漫画『聲の形』の暴力描写の意義について
私たちは『聲の形』を読み始めてまもなく、「硝子はなぜ、再会した石田を受け入れることができたのか?」という問いに直面する。普通なら拒絶するはずだ。かつて自分をいじめていた相手なのだから。実際彼女は一旦、訪ねてきた石田に背を向けて逃げ出している。
もちろん、石田が手話を覚えてきたこと、そして、かつて自分が投げかけた「友達になろう」という言葉に、彼が五年越しの返事を返してきたことが、硝子の心を動かしたであろうことはわかる。加えて、彼が届けようとした筆談ノートが、硝子にとってどれほど重い意味を持つかと言うことも前回話した。
けれどきっと、それだけではない。もっと根本的な問題として、小学6年生の段階から、二人は「単純な加害者被害者」とは異なる関係性として描かれていた。その描き方が絶妙で、あえて「暴力」に肯定的な意義を持たせることによって二人の結びつきの特殊性を表現しているところに、この作品の独自性があると思う。
第一巻の後半において、石田は既に「いじめ加害者」という立場を降りていた。彼は逆に、これまでの報いを受ける形で新たないじめ被害者になっていたのである。
一方の硝子は依然として何者かからいじめを受けており(後にこれは植野直花の犯行だったとわかる)、同じクラスの中に二人のいじめ被害者が同居する構図がしばらく続く。
この時期、硝子はクラスで唯一、石田に優しくしようと試みる存在だった。つい先日まで自分をいじめていた相手であるにも関わらず、彼女は精一杯、石田と関係を築こうとしていた。
しかし石田にその優しさを受け止める余裕はなく、憐れみを拒むような必死さで、彼は硝子に暴力を振るう。このとき彼が叫んだセリフは重要だ。
「言いたいことあんなら言えよ」「ヒキョーなんだよテメーは」「だんまり弱いフリして先生味方につけてよぉ」「一度でも腹の底にある気持ち言ったことあんのかよ」
これは、第4巻において植野直花が硝子に放ったセリフと大部分が重なる。そして硝子は、このとき植野が言ったことについて後に「私の悩みのタネである問題に気づいてくれていたことがわかって、とても嬉しかったです」と返している。
このやり取りの遥か以前、小学生6年生の段階で既に、石田は同様の怒りを硝子へぶつけていた。これはとても重要なことである。なぜならこの作品は、最終的に「そもそも私たちは他者や自分と真っ直ぐ向き合えるのか?」という難儀な問いを読者に突きつけてくるからだ。
ここで西宮硝子は石田へ殴り返す。今まで何があっても取り繕うような笑顔ばかり浮かべていた彼女が、鋭く目を怒らせて、相手の頬を張ったのである。それは彼女にとって、おそらく人生で初めてのことだった。
「これでも頑張ってる(あるいは、それでも頑張ってる)!」と叫びながら、彼女は取っ組み合いの喧嘩を続けた。そこに描かれているのは互いを傷つけあう暴力だが、後に石田が「あの時は傷つけ合うことでしかこえを伝えられなかった」と振り返っていることからもわかるように、このシーンは幼い二人が懸命に本音で対話しようとした結果なのである。
硝子の妹である結弦は、このときのことを次のように回想している。
ある日、姉ちゃんはボロボロになって帰ってきた。学校の男子ととっくみ合いをしたらしい。相手の名前は石田将也。その時、姉ちゃんは怒った? いや…ウワサによると笑っていたらしい。
このとき硝子がどんな気持ちだったか、本人の言葉で表現されることはない。けれどこの日のやりとりが、彼女と石田を「単純な加害者被害者」とは異なる関係性として結びつけたことは間違いないように思われる。
『聲の形』という作品は、言葉(音声)ではうまく伝えられないこと、あるいは十分に言い尽くせないことを、しばしば何らかの身体的手段で表現する。
その典型が聴覚障害であり手話なわけだが、実は障害の有無に関係なく「上手く伝えられない」人たちはたくさん存在する。一例として、次に西宮母の話をしたい。
彼女は想いを上手く言葉にすることができない人物であり、暴力を含む、言語以外の描写が彼女の言葉足らずを補うことが多い。
西宮母の暴力の中でもとりわけ鮮烈なのは、石田母のピアスを彼女の耳ごと引きちぎったことと、硝子と再会し、「5年前はすみませんでした。俺、もの凄く後悔してます」と謝罪した石田の頬を目一杯張り倒したことである。
これらは彼女の怒りと娘への愛情の大きさを痛烈に物語るが、同時に、彼女がまだ、石田家と対話の可能性を残していることの表現にもなっている。
前回、この作品は「やり直し」を物語の縦糸にしていると語ったが、やり直すためには事前の手続きとして、罰(あるいは報い)や弁償が必要である。それが現代社会において「罪」を犯した者が再び「やり直す」ためのステップであり、『聲の形』という作品はかなり忠実にこの仕組みを守っている。
石田が小学生だった硝子から奪い傷つけたものとして、作中では「金銭的被害(補聴器170万円)」「身体的被害(耳の裂傷)」「心理的被害」「幸福だったかもしれない時間」の四つが描かれている。
これらのうち、「金銭的被害」については石田母が弁償を済ませている。また「身体的被害」については、西宮母が石田母のピアスを耳ごと引きちぎることによって、擬似的に「罰」を受けている。
「心理的被害」については、石田自身がいじめられる側に回ることで報いを受けている。そして彼は、中学、高校と孤独な日々を過ごし、「幸福だったかもしれない時間」という観点から言っても、多大な責苦を受けている。
加えて石田は、かつて母親に肩代わりしてもらった170万円を、後に自ら稼いで返済している(しかもそれは家計を潤すことなく焼失した)。また、再会した硝子の母から張り倒されることで、母に肩代わりしてもらっていたもう一つの罰(身体的被害への報い)についても、その身で引き受け直した。
そうして彼はようやく、西宮硝子とやり直すためのスタートラインに立ったのである。ここから彼は、いかにして彼女の心の傷を癒やし、幸福な時間を取り戻してもらうか、という課題と向き合っていくことになる。
こう考えてみると、西宮母の暴力描写は極めて必然性が高い。これがなければ、「かつてのいじめ加害者が被害者と関係をやり直そうとする」という作品の根幹自体が成り立たなくなってしまう。そんな都合のいい話が許されるわけないだろうと、一笑に付されて終わる。
『聲の形』という作品は、あえて暴力描写に肯定的な意義を持たせている。だからこそ、一見するとあり得ないような設定のヒューマンドラマがそれなりの説得力を持って成立するのである。その前提に立たず、ただただ忌避すべきものとして暴力描写を受け取ってしまうと、西宮母(や、同じく暴力描写の多い植野直花)もまた、到底受け入れ難い、忌避すべきキャラクターになってしまう。
もちろん私は、一般的な意味で暴力を肯定するつもりはないし、『聲の形』の作者にも、そうした意図はないだろう。
また、加害者が何らかの報いや弁償を引き受けたからといって、いじめの被害者が負った心の傷が救われるわけではなく、それはもはや取り返しのつかないことなのだということも当然わかっている。
しかしそれでも、やっぱりこの作品は「やり直し」と「正対」の物語だと思う。それをギリギリのリアリティで成立させるための工夫の一つが、今回語った暴力描写の使い方だったのである。
(本当は植野直花の暴力性についても触れたかったが、力尽きてしまったため、今後の課題としたい)


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