板垣退助を虜にした人気芸者!享年20歳という若さで亡くなった理由とは
板垣退助は、幕末に武士として奔走し、明治以降は自身の信念を貫いた政治家です。
岐阜県で行われた政治演説の際に襲われ、「板垣死すとも自由は死せず」の名言を残しこの世を去りました。
今回は、そんな板垣退助と結婚した「元人気芸者の妻・清女」を紹介しましょう。
※本記事の内容は様々な方に魅力を感じていただけるよう、筆者が足を運んだ歴史スポットとともに史実を大筋にした「諸説あり・省略あり」でお届けしています。
・板垣清女と板垣退助のエピソード
幕末〜明治、庶民の情報源だった「絵草子(当時の新聞雑誌)」に描かれ、売り上げを爆増させた芸者がいました。
のちに板垣退助の妻となる清女です。
板垣退助に気に入られ、1872年に入籍。同年に女児を産みますが、出産の負担が原因で病床に伏すようになります。
この当時、板垣退助は征韓論争(欧米列強に抵抗するためアジア同盟を結ぶ主張)に敗れ、家族を東京に残したまま土佐へ帰郷していました。
帰郷した板垣退助は戊辰戦争で共に血を流した戦友の墓を参り、「自由民権論を主張して世論を確立するまでは東京へ戻らない」と約束。
しかし、清女の危篤状態を知ると「東京へ帰る」と前言撤回し、「東京に戻るな」と止める友人の制止を振り切って清女のもとへ帰宅しました。
その後、投薬治療を続けた清女ですが、1874年に享年20歳と言う若さでこの世を去ります。
自身が刺された時も気丈に振る舞ったことで知られる板垣退助ですが、清女が亡くなった直後は布団にくるまって大声で泣き叫んだのだとか。
以降、板垣退助は戊辰戦争の仲間や清女の意思を継ぎ、より一層強い信念を抱いて政治の世界を奔走しました。
岐阜県にある岐阜公園には、板垣退助が最後に演説した時の銅像が設置されています。
気になった方は足を運んでみてください。
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