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Vol.025|思想なき時代に思想を

『MONOLOGUE』は、エッセイのようでいてコラムのようでもある、そんな型に囚われない備忘録を兼ねたフリースタイル文筆を、毎回3本まとめてお届けするマガジンです。毎週月曜午前8時に定期更新。何かと思想強めですので、用法容量を守ってお読みください。

自己の確立について

敬愛なる読者諸賢は、薄々でも察してくれているんじゃないだろうか。自分は本マガジン『MONOLOGUE』を通じて、自己というものの重要性を強く訴えかけている。様々な話題を様々な角度で論じたりはするものの、根底にはいついかなる時も「自己の確立」のテーマが鎮座している。

自己の確立は、人間の幸福を考える上で絶対に欠かすことができない概念である。自己の確立と人間の幸福との関係性を体系的に述べたのは、自分が知るかぎりアリストテレスが最初だが、アリストテレスの幸福論は今なお錆びつくことなく、それどころか燦然と輝き続けている。

もちろん現代の科学知識に照らせば、明らかに間違っている記述もある。特にアリストテレスは、万学の祖と呼ばれるほどにあらゆる分野を探求した哲学者なので、より一層その傾向は顕著である。

しかしながら、そうした誤りをもってアリストテレスの著作群を、カビの生えた読む価値なしの古文書と決めつけてかかるのは、あまりにも視野狭窄というものだ。二千五百年もの時を超えて、今なお読み継がれているのはやはり伊達じゃない。それだけ普遍的なものを内包していたからこそ、時の風雪を耐え抜いてこれたのである。現代にこそわれわれは古代ギリシャ哲学に立ち返るべきだと、自分は常々そう考えている。

自己の確立は生涯を通じて向き合っていくものではあるが、質的転化となるポイントが存在する。

これは木々の成長を思い浮かべればわかりやすい。誰もがアプリオリに自己という種子をもっていて、まず根っこを伸ばしていく段階がある。この段階を超えて地中から芽を出したその瞬間こそが、自分が言うところの自己の確立である。まだまだ芽の状態とはいえ、ようやく暗い土中から自己が顔をだしたのだ。(このあたりのテーマについては、以前書いた『成功曲線の実感』も参考されたい)

その後も木々は成長を続けるように、自己もまたますます洗練されていくものだが、はっきりと自己が確立されたのはこの瞬間である。つまり、質的転化となるポイントという意味では、自己の確立は一旦目指すべきゴール地点ではあるものの、あくまでそこはスタート地点でもあるわけだ。

にもかかわらず、世を見渡していると自己が確立された人間は本当に少ない。土俵にすら上がれていないのである。それゆえ誰も彼もが不幸そうな面をして、今日という日をなんとかやり過ごすためだけに生きている。そんな暗澹たる状況に一石を投じるべく、毎週こうしてまるで一般ウケしないであろう文章を書き続けている次第で。

とはいえ、自分が何かを書いたところで、あってないようなものであることは重々承知している。そんな影響力は自分にはないし、おそらく今後も纏うことはないだろう。けれども、そんなのは一切関係ない。究極的には他者がどうあるかなんて関係ないのである。あくまで自分がどうあるかが重要なのであって、これこそが本質なのだ。脇目も振らずにここにフォーカスできるのが自己が確立された人間の所作なのである。

多くの人はわかりやすく結果を求めたがるので、自分が何を言わんとしているかがわからないだろう。この「すべては自己ありきの結果論」という感覚は、それこそ自己が確立された人間にしかわからないものだ。自己が確立された人間にとって重要なのは、結果ではなくあくまでそのプロセスなのである。

思想なき時代に思想を

現代社会を見渡していると、つくづく思想なき時代だなと感じる。誰も彼もが本能的欲求の奴隷となり、倫理もへったくれもない思想なき時代。やれ年収がどうだの、売上高がどうだの、整形がどうだのと、目に見えてわかりやすいものばかりが重視され、目に見えずわかりにくいものはほとんど顧みられることはない。

なぜか。思想がないからである。モンテーニュいわく「心は正しい目標を欠くと、偽りの目標にはけ口を向ける」のであり、確固たる思想がないからこそ、そういったわかりやすい指標に飛びつくのだ。残念ながら偽りの目標にはけ口を向けた者の末路とは、何かしらの精神疾患を抱えての人生の停滞だと相場は決まっているが。

覚えておいてほしい。人生において本当に大切なものは、決して定量化できないということを。定量化するなと言いたいわけじゃない。それはそれで重要なことである。そうではなく主従関係を理解せねばならないと言っているまでだ。あくまで定性が主で定量が従、抽象が主で具体が従、精神が主で肉体が従である。目に見えないものを大切にするために、目に見えるものを従えよと、そう言いたいのである。

ここ最近はさすがにこのままじゃまずいとようやく気づいたのか、あちこちでこの思想なき時代に対するカウンターの動きが見られ始めたように思う。

前項で述べたようにその影響力はさておくとして、別に自分は意図してカウンターを狙っているわけではないが、ラテン語で神の僕を意味する「Servus Dei」の旗を立て、人生のテーマに「神の存在証明」を掲げる自分の存在は、結果としてカウンターになっているものと思われる。カウンターが強すぎて空回りしているきらいはあるが、それもわかってやっている。

とはいえ、まだまだごく一部の感度の高い人たちの間でそれが共有されているだけで、しばらくこの思想なき時代は続くことだろう。思想なき時代が続くというか、より正確には二極化が進むと考えている。思想なき人々と思想ある人々の二極化。

前者は自己以外の何かに隷属する人たちである。思想がないがゆえに、自己以外の何かに隷属するしか能がない人たちだ。隷属する筆頭候補としては、やはりAIが有力だろうか。圧倒的大多数はこちらに属することになる。

一方でごく少数の後者は、自己にのみ隷属する人たちである。自己にのみ隷属するからこそ、そこに思想が打ち立てられる。思想というものは、自己が確立されていなければ、決して築かれることはない。なぜなら、思想とは自己というフィルターを通して見る世界に他ならないからである。その自己がないのに、どうして思想が築かれるというのか。

これはいわゆる自己表現にも通ずるものがある。巷ではよく自己表現という言葉が安易に用いられているが、そもそも表現すべき自己がないのに、何を自己表現するのかという話である。なまじ考えたり話したりすることができるものだから、あまりにも多くの人がすでに自己があるものだと錯覚している。そりゃあるにはあるが、それが種子の状態であることをまるで理解していない。

思想なき人々と思想ある人々、どちらの生き方を選ぶも当人の自由だが、言うまでもなく自分は後者を推奨している。前述したように、自己が確立されていなければ、思想を打ち立てることもできない。そして、自己の確立と人間の幸福は密接に関わっている。ということはつまり、前者は人間の幸福とはかけ離れた生き方なのである。

関係としての自己

ここまで見てきたように、自己の確立は人間の幸福と切っても切り離せない概念なわけだけど、こんなややこしい文章をここまで熱心に読んでくれているあなたのために、感謝の意を込めてとある考え方を伝授したいと思う。

これは裏技というかチートというか、哲学に馴染みがある人にとっては、別に珍しい話でもなんでもないものの、そもそも哲学に馴染みがある人があまりにも少なすぎるので、多くの人が見落としている考え方である。だからこそ、実践すれば頭一つ抜きんでることが容易になり、多大なる恩恵をもたらす考え方なので、ぜひともここから集中力のギアを上げてもらいたい。

結論から言おう。ずばりそれは「関係としての自己」である。

普通、自己というとこの自分を思い浮かべる。今あなたはPCなりスマホなりを通してこの文章を読んでいるだろう。その読んでいる自分こそが自己であると考えるはずだ。もちろんこれはこれで間違っちゃいない。間違っちゃいないのだけど、実はこれだけでは不十分なのである。「関係としての自己」の考え方を取り入れることで、自己はもっともっと拡張できる。

「関係としての自己」ではどう考えるかというと、一言でいえば今あなたが触れているPCなりスマホなりもまた自己である、ということだ。あなたがどういう意図でそのPCやスマホを使っているのかはわからないが、日頃から使っているのだから、そこにはある種の関係性が生まれている。この関係性によって規定される自己も含めて、自己であると捉えるのである。

これは人間関係で考えればわかりやすい。たとえばあなたに恋人がいるならば、その恋人にとってもまたあなたは恋人である。この恋人同士という関係なくしてあなたという存在を規定することはできない。恋人同士という関係を切り離して、あなたの存在をどれだけ語ったところで、どこまでいってもそれは不十分なものにしかならないだろう。関係としての自己とはつまりそういうことだ。

近代的な自己観、すなわち「個体としての自己」では、この関係がごっそりと抜け落ちてしまっている。必然的にそれは静的なものになり、それでは変化し続ける動的な自己を捉えきれない。こうした哲学的な背景があって、「個体としての自己」を踏まえて乗り越えられたのが「関係としての自己」なのである。

すでに拭いきれない違和感を抱えているにもかかわらず、サンクコストの呪縛に囚われ、惰性で人間関係を続けていないだろうか。その関係もまた自己なのだから、それは翻って自己を大切にしていないことを意味している。これは相手にとってもそう。そんな歪な関係をだらだらと続けるのは、相手の自己をも尊重できていない。自分のためにも相手のためにも、そんな歪な関係は勇気をもってさっさと切るべきなのだ。

人間関係ならばまだわかりやすいが、重要なのはこの関係としての自己は、物にも適応できるということだ。

たとえばマットレス。あなたは今どんなマットレスを使っているだろうか。寝れればなんでもいいと思って、適当に選んでないだろうか。もし、そうならばあなたは自己を大切にできていない。毎日、平均して六時間以上も身を預けるにもかかわらず、その関係をおろそかにしているのだから。関係としての自己を踏まえるならば、より関係の濃いものほどちゃんと選ぶべきなのだ。

何も高いものを使えと言ってるんじゃない。予算が許す範囲で自覚的に選ぶべきだと言っている。自覚的な選択によって自己は育まれるのだから。

あるいは食事。腹が満たせればなんでもいいと思って、日々の食事をおろそかにしていないだろうか。日々の食事もまた関係であり自己である以上、自覚的に選択する必要がある。たとえその結果がボディビルダーの食事のように、はたから見たら味気ないものであったとしても、自覚的に選択したのならば問題ない。何度も言うように今の自分に可能な範囲で、全力で自分と向き合った上で自覚的に選択することが重要なのである。

この「関係としての自己」の考え方を取り入れることで、自己の確立は一気に加速する。ぜひとも取り入れてほしい考え方である。

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