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100万VSたった1,000人!?驚愕の“糞尿作戦”で幕府軍を撃退した「楠木正成」紹介

山内琉夢歴史プレゼンター
楠木正成像 兵庫県神戸市 湊川公園

楠木正成は、後醍醐天皇に忠誠を尽くし鎌倉幕府を滅ぼした人物です。

彼は最期の死に際まで後醍醐天皇を裏切ることなく、全身全霊で忠誠を示したことから義に生きた武将として知られています。

今回は、そんな楠木正成が鎌倉幕府を追い詰めた最初の合戦「赤坂城の戦い(千早・赤坂城の戦い)」について紹介しましょう。

※本記事の内容は様々な方に歴史の魅力を感じていただけるよう、史実を大筋にした「諸説あり・省略あり」でお届けしています。

・経緯

楠木正成像 兵庫県神戸市 湊川公園
楠木正成像 兵庫県神戸市 湊川公園

南北朝時代以前、二度に渡るモンゴル帝国の襲来「元寇」で日本情勢は不安定になります。

当時最高権力を握った鎌倉幕府はモンゴル軍を追い返すことに成功しますが、元寇は侵略者に対する自衛戦争だったため、本来は合戦で得られるはずの土地・財産・食糧を得ることができませんでした。

支払えない報酬で借金を背負った鎌倉幕府は経済回復を図り、幕府の借金を帳消しにする徳政令(1297年)を発動。強制発動された徳政令は鎌倉幕府の財政を回復した一方、その負担を民衆に押し付けました。以降、幕府に不満を抱いた民衆は反幕府思想を唱え、幕府は彼らを「悪党」として弾圧しています。

悪党の出現もあり、権威を失墜した幕府に限界を感じた後醍醐天皇は、新田義貞・楠木正成を仲間に加えて討幕を宣言。

そして、楠木正成の命をかけた合戦「赤坂城の戦い」へと続くことになるのです。

・執念が導いた勝利!赤坂城の戦い

楠木正成像 兵庫県神戸市 湊川公園
楠木正成像 兵庫県神戸市 湊川公園

1331年、楠木正成は最前線の防衛拠点「下赤坂城」と本陣拠点「上赤坂城」を築城し、赤坂城の戦いへ挑みました。

開戦直後、彼は500人の部下を率いて下赤坂城に籠城。一方の幕府軍は10万規模の軍勢を用意し、戦力差で圧倒できると踏んで無策の突撃を開始したのです。

この状況を予期していた楠木正成は投石・丸太落しで城壁をよじ登ってくる幕府軍を次々に撃破し、想像以上の被害を被った幕府軍は一時撤退。楠木正成は幕府軍が撤退した隙に下赤坂城へ火を放ち、敵が混乱している最中に戦線を離脱しました。

同時期、主君の後醍醐天皇が幕府に囚われ、隠岐島(島根県)へ流されてしまいます。

思案した楠木正成は(上下)赤坂城を奪還し、その隙に別部隊が後醍醐天皇を救出する作戦を実行。物資の運搬役になりすまして、敵内部から侵略することで赤坂城の奪還は簡単に成功しました。

楠木正成像設置に関する石碑 兵庫県神戸市 湊川公園
楠木正成像設置に関する石碑 兵庫県神戸市 湊川公園

すると、幕府は楠木正成が赤坂城に籠城したことを知り、30万の軍勢を率いて城を包囲。楠木正成は投石・丸太落しや甲冑を装備させたカカシ(わら人形)を囮に投石する戦術で幕府軍を翻弄しますが、予想以上の戦力規模だったこともあり、岩と丸太を使い果たしてしまいます。

しかし、彼は奇策戦術を考案する天才。人間・馬などの糞尿をかき集め、激アツに煮詰めたものを岩・丸太の代わりに投げつけたのでした。

幕府軍が強烈な悪臭と火傷で戦意を喪失していた頃、別部隊は無事に後醍醐天皇を救出。

その後、次第に楠木正成の奮闘が広まり、民衆の間で討幕運動が本格的に始動します。

すると、幕府は全国の討幕運動を鎮圧するために人員を割く必要が高まり、合戦の中止・撤退を余儀なくされたのです。

赤坂城の戦いにおける幕府の最大戦力は100万人規模ともいわれ、対する楠木正成は1,000人の仲間とも共に幕府軍のメンツをボロボロにすることに成功しました。

どのような状況下でも諦めず後醍醐天皇に忠誠を尽くした楠木正成の銅像は、兵庫県神戸市にある湊川公園に設置されています。

湊川公園は、楠木正成が新田義貞と共に鎌倉幕府を倒した合戦「湊川の戦い」が起きた場所でもあるので、気になった方は足を運んでみてください。

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ありがとうございます。
歴史プレゼンター

歴史ライターとしての活動経験を持ち、今までに32都府県の歴史スポットを巡ってきました。実際に現地へ行くのが難しい方に向けて、取材した歴史スポットについて紹介します。また、歴史に興味をもったことがなかった方にも楽しんでいただけるよう、歴史偉人の意外な一面や好きな食事・おやつの紹介など、ワクワクするような内容をお届したいです。

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