初恋の相手は、歌手の灰田勝彦だったという。戦後の焼け跡が残っていた頃。甘く、くすぐる声に胸を焦がしたらしい。ウクレレも爪弾く広島からのハワイ移民2世。その趣に恋心をかき立てたのが当時11歳の吉行和子さんである▲家族旅行でも海を渡る昨今とは違う。♬海にお舟を浮かばせて 行ってみたいな よその国。戦時中に文部省唱歌「海」を覚えた吉行さんは、随筆で触れている。「よその国」には憧れの別世界に誘う響きがある―と▲俳優業の傍ら、旅心をくすぐられ続けたのだろう。人生後半に詠み始め、旅の友とした俳句には各地で味わった旅情が残る。〈秋の陽(ひ)をまぶたに乗せて駱駝(らくだ)ゆく〉〈リスボンの路地にさんまの煙立つ〉▲吉行さんが帰らぬ旅路に就いてしまった。90歳。舞台演劇から映画、テレビと活躍の場を広げた役者人生だった。人気ドラマ「3B組金八先生」をはじめ、広島県人には大崎上島町で山田洋次監督の撮った映画「東京家族」での演技も忘れがたい▲吉行さんの母あぐりさんは、91歳の時に海外旅行の味を覚え、好奇心の赴くままに東へ西へと飛び回った。お供は、いつも和子さんだった。もう落ち合っているかもしれない。