Vol.002|人生を捗らせるメタルール
『MONOLOGUE』は、エッセイのようでいてコラムのようでもある、そんな型に囚われない備忘録を兼ねたフリースタイル文筆を、毎回3本まとめてお届けするマガジンです。毎週月曜午前8時に定期更新。何かと思想強めですので、用法容量を守ってお読みください。
因果律よりの使者
言わずと知れたTHE HIGH-LOWSの名曲に『日曜日よりの使者』があるけれど、つくづくパンチのきいた曲名だなあと思う。常人の発想では日曜日と使者は組み合わさらない。創造性は組み合わせの妙にあり、を地で行くような発想だ。
一説によると、日曜日の使者とはダウンタウンのことらしいが、これは真偽不明である上に本筋から逸れるので、一旦脇におくとして。
本曲をもじる形で表現するならば、自分は「因果律よりの使者」だと思っている節がある。ともすれば傲慢きわまりない人間に映ってしまうであろうリスクを承知しているので、本当はこれはあまり大きな声では言いたくないのだけれど、そう思っているのは事実なのだからしかたがない。
「因果律よりの使者」とはなんだろうか。それは読んで字のごとく因果律より使わされた者のことである。この世界には因果律という誰も逃れることのできない法則があって、その実在性を身をもって証明せんとする者のことだ。
たとえばメンタルをヘラっている人というのは、総じて依存できる人を探し求めている。自己が不安定であるからこそ、他人に寄りかかることでなんとか自己を保とうとする。
しかしながら、これは言うまでもなく間違いである。その先に幸福な人生は待ち受けていない。依存して得られるものなど、せいぜい仮初の安心感ぐらいのものだ。どんなに辛くとも、どんなに傷だらけでも、何度でも立ち上がって前へ前へと、一歩ずつ足を踏み出さねばならない。
だから、本当にその人の幸福を願うのならば、誰かがどこかのタイミングで、こんな風に声をかける必要がある。「あなたが今、辛く苦しいのはこれまでのあなたの誤った選択の結果でしかなく、表面的な優しさをいくら求めたとて、人生は決して好転しませんよ」と。
たとえそれが真実であったとしても、その真実を受け止めることによって、長期的には善き結果をもたらすとはいえ、一時的に耐えがたい痛みに襲われるであろうことが想定される時、人はその真実を告げることに躊躇するものだ。誰だって自分がいちばん大切だし、わざわざ余計なリスクはとりたくない。
けれども、因果律の使者はそれではいけない。無視されるだけならどんなに楽なことだろう。嫌われるのを通り越して、恨みを買うリスクすらも厭わずに、真実を告げなければならない。
今この瞬間にこの人との縁が生じたのは、神が自分を通じてこの人に因果律の実在性を悟らせるためなのだと、他人には到底理解されないであろう狂気的なまでの信仰によって自分を奮い立たせ、勇気をもって真実を告げなければならないのである。それが因果律の使者であるということだ。
そんなことを考えながら、いざその場面が訪れた時に躊躇なく動けるように、スイッチ一つで因果律の使者へと切り替えできるよう、日頃から意識的に訓練していたりする。
人生を捗らせるメタルール
人生によく躓いていた過去の自分を振り返ってみたり、現在進行形でよく躓いている人を観察していると、大小いろんな要因は挙げられるものの、総じて人生を捗らせるメタルールを理解してないように見受けられる。
人生を捗らせるメタルールとは、一言でいえば「より上位の構造に従うこと」である。ここでいうところの下位や上位とは、単純に優劣を指しているわけではないことに注意してほしい。ニュアンスとしては、より上位の構造は同心円としてそれよりも下位の構造を含んでいる、というものだ。
コミュニティベースで考えてみよう。誰にとっても身近なコミュニティといえば、真っ先に思い浮かぶのは家族である。ところが、家族の言うことだけを聞いていれば、人生うまくいくのかというと、周知のとおりそんなことはない。むしろ、人生の足かせとなるケースのほうが圧倒的に多い。
その強力な傍証となるのが、いわゆる毒親のもとで育てられ、社会人になってからもその教育が呪いとなって、くすぶってしまっている人たちだ。そんなものは断じて教育ではない。それは洗脳である。その人の可能性を開くのが、教育であり祝いである。逆にその人の可能性を閉ざすのが、洗脳であり呪いである。
彼彼女らが人生を好転させるためには、人生を捗らせるメタルールを理解する必要がある。家族というコミュニティよりも上位の構造、すなわち地域社会や国家といったコミュニティに従うことだ。それらの上位コミュニティにおいては、毒親のあり方は批難の対象となり、十分ではないとはいえセーフティネットもある程度は整えられている。
では、そうやってどんどんメタ的に俯瞰して見ていった時、最上位の構造とは何になるだろうか。それは世界そのものである。世界そのものの構造を神とそう呼ぶのならば、神に忠実に従うことこそが、人生を最大限に捗らせる道である。
より上位の構造のルールに従うことで、それよりも下位にある構造は半ば自動的に整っていく。これは人生を捗らせるメタルールの興味深い作用の一つである。
名刺代わりの何か
世に出て活躍している人を眺めていると、やはり名刺代わりの何かが必要なんだよなあと、最近あらためてしみじみとそう思った次第で。
たとえばなんでもいいのだけど、Creepy Nutsにしようか。Creepy Nutsの名は、今や国内のみならず世界中に轟いている。「Creepy Nutsって知ってますか」と聞いて、知らないと答える人はほとんどいないと思う。普段ヒップホップを聴かないような人たちでも、Creepy Nutsの名は知っている。
そんな彼らの知名度をぶち上げたのが、『Bling-Bang-Bang-Born』であることに、もはや疑いを挟む余地はないだろう。別にCreepy Nutsのファンでもなく、界隈を追っかけているわけでもない人たちにとっては、Creepy Nutsは『Bling-Bang-Bang-Born』の人であり、本曲が名刺代わりの何かとなっているわけだ。
ただ、難しいのは何が名刺代わりになるかが、あらかじめ予測できないことだ。これは名刺代わりの何かをもつことになった人たちが、インタビューされた際に口を揃えて「こんなにも反響があるとは夢にも思わなかった」と答えることからも、いかに予測が困難であるかを窺い知ることができる。
そして、予測が困難である以上は、打席に立つ回数を増やすのが最適戦略となる。とにかく打席に立って思いっきりバットを振り続けるのだ。
さて、そうやって思いっきりバットを振り続けて、無事ホームランをかっ飛ばして、名刺代わりの何かができたとする。さあこれでその後の人生も安泰かというと、そうは問屋が卸さない。
名刺代わりの何かには、重篤な弊害がいくつかある。たとえばその名刺イコールその人であると捉えられることで、ある側面だけが過剰にピックアップされ、本来はもっと複雑なアイデンティティを抱えて生きているにもかかわらず、理解されないギャップに悶え苦しむ、というのはよく見られる光景だ。
知名度ブーストもそう。名刺代わりの何かができた時、一時的に知名度がブーストされるが、その知名度ブーストに乗っかれるだけの実力があるならば、何も問題はない。問題は乗っかるだけの実力がない場合である。この場合、知名度ブーストと同等もしくはそれ以上の勢いで、オワコンブーストがかかることになる。いわゆる一発屋レッテルである。その過程で金銭感覚や自尊心が歪んでいくであろうことも想像に難くない。
それから関連してこれも言っておきたい。たまに「名刺代わりの小説10選」みたいなタグをつけて、お気に入りの小説をピックアップすることで、自身のアイデンティティを表現しようとしている人を見かけるけれど、はっきりいってあれはダサいので、個人的にはやめたほうがいいと思う。名刺代わりの何かは、あくまで自分に由来する何かであるべきだろうよと。
人の褌で相撲を取ろうとするのは、語るに足る自己が何もないんですと吐露しているのと同義である。これは他人の批評ばかりしている口だけ野郎にもまったく同じことが言える。
そんなことをあれこれ考えながら、「自分は世に出たいのだろうか」をあらためて問うてみると、そういうわけでもないなと思う。
そりゃあ若かりし頃は、世に出るべく人並にもがいた時期もあった。けれど、今となってはもうそういう欲求も枯れ果てている。そうあることを諦めたというよりも、そうであることを受け入れた、そんな感覚。だから、自分としては別にネガティブには捉えていない。ワイも何者かになるんやと、青く無様にもがいていたあの頃よりも、ずっと自然に楽に生きることができている。


