漫画『聲の形』が帯びる切実な緊張感について
『聲の形』は説教くさいダイバーシティやインクルージョンの物語ではない
ということを知らないまま、この傑作を未読の人がいるとしたら、それはとても勿体ないことだと思う。
漫画原作が好評を集め、映画化が決定し、文部科学省とのタイアップポスターが多くの公的施設に張り出されていたあの頃、私はこの作品のことを「聴覚障害が題材となったダイバーシティやインクルージョンの物語」だと想像していた。
かつてヒロインをいじめていた少年が主人公だということも耳にしていたから、彼が改心したことをきっかけに、身体障害を抱えた相手との適切な関わり方を子どもたちが見つけ出していくようなお話なのだと思っていた。だから、教育的意義を認めた文科省もこの作品をプッシュしているのだろう、と。
全然違った。『聲の形』は説教くさいダイバーシティやインクルージョンの物語ではない。
私たちはやり直せるか? 損なってしまったものや失ってしまったものを、後から取り戻すことができるのか?
この誰もが直面し得る極めて普遍的な問いを縦糸にして、それを辿っていくと、
そもそも私たちは他者や自分と真っ直ぐ向き合えるのか?
という、さらにありきたりで、けれど乗り越えがたい問いに行き着く、という構造になっている。『聲の形』という作品のテーマは、この二点に尽きると思う。
主人公である石田は、聴覚障害を抱えた少女である西宮硝子のことをかつていじめていた。単行本丸々一冊分かけて描かれる小学校時代のいじめシーンについては語るべきことがたくさんあるが、真っ先に触れておきたいのは、加害者である石田が「報いを受け、数年苦悩し、結果として自殺を選ぶに至った」ということである。
石田は死のうとしていた。私たちは、このことの重みを絶えず感じ続けながら、『聲の形』という作品を読むべきだと思う。
彼は硝子をいじめた自分を、そして、その後孤独であり続けた自分を、「自分勝手で思いやりがなく、クラスメイトを見下すことで生き延びてきた。17年間生きてきて一度もイイ奴だったことがない」と内省している。
彼はずっと自分を許せず、ずっと自分が嫌いだった。そして、今の自分をどこまで延長していっても、真っ当な未来は到底迎えられないと想像していた。それはつまり、「変われない」弱さまで含めて、自分の内面に絶望していたということだ。
そこで彼は、かつて母が払ってくれた西宮家への慰謝料を返済するまで生き、それが済んだら橋の上から身投げしようと算段を立てた。
高校三年生の春、金を稼ぎ終えた彼は、最後に「やり残したこと」として西宮硝子のもとを訪ねる。このときも彼は、自分の行為について「昔の過ちを許してもらいにきたらしい。自分にとって都合のいい結果を期待して」と内省し、そんな自分のことを嫌いだと断じている。
その一方で彼は、「逃げられようが刺されようが、どんな反応されようが覚悟してきたんだろ?」とも自問している。つまり、拒絶される可能性が高いと重々わかっていながら、そして、それが浅ましい身勝手だと自覚していながら、それでも、「西宮硝子とやり直せるかもしれない」という可能性に一縷の望みを賭けたということだ。
自分を嫌い、人生を諦め、それでも最期に一度だけ、二人の可能性を信じてみようとした。
そのために手話を覚え、今度こそ、互いの声がちゃんと伝わるように準備した。
ここから、石田という主人公の物語は始まる。そして重要なのは、西宮硝子というヒロインの物語も、まったく同じ始まり方をするということだ。
彼女の人生もまた、絶望と諦観に埋め尽くされていた。
彼女が石田やそのクラスメイトから受けていた仕打ちは作品冒頭で明確に描写されている。しかし、それは彼女が耐えなければならなかったことの一部に過ぎず、他の学校、他の相手からも迫害され続けてきたことは作中随所で仄めかされている。
これは後半も後半、6巻に至ってようやく明かされることだが、小学6年生のある日(おそらく、石田によって筆談用のノートを池に投げ捨てられた日)、硝子は妹に向かって「死にたい」と打ち明けている。
確かに石田は、彼女の心に一つのトドメを刺してしまったのだろう。しかし、全ての原因を彼に押し付けられるほど、事は単純でもない。硝子はその後まもなく転校し、石田たちと距離をとることになるが、それでも彼女の絶望が癒えることはなかった。
妹の結弦は、そんな彼女に自殺を思い止まらせたくて、動物の醜い遺骸ばかりを写真に収めるようになっていた。もし、転校するだけで硝子の心が救われていたならば、結弦が写真を撮り続ける必要もなく、それが依然として続いている事実から、硝子の心は未だ本質的には救われていないことがわかる。
硝子と再会した石田は、かつて彼女が使っていた筆談用のノートを差し出した。石田たちがいたずらに罵詈雑言を書きこんだ、ともすれば目を背けたくなるような遺物だ。
(事実石田は、ノートを手渡したことがきっかけで小学校時代の罪を思い出し、自分には罰が足りないと胸を痛めている)
衝撃的であり、象徴的なのは、母親の手によってそのノートを投げ捨てられたとき、硝子が身を挺して(川に飛び込んでまで)それを守ろうとしたことである。
驚いた石田は彼女に「そのノート、そんなに大事?」と尋ねる。普通に考えれば、それは悲劇の記録であり、持っていて嬉しい物ではない。
しかし硝子は、ノートを胸に抱きながら、「一度諦めたけど、あなたが拾ってくれたから」と返す。
彼女はかつて、一体何を諦めたのか? 一つわかりやすいのは、生きることを諦めた、死を望んでしまったというニュアンスである。これは先述した、結弦の回想から推測することができる。
しかしそれだけではなく、この筆談ノートと彼女の諦観については、さらに後半、作品のクライマックスとも言えるタイミングで、より詳しい事情が描かれている。
かつて筆談ノートを池に投げ捨てられた硝子は、びしょ濡れになりながらそれを拾い上げた。しかし彼女は、誰かと関係を結ぼうとすることに疲れ、これ以上他者と向き合い言葉を交わすことを諦め、再びノートを池に捨てた。彼女が結弦に「死にたい」と打ち明けたのは、この後のことである。
彼女が捨てたのはノートだけではない。そして、石田が拾い上げ届けたものも、ノートだけではない。
だからこそ、硝子もまた、石田との関係、その可能性に、己の人生全部を委ねるような、一縷の望みを賭けたのだった。
こうして、諦めあった二人、死を望みあった二人は、よりにもよって加害者被害者という関係性でありながら、自分たちはやり直せるかもしれないという、その可能性を信じ、恐る恐るそれを試みていく。
私たちはやり直せるか? 損なってしまったものや失ってしまったものを、後から取り戻すことができるのか?
この切実な緊張感こそが、『聲の形』という作品の凄まじさであり、本質なのではないかと思う。
そうでなければ、一見すると睦まじい関係を硝子と結び直せたように見える石田が、その後も深く苦悩し続け、心の中でかつての己を刺し殺すはずがない。
そうでなければ硝子が、花火大会の夜にベランダから飛び降りるはずがない。
『聲の形』は説教くさいダイバーシティやインクルージョンの物語ではない。もっと普遍的な、私たち全員の身に重なり得る、後悔とやり直しの物語だ。
(もちろん、身体障害やダイバーシティの問題が普遍的でないと言いたいわけではないし、そういう要素がこの作品に皆無だと言うつもりもない)
そして、懸命にそれを試みる二人を見つめていると、自ずから、
そもそも私たちは他者や自分と真っ直ぐ向き合えるのか?
という難儀な問いを突きつけられることになる。
これらを描き切る上で、「聴覚障害+いじめ」という題材は、とても効果的な手段だった。そのことについて次回、「『聲の形』の暴力表現の意義について」と題して言語化を試みたい。


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