《入社した昭和52年、鴨川シーワールドにはベルーガ(シロイルカ)が3頭いた。それが最初の相棒「アマック」と「イシマタ」も世を去り、1頭のみに。そこで63年7月、カナダのチャーチル川から新たにベルーガを搬入することになった》
イルカは群れで暮らす動物です。そこでベルーガがメスの「イカルク」だけになったので、オスを搬入しようとなりました。当時はカナダからベルーガを搬入する際、カナダ政府の許可を得て決められた方法でベルーガを捕獲する仕組みでした。このころには獣医師らしい仕事もするようになっており、何より体力には自信があったので、お願いしてこの搬入チームに入れてもらいました。
チャーチル川にやってくるベルーガを小さなボートで追跡し、船の上からダイブして捕まえます。捕まえるのは現地の人たちです。イルカ類の性別は、外見では分かりません。おなかの下を手で探り、肛門と生殖裂との距離が長いのはオスです。一時畜養する簡易プールに収容し、輸送の日を迎えます。トラックや飛行機などを乗り継ぎ、輸送中も交代で見守りながら、28時間かけて鴨川に連れて帰りました。乗り継ぎをしたカナダのウィニペグで見上げたオーロラがすごくきれいだったことを覚えています。
このオスのベルーガを無事、鴨川に搬入しました。さぁ、ここから本番です。プールの水位を初めは50センチほどに保ち様子を見て採血しました。推定2~3歳のベルーガは、つぶらなかわいい目をしています。問題なく泳げることが分かると水位を上げ、血液検査に取りかかりました。このオスは「ナック」と名付けられました。カナダはその後、ベルーガの輸出を禁止したので、ナックは今では日本で唯一のカナダ生まれのベルーガとなっています。
《「わたしは海獣のお医者さん」(岩崎書店)によると平成元年12月、ナックの様子がおかしくなった》
水面に浮いてじっとするという、それまでは見られない行動が見られました。そこで、プールを「落水」(水を抜く)し、血液検査をすることに。すると、白血球の数が少ないことが判明しました。食欲もありません。ベルーガの飼育では米国が先行しているので、論文を取り寄せたりアドバイスを求めたりして、治療法を調べたのです。そのかいあって数日後、ナックは餌に関心を示すようになり、白血球の数も戻ってきました。
しかし体の塩分濃度のバランスが悪い。そこで口からチューブを入れ、足りていない成分を胃に与えました。ようやく元気を取り戻すと、飼育係に鳴き声をあげながらついていったり、口にふくんだ水をピューッと吹きかけていたずらをするように。長年飼育する中で、これが一番大きな体調不良でした。
血液検査は、何年か後に動物たちが尾びれを差し出す「受診動作」を行うようトレーニングすることで、落水を行う必要がなくなります。落水しない方が、動物と人間の双方にとって効率的です。もっとも、言葉の通じない動物に一度でも「なんかイヤだな」と思わせたらおしまいなので、こうしたトレーニングは簡単ではありません。
《ナックはイルカの能力を調べる研究に協力し、26年には人間の音声を模倣する能力があることが世界で初めて学術誌に掲載された。研究者から「スーパーベルーガ」と呼ばれている》
東海大学海洋学部の村山司教授が30年以上前から、イルカは言葉を理解できるのかどうかといった認知機能を研究しています。研究対象のナックは真面目な性格なので、研究に向いているのかもしれません。
今のナックは顔にしわがあるのが特徴的ですが、チャーチル川で出合ったときはツルツルでした。加齢も関係しているのでしょうか。しわが増えたのは、私も同じ。当館で37年、お互いに年を取りました。(聞き手 金谷かおり)