「伝説の三段」が将棋の世界に戻ってきた。小児科医の立石径(けい)さん(50)=兵庫県三田市。関西棋界を担う逸材として将来を嘱望されたが、17歳のときにプロ一歩手前の三段で棋士養成機関「奨励会」を退会し、医学の道へと進んだ。それから30年。再び駒を手に取り、アマチュアとして大会出場を重ねながら、さらなる高みを目指す。「中途半端で終わってしまった三段リーグで、もう一度戦いたい」。子供たちの命と向き合いながら、新たな夢を追いかける。
昨年6月4日、大阪市福島区の旧関西将棋会館に立石さんの姿があった。アマ大会で好成績を挙げ、プロ棋戦の加古川青流戦に出場。初の公式戦に臨むにあたり、2本の扇子を持参した。将棋だけでなく人としての道を教えてもらったという師匠・故有吉道夫九段の「夢」と、級位者の頃から鍛えてもらい、その圧倒的な終盤力を目標にしたという夭折の天才棋士、村山聖九段の「大局観」だ。
1局目で現役の奨励会三段を相手に公式戦初勝利を飾ると、将棋ファンらは伝説の三段の復帰に沸いた。2局目はプロ棋士に敗退したが、立石さんは「(関西将棋会館が大阪府高槻市に)移転する前にここで公式戦を戦わせてもらって感謝しています。僕が座れなかった場所なんで…」と感慨深げに振り返った。
将棋を始めたのは、堺市に住んでいた小学3年生の頃。驚異的なスピードで力をつけ、1年ほどでアマ四段に。6年生で奨励会に入り、「関西三羽烏」といわれた良きライバルの久保利明九段(50)や矢倉規広七段(51)と切磋琢磨しながら、プロへの階段を駆け上がっていった。
周囲には順風満帆に見えたが、中学生になり自我が芽生えた立石さんは次第に葛藤を深めていく。
「将来の名人候補」とも目されるわが子の才能開花に全力を傾注する父親は、息子を将棋に専念させようとした。一方、学校の成績がつねに上位の立石さんは、もっと勉強したいと思っていた。「今は大学に行く棋士も多いですが、当時はほとんどいなかった。でも僕は将棋も指して、大学にも行きたかった。どちらもやりたかった」
勝負師に向いていないとも感じていた。「何としてでも勝ちたいという気持ちがなく、勝っても『負けなくてよかった』と安心が先にくる。中学の終わり頃からは将棋を指すのがしんどかった」
そして「青二才」の当時はエンターテインメントとしての将棋の世界に自分の役割を見いだせず、もっと直接的に社会の役に立ちたいと考えた。「医者になりたい」。とりわけ、「何の瑕疵(かし)もないのに病気で苦しんでいる子供たちを助けたい」と思った。
進学した高校を2カ月で中退し、将棋に専念しようとしたが、もう心がついていかなかった。3期戦った三段リーグの成績は27勝27敗。「中途半端な気持ちの反映」と苦笑する。年齢制限の26歳をはるかに下回る17歳で奨励会を退会。「晴れ晴れとして、新しいことに挑戦するぞと思っていました」
21歳で神戸大医学部に入学し、念願の小児科医に。病院勤務を経て平成24年、妻の実家がある三田市で開業した。
戻るつもりのなかった将棋の世界に再び足を踏み入れたきっかけは、わが子がもたらした。4年ほど前、小学6年生だった次男が将棋を楽しんでいる様子に触発され、自分でも指すようになった。
AI(人工知能)の登場で大きく変化した現代将棋に驚き戸惑いながらも、棋書を読み込み、ネット対局で腕を磨き、大会に出場した。やがて「再開した以上は将棋を趣味では終わらせられない。上を目指して、どこまでいけるか試したい」と思うようになった。「勝ちたい、強くなりたいという気持ちは、奨励会時代よりずっと強い」と話す。
自己分析では当時と現在で将棋の総合力は変わらないという。「棋力は落ちているかもしれませんが、自ら学ぼうとする今は、もう一つの気力が十分に上がっています」
アマ六大棋戦で優勝すれば三段リーグ編入試験の受験資格を獲得できる。「実力が足りていないこと、仕事もあり厳しい道のりであることはよくわかっています」。だが、中途半端な形で去った三段リーグでもう一度がむしゃらに戦いたいと願う。「将棋は自分の人生で大きなウエートを占めるもの。やり切ったという努力もまだできていないのに、年齢を理由にあきらめたくない。納得できる人生にして完結したい」
奨励会時代に記録係を務めたタイトル戦で、対局者や立会人も気づかなかった詰みを発見した伝説のエピソードの持ち主が、新たな伝説に挑戦する。