×

ニュース

[表現者の戦後・被爆80年] フォークシンガー 南こうせつさん(76) 一生かけてヒロシマで平和を叫ぶ

日本は「核兵器は駄目だ」と言い続ける覚悟がいる

 戦後生まれの若者の心情を歌い、高度経済成長期に花開いた日本のフォークシーンをけん引した南こうせつさん(76)。素朴な温かい歌声で大衆を魅了し続ける一方、そのまなざしは常に社会の弱者へと向けられてきた。「一生かけてヒロシマで平和を叫ぶ」という揺るぎない信念の下、1980年代から広島市でピースコンサートを開催。古希を過ぎた今も、被爆者との交流を重ねている。(桑島美帆)

 ≪U2、クイーン、マドンナ、ミック・ジャガー…。85年7月、一世を風靡(ふうび)したバンドやミュージシャンが手を携え、アフリカの飢餓救済を掲げて英国と米国で開いた「ライブ・エイド」。20世紀最大と称されるこのチャリティーコンサートに刺激を受け、翌年8月、音楽仲間と「平和祈念コンサート HIROSHIMA」(後の「広島ピースコンサート」)を企画した。≫

 世界中に生中継された「ライブ・エイド」の日本放送枠で司会を務めたこともあって、すごい衝撃を受けた。山本コウタロー(2022年に73歳で死去)から「広島で原爆反対のコンサートをやりたいと思わない?」と誘いがあったことも後押しとなった。

 東西冷戦下で、核兵器の脅威を身近に感じていたと思う。世界で初めて原爆が落とされたヒロシマの地で、平和のメッセージを叫びたい。「広島でやらなきゃ」という思いが募り「僕らに知名度があるうちに、やっとこう」とコウタローと始めた。

 初回は、86年8月5日夕刻から6日朝まで、広島修道大(広島市安佐南区)のグラウンドを使った野外コンサートだった。THE ALFEEや財津和夫、さだまさしたちに出演を依頼。チケットは1万5千枚くらい売れたが、海外アーティストを呼んだことで経費が膨らみ赤字になった。翌年から出演者を国内に絞り、ハウンド・ドッグの大友康平たちと広島サンプラザ(西区)などで95年まで続けた。

 ≪ピースコンサートの目標に掲げたのが「原爆養護ホームの建設」。延べ141組のアーティストが手弁当で出演した5回分の収益金1億8千万円を広島市へ寄付し、92年7月、「倉掛のぞみ園」(安佐北区)が完成する。これをきっかけに「原爆の日」に合わせた慰問コンサートを開始。2000年から10年間、世界平和記念聖堂(中区)で8月の単独ライブも続けた。≫

 1986年の初演時に、コウタローと原爆養護ホーム「舟入むつみ園」(中区)を視察し、ショックを受けた。当時は狭い部屋にベッドが並び、裸電球がぶら下がった廊下は昼でも暗い。われわれは、高度経済成長を成し遂げた平和な社会で歌って生きているのに、原爆被害に遭った人たちが、こんな環境に押し込められているのは日本人の恥だ。わずかでも収益金を寄付し、明るい電球や新しいシーツに換えてほしい―。そう思った。

 たった1発の原爆で街じゅうが焼け野原になった広島、長崎で何が起こったのか。なかなか想像できないけれど、ただぶらっと来て歌って帰るだけでは意味がない。毎回、原爆慰霊碑の前で祈り、希望者を募って被爆者の証言を聞く場も用意した。

 ≪終戦から間もない49年、大分市郊外の寺の三男に生まれた。中学生時代にフォークソングと出合い、公民権運動やベトナム反戦運動と共鳴したフォークの世界にのめり込んだ。≫

 子どもの頃、夏に父の檀家(だんか)さん回りについていくと、戦死した息子の写真を仏壇に掲げた家があった。「生きておれば…」と泣きながら話す人の姿を覚えている。お寺の集まりでは、酒が入ると最後に決まって軍歌を歌う。まだみんな戦争の記憶を引きずっていた。日本が貧乏だったから「共に生きようぜ」みたいな連帯意識も強かったと思う。

 小学4年生の時に、エルビス・プレスリーのロックを聞き、その自由な雰囲気にびっくりした。「敵国」の歌だったけれど、本当に心が解放された。「勝利を我らに」「花はどこへ行った」などを中学生の頃に聞き、メッセージを持つ歌っていいなあと。ベトナム戦争に反対する若者がニューヨーク郊外のウッドストックに集い、「Love&Peace」を訴えて熱唱する姿にも刺激を受けた。

 ≪ミリオンセラーの「神田川」(73年)などヒット作を世に出す傍ら、「あの人の手紙」(72年)、広島ピースコンサートに合わせてつくった「ピース・イン・ハーモニー」(86年)や「心の虹」(97年)など反戦反核や平和を願う楽曲を相次いで発表。近年、歌う頻度も高まっているという。≫

 ウクライナでも、パレスチナでも、飢えに苦しんでいる子どもたちの上に爆弾が落とされている。おかしいよね。すべて人間のエゴだと思う。核兵器の問題もそう。「非核三原則の再検討」は絶対駄目。世界中で起こるネガティブなことは一人一人に責任がある、というのが僕の持論。唯一の被爆国として日本は世界に対し「核兵器は駄目だ」と言い続ける覚悟がいる。

 「神田川」があれだけヒットしたのは、ちょうど安保闘争が衰退し、学生運動に燃えていた人たちが大義名分を語るのではなく、ふっと力が抜けて「そばにいる恋人を大事にしよう」という思いを共有したからだろう。フォークに限らず、ロックもクラシックも音楽の行き着くところは結局、ラブソングだと思う。

 今年も8月6日に「倉掛のぞみ園」を訪問し、広い講堂いっぱいに集まったみなさんの前で「神田川」や「ふるさと」を歌った。新型コロナウイルスの影響で自粛していたので、訪問は6年ぶり。いつもコウタローと大友康平と3人で行っていたのに、コウタローが亡くなり、残った2人で頑張ることにした。

 戦後80年がたち、ベッドで寝たままの人や車いすの人も増え、被爆者の高齢化を感じている。約40年前に「ヒロシマで平和のメッセージを伝えたい」と決めたのは、自分にとって一生の問題。迷惑がかからない限り、一生続けます。

みなみ・こうせつ
 1970年に「最後の世界」でソロデビューした後、フォークバンド「かぐや姫」を結成。「神田川」「赤ちょうちん」「妹」などがヒット。NHK紅白歌合戦は92年以来、6回出場。大分県杵築市在住。

(2025年12月2日朝刊掲載)

年別アーカイブ