皇后 雅子について語る -1-
結局覚えられなかった皇妃としての振舞い
この方が皇室に入って32年が経つ。
そもそも論なのだが「この人に皇太子妃は務まらない」と昭和の終わり、誰もが感じていた。お妃候補とされている女性の中にあって、群を抜いて下品且つ強情。気の強さを隠そうとしない直情型。皇族として生きることは絶対に不可能だと実感させるような振舞いを、頼まれもしないのに見せつけてくれたものだ。外務省職員・小和田雅子さんは。
鳴り物入りでメディアに登場したがこの方、外務省での実務経験はわずか2年6カ月。東京大学に学士入学したが「外交官になりたい」と夢見て退学。外交官試験に合格し外務省に入省したが、何せ実務ができない。同期がどんどん出世し、グローバルに活躍する姿をどんな気持ちで眺めていたのだろう。オックスフォード大学に留学していたことは有名だが、同時期に留学した同僚らが論文を書き上げさっさと帰国するのを尻目に、小和田雅子さんは彼らより半年も遅れて帰国。論文ですか?書けませんでした。
「もういいから帰ってこい!時間かかりすぎじゃ!!」
と、外務省から帰国命令が出たのでした。こういう点をマスコミは大いに暈して報道したのです。「小和田雅子さんはスーパーキャリアウーマン」と。
ちなみに論文を書き上げられなかった理由を小和田雅子さんは、お妃候補と目されマスコミに注目されたことが原因と分析していますが、オックスフォードで追いかけまわされた事実はありません。小和田雅子さんの空想かも知れませんし、空想ではなく言い訳に過ぎないのかも知れません。
さて、「絶対この人に皇太子妃は無理」と思われていた小和田雅子さんは、皇太子妃になってしまってからもああだこうだと言いがかりをつけ、公務をサボり、宮中祭祀に至っては殆ど欠席するという暴挙に出ます。上皇后陛下は「伝えたいことがたくさんあるのに」と酷くお嘆きだったとか。しかし小和田雅子さんはそんなことものともせず、皇太子妃の肩書をひっさげ自由気ままに皇族生活を楽しんだのでした。
そんな人が立后したからといって、皇后として振舞えるかと尋ねられたら答えはNO!小和田雅子さんは29歳から54歳という、一般的に「働き盛り」とされる時期を大いに遊びに費やし、ついに皇后になってしまったので「皇族然とした振舞い」が全く身についていませんでした。
「雅子さんは皇后になったら公務をするようになる」とは、保守派の重鎮であり多くの人々の拠り所であった西尾乾二氏の発言ですが、正にその通りの展開を小和田雅子さんは見せてくれました。すぐそばに上皇后陛下がいらした頃は「比較されるのが嫌」と公務を放棄。だったらさっさと実家に帰ればいいのに。誰でなくても感じた違和感であったでしょう。強く導けなかった今上陛下にも大いに責任はあります。「小和田雅子さんを」と望んだからには「雅子の躾は職員に頼む」わけにいかなかった。そんな当然のことを陛下は拒絶してしまわれました。小和田雅子さんのような存在を陛下はご存知なかった。外務省時代の同僚をもってして
「いいところが一つもない女性」
と言わしめた御仁です。小和田雅子さんしかいない、と今上を煽ったのは高円宮夫妻と、雅子さんの実父・小和田恒氏なのですが、この話はまた別の機会に。
とにかく利己的気侭、自由の意味をはき違えた小和田雅子さんは、立后して7年が経ちますのに本日開かれた茶会でも
皇妃 雅子がこのような仕上がりになってしまった責任は、今上陛下にもあります。しかし自己研鑽をここまで怠る人の尻を叩くというのは、中々に至難の業であることも事実。言いなりになってしまった今上陛下は「情けない」の一言に尽きますが、その陛下あっての自分であることを忘れ、立后してからもやはり気侭に生きる小和田雅子さんについては、あらゆる感情を突き動かされるのです。できない自分を顧みるのではなく、自分に合わせられない相手を責める。
こんな人を「皇后」と呼ばなければならない現実は、私たち国民にとって端的に言って地獄です。
令和は艱難辛苦の時代であると言わざるを得ません。


コメント
1その通り!なのに今は美化されまくりですものね…。因みに皇后陛下は外交官試験は受けていらっしゃらないかと。当時はあった縁故採用だったと存じます。