Vol.003|制約と誓約による自由
『MONOLOGUE』は、エッセイのようでいてコラムのようでもある、そんな型に囚われない備忘録を兼ねたフリースタイル文筆を、毎回3本まとめてお届けするマガジンです。毎週月曜午前8時に定期更新。何かと思想強めですので、用法容量を守ってお読みください。
制約と誓約による自由
制約と誓約と聞いて、真っ先にHxHが脳裏をよぎらない人は、明らかに人生の必修単位が足りていないので、すべてのタスクを投げ捨てて、今すぐ履修することを強くお薦めしたい。
というわけで、制約と誓約である。周知のように、作中ではまだ経験の浅い念能力者であったクラピカが、百戦錬磨の幻影旅団と互角以上に渡り合えるようになったのは、この制約と誓約のおかげなわけだけど、ふとこれは自由論にも敷衍できる射程の広い概念だよなあと思い至った。
自らに何かしらのルールを課すのは、それだけ制約が増えることを意味するわけだから、一見すると不自由に思える。ところが、実際はそうではない。自らが定めたルールすなわち制約を、いついかなる時も絶対に遵守すると誓約することで、逆説的に人は自由であれるのだ。自由とは好き勝手振る舞うことではない。自らの意志で制約と誓約を貫くことなのである。
そもそも論として、人は完全に好き勝手に振る舞うことなどできやしない。これは社会的にもそうだし、もっというと本能的にそう。進化の過程で刻まれた本能が、われわれの自由を阻害する。
経済的な成功を収め、人生あがったような面をしている勘違いも甚だしい連中が、結局は酒やSEX、あるいはドラッグなどに溺れていく姿は、人がいかに本能に隷属しているかを雄弁に物語っている。彼らが勘違いしているのはまさにそこで、そうした本能的欲求を理性による制約と誓約によって乗り越えてこそ、真の自由が得られるのである。
ちなみにこうした自由論を展開しているのが、かの有名な哲学者カントである。そんなカントの墓碑には、彼自身が『実践理性批判』の結びに記した、極めて有名な以下の言葉がラテン語で刻まれている。
"Zwei Dinge erfüllen das Gemüt mit immer neuer und zunehmender Bewunderung und Ehrfurcht: Der bestirnte Himmel über mir und das moralische Gesetz in mir."
「繰り返し、絶え間なく熟考すればするほど、常に新たにそして高まりくる感嘆と畏敬の念をもって心を満たすものが二つある。我が上なる星の輝く空と我が内なる道徳法則とである」
我が上なる星空と我が内なる道徳法則、この二つを感嘆すべきものとして並置するあたりに、嫌でもカントの凄味を感じざるをえない。
なぜかというと、この二つは自由にも直結しているからだ。われわれが自由を得るためには、先に述べたように制約と誓約によって、我が内なる道徳法則を打ち立てねばならないが、それは独りよがりのものであってはならない。我が上なる星空、つまり世界を秩序立てている外的法則と、一致させねばらならないのである。ミクロコスモスとマクロコスモスを調和させる必要がある。
「足るを知る」の本当の意味
「足るを知る」というと、ミニマリスト的な発想に根付いた弱者のための精神論、そんな印象をもつ人も少なくないんじゃないだろうか。
現に「そんな贅沢するなんて……足るを知ったらどうなの」みたいに、余計なお世話としかいいようがないお説教に用いられるケースも散見される。足るを知るの本当の意味を知る人は、思いのほか少ない。
足るを知るの本当の意味を知るためには、語源をあたるのがもっとも近道である。語源はというと老子の言葉で、原文は「知足者富、強行者有志(足るを知る者は富み、努(強)めて行う者は志有り)」となっている。
そう、足るを知る者は”富む”のである。これを精神的な豊かさに限定して論じている人は多いし、それこそがミニマリスト的な発想を印象づける最大の要因になっているように見受けられるが、個人的にはこうした論調には疑問符がつく。
自身の経験則や、他者の観察を通して強く感じるのは、足るを知るの本当の意味が腑に落ちている人で、精神的に豊かだけど物質的には欠乏している人なんていない、ということだ。
もし、物質的に欠乏しているならば、それは精神的に豊かだと「思い込んでいる」にすぎない。足るを知るの本当の意味が腑に落ちているならば、物質面も半ば自動的に整っていくはずである。経済的自由が保証されるわけではないが、少なくとも必要十分なものは与えられると考えてよい。
なぜなら、この世界はそういう構造になっているから。これもまた盛大な誤解ポイントの一つだが、足るを知るというのは精神論ではない。あれは構造論である。そういう風に受け止めろと言ってるわけではなくて、世界がそうあることを受け入れろという話である。両者は似て非なるもので、似て非なるものは似ているようで非なるものである。受け止める人は貧するし、受け入れる人は富む。
これは宗教やスピリチュアルの分野でも、まったく同じことが言える。なぜこうした分野に傾倒していく人たちの多くが、物質的に欠乏してなんだか近よりがたい人になっていくのかというと、そもそも信仰というものを履き違えているからに他ならない。信仰とはとどのつまり世界がそうあることを受け入れることだ。世界がこうあってほしいと願うことじゃない。信仰とはある種の受容なのである。
後半の「努(強)めて行う者は志有り」は、世界がそうあることを受け入れた上で、世界に対して何を為していくかが問われているのだと、自分はそのように解釈している。
ネットde真実
ここ数年、実家から離れて何年も経ち、ふと気づけば高齢の両親がネットde真実に目覚め、陰謀論めいたことを度々口にするようになり、コミュニケーションコストが尋常じゃなく跳ね上がった、みたいな事例をよく見聞きするようになった。
つい最近も、行きつけの美容院のオーナーのおふくろさんが、若干そのルートに入りつつあって、ネットde真実に目覚めそうでやばいという話をしていて、こんな身近なところで耳にするぐらいだから、いよいよ他人事じゃなくなってきたなあと強く感じている次第で。
うちの親父も定年を迎えて、暇さえあればYouTubeを見ている勢なので、いつネットde真実に目覚めてもおかしくない状況にある。
それなりに社会に揉まれ、酸いも甘いも経験し、また仏教信徒でもあるので、おそらくは大丈夫だろう……と思いたいところだが、実際のところどうかはわからない。加齢によって認知機能も低下しているし、あの手の動画もそれなりに巧妙に作られているだろうから、いつそっちに転んでもおかしくない。
こうした一連の現象を観察していると、やはり人はわかりやすい真実に飛びつくんだなと、あらためてそう思う。真実というものは、いつだって様々な要因が複雑に絡み合っているものだから、「わかりやすい真実」なんてのは、そもそも語義矛盾である。
しかしながら、多くの人はそのことに気付かない。いつだって世界を善と悪の二項対立に矮小化し、どこまでも被害者面をしながら、よくもまあ飽きもせずに、今日もまた世界を呪っている。本当はそうやって世界を呪っているがゆえに、自分もまた世界から呪われているにすぎないのだけど。
人を呪わば穴二つというが、それは世界とて同じである。世界を呪えば自分もまた世界から呪われる。別に呪術的な話がしたいわけじゃない。ここでいう呪いとは、日常語に置き換えるならば「可能性が閉ざされる」になる。逆に祝いとは「可能性が開かれる」ことを指す。自己の可能性を開きたければ、同じだけ世界を祝福する必要があるのだ。
「世界を祝福せよ、さらば自己が開かれん」である。


