天才を要せん。

 この条にも、不審な箇所がある。それは「一女客」とのみ記し、その名を伏せていることである。この女性は日本製の柄鏡に興味を示し、日本人の才能を高く評価している。ヒルト邸で出会ったこの「女客」は、横山とも顔をあわせており、四月二日にファンニイ嬢とともに観劇に参加したであろう女性Xの蓋然性が大である。

 四月一五日のミュンヘン駅頭に話をもどす。中浜と別れた後で、鴎外は「舞師某」に漢詩「踏舞歌応嘱」を贈っている。時間は特定出来ないが、鴎外は「舞師某」とも逢って、別れを告げているのである。このエリーゼと推定される女性が、発車場に見送りに来るのは、自然な流れであろう。以上は、日記(二)にその名はなくても、エリーゼがミュンヘン駅頭に来たと推測する第一の理由である。
 第二に、「独逸日記」三月二五日のヒルト邸訪問、四月二日の観劇、四月一五日のミュンヘン出立の記述には、いずれも不自然なところがある。だが、この問題は、鴎外、横山、エリーゼが行動をともにしていたと考えれば説明がつく。また、そう考えなければ、一連の事実が自然な流れとして理解できないのである。
 その三、以上、指摘した「独逸日記」の不自然な記述は、鴎外が、エリーゼの影を消すための作為に起因すると考えて、はじめて納得できる。

 鴎外が、横山にだけ出立を知らせた理由は、日本人仲間のうちで、彼だけがエリーゼを見知っていたからである。より親しい友人たちに出発時間を知らせなかったのは、エリーゼとの仲がよほど深いものになっており、彼女の存在を仲間に知られたくなかったからであろう。一方、横山に知らせたのは、もしも駅頭で、他の日本人がエリーゼを見かけたとしても、横山と連れだっていれば、余計な詮索を免れうると考えたからではないか。

【追記】「独逸日記」の不自然な記述から、エリーゼの影を消去した鴎外の作為を発見したのは、共同研究者の小平克である。

初出は『森鷗外記念会通信』第165号、 2009(平成21)年1月30日
” ※着色は引用者

「中浜東一郎(一八五七~一九三七)は、東大医学部の同級生であり、かのジョン萬次郎の長男である。卒業席次は、森が八番、中浜は三番であった。ミュンヘン大学では、鴎外とともにペッテンコーフェル衛生学教授の下で学んでいる。」。西周といい、横山又二郎といい、ジョン萬次郎の長男といい、鷗外の人脈は、ケツ社員にならない方が難しい人脈だな。

ワクワクさん
@uxskf
西周 ジョン万次郎 森鴎外

小沢一郎 Jロックフェラー クニッゲ
午後7:20 · 2023年11月3日
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ワクワクさん
@uxskf
仁王ってゲームがよく出来てたかなぁ もちろんメーソン好みに笑

ラスボスはジョンディーという海賊国家の女王お抱えの魔術師で笑ったけど

そもそもの主人公のウィリアムアダムスってのがメーソンから好まれてるようだが
船乗り、按針=コンパスだし(ガリバー旅行記の元ネタで分かるように)
午後9:27 · 2024年5月20日
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日本人と英語のおそらく最初の出会いであり漂流者でありコンパス

日本人で彷彿とさせるのはあの像でメーソンなら感動のジョン万次郎だね

どちらもコンパス、漂流者、英、米、日本、英語 というのをつなぐ重要なシンボル的人物なんだろう
午後9:36 · 2024年5月20日
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ワクワクさん
@uxskf
オランダの航海士でシンボルまみれの記念像のヤン・ヨーステン
コンパスと定規でお馴染みのジョン万次郎

ここら辺関係はメーソンが好むので要チェック
外国人(結社員)と日本との関わりの象徴だからね

ウィリアム・アダムスもそう
最近モデルにしたのが話題だけどメーソン関係かは不明
午前2:07 · 2025年2月4日·663 件の表示

ワクワクさん
@uxskf
シンボルとかってジョン万次郎のコンパスと定規なんかは明らかに分かりやすいので知ってる人も多そうだけど 
言われてみればとか言われなきゃ分からんみたいなのがボチボチあるよん
午前8:54 · 2025年2月16日·797 件の表示

ーーー

ワクワクさん
@uxskf
ネーデルランドってかオランダ自体が日本とフリーメイソンの繋がりにおいて極めて重要な国だよ

解体新書 コンパス 隠れキリシタン 杉田玄白 の頃から

日蘭修好380年記念のヤン・ヨーステン記念碑と平和の鐘なんかジョン万次郎像くらいのインパクトのあるシンボル

それだけ重要ってことさ
午前10:50 · 2025年2月19日
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トリトリ。
@ToriTori_atom
八重洲の名前の由来が、
ヤン・ヨーステンとは...
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引用
トリトリ。
@ToriTori_atom
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2024年6月3日
返信先: @ToriTori_atomさん
サツマイモが
日本に伝わったのは1600年頃

サツマイモの事を からいも(唐芋)

海の向こう側にある、異国の地を唐。

東南アジアのジャワ島には、オランダ東インド会社があった。

オランダ東インド会社との交易のきっかけは、リーフデ号の漂着。1600年。
今の大分県臼杵
https://ndl.go.jp/nichiran/s1/s1_1.html
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午後1:38 · 2025年2月19日
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ワクワクさん
@uxskf
そこの世界連邦くさい平和都市なんとかの平和の鐘とか周辺のモニュメントとかフリーメイソン関連のシンボルまみれ

ピラミッドとコンパスとか一ドル札のやつとか

日本版だとジョン万次郎とかもコンパスと定規持ってるけど

海外からやってきた日本人版のウィリアムアダムスとかヤンヨーステンもやばい
午後1:45 · 2025年2月19日
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トリトリ。
@ToriTori_atom
臼杵に漂着したのは偶然じゃなく意図的だなぁとは感じていましたが...やばいのですね。

日本の初期のフリーメイソンたちは、
オランダのライデンのロッジで入会していますものね。
引用
トリトリ。
@ToriTori_atom
1月25日
返信先: @ToriTori_atomさん, @oPJikmEe4EpyHPJさん
①幕末オランダ留学生

1862年
軍艦操練所から榎本武揚..
蕃書調所から津田真道、西周、..
長崎で医学修行中の..加わり...

咸臨丸に乗船して江戸を出て、長崎へ入り、オランダ商船にて..

1864年
ライデンのロッジで入会
https://ndl.go.jp/nichiran/s2/s2_6.html


②日本の著名なフリーメイソン
初期メンバー 明六社
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午後1:57 · 2025年2月19日·541 件の表示

ワクワクさん
@uxskf
当時海外のメイスンリーと繋がれる日本側の場所なんてあのオランダ商館くらいしか無いからね
西周も津田真道もそこの仲介だと思うよ

午後3:02 · 2025年2月19日·250 件の表示


p.82の写真
ミュンヘンにて(明治19年)
(横山又二郎や森林太郎や岩佐新や原田直次郎や濱田や加藤や丹波が写っている。目の横への細長さですぐに林太郎って分かる)

p.86から
 四月十五日、森は横山又二郎だけに見送られてミュンヘンを去った。実に青春の歓楽の思い出を深く刻んだなつかしい町だったが、たかがドイツ国内の移動に、友人に見送りを促すまでもないと考え、なほこの市に残る親しい知友の幾人かに、汽車の発時刻を告げることもなく旅立った。

(p.88のベルリンでの明治21年の写真。林太郎の顔は目のおかげで分かりやすい)

北里(柴三郎)と同期の卒業で同じくベルリンに来ていた医化学専攻の隈川(くまがは)宗雄(むねを)は、森が『日記』の中で〈隈川は当今此に在る医生中最も学問に志ある者の如し〉と賛称(さんしょう)の辞を記しているが、やはりコッホに就き、教授の講義時間には森、北里と顔を合せる間柄であった。ミュンヘン時代の交友の若々しさとはまるで違った空気ではあるが、ともかくもこの同学の二人に対しては、森は軍医畑の同僚に対するのとはやなり一味違った、知的な交流を結んでいた様である。大学の知友としては明治天皇の侍医を努め、内科医としてあまりにも高名な青山胤通(たねみち)もベルリンに来ていたが、五月十三日には帰国の途に上ったので当地での森との交友の期間は短い。然し帰国後の両人の親交は世間のよく知る通りである。

天皇人脈もあるってことね、鷗外



 3 ドイツ在留中の硏究業績
 4 相識し交際した人々
 5 讀んだ書物
 6 特記すべき事件と體驗


第四章 評論家時代
    ――體系構築への情熱
 1 衞生學專門分野
 2 醫學ジャーナリストとしての面目
 3 文學分野
 4 美學美術分野

第五章 雌伏時代
    ――學理と生理との葛籘
 1 二度の外戰の閒
 2 日淸戰役への從軍
 3 美學硏究の總括
 4 小倉勤務の日々・公務と私的交友
 5 史蹟探訪の旅

 6 學藝一般と軍事學への寄與
p.274から
 訳本『戦論』乃至『大戦学理』の内容及び邦訳実現の意義について、本書は詳論する紙幅の余裕を持たないのだが、辛うじて次の三項目くらいは挙げておきたい。
 一は明治三十三年七月の『歌舞伎』に載せた談話調の文章「潦休録」に載ったもので森自身のクラウゼヴィッツ言及の中で最も早く読書人社会に知られた話であろう。曰く、〈己は小倉に来てから、少し都合が有つてクラウゼヰッツの兵法を読んで居るが、その中に純抗抵の説といふものがある。純抗抵の戦は敵を何う為やうともおもはない。唯〻敵の為やうとおもふことを為せまいとおもふ丈だということだ。これは余程得用な戦法であつて、殊に弱国の戦法としては頗る用ゐるべきものだとしてある〉との一節で、此は『大戦学理』で云へば、巻一「戦争の本質」の第二節「戦争の目的及び手段」の「D 諸道因(諸理由)の生ずる所以、用力、敵を疲らすこと」という項の眼目である。その結論部のみを引けば〈……此の消極性企図は敵に勝つに時間を以てする自然の方便なり敵を疲れしむる自然の方便なり之を純抗抵の原則と謂ふ〉というものである。〈抗抵〉は現在では「抵抗」の形が一般的だが原語はもちろん同じWiderstandである。森自身、別の一節(H 積極上及び消極的上目的)に謂う所の〈純然たる抗抵は積極性の意図なし故に我にして只だ抗抵を以て足れりと為すときは我諸力を散漫ならしむる憂なし〉という純粋抵抗の戦術論にどこか得る所ありと感じ、現実の処世の上で此を応用していたらしい形跡がある。

 二は巻一第六節の「戦争の情報」で、〈情報[「〇〇」とルビ]とは敵と敵国とに関する我智識の全体を謂ふ是れ我諸想定及び諸作業の根柢なり〉に始まる情報戦である。〈凡そ戦争の情報は彼此矛盾するもの多し又虚偽なる者多し〉、そこでクラウゼヴィッツが〈我等の将校に要求する所は一種の辯識力なり〉といふことになる。情報の辯識については巻二「戦争の理論」に於いても、戦争結果の批評に就いて説く一小節で「事後の判断は奈何にして公平なることを得るか」と題して詳しく論じられる。是は人文学の世界での「批評家」としての森に恐らくは教えるところの多かった哲学だったと思われる。
 なにより先づ、原典のNachrichtenに「情報」という訳語を創作して与え得た森の国語史の上の功績が甚大である。此は明らかに国語の歴史の中での「情報」という単語の初出である。美学の分野での学術用語の創出に於いて、森の提案が必ずしも多く成功しなかったのとは対照的に、「情報」概念の樹立は爾後長く、正に二十一世紀の今日現在に至るまで有効であり続ける貢献となった。

鷗外が起源ではなさそう↓

日本語「情報」の起源
2005/04/22
https://www.cs.ube-c.ac.jp/kyouiku/siryou/jyouhou.html
” 情報ということばは、日本にもともとあった単語ではなく、明治の文豪、森鴎外が クラウゼヴィッツの「戦争論」を訳した際に、ドイツ語の"Nachricht"を「情報」と訳したと言われています。 (「ことばコンセプト辞典」より)。 鴎外は自分の作品「藤靹絵(ふじどもえ)」 の中でも情報ということばを使っているようです。 いずれにしても、鴎外が自分の書いた作品にこのことばを使ったことが「情報」が浸透していったきっかけであろうと言われています。

「情報」ということばは、単なる「知らせ」という意味で使われていたのですが、 その出典から比較的最近まで戦争情報の知らせ、つまり「謀報」というイメージで 捉えられていたようです。 「情報」が一般的にコンピュータと結びついた意味で使われはじめたのは、 1960年代以降のことです。

情報システム学科が1965年に創設される時、「工業計数科」という名称でした。 コンピュータのソフトウエア技術者を養成するという学科であったにも関わらず、 学科の名前に情報ということばが使われておりません。
「情報」ということばを含む学科名が文部省に認められなかったのは、 情報科学という学問分野が未成熟であったという理由の他に、その当時、 「情報」ということばに現在のニュアンスと違って、「謀報」というイメージがあったためと言われています (「情報計数学科30周年記念誌」より)。-- 「情報処理概論」資料より抜粋 --
新:語源

情報処理、VOL.46, No.4(2005年4月号)に,創立45周年記念特別寄稿として始まった「情報という言葉を尋ねて(1)」小野厚夫氏によると、 情報という言葉の起源について新しい見解が書かれていました。 これによると,今までの定説であった森鴎外の造語という説に疑問を持ち、平成になってこの調査をするようになったと最初に記述されています。 疑問をもつようになったきっかけは、鴎外は「情報」と「状報」の2つの言葉を使い分けていたという話を大島進氏が情報処理学会の講演でされたのを聴いたことによるとのこと。 以下の内容は、その連載から抽出したものです。

「情報」という言葉は、上海辞書出版社が発行した『漢語外来詞詞典』に,"情報は日本語起源の中国語である"と明記されているそうで、 日本で造られた言葉であることは間違いなさそうです。 しかし、最初に誰が造ったのか、どういう意味で使ったのか、何語のどういう単語を『情報』と訳したのかは、次のように説明されています。

要約すると、最初に使われたのは、1876年に陸軍の官房御用であった酒井忠恕が『仏国歩兵陣中要務実地演習軌典』という本を翻訳出版した際に多数使われており、 これ以前には見出せないとのこと。 元の言葉は、フランス語の renseignement で、酒井は"敵の情状の知らせ、ないしは様子"という意味で情報を用いていたようです。 この本は、フランスの新式の陸軍演習法を説明した本で、国立国会図書館か国立公文書館で閲覧できるそうです。

森鴎外は、1901年に『戦争論』(あるいは『戦論』)を翻訳し、1903年に陸軍士官学校でフランス語から訳された上記の巻3以降と合体させるかたちで『大戦学理』 を出版しました。鴎外は、『戦争論』の中でドイツ語のNachrichtenを情報と訳していますが、1箇所だけは状報と訳しており、鴎外も情報と状報を使い分けていたと言えます。 いづれにしても鴎外が出版したのは、1901年ですから、酒井氏の翻訳本はそれよりかなり早く出版されています。また、鴎外はドイツ語のNachrichtenを情報と訳していますが、 酒井氏の原本はフランス語のrenseignementでした。

書名に「情報」がついた戦前の小説としては、プロレタリア作家である立野信之の短編集『情報』(1930年)、大下宇陀の『情報列車』(1942年)などがあるようです。

連載作者の小野厚夫氏は、上記のような内容の記事を、1990年9月15日付の日本経済新聞の朝刊にすでに書かれていました。
宇部フロンティア大学■情報システム学科
Last modified: Fri Apr 22 04:44:05 JST 2005
” ※着色は引用者


 三に、「情報」の創出が齎した「有効性」ほどに顕著なものではないが、「戦略」Strategieと「戦術」Taktikの両語に判然たる弁別を付けた上での述語としての提示がある。その弁別のほどは、巻二「戦争の理論」の第一節「兵学の区分」から次の一節を引用すれば十分であろう。曰く〈……此に於てや数多の戦闘を連合して戦争の目的を達せしむると一の戦闘を安排し施行するとは全く相異なる事業となれり彼れは戦略[「〇〇」とルビ]に属し此れは戦術[「〇〇」とルビ]に属す〉と。現今では戦略の概念は更に適用範囲を拡大され、元来戦争の目的であった政治上の課題を、武力発動に訴えることなくしてその目的を達成すべき外交上の政略までを広義に戦略と呼ぶ傾向がある。

安排の意味 - 中国語辞書 - Weblio日中中日辞典
https://cjjc.weblio.jp/content/%E5%AE%89%E6%8E%92
より、発音はānpáiであり、「(人員・労働力・仕事・計画・時間・日程などを手順よく)適当に処理する,配置する,あんばいする,段取りをする,手配する,手はずを整える,割りふりする.」という意味。鷗外は漢籍をしっかり学んでいるので、おそらく漢籍由来だろうからこの中国語の意味で合っているだろうな。


(『智恵袋』『心頭語』については過去記事で詳しく記したので略す)


p.286から
三十六年六月に国語漢文学会で行はれた講演「人種哲学梗概」と、同年11月に早稲田大学(三十五年九月に東京専門学校から改称)で課外講義として演ぜられた「黄禍論梗概」という二つの講演があり、共に如何にも洋学の碩学たる森の面目の躍如たるものである。

森自身、人種哲学や黄禍論の梗概紹介は〈敵状の偵察〉であると明言している。
 前者はフランス人ゴビノオの『人種不平等論』を独訳本によって読み、その大綱を要約紹介したものであるが、その要約を更に又摘要して演者の伝えんとした意図を見ておくならば次の如くである。

 ゴビノオは人種間の不平等・優劣の差異は先天的に決定された宿命であるとの前提に立って、一種の文明の交替史観を提出する。その点で七十年後のシュペングラーの『西欧の没落』を先取りしたところがある。文明論としてはその先駆たるギゾオとヴィルヘルム・フォン・フンボルトの説を引用して先づ彼等の下す文明の定義を紹介するのだが、この講演の中で、森はCivilisationに〈開化〉、Culturに〈文明〉という訳を与えているので、現代の読者としては少し注意しなくてはならない。この二語の使い分けはフンボルトのの創唱以来、ドイツ系の学問に親しむ人々の間では夙によく知られている区別であるが、大体に於いて前者を文明、後者を文化と訳すことが慣行となり、定着していると思われるからである。フンボルトによれば、文明とは一国民の社会的な在り方が人間たるに適わしい秩序と安定を得ていることで、文化とはその上に更に高度の学芸を培い得ていることだ、という(この趣意を解りやすくするために夫々[それぞれ]を「物質文明」「精神文化」と補って対語にすればよい、との説明が一頃流行した)。フンボルトは更にその上に要請さるべき人間の道徳的進歩にBildungという概念を設けた。森はこれを〈普通には教育と訳してゐる〉語だが、ここでは此を〈有道〉とでも訳して、その段階にまで達した人民は〈有道の民〉とでも名づけようかと言っているのは面白い。
 フンボルトの右の定義的説明に対し、ゴビノオは、個人に対してなら適用できる様な発展の段階的向上を一民族といった大集団に認めるのは無理だとの見解から、人種の優劣の先天的決定論に固執するのだが、それでいて文明の交替・盛衰を説く根拠はどこにあるか。それは他人種との混血によって、その血統が純粋性を失い、その元来持てるはずの文明の創造能力が退化するからだ、という。有史以来歴史上に認め得る文明は十種類あるがそのうちの七種がアーリア人種の創造になるものだ、そのアーリア人種の創造になる現在のヨーロッパ文明は、それを維持しているゲルマン人の血統の混濁化によって衰退しつつある、即ちヨーロッパ文明の未来は暗い、という観測になる。これは人種的偏見という土台の上に、自惚と同時に頽廃的な終末思想を飾り付けた俗受けのするペシミズムの賣(=売)物にすぎず、学問の名には値しない思想的商品であるが、十九世紀末の西欧にはこの様な似而非学問が意外な通俗的人気を博する様な一部の空気が慥(たし)かに存した。

鷗外は妄想アーリア思想に触れていたのだな。それどころか和訳している。敵情の偵察のためであり、思想に賛同しているのではない。やはり、鷗外は、赤組の先祖側だな。
小堀は青組だろうに、アーリア妄想を悪く言うのはまずいのでは?

 森はもちろんこの論著が基本的には黄禍論につながってゆく扇動的文書にすぎぬという実体を十分に看破していた。そして、(1882年に死んだ)ゴビノオが長生きして現在の日本を見たら、日本人もアーリア人種の一派だといふ論証を企てざるをえなくなったであらう、と面白い皮肉を口にしている。只、文明創造力はアーリア人種のみが之を所有するのだから、ヨーロッパの没落は即ち世界の文明の没落である、という高慢な自負な(ママ)言説の裏に、端的にアーリア人種の自信の衰弱を読みとった、そのあとの注釈が如何にも森らしく鋭い。即ち彼は西欧文明の傲慢さと綯(な)い交ぜになった終末思想の裏に、傷つけられた自尊心の反動としての復讐心と怨恨が、この極東の島国に向けられて発動することの恐ろしさを、真剣に警告している。日英同盟の締結という、それだけで既に日本が西欧列強と同列に立ち得たかの様な昂奮を覚えているお人好しの同胞に対する、甚だ適切な警告ではあった。
 「黄禍論梗概」も亦正しくこの警告の延長線上にある憂世の一篇である。これも「人種哲学梗概」と同じくその筆録が直ぐに単行本として刊行されたが、その例言を彼は対ロシア宣戦が布告され、第二軍軍医部長として出征する途次の広島の営中で執筆している。その例言から次の二節を引用しておこう。
曰く、〈青眼もて白人を視、白眼もて黄人を視る。乃ち新語を造り出して黄禍と云ふ。(メモ者略)人道に逆ひ、国際法を破ること、殆ど人の意料の外に出づるを。予は世界に白禍あるを知る。而して黄禍あるを知らず。……〉
(「白禍」ってのは正しいな)

又、〈人種哲学梗概を評するもの或は謂へらく。此の如き白人白尊の論は、之を読みて興味なしと。是れ予の梗概を作りし本意と正に相反せり。予は読者をして、白人のいかに吾人を軽侮せるかを知らしめんと欲せしなり。(メモ者略)〉と。
(ケツ社員だろうけど、白人優位思想ではないのが鷗外。
「白人と子どもを作り人種を改良しよう思想」の福沢諭吉とは真逆だな。
福沢諭吉の極悪思想 =自助努力教+人種改良思想(優生学)+「(真俗二諦で)俗が真より上」。慶應人脈はこの思想が特に強いだろう。
フランクリン(目イソンの重鎮)の自助努力思想が日本に広まった原因が福沢諭吉と昭憲皇太后(明治天皇の皇后)。
天皇家になれるかは生まれが最重要なので、自分自身が自助努力教を否定する存在。自助努力思想は支配層に好都合。フランクリン(目イソンの重鎮)の自助努力思想ってケツ社への入会(笑)

諭吉「日本人は白人と子どもを作り人種を改良しよう(白人優位思想)」(要約)


”福沢諭吉(一八三五~一九〇一)は日本の優生学史の最初に登場する。福沢と門下の 高橋義雄は、一八八〇年代前後に「人種改良論」の名の下に白人との雑婚を説くなどし、一九一〇年代以降の断種中心の優生学導入の前史に位置する。四〇(昭和一五)年の国民優生法、四八年の優生保護法など日本でも断種法が制定されるも、七〇年代から優生学の障害者差別的性格がナチスの悪と絡めて非難され、「優生」の語はタブー化していった。”
(山口・福家 編『思想史講義【明治篇Ⅰ】』ちくま新書、p.231)
※英国のゴルトンが優生学を提唱したのが1883年

「黄禍論梗概」の原典はサムソン=ヒンメルスティェルナ著『道徳問題としての黄禍』で1902年ドイツでの刊行であるから、前年出たばかりの新著を早速紹介に及んだわけである。謂わば敵情偵察の眼を光らせていた森の視野にとびこんで来た最新の敵側情報であった。

人種不平等論(ジンシュフビョウドウロン)とは? 意味や使い方 - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%BA%E7%A8%AE%E4%B8%8D%E5%B9%B3%E7%AD%89%E8%AB%96-1691471

じんしゅふびょうどうろん〔ジンシユフビヤウドウロン〕【人種不平等論】
《原題、〈フランス〉Essai sur l'inégalité des races humaines》ゴビノーによる評論。1853年から1855年にかけ発表。純血種のアーリア人を最優秀人種と位置づけ、黒人・黄色人種などを劣等人種とする差別的思想を説くもので、のちに反ユダヤ主義やナチズムに援用されることとなった。

出典 小学館デジタル大辞泉について




第六章 多事多產の時代
    ――榮逹と盛名の頂點

 1 「陣中の竪琴」及びその餘韻

p.294
(写真)日露戦争従軍時(明治38年頃)
徳利寺の日露戦争野戦兵舎前にて
見る人視点で顔が少し右斜め上を向いている。目以外の部分を含めると少し傾けて潰した▽にかろうじて見えるかもしれないが、そもそも人の目の形を表現するときって、わざわざ斜めから見てそう見える箇所があるってだけの視点からでは書かないだろうな


 2 陸軍省高級官僚の公生活

p.337から
明治41年には森の履歴にもう一つ特記すべき事が起こる。5月25日に文部省の臨時仮名遣調査委員会の委員たることを依嘱され、文部大臣官邸での計5回の委員会に出席する様になった事、6月30日には会の席上で約一時間長文の意見を述べ、その夜速記者を呼んでその演説を再演して筆録させ、それを冊子に印刷して各方面に配付したことである。現在全集に収録されている高名な「仮名遣意見」はこの私家版冊子ではなく、文部大臣官房図書課が翌四十二年一月に発行した『臨時仮名遣調査委員会議事速記録』所載の稿体の方である。双方の本文の間に大きな異同は無い。

(鷗外)の意見は一個人のそれであるのみならず陸軍省の意見でもあるのかと質問したのに対し、明白に「さうです」と答えている。

森は、別に陸軍省が省議を開いて決めたわけではないが、少くとも陸軍大臣の意見は前回に自分が述べた所と同じである旨を明言している。事実、森はこの問題では寺内陸相と連絡をとっており、仮名遣の会での演説の私家版を大臣に呈してその承認を得ている。むしろ日記によれば私家版冊子は大臣に見せるために大至急で印刷し、刷り上るや直ちに寺内の手許に届けたものらしくも読める。

口頭ではなく文書で出されるものとしての軍の作戦命令、及び前線から司令部・参謀部に提出される戦闘報告書が正確な表現で書かるべきことは、作戦の成否、つきつめて言えば戦闘の勝敗にかかわる重大事である。森は戦役中第二軍の司令部の間近に居る軍医部長としてその事の重要性に強い認識を持っていた。

山田弘倫は、第二軍軍医部の部員の中には軍医部長が文章表現の不備に対してあまりに厳しために神経に障害を生じて後迭(ママ)になった例があったことを記しているが、さもありぬべきことである。戦場に於ける情報の正確な伝達は、実際に軍令の効果に直接関わることだからである。
 更に戦後、医務局長になってからの森は、課長級の属僚が命ぜられて起案した文書にその場でさっと眼を通して容赦なく朱筆を入れてゆくの恒例だった。属僚達はその添削を受けることでとかく情ない思ひをなめるのだが、森局長の入朱の跡を辿ってみると、大概の場合元来自分が書いたものとはとても思へぬほどに簡潔にして要を得た文章に生れ変つているため、いづれも深く納得し、局長には頭が上がらぬという思ひに呪縛されてしまうのが通例だったそうである。
(そりゃ文章の達人だもんな)

 p.340から
 六月三十日の森の演説は国語表記論の論文として学問の正統を践(ふ)み、正統の尊重さるべき所以を力説した立派なものだが、政治的にも成功した。41年9月5日の森の日記に〈仮名遣案を撤回すと報ぜらる〉と簡潔に記しているが、正確を期して言えば、文部省が提起した仮名遣改定案(表音式を取り入れた方式)を提案者側から撤回した、との意味である。文部省が改訂を断念した最大の動機は森の反論にひそむ「理」に承服したことである。それはこの問題を学問史上の一事件と見て考察する評家達の一致した意見であり、森自身も、文部省の改定案を潰したのは自分であるとの強い自負を懐(いだ)き、それを口外することもあった。後世文部省乃至その御用学者としての表音主義派が企む仮名遣の表音式改定案に対し、仮名遣に内臓されてゐる精神史的伝統を守り抜くべく抵抗した文人・学者達、太田正雄(木下杢太郎(もくたろう))、芥川龍之介、山田孝雄といつた人々は皆、この明治四十一年に於ける森の正統遵守の見識と学殖と、そして何よりもその情熱に範例を仰ぐことで国語表記の伝統破壊を阻止してきた。その抵抗線が遂に破られたのは、日本国が対外戦争の敗者となり、米国軍隊の軍事占領下にあった昭和二十一年十一月のことである。
小堀は本書が旧字旧仮名なので旧字旧仮名を肯定する側だと分かる箇所。それなら統一教会から離れて欲しい。表記つまり表面だけ保守しても意味ないでしょ。見た目だけは保守に見えるので、余計悪質だよ


 明治三十一年十月に森は『西周伝』を脱稿している。西は森にとっては母峰子の従兄に当る縁戚の人であり、東京での進文学社時代に一時西家に寄寓していたことのある間柄だった。三十年一月の西の死去から間もない三月に、西の遺嗣西紳六郎(しんろくろう)男爵の嘱を受け、速筆の森が六箇月ほどのうちに書き上げてしまった伝記である。森は草稿を仮印刷した稿本を作り、西周と生前親交のあった政界・学会の貴顕に送付して校閲を仰いだ。この様な事例に於ける校閲の作業はとかく通り一編の儀礼的な眼通しに終る場合が多いのだが、校閲を受けた後の森の稿本補訂作業が一年近くかかり、定稿の擱筆(かくひつ)が翌三十一年九月だったところを見ると、案外に訂正すべき事項の指摘は多かったのかもしれない。
 校閲者の訂正指摘の詳細は不明であるが、一項判明している重要な訂正要求は、西紳六郎を通じて受けた山縣有朋からの教示である。それは山縣に殊に関係の深い、「軍人勅諭」起草の件である。高名な「軍人勅諭」は明治十三年に山縣の委嘱を受けて西周が草案を書いた。その後福地源一郎、井上毅(こわし)等が西の草案への加筆修正に当り、山縣自身も統帥権の親裁を明確にする方向での補訂の筆を加えたとされる。



p.345から
明治四十三年五月に所謂「大逆事件」と呼ばれることになる天皇暗殺の陰謀の発覚ということで容疑者の検挙が始まり、裁判は迅速に進んで翌44年1月には判決が下る。容疑者26名中24名の大量が(ママ)死刑宣告を受け、中12名が翌日減刑されるが、残る12名は6日後に刑を執行された。

森が同年九月の『三田文学』に対話体の小説「フアスチエス」を載せ、続いて同じ雑誌の十一月、十二月號に」沈黙の塔」「食堂」を発表したのは、大逆事件に昂奮する世間と殊にジャーナリズムに対し、社会主義、共産主義、無政府主義、及び文學思想としての虚無主義について極く初歩的な解説を試みたものである。そんな解説が必要と思われるほどに、森の眼から見れば、例えば当時の政府の御用新聞の性格が歴然としていた東京朝日新聞の同年九月から十月にかけての無署名の連載記事「危険なる洋書」の知的水準は読むに堪えない底の低劣なものであった(因みに、この与太記事は著名な夏目漱石・森田草平の朝日新聞「文藝欄」とは無関係である)。

 明治四十四年一月に「大逆事件」犯人への有罪が宣告された直後に、読売新聞の社説が発火点となって南北朝正閏問題なる事件が発生した。その社説が「国定教科書の失態」と付題していることからも、その言わんとすることは判明するのだが、明治三十六年に編纂された小・中学校用国定教科書の日本歴史の部では、南北朝時代に於いて我が国では京都と吉野とに二つの朝廷が併立してゐたという史実がありのままに記述されていた。それは明治四十一年九月から十一月にかけて何回か開かれた文部省の教科書改訂審査のための調査員会を無事に通過していた。四十一年度には森は修身教科書を調査する第一部の主査委員を委嘱されて出席していたから、所属部会(ママ)は異なるけれども全く無関係の事件というわけではなかった。

南北朝時代、吉野と京都と、二つの朝廷が竝(=並)び立ってゐたのは端的なる事実である。然しそれを事実として認めるならば、聖徳太子の十七条憲法第十二条〈国に二君非ず、民に両主無し〉との我が国体を定め給うた定言に撞着するという疑いが生ずる。太子の憲法を持ち出すことをせずとも、長く徳川幕府の官学であった朱子学の正統思想に鑑みても、皇位の正統は一系であるべきであり、二つの正統が併立(ママ)していると見るのは正統概念の自己矛盾である。森は教科書用図書調査委員会委員としての立場上、教科書の記述の成否をめぐっての政治的な論争に介入することはできない。森の盟友たる賀古鶴所、井上通泰、市村瓚次郎(いちむら さんじろう)といった人々にはその様な立場上の制約はない。この三人は山縣有朋の心事を思い遣り、直接老公と連絡をとりつつ南朝正統論の確立に向かって奔走を始めた。

鷗外も南朝肯定側だろう。明治政府に賛同する側のほとんどは当時は南朝肯定側だろう

 山縣にとって南北朝併立論は如何なる意味を持ち、又何故に南朝正統論に固執する内的動機が存したのか。今上天皇(明治)が北朝の系譜に連なる天子であることは明らかにあるのに――

いや~なんでだろうな~♬[目をそらし不自然な口笛] 「明治天皇は正統ではない」って意味になるのにな(笑)

 国史に於ける正統論は、南朝方が北朝方に降って皇位の正系を閨系の北朝方に譲ったと見るのではなく、南北朝の合一によって神武天皇以来の一系の皇統が護持せられたといふ、皇統の連続性の方を重視する論理をとっている。この連続性を可能にしたのは吉野朝廷の神器保持という立場を守り抜いた南朝方の義臣達の忠誠の賜である。南朝方の武士団は正閏の争いに破れたのではなく、合一の成就まで正統性を守り抜いた功労者である、と見る。
 皇統それ自体が正統であるという論理が確立すれば、日本国の統治権者として閨位にあるのは実は武家政権であり、徳川幕府とても足利氏の室町幕府の後継である以上、朝廷の正統性に対立する異端はつまり幕府だということになる。「五箇条の御誓文」の第四条が〈舊來の陋習を破り天地の公道に基くべし〉と高く唱導した所以である。天皇親政を正統とする立場から見れば、武家政治自体が陋習である。

閨に「婦人」の意味があるので、閨系はおそらく女系の意だろうと思ったのだが、「日本国の統治権者として閨位にあるのは実は武家政権」とあるから傍系(直系から分かれ出た系統)や、単に「正統ではない」って意味かもしれない。
”閨系”で検索しても出ないから著者の造語かもしれない。

 四十二年十月に伊藤博文がハルビン駅頭で暗殺の憂目に遭い、山縣は今や所謂維新の元勲中の最重要の存在になっていたが、彼等が青年時代に金科玉条と奉じた頼山陽『日本外史』にしても藤田東湖『弘道館記述義』にしても、その説く所を肝要の一点に絞って言えば、皇室の正統性に比べては七百年の武家政治の伝統と雖も日本国の異端である、という一事に尽きる。この一事を格率として、彼等は旧来の陋習を打破し、天地の公道に基く政治体制を自分達は構築したのだ、との自負を有している。正統性こそが、明治政府の元勲達が自己の権力・権威・権勢の正当性を保証する唯一最高の論拠である。山縣が固定観念的に「正統性」の概念に固執するのもわからぬわけではない。南北朝の併立が国定教科書で明記されてあるとすれば、それはやがて正統性なるものの相対化につながる。
 教科書問題としての南北朝正閏論争は、間もなく全く「政治的」に解決した。教科書の時代表記は四十三年三月の文部省訓令により〈南北朝時代〉を改めて〈吉野朝時代〉とし、結果的に南朝正統論を認承した形となった。編纂官喜田貞吉は休職処分を受けて文部省を去った。
 大御所山縣の庇護
 明治の元勲にして日本陸軍の育ての親とも称すべき位置にいた大御所の山縣が、陸軍省官僚としての森に対し庇護者の役割を演ずる機縁が遂に生じた。簡単に言えば、軍医部の人事権を医務局長から軍務局長の手に収奪しようとの動きが生じ、医務局長は当然此に抵抗して人事権を手放すまいとする。その抗争に際して長老の山縣が森医務局長を支援する側に立って介入し、森の抵抗を貫徹せしめたという事件である。


p.352
山縣も直ちに軍務局長田中義一少将を呼んで衛生部の人事の独立性に干渉するな、との注意を与えた。
 これは別段、山縣が長老としての権威を振り翳して森を依怙(えこ)的に庇護したというわけではない。〈医者と坊主の人事〉は部外者にはわからぬ、というのが山縣の持論であり、そのため明治四年の兵部省条例、五年の陸海軍省職員令という古い昔に、軍医の人事は軍医頭(初代は松本良順軍医総監)が総括し、その結果を陸軍卿(大臣)に報告すればよい、と定めて置いた。軍務局は本務だけで手一杯のはずであり、衛生部の人事にまで手を出すのは以ての外である、というのが山形(ママ。なぜか山縣ではない)の考えだった。山縣は唯この陸軍の多年の慣行を今更変更するな、と田中義一をたしなめたまでである。

 3 家庭生活の不如意
 4 文業隆盛の契機・『沙羅の木』の游び

 5 飜譯が築いた藝術世界


 6 創作と思索の軌跡
p.399から
明治四十二年(1909)1月、前年十月の『明星』廃刊の後を承継いだ形で、新雑誌『昴』が創刊された。

 森は前年大村西崖(せいがい)著『阿育王事績』に、アショカ王伝とインドの古代史についてのドイツ語文献から得た史伝的材料を増補稿として贈り、大村は此を徳として、本文大部分は彼自身の叙述に成るものである同書を森との共著と銘打って刊行した。その時クリスティアン・ラッセンというドイツ人インド史学者の大作『インド古代誌』の中のシンド(ママ)國の歴史を敍(=叙)した中で森は「プルムウラ」の素材に遭遇している。
(鷗外は古代インドの勉強もしている。鷗外は非常に勉強熱心な人だ)


p.401から
 問題視された二篇の小説
 以上のうち、「追儺」の翌月『昴』に載った「魔睡」は、或る法学者の妻が学究としても高名な神経病科の医師から催眠術をかけられたという不愉快な経験を小説に仕立てたものだが、作中のその医師のモデルは神経病学の権威として名高い帝大教授三浦謹之助ではないかとの風評が立った。この風評の起した波紋は相当激しいものだったが、森はこの作については強気一点張の態度を押し通した。然し結局「魔睡」は「半日」と同様、森の生前に単行本に収録されて読書界に提供される機会を得なかった。「半日」の場合、作者の筆誅の被告である志げ夫人の不満と拒否とによることはよくわかるが、「魔睡」の場合は、モデル問題が惹起す社会的な悶着を恐れて出版社の側が躊躇した事に由る様である。因みに、高名な医師から催眠術をかけられるという災難にあった大川法科大学教授夫人、そしてその夫君は即ち小説作者の森林太郎夫妻ではないかとの忖度は、この作の発表当時からあった。大川教授の人物像と作品に描かれている交友関係がたしかに現実の森を想像させる要素を多く有していたからである。だが、結局この話は虚構の上に立った「小説」とみるべきであろう。
 六月発表の「魔睡」は名誉毀損の訴訟でも起されかねない問題性を有していたのに、モデルと見られた側は行動を起さず、現実には作者が内々に総理大臣の桂太郎から注意を受けるというだけで済んだ。ところが次の七月號に発表された「ヰタ・セクスアリス」は、掲載した雑誌『昴』が月末近くになって発売禁止処分を受けるという事件を惹起した。発売後四週間を経た後の発売禁止であるから、評判を呼んだ七月號は既に殆ど売り切れており実質的損害はなかったのではないかと思われるが、八月六日になって内務省警保局長が陸軍省に来て『昴』の発禁の理由を説明した事は森の身に直接響いた。即ち漸く森の官僚としての実力を認める様になっていた石本次官が、今度は陸軍省の公務の本筋から外れた事由で〈戒飭(かいちょく)〉することになる。
 「ヰタ・セクスアリス」については爾来百年余の歳月、批評・研究・考証の類が長谷川泉氏の『「ヰタ・セクスアリス」考』正続を筆頭にして山積の状態であり、この面で新たに付加えるべき事項は殆ど無いと言ってよいくらゐであるが、敢へて言えば次の一事ほどであらうか。
 即ち此の作品が題名に云ふ作者の性的生活の経歴を正直に綴ったものであることはほぼ間違いないが、その自伝的要素を余り重く見てはならない、ということである。自伝の一種としての扱いを姑(しばら)く許容するするとしても、凡そ自伝の常として若年時の経験の叙述に於ける取捨選択の自由、記憶の美化といった事の他にも、年度、場所、事柄についての記憶違いということがある。そしてこの作が小説である以上、作者は己の経験の扱いに於いてそれが事実とずれていないか否かについて公的に責任を負っているわけではない。

鷗外は社会的立場が高いうえにケツ社員だろうから罰が軽いなあ。ほぼ無傷じゃん。
『沈黙の塔』と『食堂』は発禁処分になっていないんだよな。
飭(チョク)。意味は 「いましめる」「 つつしむ」「正す」「ととのえる」。
戒飭(カイチョク):人に注意を与えて慎ませること。また、自分から気をつけて慎むこと。
 
「魔睡」は「催眠」という意味。鷗外が催眠を扱った小説を書いているのが重要。

催眠はオルダス・ハクスリーが注目している分野だから、支配層が重視しているのは間違いない↓

オルダス・ハクスリーからジョージ・オーウェルへの手紙
https://open-shelf.appspot.com/LettersFromHuxleyToOrwell/chapter1.html
(重要かつ短いので全文読んだ方が良い。朗読動画もYoutubeにある)

短編小説あらすじbot
@tanpen_arasuji
魔睡/森鷗外
友人から磯貝医師の暗い噂を聞いた直後、帰宅した妻の様子に不審を覚えた大川が問い質すと、姑の付き添いで訪ねた病院にて磯貝に妙なことをされたが記憶が曖昧であるという。妻が磯貝に催眠術を施されたと判断した大川は妻を慰める一方で自身の心中に湧く不快感を分析する。
午前9:48 · 2023年4月2日·176 件の表示

正続(せいぞく): 正編と続編。

「自伝的要素を余り重く見てはならない」ってのは本当にその通りだよ。小説ではない鷗外の文章をしっかりと確認していく作業が必要だから研究者は大変だ。


森林太郎 私が十四五歳の時
https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/49252_36954.html
” 過去の生活は食つてしまつた飯のやうなものである。飯が消化せられて生きた汁になつて、それから先の生活の土臺になるとほりに、過去の生活は現在の生活の本になつてゐる。又これから先の、未來の生活の本になるだらう。併し生活してゐるものは、殊に體が丈夫で生活してゐるものは、誰も食つてしまつた飯の事を考へてゐる餘裕はない。
 私は忙しい人間だ。過去の生活などを考へてはゐられない。もう少し爺さんにでもなつて、現在が空虚になつたり、未來も排氣鐘の下の空氣のやうに、次第に稀薄になつて來たら、既往をでも顧みて見るだらう。兎に角まだそこまでは遠いやうに思つてゐる。
 私は名士だから問ふのださうだが、その名士だといふのも少し可笑しい。實は私自身ではまだ何一つ成功してゐるとは思はない。勿論今も何か成功しようとは心掛けてゐる。今からだと思つてゐる。それも空想に終るかも知れない。只ださう思つてゐる丈は事實である。
 私が十四五歳の時はどうであつたか。記憶は頗るぼんやりしてゐる。私の記憶は、何か重要視するものに集中してゐるのだから、其外の物に對しては頗る信頼し難いのである。それだから自身の既往なんぞに對しては頗る灰色になつてゐるのである。或は丸で消滅してはゐないかも知れないが、少くも土藏のごく奧の方にしまひ込んであると見えて、一寸出してお目に掛けにくい。
 私は石見國鹿足郡津和野町に生れたものだ。四萬三千石の龜井樣の御城下で、山の谷あひのやうな處だ。冬になると野猪が城下に出て荒れまはる。さうすると父は竹槍を持つて出掛ける。私はお母あ樣と雨戸をしめて内にはいつて、雨戸の節穴から、野猪の雪を蹴立てゝ通るのを見てゐたのだ。
 その津和野から東京へ出て來たのが、お尋の十四五歳の時であつたと思ふ。どうも何年何月であつたか、空には覺えてゐない。
 父は龜井樣の侍醫のやうなものになつて出るので、私は附いて出たのだ。今の伯爵のお祖父樣なのだ。向島須崎村にお邸があつた。
 私は本郷壹岐殿坂の獨逸語を教へてゐる學校にはいつた。そこへ通ふには向島からでは遠いから、神田小川町の西周といふ先生の家に置いて貰つてそこから通つた。
 土曜日には向島へ往く。日曜日を一日遊んで西の邸へ歸る。その頃は東橋の下の渡を渡るのであつた。父から一週間の小遣に一朱貰ふのが例になつてゐる。一朱では諸君に分かるまい。六錢二厘五毛である。それを使ふのに、渡錢丈け殘して置かねばならないのであつた。渡錢は文久一つ即ち一厘五毛であつた。ところが或時日曜日の朝向島へ往くのに、その文久が無かつた。そこで大いに困つたが、渡場の傍に材木問屋があつたのを見て、その帳場の爺さんに、渡錢にするのだが、文久を一つ明日まで貸してくれまいかと云つた。爺さんが、えゝ、朝つぱらからいま/\しいと云ひながら、兎に角文久は出してくれた。私は言草が癪に障らぬではなかつたが、必要に迫られて借りた。翌日それを持つて往つて返すと、爺さんはいらないと云つた。私は腹が立つたから、文久を爺さんの顏に投げ附けて、一しよう懸命駈けて逃げた。
 一寸思ひ出したのはこんな事だ。




底本:「鴎外全集 第二十六卷」岩波書店
   1973(昭和48)年12月22日発行
底本の親本:「妄人妄語」
   1915(大正4)年2月22日発行
初出:「少年世界 第十五卷第十二號」
   1909(明治42)年9月1日発行
※初出時の表題は、「僕(ぼく)が十四五歳(さい)の時(とき) 」です。
” ※着色は引用者

文久:文久永宝。銅の四文銭。明治になっても使われた。法的に通用を停止されたのは昭和28年(1953)。


第七章 大正の新時代
    ――內省と觀想の季節
 1 大世界の傍觀者
 2 應制の詩文
 3 學究經歷の終幕
 4 『フアウスト』と『マクベス』、そして『諸國物語』といふ奇蹟
 5 「歷史其儘」の束縛と解放

第八章 歷史家としての晩年
    ――只是近黄昏
 1 奈良での懷古と現代考察
 2 帝室問題への閒接的干與
 3 歷史叙述の新樣式
 4 終 焉

主要参考文献
あとがき
森鷗外略年譜
人名・作品索引



(参考資料)
[
森鷗外について - 北九州森鷗外記念会
https://kitakyu-ougaikinenkai.com/ougai/

森鷗外|津和野文化ポータル
https://tsuwano-bunka.net/people/detail_mori/
”文豪

 森鴎外こと森林太郎は、1862年(文久2)、藩の内科医であった森静男の長男として生まれました。
 林太郎は6歳になったときに論語の素読(そどく)をはじめ、7歳で孟子(もうし)を習いました。8歳になって養老館へ入学しましたが、その秀才ぶりは群を抜いていました。入学から3年目の1872年に養老館が廃止されたことを機に、東京で勉強するために父とともに上京しました。 林太郎は13歳の時に東京医科大学予科へ入学しました。年を2歳も偽っての入学でした。16歳で医学部本科へ入学し、卒業後は軍医として陸軍省へ入省しました。1884年(明治17)、23歳のとき衛生学研究のためドイツ留学を命じられ、ライプチッヒ、ミュンヘン、ベルリンで学びました。4年足らずの留学で、衛生学はもちろん、卓越(たくえつ)した語学力でドイツ文学等の研究も行いました。
 日本に帰ってからは、東京医学校および陸軍大学の教官となりました。また1891年(明治24)、「舞姫(まいひめ)」を発表、「鴎外」というペンネームを用いて作家活動をスタートさせました。以後「うたかたの記」や「文づかひ」など数多くの作品を発表しています。
 32歳の時、軍医学校の校長に任命されました。1894年(明治27)に日清戦争が始まると林太郎は第二軍軍医部長として出征しました。37歳のとき十二師団軍医部長として小倉に赴任し、翌年日露戦争が勃発すると第二軍軍医部長として出征、戦場にあっても暇があれば読書をし、詩や短歌をつくり、それらは凱旋後(がいせんご)に「うた日記」として刊行された。
 1907年(明治40)、林太郎46歳で軍医の最高峰、陸軍軍医総監(そうかん)に任命されました。48歳で文学博士になり、医学、文学の両博士の称号を得ました。
 1917年(大正6)、56歳で帝室(ていしつ)博物館の館長に、58歳で帝室美術院の院長になりました。晩年は奈良の正倉院の管理のためたびたび奈良を訪れましたが、病気のため1922年(大正11)7月、60歳にてついに帰らぬ人となりました。
 鴎外の遺言には「余は石見人森林太郎として死せんと欲す」とあり、死に際まで生誕の地、津和野の地のことに思いをはせていたものと思われます。
 現在、森鴎外の生家は森鴎外旧宅として国の史跡に指定されています。
「森鴎外」の表記について

固有名詞である森鴎外の「鴎」の字の編は、正しくは「区」ではなく「區」と表記するべきところですが、「區」を編にした「鴎」の字は環境依存文字であるため津和野町ホームページ上においては、新字体を使用しております。津和野文化ポータルHP上では、混合し使用したうえで不具合が出ていないか確認しているところです。

津和野町では、出版物など環境に依存しないものに関する表記については、旧字体の「鷗」を使用するよう努めています。
” ※着色は引用者

46歳で軍医の最高峰、陸軍軍医総監。46(笑) 狙ったのか不明。
写真は左向きで左目のみ見せる鷗外。真横からだと、◣の形に見える目だな。倒三角ではない。

]




西周の誤訳について


シーア兄貴(イラソのアレ来世触手)2022/3/3~4/4と良呟きや記事の保管庫
Posted on 2022.03.20 Sun 00:11:23
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-471.html
”来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
3月18日
違う
士農工商の上には「殿上人・雲上人」というのがいて、士農工商は地下(じげ)なの
雲上人にとっては士農工商は全て地下でそれに違いはないのよ
しかも、アイツらは現人神よ
神話そのものである、現人神にとっては全部同じでしょ?
一定の視点何て存在しません、必ず調整することです

3月18日
本当に意味不明なんだけど
何故に我ら下人・地下者の考え方と雲上人の考え方・視点が同じだと思えるのかが全くわからない
人間というのは精々、百人・千人くらいの事しか考えられないの
どんなに大きな会社だったとしても役付きと会社外含めて千人位の人間を知ってる・常に考えているなら大人物ですよ

3月18日
で、その百人・千人がわしらの感覚での百人・千人と雲上人の百人・千人が同じなわけがない
教育で考えてごらんよ、自分の子供を現役の東大生や官僚に頭下げてビシビシ教えて欲しいと言って、実際に教えて貰える人どれだけいるよ?
それでも親・親戚のコネで成蹊しか行けなかった汚物がいるんだからさ

3月18日
そこで必要になってくるのが歴史なんだけど、歴史って「レンズがついてないカメラ」だから
描写する対象に対してあったレンズをつけないといけないのよ、これが「歴史観」
で、歴史観にあったピントを合わせて「撮りたい絵図をつくる」わけ
だから、情報・知識ではなく撮りたい絵図を考察するわけよ

3月18日
ところが撮りたい構図・謀りたい未来から今を引っ張ってくるとなると「全体から部分」となる
んだけど、実はコレにはもう一つ分類があって完全と不完全がある
完全な場合は全体から取られる部分は全く動かず、必ずその答えになる
が、不完全の場合は大凡そうなるわけであって必ず同じ答えとはならない

3月18日
要は撮りたい絵図・構図から今を追随させるわけなのよ
本来の演繹は朱熹が言うように「父師言を以てし、交互『演繹』して…」とあるので交互・比較対象がある時点で抽出すべき「全体」ではなく、所謂帰納になるので
ゴミを周いているおかげで致命的な誤訳が放置されているんですね、さすが結社員

3月18日
本来は上から下へ「全体が部分へ追随・追従」しているので本来は追随と翻訳すべきところを、未だに放置されているんですね
尚、これは別の言語での翻訳や語彙を日本語翻訳したものだから、結社員の寝言の外にあるもの
こういうところから170年間負け続けている事を理解したほうがいいよ、真面目に

3月18日
で、不完全な絵図・構図
連中にとって都合のいい、不完全な追随図にアンタら従いたいわけだから勝手に従属していればいいんよ
もう諦めているんで

地下(じげ)の意味 - goo国語辞書
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%9C%B0%E4%B8%8B_%28%E3%81%98%E3%81%92%29/
” じ‐げ〔ヂ‐〕【地下】 の解説

1 清涼殿殿上 (てんじょう) の間に昇殿することを許されていない官人の総称。また、その家柄。一般には蔵人 (くろうど) を除く六位以下をいう。地下人。⇔堂上。

2 官職・位階など公的な地位をもたないこと。また、その人・身分。農民や庶民。民衆。地下人。

3 地元の人。土着の人。地下人。

4 自分の住んでいる村など。地元。


西洋を周(あまね)くするという名が体を表しすぎている尻社員。
本ブログ記事の一番下より少し上あたりに、フォレスト鴎外と親戚だとか、フリ目入会正式記録の写真があるとか書いておいた。
入った□ッジ名や推薦した学者(教授)の名前まで判明しているからな。

中国古典や仏典の一部を使う翻訳って「憑依して意味を上書きして破壊」になるから、これをやったのがそもそもの間違いだよなあ。まあフリ目だしわざとやっているんだろうけど。仏教や儒教とかって、欧米のゴッド教と水と油じゃん。だから、万の教が帰一のような、歪な訳に必然的になるじゃん。
非常に似た、対応する単語があるならいいけど、ないなら誤訳になるじゃん。
ぶっちゃけ、カタカナでそのまんまの方が害はずっと軽微だっただろうな。
つまり、徹底して「これは(欧米由来の)外来語」とすぐにわかるようにするってこと。観念ってふざけた訳にするぐらいならイデーとかイデアってまんま使った方が良かったな。
それか、語源を使う翻訳。漢字は使うが、仏典や中国古典の用語は使わないということ。

演繹(ディダクション)と帰納(インダクション)は語源を使って、
導出と導入か
下導と上導と訳した方が良かったのでは?

帰納(インダクション)と演繹(ディダクション)は、ラテン語のinductio(インドゥクティオ)とdeductio(デドゥクティオ)が由来。

ラテン語のdeductio(デドゥクティオ)
=接頭辞de(デ)(「下降」「起源」)
  +名詞ductio(ドゥクティオ)。
 ductio(ドゥクティオ)はduco(ドゥーコー)(「導く」「引き出す」)という動詞から派生。

下に導き出す(導出)と考え、ディダクションは「下導」ではどうだろう。

deductio(デドゥクティオ)は
より上位に位置する普遍的な概念から、その「下」位に位置づけられる個別的な概念や具体的な事物の存在を「導」き「出」すという推論の形式。
deductio(デドゥクティオ)は上から下に下る。

それに対して、inductio(インドゥクティオ)は下から上に上がる。
となると「上導」。上に導く。下導と対比になるし。

ラテン語のinductio(インドゥクティオ)
=接頭辞in(イン)(「中へ」)
  +動詞duco(ドゥーコー)(「導く」)。
なので、そのまま訳すと「導きいれること」「導入」。
「導出」をデドゥクティオの訳語にするなら「導入」もありだな。
これだと一般語の導入と混ざるから使いたくないな~という思いもある。


ラテン語のinductio(インドゥクティオ)は、
具体的事物や個別的な事例を挙げることによって、そこから普遍的な結論を導き出すから、上へ導くまたは上を導く。
インダクションは、下位に位置する個別的な概念や具体的な事例を、「上」位の普遍的な概念へと「導」き「入」れ昇華するとという推論の形式。

以上、演繹(ディダクション)と帰納(インダクション)を語源を使って、
導出と導入、あるいは
下導と上導と訳した理由を書いた。語源などの出典は以下である。



帰納(インダクション)と演繹(ディダクション)の語源とは?ラテン語における帰納と演繹の具体的な意味と由来
https://information-station.xyz/7476.html
”こうした帰納(インダクション)と演繹(ディダクション)という言葉は、もともとは、ラテン語のinductio(インドゥクティオ)とdeductio(デドゥクティオ)という単語に由来する言葉であると考えられることになります。

そこで今回は、こうした帰納と演繹という言葉の語源となったラテン語の二つの単語が、それぞれ具体的にどのような意味と由来をもった単語なのか?ということについて詳しく考えてみたいと思います。
[略]
まず、ラテン語におけるdeductio(デドゥクティオ)という言葉は、もともと、「下降」や「起源」を意味する接頭辞de(デ)に、

「導く」「引き出す」といった意味を表す動詞duco(ドゥーコー)から派生したductio(ドゥクティオ)
という名詞が結びついてできた言葉であり、

全体としてdeductio(デドゥクティオ)という言葉は、直接的には、「何かから別の何かを導き出すこと」、すなわち、「導出」を意味することになります。

ちなみに、

ラテン語の動詞duco(ドゥーコー)が語源となった英語の単語としては、帰納と演繹を意味するinduction(インダクション)とdeduction(ディダクション)の他に、

例えば、introduce(イントロデュース)という単語なども挙げられることになりますが、

英語のintroduceは、「内側へ」を意味する接頭辞intro(イントロ)に、「導く」を意味するラテン語の動詞duco(ドゥーコー)が結びついてできた単語であり、

他者を自らの内へと引き入れること、すなわち、「紹介する」「引き合わせる」といった意味を表す動詞として用いられることになります。

そして、

こうしたラテン語の動詞duco(ドゥーコー)が語源となったdeductio(デドゥクティオ、演繹)という言葉は、

それが論理学の分野において用いられるときには、

より上位に位置する普遍的な概念から、その下位に位置づけられる個別的な概念や具体的な事物の存在が導き出されるという推論の形式を意味することになり、

さらに、より一般的には、

前提から結論が必然的に導出されるという論理的な推論のあり方全般のことを意味する言葉として用いられるようになったと考えられることになるのです。
[略]
それに対して、

ラテン語におけるinductio(インドゥクティオ)という言葉は、「中へ」を意味する接頭辞in(イン)に、「導く」を意味するラテン語の動詞duco(ドゥーコー)が結びついてできた単語であり、

それは、直接的には、「導き入れること」「導入」を意味する言葉であると考えられることになります。

そして、

論理学の分野においてこうしたinductio(インドゥクティオ)という言葉が用いられるようになった経緯は、

古代ローマ随一の雄弁家にして文筆家でもあったキケロが、ギリシア哲学を古代ローマの社会全体へと紹介していく際に用いた古代ギリシア語の概念のラテン語への翻訳のあり方に求められることになります。

ソクラテスやアリストテレスに代表される古代ギリシア哲学においては、

具体的事物や個別的な事例を挙げることによって、そこから普遍的な結論を導き出すという議論のあり方のことを指してepagoge(エパゴーゲー)という古代ギリシア語の言葉が用いられていたのですが、

キケロは、そうした古代ギリシア哲学におけるepagoge(エパゴーゲー)と呼ばれる議論の形式のことを指す概念を、上記のinductio(インドゥクティオ)というラテン語の言葉に訳すことによって、古代ギリシア哲学のラテン語による解釈を進めていくことになり、

それによって、inductio(インドゥクティオ、帰納)という言葉が、論理学においてdeductio(デドゥクティオ、演繹)という言葉の対をなす概念として定着していくことになったと考えられることになるのです。

・・・

以上のように、

演繹(deduction、ディダクション)と帰納(induction、インダクション)という二つの言葉はそれぞれ、

ラテン語において「導出」を意味するdeductio(デドゥクティオ)という単語と、「導入」を意味するinductio(インドゥクティオ)という単語に由来する言葉であると考えられることになります。

そして、こうした互いに対をなす両者の概念は、以上のようなラテン語におけるもともとの語源がもつ意味に基づいて解釈すると、

それは、一言でいうと、

演繹(ディダクション)が、一義的には、より上位に位置する普遍的な概念から、その下位に位置づけられる個別的な概念や具体的な事例を導き出すという下降していく推論の形式として捉えることができるのに対して、

帰納(インダクション)の方は、その反対に、下位に位置する個別的な概念や具体的な事例を普遍的な概念へと導き入れ昇華するという議論の次元を上方へと導く推論の形式として捉えることができると考えられることになるのです。”


演繹とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E6%BC%94%E7%B9%B9-37947

中略。
注:コトバンクから引用する量を減らすためにここに中略を入れる。
演はのぶるという意味で、繹は糸口より糸を引き出すという意味。
なので、ディダクションの訳語ではない意味「1つのことから他のことに押しひろめて述べること」なら、「演」と「繹」の字を使うのはおかしくない。述べるのだから「演」はおかしくないし、1つのことから他のことへという方向性は、糸を引き出す感じがするからだ。だが、ディダクションに「演」はおかしい。「繹」は結論を引き出す感じがするかもしれない。が、「繹」を見てもほとんどの人は意味を想定できないだろう。
語源を無視するのもまずいな。なんでもかんでも語源で訳した方が良いってことはないが、演繹と帰納は語源を使う方が、字で意味を想定しやすい。

朱子(朱熹)の『中庸章句』の序に
「是(ここ)に於て、堯舜以來相ひ傳ふるの意を推本し、質(ただ)すに平日聞く所の父師の言を以てし、更互に演繹して、此の書を作爲す。」とある。


(私の不正確であろう訳:
ここにおいて、堯舜以来伝わってきた意味を大本まで推し量り[徹底究明して]、父のように敬愛する師のおっしゃったことをもって不明な点を明らかにし、交互に「演繹[意義をのべ明らかに]」して、この書を作った)

交互というのは、堯舜以来の教えと、師匠の教えを互いに照らし合わせつつということだろう。
前後の文脈までわからないので的外れかもしれない。
[中略]
推本=推源=根源を究める。
更互(こうご):かわるがわる。《語》交互。

推本溯源(すいほんさくげん)の意味・使い方 - 四字熟語 - goo辞書
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%8E%A8%E6%9C%AC%E6%BA%AF%E6%BA%90/
” 推本溯源の解説 - 学研 四字熟語辞典
すいほんさくげん【推本溯源】
物事の根源を探し求めること。事象の大本おおもとを推し量り、その根源までさかのぼるという意から。

注記
「本もとを推おして源みなもとに溯さかのぼる」と読み下す。
表記
「溯源」は、「遡源」とも書く。 ”

西洋をあまねくしようという尻メンバーが演繹と訳したことについては以下に詳しく書いてある。

「百学連環」を読む
第85回 なぜ「演繹」というのか
筆者: 山本 貴光
https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/100gaku85

西先生は、ミルの新しい論理学のポイントを、このように説明します。

其改革の法たる如何となれは induction なるあり。此の歸納の法を知るを要せんには、先つ以前の deduction なるものを知らさるへからす。演繹とは猶字義の如く、演はのふる意、繹は糸口より糸を引キ出すの意にして、其一ツの重なる所ありて種々に及ほすを云ふなり。

(「百學連環」第37段落第4文~第6文)



induction、deductionの左側には、それぞれ「歸納の法」「演繹の法」と添えられています。では、訳してみましょう。

その改革の方法とはどのようなものかといえば、induction というものがある。この帰納という方法を知ろうと思えば、まずそれ以前の deduction というものを知らなければならない。演繹とは、その字義のように、「演」は「のべる」という意味、「繹」は「糸口から糸を引き出す」という意味であり、一つ重なるところがあって、それを種々のものに及ぼすことを指している。

(略)
この「帰納」と「演繹」という言葉は、現在でも使われている語ですね。これは、西先生が訳したものだと言われています。この「百学連環」講義の数年後、明治7年に刊行した『致知啓蒙』でも、一旦は「鉤引〔deduction〕」「套挿〔induction〕」と訳した上で、「演繹」「帰納」としています。

「鉤引〔deduction〕」は、「鉤(かぎ)」で「引く」。つまり、なにかを引き出してくるイメージでしょうか。「套挿〔induction〕」は、「套(とう)」ですから、同じようなものを重ねて、「挿(はさ)む」ということになりましょうか。これらの訳語は、なにか動的な印象を与えますね。

ところで、『哲学・思想翻訳語事典』(石塚正英+柴田隆行監修、論創社、2003)によれば、『英和対訳袖珍辞書』(1862)では deduction を「引減スルコト、推テ出来ルコト」、inductive を「引起ス」と訳しているとのことです。また、『和英語林集成』(1867)では、deduction は「ヒクコト」と訳し、induction については項目がないようです。これらの翻訳でも、動きの感じられる訳語が選ばれているのが目に止まります。

「百学連環」に戻りますと、上で訳した箇所で、西先生は、まず「演繹」の説明をしています。「演」という字は、音で「エン」、訓で「のべる」と読みました。「演説」「講演」などの語にも使われているように、引き延ばすことが原義です。

それから「繹」は、音で「エキ」、訓で「たずねる」でした。西先生も説明しているように「糸口から糸を引き出す」という意味があります。糸口とは、(巻いてある)糸の先っぽのこと。『英和対訳袖珍辞書』や『和英語林集成』の訳語と方向は似ていますが、「演繹」は漢語として引き締まっているように感じられます(そんなことはないでしょうか)。

「其一ツの重なる所ありて種々に及ほすを云ふなり」は、ここだけ見ると少し分かりづらいですが、なにか重(おも)なるところがあって(これについてはもう少し次回検討します)、そこから引き出されたものが、あちこちに及ぼされるという説明です。演繹というのは、そういうものだという次第。
(略)

ちなみに「演繹」の原語である deduction は、もともとラテン語の deductio に由来する語です。deductio には、「運び去ること」「植民」「差し引き」といった意味があります。その動詞形は、deduco で、日本語では「引き下ろす」「率いる」「(船を)出帆させる」「連れ去る」「移動させる」「追い出す」「減らす」「(糸を)紡ぐ」といった訳語が充てられます。ついでながら面白いのは、deductor で「教師」や「指導者」という意味にもなることです。

西先生の訳語や、比較のために見た二つの辞書の訳語は、どうやらこのラテン語の原義を反映しているようでもありますね。


この記事、西方あまねくに好意的過ぎる印象だな。もっと肩入れせずに書いてくれ。完全な中立は不可能だが、極端を避ける(異常に肩入れしない)ことを心がけることぐらいはしてくれ。
フリ目つまり西洋の尻しゃいんにとっての「人間」はメンバーだけなんだから、「先生」にしちゃだめでしょ。


[中略]
私はよく日本語の辞書を引くよ。特に有料記事では
[注:上記の直後に埋め込まれている呟き:
https://x.com/exa_desty/status/1252034827357876224
”苦行むり
@exa_desty
普段使っている言葉でさえ意味や使い方、解釈や細かい違いを調べると毎度苦悩するんだが私だけか?皆これらを簡単に躓くことなく理解できてきたのか不安になる。
午前9:42 · 2020年4月20日

(埋め込みなのでここに埋め込んでおく:)


(
西周が訳した言葉を再び独自に訳せるかやってみることにする。今すぐには全部はできないけど。
哲学って普通に愛知学の方が良いと思っている。
西周「観念の字は仏語に出づ、今此書には英のアイデア、仏のイデーなる語を訳す」
仏教用語だと観念は「心静かに智慧によって一切を観察すること。また一般に、物事を深く考えること。」という意味。
イデー(心に現れる表象、想念、意識内容)の訳語にあてるのは不適切だよなあ。つーか仏教破壊だろこれ。憑依戦術。
「想念」じゃダメだったのか?

「概念」も西周の訳語だと判明。
コトバンクより、「端的に言って概念とは名辞(名詞)であり,言語による命名が概念の産出にほかならない。」
モロに名づけの魔術の言い換えだ。概念(ヴィールス)を埋め込む術。
術じゃなくて言葉の意味に戻る。
「がいねん」(わざとひらがな)って
conceptus; Begriff; conceptの訳語なんだよな。コトバンクより、
「一般にAの概念といえばAについての経験的事実内容ではなく,Aに関する論理的,言語的意味内容をさす。」

「ラテン語conceptio,英・仏語concept,ドイツ語Begriffなどの訳。人間の対象把握の根本形式にしてその産物であり,観念,イメージなどと同義に用いられることもある。端的に言って概念とは名辞(名詞)であり,言語による命名が概念の産出にほかならない。」

概念でなく「意味」と訳すとただの一般語になっちゃうんだよなあ。それと「意味」だと「人間の対象把握の根本形式にしてその産物」の意味がなくなってしまう。翻訳は本当に難しいな。まあコンセプトとそのまま使う手もあるんだけどそれは最終手段だ。
概=おおむね、あらまし。
念=心の中のおもい。
Aの概念=Aについての、心中に生ずるおおむね(要はAって~だよ!)の言語的意味。
これに限っては、悪くない翻訳だな。「観念」は誤訳だけどな。
「観察」や「深く考える」の意味がないなら「観念」じゃないからな。


西周が森鴎外の親戚だと判明した。まじかよ。尻ネットワークじゃねーか。
フォレスト鴎外はほぼ間違いなく尻シャインじゃん。
本当に、「文豪」って書いて「けつしやいん」って読むんだな。
海外も同様。ノ-ベル症患者〔間者〕の神痴学系or目イソン率(少なくとも作品に登場する)を調べてみよう!
文学を読むよりも泣けるぞ!

https://twitter.com/komorikentarou/status/1028323954115502081 と続き
”小森健太朗@相撲ミステリの人
@komorikentarou
1920年代くらいまでのノーベル文学賞の受賞者が、かなり神智学関係の作家が多いのは、ネットワークがあったんだろうな。メーテルリンクはフランスの神智学会幹部だし、バーナード・ショーは神智学協会長アニー・ベサントと恋人関係にあった時期は神智学協会員だし、インドのタゴールはイェイツ推薦だし
午前1:55 · 2018年8月12日·Twitter Web Client

kemofure
@kemohure
返信先:
@komorikentarouさん
1976年にノーベル賞を受賞した作家のソール・ベローもルドルフ・シュタイナーの信奉者であったと聞きますが、小森先生のご指摘のネットワークが戦後にも関係していた可能性はある感じでしょうか…。
午後0:06 · 2018年8月12日·Twitter Web Client



完全にこー索引の条件リストじゃん↓

https://twitter.com/hero_boom_me/status/959627160423079936
”伊藤博文くん(2018年、そう今年は明治150年!)
@hero_boom_me
今日2月3日は幕末の啓蒙思想家・西周(にし・あまね)さんが誕生した日です!(文政2年)
西さんはすごいよ!
●脱藩してジョン万次郎に英語を学び
●榎本武揚さんらとオランダに留学
●慶喜さんにフランス語も教え
●万国公法を訳し「哲学」という言葉を作った!
ちなみに森鴎外さんの親戚です~

画像
午後0:18 · 2018年2月3日·Twitter Web Client


鴎外の親戚・西周が地味に凄い「芸術・技術・知識」等の訳語を作る
2021/02/03
https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2021/02/03/93693
”森鴎外と親戚で旧居の前には鴎外の生家

西は、石見国津和野藩(現・島根県津和野町)の御典医の家に生まれました。

つまり、藩主の家に代々仕えてきたお医者さんの家柄だということです。

いかにも頭が良さそうな感じがしますが、「家の蔵にこもって勉強していた」といわれていますので、並々ならぬ努力家でもあったようです。

ちなみに、その蔵は今も保存されているとか。

しかも川向かいには親戚にあたる森鴎外の生家があるそうです。へぇへぇへぇ。
(略)
慶喜の側近となるも倒幕で……

西は漢学を学んだ後、12歳のときには津和野藩の藩校・養老館で蘭学も学び始めたといいます。

その優秀さは幕府にも聞こえており、33歳で幕命によりオランダへ留学することとなりました。

津田真道・榎本武揚なども一緒に行ったそうです。

ヨーロッパで、西洋の法律・哲学・経済学を学んだ西は、三年後に帰国。

その知識と頭脳を活かすべく、徳川慶喜の側近となりました……が、既に倒幕へ向かっていく世の中では、宝の持ち腐れになりかねない状況です。
(略)
徳川家のほうでもそれを惜しんだようで、王政復古の後、徳川家によって開設された沼津兵学校の校長となりました。

新政府も同じように考えたようで、明治三年(1870年)に「西洋のこと色々知ってるんでしょ? うちで働いてほしいなー(チラッチラッ」と声をかけ、西もこれに応じて出仕します。

学者さんですから、戊辰戦争にはあまり関わっていなかったでしょうし、その辺が幸いしたのかもしれません。

(略)
兵部省(現在でいえば防衛省)・文部省・宮内省などで働いていますので、文字通り引っ張りだこという感じだったと思われます。
(略)
明六社を結成して雑誌を発行

洋学の知識を買われたことがキッカケとなった西の出仕。

しかし彼は、日本人らしい感覚も忘れてはいませんでした。

『軍人勅諭』や『軍人訓戒』などの起草にも携わっているのは、その現れでしょう。

また、かつての留学仲間などと共に【明六社】を結成し、雑誌を発行して西洋哲学の翻訳や紹介に努めています。

現在、日本語としてお馴染みの【哲学・科学用語】には、西が考えた訳語がたくさんあります。

例えば

「芸術」
「技術」
「知識」

といったごく普通に使われている単語から、

「演繹」
「帰納」

「命題」

などの哲学専門用語まで。

あまりに当たり前すぎる言葉のため、一瞬、その凄さを見過ごしそうになりますが、実は夏目漱石と並んで明治以降の日本語に大きな影響を与えた人ではないでしょうか。

他に獨逸学協会学校(現在の獨協学園)の初代校長なども務め、明治十七年(1873年)に右半身の麻痺を発症、健康上の理由で公職を退いています。

こんだけ働いてたら、そりゃあ体を壊しても不思議じゃないですよね。

それでいて即座に命に関わることがない病気……というのもパッと思いつきませんが、脳か神経系の病気でしょうか。


病床でも西洋と東洋を体系づけようと……

その後、西は、しばらく東京にいたと思われます。

明治二十五年(1892年)になっても体調が良くならず、神奈川県大磯の別邸で療養生活へ。

自由に外出できないほどの状態になりながら、その間も学問に打ち込み、西洋の心理学と東洋の宗教(儒教や仏教)などをまとめて、新しい心理学を体系づけようとしていたそうです。

「西洋に追いつけ追い越せ」の当時、どう思われていたんでしょうね。

本としてまとめていたものの、発刊する前に西の寿命が尽きてしまいましたので、他の人に話す機会もなかったかもしれませんが。

完成していれば、精神医学などの分野でも名を残したかもしれません。

享年68ですから、若すぎるという程ではないにしろ、その頭脳が惜しまれます。


「西洋の心理学と東洋の宗教(儒教や仏教)などをまとめて、新しい心理学を体系づけようとしていたそうです。」って
ぶっちゃけ萬教を帰壱せしめんだろ。エキュ目ニカル。こいつフリ目だから、当然、フリ目の「人間」は尻仲間だけだからな。
こいつのような奴の人類への貢献って尻への貢献だもんな。


西周 - 写真紀行 uchiyama.info
http://www.uchiyama.info/oriori/shiseki/zinbutu/tsuwano/nisi
”西周 西洋哲学  島根県鹿足郡津和野町
(略)
コント及びミルの実証主義による封建的旧弊打破と宗教と政治の分離は最も主張したことである。実は森鴎外と親戚関係にあり、鴎外は上京後、西の家に寄寓していたこともあった。復元された茅葺きの旧宅は、鴎外の生家とは津和野川を隔てて建つ。



政教分離をめちゃくちゃ主張したらしい。

西周の翻訳と啓蒙思想(その一) ――朱子学から徂徠学へ、百学連環に至るまで
https://ricas.ioc.u-tokyo.ac.jp/asj/html/067.html
”西周(1829-1897)は日本の近世から近代にかけて生きた啓蒙思想家である。父は津和野藩医であるが、西は藩校や大阪で儒学を学んだのち、江戸に出てオランダ語、英語を習得した。安政4年(1857)幕府の蕃書調所教授手伝並となり、文久2年(1862)から慶応元年(1865)までオランダへ留学したのち、明治元年(1868)『万国公法』を訳刊し、3年兵部省出仕、かたわら明六社に参加し『明六雑誌』に論文を発表した。15年元老院議官、23年貴族院勅選議員。西洋哲学、論理学等の導入者として、多くの術語を考案した。以上は国立国会図書館のホームページから引用した西周に関する紹介文である[1]。インターネットが普及されてから、西周に関する情報も近年、徐々に増え始めている。故郷の津和野町や島根県庁だけではなく、東京西神田に住んでいたので千代田区役所や、酒を嗜んだとの理由でキリンホールディングスのホームページにも取り上げられた。しかし、西周その人を正確に紹介していないところも目立っている。

例えば、島根県庁のホームページでは、「翌年、周は脱藩。おそらく、藩命による儒学研究をやめ、洋学を学ぼうと決めたからであろう」、「慶応2年(1856)幕府開成所の教授となり」[2]といった不確定な内容の記述をしている。さらに、キリンホールディングスのホームページでは、「西周は儒教や朱子学を学び、のちにはより実用を重視する徂徠(そらい)学へ傾倒していく」[3]と、島根県立大学西周研究会編『西周と日本の近代』を引用する形で紹介している。上記した記述は専門書や論文より引用した内容であるが、ホームページを通して、西周のイメージ形成に出典以上に影響を与えている。

西周の脱藩問題について、西の置き書きや松岡に宛てた書簡には、藩を離れる内容ではなく、遊学許可の内容であった。西周が残した史料や森鴎外が編著した『西周伝』を精査すれば、突き止めることができるはずである。また、「慶応2年(1856)幕府開成所の教授」となるという記述も事実ではない。(そもそも、慶応2年は1856年ではなく、1866年である。)「蕃所調所」は1856年3月に「洋学所」から改称したもので、5月に蕃書調所が英語教師を募ったとき、西は手塚律蔵の推薦を受け、蕃書調所の教授手伝並となったことは、上記した国立国会図書館の説明に明らかである。蕃書調所が「開成所」になったのは1863年を待たなければならなかった。ただ、西周は藩命によって宋学を修めるように命じられた際、徂徠学を希望していたのは確かである。しかし、その後、徂徠学へすぐに傾倒していくというわけではない。実際のところでは後述するが、西周はオランダ留学から帰国した後、朱子学、陽明学を含めて、徂徠学も批判していたのである。
(略)
1.日本語における和語と漢語の割合の逆転

言語学の観点から言うと、語彙の分類にはいろいろの方法がある。どの言語でも固有語と外来語に分けることができる。日本語の語彙はその出自によって、和語(固有語)、漢語、外来語、及び混種語に分けられる。ここで言う「和語」とは、日本固有の、訓読みの言葉で、「水(みず)」「草(くさ)」「水草(みずくさ)」のように、日常生活の中でよく使う易しい言葉である。これに対して、漢語は漢字の音読みの言葉で、「水素(すいそ)」「草原(そうげん)」「水槽(すいそう)」のような、難しい言葉が多い。漢字の字面で、「水草」も「水槽」も「すいそう」と読めるが、巷の金魚店に行くと、「すいそう」と言ったら、ほとんど「水槽」の意味で、「水草」を求める場合、「みずくさ」と言わなければ、誤解されてしまう。また、漢語は、体言、用言、副詞として用いられているため、日本人はあまり外来語とは感じていない[4]。そのため、漢語は外来語から独立したカテゴリーに立てられ、外来語は外国から入ってきた、漢語以外の言葉を指す。さらに、混種語とは、「水ギョーザ」「水鉄砲」「Tシャツ」「シャッター商店街」「駅前ビル」のように、和語と漢語と外来語からいずれか二種類以上の組み合わせで構成された言葉を指す。

語種の量的構成について、山田孝雄(1958)は「国語の中に於ける漢語の量の概観」において、『言海』の見出し語を統計的に分類した。結果として、明治期では漢語より和語の数のほうが多かったと結論づけた。しかし、国立国語研究所はその後の調査で、昭和半ばの辞書や雑誌を分析すると、漢語の数が逆に和語より大きく上回ったことが分かった。
資料名 言海
(明治22) 例解国語辞典
(1956) 現代雑誌
90種(1964) 高校教科書
(1974) 現代雑誌
200万(1994) 新選国語辞典
(2002)
語種 % % % % % %
和語 60.8 36.6 36.7 18.3 25.4 33.8
漢語 37.7 53.6 47.5 73.3 33.5 49.1
外来語 1.5 3.5 9.8 7.6 34.8 8.8
混種語 - 6.2 6 0.8 6.3 8.3

2 なぜ漢語の形で作られたのか

近代国家としての体制を整備する過程で西洋の思想文化や政治制度や機械技術などを積極的に取り入れ、アジアでいち早く近代化への道を歩んだ。その近代化の過程で注目すべき事象は、日本語にも大きな変化が生じたことであり、それらは文体、語法のほか、新たな漢語語彙の創造などに著しい。明治の知識人、とりわけ「明六社」の思想家たちを中心として行われた啓蒙活動は、人々の文明開化に積極的な影響を与えると同時に、おびただしい用語を考案した。創造されたそれらの用語は漢語の形が多く、日本語の漢語語彙の意味領域は画期的に拡張されたことになる。

しかし、なぜ漢語の形で作られたのか。その理由は主に以下のように挙げられる。

まず一般論として、明治期の知識人は漢学と儒学の素養が極めて高かったという事実がある。これは、漢文儒学は当時の知識人として身に付けなければならない素養だったからである。例えば、西周(1874)は「非学者職分論」において指摘したように、「いわゆる学術なるもの、七、八年前まで四書・五経の範囲に出でず」[5]。つまり、当時の知識人の学問の範囲は、四書五経に限られていたためである。換言すれば、明治期以前の知識人にとって、四書五経は学問の主な内容だと理解されてよい。漢文、儒学を知識人の素養として身に付いていた明治の知識人にとって、漢語を外来語として考えるのではなく、日本の語彙として自然に用いられていたからである。これは漢字の形で作られた理由に関して、もっとも一般的な見解である。

次に、新語が漢語の形で作られたもう一つ理由はすでに多くの研究者によって研究されたように、漢字の造語力であると言える。これは言語学の文字論の視点からなされる研究である。例えば、大野晋(1974:83)は、『源氏物語』と『枕草子』の語彙を比較して、『源氏物語』には「ものこころぼそげ」、「なまこころづきなし」など、語基や接辞を組み合わせた、整然とした造語法が見られるが、和語による造語法は、ほぼ平安時代までに出尽くしたと考えられると指摘している。このように、和語の造語力は平安時代にすでに頂点に達していたと考えられるのである。そのため、野村雅昭(1977:275)は、明治時代にヨーロッパ語を和語で翻訳しようとした一部の試みが失敗したゆえんの一つは、和語の造語力の限界をみきわめることがなかったことにあると指摘している。

しかし、例えば夏目漱石や、川端康成のような作家は夥しい数の和語を作ったのも周知の通りである。つまり、現代でも、和語の造語力がなくなったわけではない。むしろ、近代の造語に関わる問題は阪倉篤義(1978 :480)が指摘したように、造られた語が語彙体系のなかに位置を占め、意味伝達の機能を持ちうるかどうかにある。そこでは、いかにも漢語の造語力が、和語を圧倒して強大であるように考えられる面がある。しかしながら、名詞以外の動詞・形容詞・形容動詞などについては、共通語・特殊語を通じて、本当の意味で造語力を発揮するのは、やはり主として和語なのであると、主張している。

野村雅昭(1984:41)はさらに、新語辞典を資料として、「新語の構成単位数別の語種の構成比率」と「混種語における造語力」について調査し、漢語語基だけの結合形が占める割合が混種語より高く、「新語辞典では、造語という観点からは、漢語語彙同士の結合が量的に多数をしめることを確認した」と論じている。

さらに、抽象概念を表す漢語の特徴という語彙論の視点では、日本語は抽象概念や上位の概念を表す言葉が少ないと指摘できる。例えば、「春雨」「五月雨」「夕立」「時雨」「菜種梅雨」「狐の嫁入り」(日照り雨のこと)など雨に関する語彙が40を超すが、これらの語彙は「雨」でまとめることができる。しかし、「雨」の上位語である「気候」や、「気候」の上位語である「自然」は漢語である。 つまり、概念を表す語のうち、多くは漢語であり、自然現象や、抽象概念を表す語の多くも漢語である。ここから、漢字の表意性により、漢語は抽象概念を表すのに向いていると言うことができよう。金田一春彦(1988:143)は、日本語の語彙の特徴として、たとえば「こと」「とき」「まこと」「みさを」など、抽象的な言葉も幾つかあったが、全体としては少なかった。その後、日本語に抽象的な表現が生まれたというのは、中国から漢語が入ってきたお蔭だと述べているのも、そのためであろう。林大(1982:75)は、漢語と和語の品詞別の構成という計量国語学の視点から具体的な数字で示しているように、概念を表す名詞のうち、下記の品詞別の語数の表で示された割合では漢語の数が和語の倍以上を占めている。
異なり語数 名詞 動詞 形容詞 感動詞 合計
和語 6122 3266 1553 193 11134
漢語 13345 - 1050 12 14407
外来語 2820 3 123 18 2964
混種語 1496 191 135 4 1826

抽象概念の多くは漢語である。だとすれば、中国語の抽象概念が多いはずであるが、にもかかわらず、なぜ西洋近代の学術概念を表す多くの日本語が中国語に逆輸入されたか、社会言語学の視点で顧みなければならない。中国はアヘン戦争でイギリスに敗れた後、洋務運動(1860年代前半 - 1890年代前半)を起こしたにもかかわらず、日清戦争で日本に敗れ、戊戌変法(百日維新、1898年)の後も、「師夷制夷」[6]と「中体西用」[7]の思想が消長した。そのため、曽国藩、李鴻章、左宗棠とならんで「四大名臣」とも称される張之洞は急激な改革を戒めるため、『勧学篇』(1898)を著して、「中体西用」の考えを明確に主張した。この主張は清末以降の中国知識人の思想の共通認識となって今日に至り、マルクス主義を除けば、中国の政治思想の主流となっている。つまり、中国は西洋近代の技術や自然科学を受け入れたにしても、学術思想の受け入れを拒否し続けてきた。当然、それに当たる用語もなかった訳である。そのため、西洋の学術思想を積極的に受け入れようとする明治の啓蒙思想家は、西洋の書物を翻訳するために、必然的にそれに対応する用語を考え出さなければならない事態となった。その多くは、西周が儒教思想と格闘しながら考案したものである。
(略)
西周(1882)は『尚白箚記』において、さらに儒学の「理」を批判し、西洋哲学の「理」の概念について、次のように、

蓋シ欧洲近来の習にては、理を二つに言ひ分けたり、例すれは英語の「レーズン」「ラウ・オフ・ネチュール」。(中略)「レーズン」は汎用にて道理と訳し、局用にて理性と訳す、(中略)故に此理性道理と云ふ字義の内には、天理天道など云ふ意は含まぬ事と知る可し、然(サ)て一方の「ネチュラル・ラウ」と云ふは理法と訳す、直訳なれは天然法律の義なり、是牛董氏重力の理法(中略)等の如き、皆人事に関せさる者を指し、人の発明に因るとは雖へとも人心の想像して定めたる理と異にして、客観に属する者なり。(中略)然れと欧人は理を知らさる所かは、理と指す中にも色々区別有りて、一層緻密也と謂ふ可し、然れと宋儒の如く何も斯も天理と説きて天地風雨の事より人倫上の事為まて皆一定不抜の天理存して此に外(ハツ)るれは皆天理に背くと定むるは、餘りに措大の見に過きたりと謂ふ可し、茲より為ては踈大なる錯繆に陥りて、夫(カ)の日月の蝕、旱魃、洪水の災も人君の政事に関係せりと云ふ妄想を生するに至る可し[9]。

と、「宋儒の如く何も斯も天理」と唱えるのを糾弾しながら、「道理」「理性」「理法」「天然法律」の訳語を考えた。つまり、近世日本の支配層の政治思想は主に朱子理学の思想だが、その思想の与える概念では西洋の哲学の概念に対応しきれないわけで、西周にとって、西洋の哲学概念を翻訳するため、朱子理学の概念から字を選んで語を作ったのも、きわめて自然な選択だったのである。また、それらの漢字派生によって作られた訳語によって、宋儒の理の範疇が拡張されたことは、近代日本の知識人を啓蒙することにつながる結果となったわけである。

3 増えた漢語の特徴

明治から大正を経て、昭和に入ってから、漢語が和語を上回った結果となった。増えた漢語のうち、西周によって作られた西洋近代の学術思想を表す抽象概念が一番顕著である。しかし、山田孝雄(1958:414)が指摘しているように、それだけではない。

近世西洋文化をわが国語の中に伝へたるものも亦主として漢語たり。この種の漢語は支那の古典によりて既に用ゐられしものを転用したるものもあるべきが、又新に造られたるものも少からざるなり。而してこれに二の源あり。一は支那にて西洋文化を輸入する為に撰せし翻訳書に用ゐたる語をばわが国にてもそれを襲用せしものなり。一は本邦にて西洋文化を輸入する為に選定せしものにして、これにも支那の古典に典拠あるものを求めしものと、本邦にて新に選定せしものとあり。

つまり、中国の古典によってすでに用いられたものを転用した漢語は、例えば「学術」や「帰納」「演繹」[10]はそうである。また、新に造られた漢語はさらに二系統に分けられる。

一つは、中国で西洋文化を輸入するために選んだ「数学」、「幾何」、「博物学(動・植物・鉱物)」、「格物学(物理学)」の学術専門書を翻訳した際、中国人が作られた用語を襲用した用語の意味である。それらの語について、陳力衛(2000:61)は以下のように三つの段階に分けた。即ち、16世紀後半から19世紀初頭までのカトリック系伝道者によるものと、19世紀初頭からその末期までのプロテスタントの宣教師によるものと、1862以降、清朝廷の主導で設立された外国書翻訳機構から出版されたものである。

もう一つは、日本で西洋文化を輸入するために造られた語である。そのうち、 さらに「中国の古典に典拠あるもの」と、「新に選定せしもの」がある。つまり、「知覚、記性、意識、想像」などのような古典にあるものと、「観念、實在、主観、客観、帰納、演繹、総合、分解」などのような、新造した語の別がある。そのうち、「哲学」「文学」「心理」「物理」「帰納」「演繹」のような、特に学問思想を表す概念の創造は、西周が果たした功績が顕著である。これらの漢語の特徴は、儒学的観念に拠りつつ、漢字の派生による創造された場合が多い。

例えば、西周(1874)は「非学者職分論」において、福沢諭吉の「学者の職分論」を批判する論旨だが、

いわゆる学術なるもの、七、八年前まで四書・五経の範囲に出でず。しかし今にわかに西洋の学術と馳驟(ちしゅう)相競わんと欲するも、また難からずや。いわゆる西洋学術のごとき、世の大家先生と称する者もいまだその蘊奥(うんのう)を究めたりというべからず[11]。

と論じたように、明治時代までの日本の学術と称せるものは『四書』『五経』に過ぎず、明治7年の時点で、大先生と思われる知識人でも西洋学術の真髄を究めたとは言えないと指摘している。また、西周(1875)は『心理学』の序文で明確に指摘したように、

本邦従来欧洲性理ノ書ヲ譯スル者甚ダ稀ナリ是ヲ以テ譯字ニ至リテハ固ヨリ適従スル所ヲ知ラス、且漢土儒家ノ説ク所ニ比スルニ心性ノ区分一層微細ナルノミナラス、其指名スル所モ自ラ他義アルヲ以テ別ニ字ヲ選ビ語ヲ造ルハ亦已ムヲ得サルニ出ツ、故ニ知覚、記性、意識、想像等ノ若キハ従来有ル所ニ従フト雖モ、理性、感性、覚性、悟性、等ノ若キ、又致知家ノ術語。観念、實在、主観、客観、帰納、演繹、総合、分解等ノ若キニ至リテハ、大率新造ニ係ハルヲ以テ読者或ハ其意義ヲ得ルヲ難ンスル者アラン[12]。

日本の思想概念には、西洋近代の思想文化と対訳できる概念が欠けていたのである。

明治期で新造した、あるいは改めて使い始めた用語は、日本で先に作られたか、それとも中国で先に作られたか、その判定は必ずしも簡単ではない。また、その判定の基準もそれぞれの研究者に委ねられているのが現状である。
(略)
4 西周の翻訳と造語の特徴

新村出(1961)は『西周全集第三巻』「西周先生の全集第三巻に序して」で、「私としては、間接であるが、本邦における言語学ないし国語学及び国語問題の創業期に対する歴史的回顧の上よりして、西先生高遠なる精神を忘れることができないでいる」と、西周の功績を称えた。ここでいう「高遠なる精神」とは何か、興味深いところである。いずれにして、西周に対して、単に翻訳だけではなく、後世に翻訳以上の精神思想が残してくれているに違いない。

西周の翻訳と造語は、明治初期に活躍した他の知識人に比べ、格段に顕著であることは以下のような、いくつかの面から裏付けられる。

西周の造語は明治の知識人の中で、一番と言っていいほど多いことがすでに多くの研究者によって検証された。森岡健二(1991:152)は、西の訳語1410語を、明治7年以前に刊行された英華・英和辞書に掲載された訳語と、諸橋『大漢和辞典』の語彙典拠と対照し、西が案出した訳語787語のうち、340語は古典に拠った既成漢語であり、447語は新造漢語であると述べている。

また、手島邦夫(2001:54)は、西の訳語の異なり数は2,335語あり、そのうち、漢語が1,913語(88.5%)であるという。その訳語数を著作別にみると、『百学連環』に1,487語あり、『心理学』『利学』『生性発蘊』に、それぞれ391語、342語、311語あるという。ここでいう「訳語」とは、西の翻訳作品に現れた訳語であって、必ずしも西周が作った訳語とは限らないという意味である。

さらに、『明六雑誌コーパス』[15]の語彙量を概観すると、著者別語彙量について、延べ語数は、西周が35,424語、阪谷素が31,934語である。異なり語数は、西周4,549語で、阪谷素は4,428語を使った。品詞別語彙量について、延べ語数は、名詞58,428語、動詞28,433語で、異なり語数は、名詞10,823、動詞は1,224語である。さらに、文語の語種別語彙量を比較すると、漢語の9,269語が和語の2,287語より4倍以上上回っているのが分かる。
(略)
なお、東京帝国大学に留学したことがある中国の余又蓀(1935a:13)と同氏(1935b:14)は、西が考案したとされた212訳語を取り上げた[16]。

重要訳語26 哲学 心理学 倫理学 美学 言語学 社会学 認識論 絶対 先天・後天
       主観・客観 形而上学 世界観・人生観 経済学 人格 範疇 功利主義
       聯想 主義 表象 感官 進化論 論理学 権利
(甲)学科名詞33   社会学 経済学 美妙学 物理学 化学 幾何学etc
(乙)学術名詞43   観念 意識 感覚 懐疑学 自由 被動 能動 記憶 直覚etc.
(丙)論理学用語110 肯定 否定 属性 真理 主位etc.

最近の資料としては、中国の劉正埮(1984)等編集した『漢語外来詞詞典』では、日本語からの借用語として892語あると認定した。

手島邦夫(2001)は造語の的確の視点でさらに、現在も通用する訳語572語が、『百学連環』に337語、『利学』に136語、『心理学』に56語あるという。特に、西周の訳語は他の思想家の訳語と比べ、的確さと近代性が著しく優っている。『明六雑誌』掲載論文にみられる西の訳語を、他の思想家の訳語と比較すれば、それは一目瞭然である。
原語 西周 他の思想家 原語 西周 他の思想家
chemistry 化学 舎密・分離術(中村正直) government 政府 政法(森有礼)
happiness 福祉 裨益(森有礼) logic 論理学 明論之法(中村正直)
moral 道(論) 倫常之道・修身(中村正直) philosophy 哲学 理学(中村正直)
positive 積極 独陽(清水卯三郎) republic 共和 民政ノ国(中村正直)
right 権利 通義・権義・権理(森有礼) theocracy 神教政治 代神政治(加藤弘之)

西周の造語のもう一つ特徴は幅広い分野にわたっていることである。それはオランダに留学し、ライデン大学でフィッセリング博士に師事し、性法之学(Natuurregt 自然法)、万国公法之学(Volkenregt 国際公法)、国法之学(Staatsregt 国法学)、制産之学(Staatshuishoudkunde 経済学)、政表之学(Statistiek 統計学)といった「五科目授業」を学んだ広い学識に拠っている[17]。

しかし、西周の訳語は「五科目授業」に止まらなかった。西洋の学術思想全般を移植しようとしたのである。1863年6月、西はオランダに向かう船上で、ホフマン教授宛の書簡において、「内政及び施設の改良を行うためにも、より必要な学問及び統計学Statistiek 法律学Regtslerdheid 及び経済学Economie 政治Politiek 外交Diplomatie 等の学問は全然知られていない。」「それ故に我々の目的は、これ等一切の学問を学ぶ」ことにある。」「尚、哲学Philosophie と称せられる方面の学問の領域も修めたいと思う。我が国法が禁じている宗教思想は、デカルトDescartes ロックLocke ヘーゲルHegel カントKant 等の唱道したこととは相違していると思うから、これらも学びたいと思う」[18]とあり、留学する前に、すでに新概念を表す造語の形成の構想ができていたことが分かるのである。
(略)
[10] 「帰納」は欧陽修『与宋龍図書』「先假通録,謹先帰納」、秦観『鮮於子駿行状』に「其所帰納,惟梁山、張澤两濼」のように、それぞれ「返却」「加入」の意味として確認できる。「演繹」は『朱子語類』に「漢儒解経,依経演繹」のように、「推理、拡張」の意味である。なお、『天演論』で「内籀」と「外籀」という厳復の訳語は、「帰納」と「演繹」によって淘汰された。
(略)
[16] 212語のうち、「感覚」のような6語が重複しているほか、「化学」「幾何学」「自由」などは、必ずしも西周の造語ではない。なお、余又蓀(1935)の日本製訳語一覧は、沈国威(1994)『近代日中語彙交流史』(笠間書院)にも収録されている。 ↑


朱子学と陽明学を批判ねえ。君主が悪行を行っているなら、諫言し、それでも改めないなら、56したりして問題なしという儒教は国家神道(和風ヤソ)には都合が悪いもんな(笑)

西周とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E8%A5%BF%E5%91%A8-17327

[中略]
にしあまね【西周】
1829‐97(文政12‐明治30)
明治前半期の啓蒙思想家。石見国(島根県)津和野藩医の家に生まれる。荻生徂徠の学問に関心をもったが,1853年(嘉永6)江戸に出たのち洋学を学びはじめ,手塚律蔵や中浜万次郎に英語を学んだ。57年(安政4)蕃書調所教授手伝並となり,62年(文久2)幕府派遣留学生として津田真道らとオランダに留学。ライデン大学のフィセリング教授から政治,経済等を学び,留学中コントの実証主義やJ.S.ミルの功利主義,およびカントの恒久平和の思想に感銘した。

出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報


フリ目ってのは書いてないな。証拠が残っているのにな。西周を目イソンに推薦したのがフィッセリングだ。つまり、フィッセリングもフリ目だ。
『石の扉』p.199の一部を要約して書く。
西周は、ライデン大学から徒歩五分のところにある「ラ・ベルトゥ・ロッジNo.7」でフリ目に加盟。推薦はフィッセリング教授。
このページには西周入会申し込み書署名の写真があり、「西周」と漢字で書いてある。


” ※着色は引用者


シーア兄貴(来世触手)2023/7/23~8/3と良呟きや記事の保管庫。ワールドSTAP石森メイト。『ゼイリブ』。プロイセン。満鉄。オーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会。ライデン大学、ホフマン、西周、津田真道
Posted on 2023.08.04 Fri 19:28:33
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-531.html

https://twitter.com/aoJvqLcHOrs7UWg/status/1686098117479854081
”来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
わし死ぬほど語学嫌いなのでぶん投げるけど、ここがど本命
公益社団法人オーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会
oag.jp
公益社団法人オーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会
公益社団法人オーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会 (以下OAGと称する) は日本を研究し、ドイツ語圏の国々に日本を紹介することを主要な目的として、1873年 (明治6年) 在日ドイツ人の集まりを母体として東京で設立されました...
午前4:34 · 2023年8月1日
·
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オーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会の初期会員の1人が長年天皇の主治医を勤めたエルヴィン・ベルツ(優生学的な思想)。
ケツ社は目イソン以外にも沢山あることに注意。


https://twitter.com/aoJvqLcHOrs7UWg/status/1686133348878483457
”来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
オーアーゲーの創設者メンバーにいるヨハン・ヨーゼフ・ホフマンで調べてご覧
嘘周と津田虚道の案内役やっていやがるし、どうやらフルチンソーメン辺りの伝諸々は相当コイツが怪しい
結局、英米・ユダ公陰謀論は所詮英語止まりのしょうもない連中が流布しているだけのゴミカスが実態臭い
午前6:54 · 2023年8月1日
·
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ドイツ人であるヨハン・ヨーゼフ・ホフマンは世界で最初の日本語学の教授職が置かれた(1855年)オランダのライデン大学の教授。
ライデン大学だし、西周と津田真道と関係しているので目イソンだろう。ホフマンと西周と津田真道は近所に住んでいた。完全に日本語研究の協力関係にある。


[…]
公益社団法人オーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会
https://oag.jp/jp/
”初期のOAG会員の中には東京大学で長く教鞭を取り、ドイツの日本学の先駆者となったカール・フローレンツ、長年天皇の主治医を勤めたエルヴィン・ベルツ、またフォッサ・マグナで有名な地質学者ナウマンなど日本の近代化の貢献した人物が大勢います。


うわーモロだあああ(笑) 天皇の主治医(笑)

[…]
一橋大学
日本語学者ヨハン・ヨーゼフ・ホフマン旧蔵日本書籍目録 (試案) 奥田 倫子
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/25571/shomotsu0001401190.pdf
によると、
1855年、オランダのライデン大学に、世界で最初の日本語学の教授職が置かれた。
その座に就いたのは、ヨハン・ヨーゼフ・ホフマンである。ドイツ人である。
(オランダの大学にドイツ人。世界最初の日本語学の教授がドイツ人)
ヨハン・ヨーゼフ・ホフマンは、1830年にシーボルトに出会い、彼の助手としてライデンにやってきた。
1825年にパリで出版されたロドリゲス著『日本小文典』の仏語訳を用いて日本語の構造を学んだ。
(ロドリゲスはイエズス会士で中ユ同祖論者であり、日ユ同祖論の源流だ)
シーボルトの中国人助手・郭成章から中国語を習い、中国語の知識を通して日本語文献を読み解いた。
ヨハン・ヨーゼフ・ホフマンはシーボルトの学術活動に寄与した。
1846年には、その中国語能力・日本語能力を見込まれてオランダ政府の公式翻訳官になり、以後、幕末の日蘭関係の一角を支えた。
(ライデン大学だし、西周と津田真道と関係しているのでメイソンだろうな。
『石の扉』p.199の一部を要約。
西(洋)周(くせん)は、ライデン大学から徒歩五分の所にあるラ・ベルトゥ・ロッジNo.7でフリ目に加盟。推薦はフィッセリング教授。入会申し込み書署名の写真がある。要約終了)
以上。

ジョアン・ロドリゲスはイエズス会士で、『日本大文典』、『日本語小文典』、『日本教会史』の著者。

中ユ同祖論の提唱者にして日ユ同祖論の原型を作った17世紀のイエズス会士ロドリゲス『日本教会史』と茶の湯とキリシタン大名とキリスト教人脈と大河ドラマと大日本皇道立教会と鹿児島版田布施の加治屋町
Posted on 2015.07.26 Sun 04:15:39
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-90.html

ヨハン・ヨーゼフ・ホフマン - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3
”ヨハン・ヨーゼフ・ホフマン(Johann Joseph Hoffmann、1805年2月16日 - 1878年1月23日)は、ドイツ生まれで、オランダで働いた言語学者である。日本語、中国語の研究を行い、ライデン大学の初代の中国語・日本語担当教授となった。『日本語文典』("Japansche Spraakleer" )などの著作で知られる。西洋においての真の意味の日本学の始祖と考えられる[1]。
生涯

ヴュルツブルクに生まれた。ヴュルツブルク大学[2]で文献学を学んだ後、1830年7月、アントワープのホテルの食堂でフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトにたまたま出会った(同郷の訛りのドイツ語で東洋の見聞を話す人に「シーボルト博士をご存じないか?」と尋ねると「私だよ」と言われた)[1]ことから、東洋学者としての活躍が始まった。シーボルトの『日本』の著作に協力した。ホフマンの研究は東洋学者スタニスラス・ジュリアンらから注目された。1855年にライデン大学の初代日本学教授に任じられた。1862年に日本のオランダ留学生、西周、津田真道の世話役を務めた。1868年に『日本語文典』を出版し高い評価を得た。日本語研究として『日本研究』『日本書誌』(シーボルトと共著)がある。日本語辞典の編纂にとりかかったが未完で終わった。日本の地を終世訪れることはなかった。
参考文献

飯田晴巳『明治を生きる群像-近代日本語の成立』(おうふう 2002年) ISBN 4273032201

脚注
[脚注の使い方]

^ a b 山東功『日本語の観察者たち』(岩波書店 2013年pp.93-107)。
^ 山東功は『日本語の観察者たち』で「高等専門学校」を出て劇場歌手としてヨーロッパ各地を回っていて、歌手として回っていた時に出会ったとしている。

関連項目

オーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会

外部リンク

日本語学者ヨハン・ヨーゼフ・ホフマン旧蔵日本書籍目録 奥田 倫子
” (「最終更新 2021年9月10日 (金) 10:05 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。」)

「1862年に日本のオランダ留学生、西周、津田真道の世話役を務めた。」があまりにも気になる。

洋学伝習と日本事情
https://www.nier.go.jp/saka/pdf/N12006010.pdf
より。


津田の下宿 はホ フマ ンの住 まいの向かい側 にあ りま した。
[注:近所過ぎる(笑) 案内役という情報は正しいだろうな。
中略
(津田の下宿がある通りは昔は運河だった。聖パンクラス教会がある。
「ホーフラントセ大教会」と地図にはある。以上の主旨に続くのが)]
「地 図には記入があ りませんが、西 の下宿 は教
会 の裏手 にあた る hooigrachtとい う通 りにあ りま した。」

(ホフマンと西周と津田真道は近所に住んでいる)

(津田真道は、真一郎、行彦とも名乗ったことに注意)

2.日本事情 (その一)ホ フマ ンへ の協力
論点 の二 に入 ります。 ヨハ ンヨゼ フホフマ ンは当時 ライデ ン大学 で 日本学 と中国学
の教師 をや って いま した。 ホ フマ ンは四書五経 の始 めであ る 『大学』 の和訓本 を1863
年 の 9月 に刊行 して います。西 と津 田が校正 に当た っています。The Grand Studyと
い う題 の第二部 は ロ-マ字表記本 で、 英蘭対訳 の解説が付 いて います。資料 5を ご
覧下さい。上段 が漢文 の傍 らに和字 により訓を付 した 『大学』の訓読本 です.通常 の
訓点だ けでな く、読 み仮名 が全部振 ってあ ります。
(中略)
ホフマ ンの住まいの向いに下宿 して いた津田
真一郎に native informant として本文を読んで貰い、そのアクセントを記録したとあります。
ホフマンはは漢文訓読体 を日本語における学術文体 と考 え、候文や会話文 へ
の導入 とす る ことを企 てたわ けです。

(案内役どころじゃないな。完全に日本語研究の協力関係にある)

Leiden University Office Tokyo ライデン大学東京事務所
https://luot-nrg.jp/
”オランダ国ライデン大学 (1575年設立) は、オランダ最古、ヨーロッパでも最も古い総合大学のひとつであり、欧州研究大学連盟発足時(2002年)からの加盟大学です。

日本とは、17世紀にまでさかのぼる長い関係があり、オランダ東インド会社(VOC)に雇われて長崎の出島に滞在し、日本についての著作を残した人たちも、多くはライデン大学で学んでいます。そして、シーボルトの弟子のヨハン・ヨゼフ・ホフマンを初代日本語教授とした世界初の日本学講座を開設(1855年) しました。幕末から明治にかけて日本の近代化に貢献する西周や津田真道ら幕府派遣留学生もライデン大学で学び、以来今日まで、多くの日本人留学生・研究者を迎え入れています。

ライデン大学は主として、日蘭関係史研究で重要な役割を果たした財団法人日蘭学会を通じて、1975年に始まり2011年まで日蘭研究のみならず、日本との間にあらゆる分野の学生・研究者の交流を行う数々のプログラムを実施してきました。


オーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E6%9D%B1%E6%B4%8B%E6%96%87%E5%8C%96%E7%A0%94%E7%A9%B6%E5%8D%94%E4%BC%9A
”公益財団法人オーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会 (オーアーゲー・ドイツとうようぶんかけんきゅうきょうかい、ドイツ東亜博物学民族学協会[1][2][3]、ドイツ東アジア研究協会[4]などとも、Deutsche Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde Ostasiens、通称:Ostasiengesellschaft=東洋文化協会、オーアーゲー、OAG) は、科学者、実業家、外交官によって1873年東京に設立された組織である[5]。その1年前に設立された日本アジア協会と共に、現在も活動している日本にある海外学術協会としては最も古い。
1873年-1914年

OAGの創設については次のように語られている[6]:

「1873年3月22日[注釈 1]、皇帝ヴィルヘルム1世の誕生日に、江戸と横浜に住んでいたドイツ人たちはドイツ東洋文化協会を設立するために集まった。協会の目的は、個人の努力のための共通センターを作ることで、それにより一方では研究を活発にし、他方ではその結果をより多くの人たちが利用できるようにする事だった。」

OAGはまた東アジア研究を自らの課題とし、お雇い外国人として日本に来ていたドイツ人学者の支援を受けることができた。最初の数10年間はドイツ大使が会長を務めたが、それは施設の手配や提供において地位を重視していた日本政府と交渉するうえで大変役立った。これにより最初の大使は政治的なものを超えて日本に興味を持った。

OAG会報 (Mitt(h)eilungen der OAG)[7] は自然科学者、医師、弁護士からの投稿が主であったが、民俗学に興味を持つ読者も多かった。彼らは会員や日本人から贈られた品々を展示する小さな博物館として、増上寺の隣の寺の部屋を借りていた。しかし1878年には資金の面から中止され、日本に独自の博物館が創設されたこともあり、博物館は廃止された。コレクションはライプチヒ民族博物館(英語版)に寄贈されたが、これはプロイセン以外の博物館であることをアピールする狙いもあった。1885年に協会が移転し、集会所として建物を持つようになると、社交的な交流の機会も増えてきた。

協会での会話はドイツ語だったので、日本人の会員は登録簿にすこしずつしか増えていないが、そこには桂太郎首相や外交官の青木周蔵もいた。1874年7月に三宅秀(B. Miyake)が日本の産科学の論文を発表した[8]。また名誉会員で医師の青山胤通 (1859-1917) の記念碑が、麴町の敷地に建てられている[9]。

1900年以降は、重点が人文科学と社会科学に移行した。さらに1907年からはドイツ大使が会長に就かず、名誉会長の地位に移行した。大使館との連携はその後も継続された。例えばDietrich von Klitzing (1873-1940年) は妻と共に、1912年にインドネシアからやってきて東京を訪問し、Graf von Rex(ドイツ語版)大使からOAGの存在を聞かされた。Klitzingはその際に15,000マルクを寄付し、さらに寄付を募った結果、新しい会館の建設費用を準備することができた。1914年に大使館の隣接地が獲得され、大きな建物の計画が出来上がった。しかしその時に第一次世界大戦が勃発した。
OAG創設期の人物

・レオポルト・ミュルレル、医師、日本におけるドイツ医学教育の共同創始者、OAG創設者
テオドール・ホフマン、ミュルレルと共にOAG創設者
エメリッヒ・フォン・アルコ・アオフ・ファーライ、駐日ドイツ公使
エルヴィン・フォン・ベルツ、医師、東京大学[5]
マックス・フォン・ブラント、駐日ドイツ公使
ヴィルヘルム・デーニッツ、動物学者
カール・フォン・アイゼンデヒャー(ドイツ語版)、外交官
カール・フローレンツ、日本学者、ハンブルグにおける日本学創設者[5]
フランツ・ヒルゲンドルフ、動物学者
・ヨハン・ヨーゼフ・ホフマン、言語学者
エルヴィン・クニッピング、気象学者、地図製作者
テオドール・フォン・ホレベン(ドイツ語版)、外交官
ルドルフ・レーマン (機械工学技師)、機械工学技士
ゴットフリード・ワグネル、東京工業大学

1914年–1945年

第一次大戦が開戦したが、土地の購入と既存の建物の使用は維持された。協会の活動はほとんど停止されたが[注釈 2]、1919年に建物が敵国の資産として接収されるまでは、継続して使うことができた。

1920年に、ヴィルヘルム・ゾルフ大使と後藤新平伯爵の尽力で資産は返還された。協会の活動は再開されたが、OAG会報の第14巻から第16巻は、それまでの6年間の空白を埋めるのに苦労したことを物語っている。それでも1923年には建物を拡張し、貴重な図書室のための耐火建築を設けることができた。お雇い外国人の制度はとっくに終了していたが、優秀なドイツ人は日本の大学に「普通」の地位を得てOAGの活動に参加した。1933年以降OAGは、ドイツの他の海外組織と同様に、ナチスに巻き込まれていった。第二次世界大戦の空襲により、協会の建物はついに破壊されてしまった。
1945年以降

終戦後、資産は日本側に保持された。多くのドイツ人が本国へ送還され、1945年 (ないし1948年) から1951年までの間、OAGの活動は停止された[注釈 3].

1950年に資産が返還されると、それは売却され、赤坂に狭い土地を購入し、協会の新しい集会所と図書室が建てられ、1956年3月21日に落成された。1977年にゲーテ・インスティテュートのための安価な施設を探していた連邦共和国が、OAGと協定を結んだ。それによりOAGは自由に使える新しい建物の建築資金を得ることができ、1階から3階は連邦政府が使った。OAGは4階に事務所と図書室、そして広い集会室を借りることができた。この「OAGハウス/ドイツ文化会館」は1979年から活動を開始した[5]。OAG創立期の学術的独占はもはや過去のものとなったが、民間の学術研究機関としてOAGは日本を理解する上で重要な役割を果たしている。

現在OAGの会員には2種類ある。投票権のある正会員と、投票権のない準会員である。それ以外に会費の安い学生会員もある。そしてイベントは通常ドイツ語で行われるので、ドイツに関する知識が (間接的に) 前提条件となっている。現在の会長は2010年から山口カリンが務めており、OAGの歴史で初めての女性会長である。

ドイツ語圏の国であるドイツ、オーストリア、スイスの駐日大使は、OAGの名誉会員である。
〔中略〕
最終更新 2023年7月20日 (木) 22:57 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
” ※着色は引用者


” ※太字と着色は引用者




その他の参考資料


https://x.com/mkmogura/status/1684330438788251648
”なかだち🔪鍋奉行引退済み🍲さんがリポスト
村手 さとし
@mkmogura
日本の医療形成に北里柴三郎は外せないけど、明治4年18歳から蘭学つまりメソ学のオランダ医者の弟子が始まり、そしてドイツ、コッホを経て、北里研究所を、福沢諭吉の支援のもと、芝公園に1892年に設立って、まんまメーソンでしょ?
さらに表示
午前7:30 · 2023年7月27日·3,008件の表示”

https://x.com/mkmogura/status/1115390976615280640
”なかだち🔪鍋奉行引退済み🍲さんがリポスト
村手 さとし
@mkmogura
新しいお札を作ると聞き、典型的なロスチャイルドの渋沢栄一、医学会の始祖、北里柴三郎、女子教育の津田梅子というならびと知る。
おお、大蔵省が潰れてからはじめてのロスチャイルドの巻き返しが始まるのかと、俺はワクワクしている。
ちゃんとした左派政党ができるかもしれないとね。
午前8:08 · 2019年4月9日”


https://x.com/shinjisumaru/status/1967074438689812766 と続き
”進士 素丸
@shinjisumaru
上野の池之端に「水月ホテル」というホテルがありましたが、ここは森鷗外が明治22年5月から最初の妻である登志子と暮らし『舞姫』を執筆した旧居があった場所。水月ホテルはコロナの時期に閉館となり鷗外旧居も取り壊しという話もありましたが、鷗外とも縁の深い根津神社に移築が決まり、この度その工事が無事終了。内覧にご招待頂きました。
当時の建材を極力使い、新しい建材は極力当時の雰囲気に寄せて作られており、職人さんの仕事に溜息が出るばかり。
今後一般公開されるかは検討中とのこと。
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午後0:54 · 2025年9月14日
·
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鷗外の最初の奥さんは、海軍中将赤松則良の長女・登志子さんという方。登志子さんは名門赤松男爵家の出で、叔父が政治家の榎本武揚という上流階級のお姫様。この家も元々は赤松家のもの。
登志子さんは鷗外の文学活動に理解を示さず二人は1年半で離婚。鷗外は登志子さんが長男を出産した1か月後にこの家を出ていったのでした。
画像1枚
午後1:38 · 2025年9月14日
·
1.1万
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解体移築の様子。
詳しい話はこちらのアカウントからも発信されています。
https://x.com/nedujinjaohgai?s=21&t=yjARROg6ZAnJsbD3G7cTmQ
画像2枚
午後5:57 · 2025年9月14日
·
7,206
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根津神社への森鴎外旧居移築プロジェクト
@NedujinjaOhgai
クラウドファンディング最終章
おかげさまで、349名、10,135,000円のご支援を賜りました。
本当にありがとうございました。

#クラウドファンディング #READYFOR https://readyfor.jp/projects/nedujinja03/announcements/362230?sns_share_token=b21cedebb5453af87ab1&utm_source=pj_share_twitter&utm_medium=social
@READYFOR_cf
から
readyfor.jpから
午後11:23 · 2025年2月6日
·
2,209
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根津神社への森鴎外旧居移築プロジェクト
@NedujinjaOhgai
漸く森鷗外旧居の移築工事が完了し、本日竣工祭を執り行いました。当面はご支援者様や関係者向けの内覧会を行っておりまして、一般非公開ですが、皆様にご覧いただけるよう準備中です。準備整い次第ご案内しますので今しばらくお待ちくださいませ。
https://readyfor.jp/projects/nedujinja03/announcements/387842?sns_share_token=b21cedebb5453af87ab1&utm_source=pj_share_twitter&utm_medium=social
@READYFOR_cf
より
readyfor.jpから
午後10:03 · 2025年8月1日
·
3.2万
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https://x.com/nedujinjaohgai
”根津神社への森鴎外旧居移築プロジェクト
@NedujinjaOhgai
この度、コロナ禍で閉館した水月ホテル鷗外荘から、森鴎外旧居を元々森鴎外ともゆかりのある根津神社に移築することになりました。移築プロジェクトと根津神社の情報発信をしていきます。(根津神社の公式アカウントです)
https://readyfor.jp/projects/nedujinja03
東京 文京区nedujinja.or.jp
2023年4月からXを利用しています
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進士 素丸さんにフォローされています


[本記事に引っ越した後に追加した資料:]

森鷗外の遺言「余ハ少年ノ時ヨリ……」
https://sybrma.sakura.ne.jp/25moririntarou.yuigon.htm
” 森鷗外の遺言




余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ
一切秘密無ク交際シタル友ハ
賀古鶴所君ナリ コヽニ死ニ
臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス
死ハ一切ヲ打チ切ル重大事
件ナリ 奈何ナル官憲威力ト
雖 此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス
余ハ石見人 森 林太郎トシテ
死セント欲ス 宮内省陸軍皆
縁故アレドモ 生死別ルヽ瞬間
アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス
森 林太郎トシテ死セントス
墓ハ 森 林太郎墓ノ外一
字モホル可ラス 書ハ中村不折ニ
依託シ宮内省陸軍ノ榮典
ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ 手續ハ
ソレゾレアルベシ コレ唯一ノ友人ニ云
ヒ殘スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許
サス 大正十一年 七 月 六 日
       森 林太郎 言(拇印)
        賀 古 鶴 所 書

  森 林太郎
       男   於 莵

    友人
      総代  賀古鶴所
            以上













    
(注) 1.  上記の「森鷗外の遺言」の本文は、『現代日本文学アルバム』第1巻・森鷗外(学習研究社・昭和49年8月25日初版発行)所収の、遺言の写真により、改行も写真によりました。原文は、勿論縦書きです。
 (注の9.で、三鷹の禅林寺境内にある「森鷗外の遺言碑」の写真が、注の10.で、津和野の旧藩校養老館にある「森鷗外の遺言碑」の写真が見られます。)   
2.  本文6行目の「官憲」について
 「權」の(縦書きの)左に、「憲」と傍書してあります。上記の本文では、傍書のほうを採って「官憲」としておきました。(「官權」とする本もあります。)
3.  遺言中の「賀古鶴所」は「かこ・つるど」、「可ラス」は「べからず」と読みます。    
4.  鷗外は、大正11年(1922年)7月6日、親友賀古鶴所に遺言を口述筆記させ、9日午前7時、61歳(満60歳)で逝去しました。(生まれは、文久2年(1862年)1月19日。)
5.  賀古鶴所(かこ・つるど)=1855-1931 明治から昭和時代にかけての耳鼻咽喉科医師、軍医。森鷗外の終生の盟友。安政2年(1855)正月2日、浜松藩医賀古公斎の長男として浜松に生まれる。藩主が上総国市原郡鶴舞に移封されるのに従って、明治2年(1869)同所に移る。翌3年上京し、箕作秋坪の塾に学び、同5年第一大学区医学校に入学した。明治14年医師柳慎斎4女けい子と結婚、同年東京大学医学部を卒業し、ただちに陸軍軍医となる。17年緒方正規に細菌学を学び、軍医学校でこれを講じ、のち陸軍大学校教官を兼任し、軍陣衛生学を講じた。21年内相山県有朋に随行して欧米を巡遊したが、その間ベルリンで耳鼻咽喉科学を学んだ。25年東京神田小川町に賀古耳科院を開設、公務のかたわら診療に従事した。日清・日露戦争に従軍し、日露戦争後軍医監になる。44年恩賜財団済生会を創立した。昭和6年(1931)1月1日東京で没した。77歳。墓は文京区本駒込の吉祥寺にある。法名は翠厳院玄雲鶴所居士。編著に『耳科新書』(明治25・26年)がある。
 [参考文献] 松原純一「賀古書簡」(『鷗外』二)、同「賀古鶴所略年譜」(同)      (大塚 恭男)
 (以上は『國史大辞典』第3巻(吉川弘文館、1982年)によりました。)
6.  森鷗外の法号(戒名)について
 法号は、「貞獻院殿文穆思齊大居士」(貞献院殿文穆思斉大居士)。
 これは、岩波書店版『鷗外全集(著作篇)第24巻』(昭和29年3月15日第1刷発行)及び同じ岩波書店版『鷗外全集 第38巻』(昭和50年6月28日発行)によりました。「思齊」(思斉)を、「思齋」(思斎)とする本も多いのですが、「思齋」(思斎)は誤りで、「思齊」(思斉)が正しいと思われます。

 「思齊」(思斉)は、『論語』の「子曰見賢思齊焉見不賢而内自省也」(里仁第四)に拠ったものでしょうか。(子曰く、賢を見ては斉(ひと)しからんことを思ひ、不賢を見ては内に自(みづか)ら省みるなり。)

 ※ 『掌中 論語の講義』(諸橋轍次著、大修館書店・昭和34年10月30日第14版発行)で諸橋轍次氏は、「子(し)曰(いは)く、賢(けん)を見ては齊(ひと)しからんことを思ひ、不賢(ふけん)を見ては内(うち)に自(みづか)ら省(かへり)みる。」と読んで、「孔子言う、己れにまさった、立派な行いをなす人を見たなら、自分もこの人同様でありたいと念願し、思わしくない行いをする、不賢の人を見た場合には、自分にもこの人同様、不賢の行いはないかと反省するがよい。」と訳しておられます。そして、「要するに、善い人を見た場合にも、悪い人を見た場合にも、常に己れの身に反省せよというのである。かくすれば、人の善悪にかかわらず、常に益を得る。なお賢・不賢は、実際に交際しておる人のみならず、書物の中に描かれる人物についても同様のことが言い得られると思う。」としておられます。(同書、75頁)           
 ※  新訂中国古典選の『論語 上』(吉川幸次郎著、朝日新聞社・昭和40年12月1日第1刷、昭和40年12月10日第2刷発行)で吉川幸次郎氏は、「子(し)曰(い)わく、賢(けん)を見ては斉(ひと)しからんことを思え。不賢(ふけん)を見ては、内(うち)に自(み)ずから省(かえ)りみる也(なり)。」と読んで、「すぐれた人物にあったら、自分もそれと同じようになりたいと思え。つまらない人間にあったら、自分も同じ条件をもたないか、内に向って自ずから反省せよ。」と訳しておられます。そして、「「かしこい」という日本語は、必ずしも、賢(けん)という漢字の意味をつくさない。すぐれた人物、えらい人物が、賢(けん)である。」と注しておられます。(同書、102頁)

 また、『詩経』の大雅に「思斉篇」があり、「思斉大任」という句が見えます。ここの「大任」は人名で、「思」は形容詞の接頭語、「思斉」は「斉斉」と同意、つつしむさまを表す由です。(『詩経』の「思斉大任」については、新釈漢文大系『詩経 下』石川忠久著、明治書院・平成12年7月30日初版発行によりました。)

 なお、上記の『現代日本文学アルバム』(第1巻・森鷗外)には、法名は桂湖村により「貞献院殿文穆思斉大居士」と名付けられたとして、「じょうけんいんでんぶんぼくしせいだいこじ」と、ルビで読みが示してあります。

 桂湖村(1868~1938)=新潟生まれの漢学者・漢詩人。早大教授をつとめた。鷗外の漢詩の師であった。

 ○『早稲田と文学』というサイトに、次のように出ています。
 桂 湖村(かつら・こそん)=1868~1938。漢学者、漢詩人。名五十郎。越後に生まれる。幼時より漢学を修め、和歌もよくした。明治25年東京専門学校専修英語科卒。中国に渡り書画を研究。のち早大教授となる。『漢籍解題』の著者として名高く、学生に与えた影響も大きい。
現在はこのサイトはないようです。(2023年11月7日)
 ○『新潟市』のサイトの「秋葉区」の「秋葉区ゆかりの先人たち」に、次のように出ています。
 桂 湖村(かつら こそん)=明治元年生~昭和13年没。漢文学者。名は五十郎。新津市に生まれ、幼少時に福島潟近くの分家の養子になった。東京専門学校卒業後、「日本新聞社」に入社し、正岡子規と文芸欄を分担していたが、のち中国に留学した。帰国後、早稲田・東洋・国学院の各大学の講壇に立ち、晩年は早稲田大学の名物教授として親しまれた。また、陶器研究でも知られた。研究著書「漢籍解題」は当時類のない中国学会の至宝として尊重された。なお、文豪森鴎外の漢詩の師匠としても有名である。      
 (筑摩書房版『森鷗外全集』別巻(昭和46年10月5日初版第1刷発行・昭和49年5月20日初版第4刷発行)所収の「年譜」(北村佐太夫編)には、「法號は弘福寺住職日向義角師によつて文林院殿鷗外仁賢大居士とつけられたが、遺族により桂湖村提案の貞獻院殿文穆思齋大居士に改められた」とあります。
 ここでは「思齊」を「思齋」としていますが、「思齋」は「思齊」が正しいのではないでしょうか。)

 (付記) 岩波書店の鷗外全集編集部に問い合わせたところ、平成18年5月29日付けで、岩波の全集の記載が正確であるというご返事を頂きました。その根拠としては、位牌現物を確認していただいていること、また、字義の点でも「思斎」では理解しにくいのではないかということでした。(2006年11月28日記)
7.  鷗外の葬儀は、大正11年7月12日、谷中斎場で仏式により行われ、13日、日暮里火葬場で荼毘に付され、当日、弘福寺に埋葬されました。弘福寺は大正12年9月の関東大震災によって全焼したため、昭和2年10月2日、墓は三鷹市の禅林寺に移されました。(『現代日本文学アルバム』(第1巻・森鷗外)による)
 なお、森於菟著『父親としての森鷗外』(ちくま文庫、1993年9月22日第1刷発行)に、「父の墓碑は中村不折氏の筆で向島弘福寺にあったが、その七回忌の時の春、隅田公園の成るとともに墓地縮小のため府下三鷹村禅林寺に移した。祖父の墓(落合直文の筆)及び叔父篤次郎、弟不律、潤三郎の男兌の合墓(父の筆)と並んでいる。なお曾祖父曾祖母祖母の墓三基は土山常明寺にその前の祖先の墓は津和野にある。」とあります。(同書、295頁)
8.  永井荷風はその日記『斷膓亭日乘』に、鷗外の死に関して次のように書いています。

 大正十一年七月七日。夜半與謝野君電話にて森夫子急病危篤の由を告ぐ。
  七月八日。早朝團子阪森先生の邸に至る。表玄關には既に受附の設あり。見舞の客陸續たり。余は曾て厩のありし裏門より入るに與謝野澤木小嶋の諸氏裏庭に面する座敷に在り。病室には家人の外出入せず。見舞の客には先生が竹馬の友賀古翁應接せらる。翁窃に余を招ぎ病室に入ることを許されたり。恐る恐る襖を開きて入るに、先生は仰臥して腰より下の方に夜具をかけ昏々として眠りたまへり。鼾聲唯雷の如し。薄暮雨の晴間を窺ひ家に歸る。
  七月九日。早朝より團子阪の邸に徃く。森先生は午前七時頃遂に纊を屬せらる。悲しい哉。
  七月十日。(略)
  七月十一日。玄文社合評會終りて後、小山内兄妹と自働車にて觀潮樓に至り、鷗外先生の靈前に通夜す。此夜來るもの凡數十名。その中文壇操觚の士は僅に十四五人のみ。
  七月十二日。朝五時頃、電車の運轉するを待ち家に歸る。一睡の後谷中齋塲に赴く。此日快晴凉風秋の如し。午後二時半葬儀終る。三河島にて荼毘に付し墨上の禪刹弘福寺に葬ると云。  
         
 《岩波書店版『荷風全集 第十九巻』(昭和39年5月12日第1刷発行・昭和47年8月7日第2刷発行 ) によりました。同書 239~240頁。この全集では「斷膓亭日記 巻之六(大正十一年)」となっています。》

 また、昭和8年12月17日の日記に、次のようにあります。

 十二月十七日日曜日 晴れて風寒し。終日『鷗外遺珠』を讀む。昏刻銀座に飰して後喫茶店きゆうぺるに憩ふ。諸子と共に佃茂に立寄りてかへる。昨夜きゆうぺるの女給 名お淸といふ 歸途銀座通にて自働車に觸れ平民病院に入りしといふ。
鷗外遺珠と思ひ出 森潤三郎編 昭和書房刊 序森潤三郎 遺珠三十篇 序跋題辭四十一篇 廣告文三十九篇 引札 漢詩補遺 歐文二篇 年譜及著作目録 思ひ出 森於菟 與謝野寛 森潤三郎 小金井喜美子
 編輯後記
     臨終口授
余は少年の時より老死に至るまで一切の秘密なく交際るした友は賀古鶴所君なり。ここに死に臨んで賀古君の一筆を煩はす。死ハ一切を打切る重大事件なり。奈何なる官憲威力といへどもこれに反抗することを得ずと信ず。余は石見人森林太郎として死せんと欲す。宮内省陸軍皆縁故あれども生死別るる瞬間あらゆる外形的取扱を辭す。森林太郎として死せんとす。墓は森林太郎墓の外一字ホル(假名でも好いよ)べからず。書は中村不折に依託し宮内省陸軍の榮典は絶對に取りやめを請ふ。手續はそれぞれあるべし。これ唯一の友人にいひ殘すものにして何人の容喙をも許さず。
大正十一年七月六日

 《昭和8年12月17日の日記は、岩波文庫版『摘録断腸亭日乗(上)』(1987年7月16日第1刷発行・1993年1月12日第10刷発行)によりました。同書 291~292頁。なお、引用者が本文の常用漢字を旧字体に改めました。また、文庫本の本文には、「飰(はん)」「引札(ひきふだ)」「賀古鶴所(かこつるど)」「煩(わずら)はす」「奈何 (いか)なる」「石見人(いわみのひと)」「中村不折(なかむらふせつ)」「請(こ)ふ」「容喙(ようかい)」と、文庫編集部によってルビが付けられています。》(昭和8年12月17日の日記は、2013年3月27日付記)
9.  禅林寺の森鷗外遺言碑の写真
 鷗外の墓がある三鷹の禅林寺境内に、「鷗外遺言碑」があります。その写真を、霊泉山禅林寺のホームページで見ることができます。
 霊泉山禅林寺TOPページの「禅林寺について」 → 下方の「禅林寺 境内マッ プ」の中の「鴎外遺言碑」に触れると、「鴎外遺言碑」の写真が見られます。(「遺言碑」の拡大写真がないので、文字がはっきり読み取れないのが残念です。) 
      
 * 『東京さまよい記』というサイトに、禅林寺の森鴎外の遺言碑の写真があって、遺言碑の文字がはっきり写っています。(2014年3月31日付記)
 『東京さまよい記』
  → 「禅林寺(森鴎外の遺言碑・墓)」
  → 森鴎外の遺言碑
10.  「森鷗外遺言碑」が、津和野町の、鷗外が学んだ養老館内に建っています。
 この碑の写真が『ジャパン・ヨンナナ・ゴー』というサイトで見られます。
 『ジャパン・ヨンナナ・ゴー』
 → 養老館内の「森鷗外遺言碑」
11.  電子図書館「青空文庫」では、上記の遺言を含めて、「遺言三種」を読む ことができます。   
12.  『文京区立森鷗外記念館』について 
 千駄木3丁目にある観潮楼跡の元の「鴎外記念室」(「文京区立本郷図書館 鴎外記念室」)がリニューアルして、新たに『文京区立森鷗外記念館』として、平成24年11月1日に開館しました。        
 → 『文京区立森鷗外記念館』   
 (参考) →  「本郷図書館」 (2013年2月2日付記)
13.  資料8に「森鴎外の詩『沙羅の木』」があります。    
14.  国立国会図書館の『近代日本人の肖像』で、森鷗外の肖像写真を見ることができます。    
15.  津和野町の「森鷗外記念館」の施設案内のページがあります。   
16.  東京大学附属図書館に、「鷗外文庫 書入本画像データべース」があり、 森鷗外旧蔵書の一部を画像で見ることができます。           
17.  資料346に「森鴎外の詩「扣鈕」」があります。    
18.  資料347に「森鴎外「我百首」」があります。
19.  岩波書店の『図書』2012年11月号に、平岡敏夫氏の「原敬の遺書と鷗外 の遺書」という文章が掲載されていて、原敬の遺書と鷗外の遺書との類似について触れてあります。(参考までに、原敬の没年は大正10年11月4日で、鷗外の遺書の日付は大正11年7月6日(死去の日は7月9日)です。)
 なお、原敬の遺書は、林茂・原奎一郎編『新版 原敬日記6』(2012年 6月、福村出版)に出ているそうです。(2012年11月2日付記)
  1981年9月10日発行の『原敬日記6』(福村出版)にも出ていました。(同書、190頁) (2013年12月25日付記)

 ※ かつて、『原敬遺徳顕彰事業団 財団法人大慈会』のホームページに「原敬アルバム」のページがあり、そこに原敬の遺書4通のうち「死亡せハ即刻開披すべし」とある遺書の写真が出ていました。(ただし、遺書の写真 が小さく、文字を読みとるのは困難でした。) 
 そこに、「死去ノ際位階勳等ノ陞叙ハ余ノ絶對ニ好マサル所ナレハ死去セハ即刻發表スヘシ」「死亡通知ハ親戚ノミニ限ルヘシ一般ニハ別ニ 通知書ヲ出サス新聞紙ノ廣告ニ止ムヘシ」「墓石ノ表面ニハ余ノ姓名ノ 外戒名ハ勿論位階勳等モ記スルニ及ハス」などの文言が見えました。
 なお、ここに「……位階勳等モ記スルニ及ハス」と書きましたが、平岡敏夫氏は「……位階勳等も記すに及ばず」と書いておられます。これは、『原敬日記6』(2012年6月、福村出版)によったものでしょうか。遺書の写真には「記スニ及 ハス」ではなく、「記スルニ及ハス」と書いてあるように見えるのですが、どうでしょうか。細かいことですが、一言書き足し ておきます。(2013年4月9日)

 しかし、残念ながら現在は『原敬遺徳顕彰事業団 財団法人大慈会』の ホームページが見られなくなっていますので、リンクを外しました。(2020年6月20日付記)    
    * * * * *
 今、検索してみると、『原敬事典』というサイトに「原敬の遺書」があり、そこに遺書の一部の写真が出ていますが、やはり写真が小さくて文字は読めません。
 ただ、『原敬記念館』のサイトに同じ写真が出ていて、そこでは「墓石ノ表面ニハ余ノ姓名ノ外戒名ハ勿論位階勲等モ記スルニ及ハス」の文字を読むことができます(「原敬100回忌特別企画展 後編「政界への飛躍」」の案内ページ)。(2023年11月8日)
” ※着色は引用者
(貴重な資料なので保存)



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