義弟「浅井長政」の裏切り…実は織田信長に原因か?金ヶ崎の戦い解説
1570年(元亀元年)、天下布武(従わない者を絶対的な武力で服従させる又は、戦乱の世を終結させることを宣言した政策のこと)を発令した織田信長は、越前・若狭・丹後の支配者・朝倉義景の攻略を開始。織田軍が順調に丹後・若狭を制圧し、越前国へ侵攻を開始した直後、織田信長は予想もしなかった最悪の裏切りを経験することになります。
※本記事の内容は様々な方に魅力を感じていただけるよう、筆者が足を運んだ歴史スポットとともに史実を大筋にした「諸説あり・省略あり」でお届けしています。
最悪の事件「金ヶ崎の戦い」
尾張国を平定した織田信長は、三河国・徳川家康と近江国・浅井長政と同盟を結び、美濃国・斎藤道三を撃破しました。
それから織田家は急速に勢力を拡大し、畿内(京都周辺)にも及ぶ影響力を獲得しています。
1570年4月になると、天下統一を急ぐ織田信長は、朝倉義景の治める越前国へと侵攻を開始しました。
圧倒的な織田軍の脅威に戦意喪失した金ヶ崎城の守護者・朝倉景恒はすんなりと降参。全てが順調かと思われた直後、織田軍のもとに「浅井長政謀反」という最悪の報せが届きます。
織田信長と浅井長政
もともと織田信長は、美濃国制圧の際に妹のお市を嫁がせるほど浅井長政を信頼していました。
浅井長政も織田信長を尊敬した一方、朝倉家との交流も大切にしており、織田家と同盟を結ぶ際に「朝倉不戦の誓い(無断で朝倉家への侵略行為を行わないこと)」を約束していたのです。
しかし、織田信長は浅井長政との約束を反故にしてしまいます。
これに怒りを感じた浅井長政が謀反を起こし、朝倉義景に味方したのでした。
鋭い先見の明を持つことで知られる織田信長も妹を嫁がせた男がまさか裏切るとは思いもしなかったのかも知れません。
報せが届いた当初は「虚偽の報告だ」と言い張り、浅井長政の裏切りを全く信じようとしなかったようです。
しかし、続々と届く浅井長政謀反の報せは信憑性を増す一方。遂に義弟の謀反を信じざるおえなくなった織田信長は撤退を決意します。
その後、無事生還を果たした織田信長は軍を再編成し、朝倉・浅井軍を撃破。負けを悟った浅井長政は自決してしまいました。
義弟や家臣など、生涯を通して数えきれないほどの裏切りを経験した織田信長。彼の最期もまた裏切りによるものでした。
裏切られすぎた織田信長に興味を持たれた方は、彼の本拠地「岐阜城」へ足を運んで信長の人生を偲んでみてはいかがでしょうか。
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