Vol.004|負け組ランドセル
『MONOLOGUE』は、エッセイのようでいてコラムのようでもある、そんな型に囚われない備忘録を兼ねたフリースタイル文筆を、毎回3本まとめてお届けするマガジンです。毎週月曜午前8時に定期更新。何かと思想強めですので、用法容量を守ってお読みください。
負け組ランドセル
Uber Eatsの配達員が一部から「負け組ランドセル」と呼ばれていることを知って、なるほどこれはひどい蔑称だと思いつつも、一方でたしかなクリエイティビティを感じ取ったのもまた事実であって。
世の常識に染まりきった大人は、みな口を揃えてこんな風に言う。やれ職業に貴賤はないだの、差別主義者がどうだの、社会的な歪みを助長するだの、被害者の立場になって考えろだの。
わかる、わかりますよ、ええもちろん。そんなことはこちらも重々承知している。そのとおりですよ。まったくもってあなたがたのおっしゃるとおり。その上でこれだけは言っておきたい。
「なるほど完璧な主張っスね―――ッ現実を無視しているという点に目をつぶればよぉ~~~」と。
自分がこうした主張に、いまひとつ心から賛同できないのは、彼らが往々にして現実を無視しているからだ。臭いものに蓋をして、正義面をした自分に酔っているようにしか見えない。問いたい。問い詰めたい。そんな綺麗事を当事者抜きで語ったところで、現実がなんか変わんのかと。インターネットでシコんなイカ臭えな(feat.NORIKIYO)。
そんな体たらくだから、件の「負け組ランドセル」のような蔑称に触れると、脊髄反射でわかりきったことをがたがた喚き散らことに終始して、そこに込められたクリエイティビティを切り離して考えることができないのである。
現にそうやって喚き散らしている人たちをよくよく観察してみるといい。常識村とやらでは一定評価されているのかもしれないが、没個性の極みとも形容すべき人たちで、クリエイターとしては有り体にいってカスである。
思うに、誰も彼も自己とべったりしすぎなのだ。驚くほど自己と距離がとれていない。仮に自分がUber Eats配達員をやっていたとしても、別に「負け組ランドセル」と呼ばれようが、なんと呼ばれようがかまわない。かまわないどころか、その蔑称に込められたクリエイティビティをうまく利用して、どこかのシーンで自分からネタにできないかを考えるだろう。
YouTubeの冒頭で「はい、どうも!片親パンで生まれ育って三十余年、生業としての負け組ランドセル、愛するパートナーは今日も今日とて膣ドカタ、成善です!今回は緊急で動画を回してるんですけど~」みたいに、蔑称フェスティバルを開きながら挨拶してやりたい。
実際にそれがネタになるかどうかは、おおいに検討の余地があるものの、クリエイターたる者、世の風潮へのカウンターも込めて、それぐらいの気概は見せてほしいものである。それこそがクリエイターのあるべき姿だと思うし、最終的に自分のアイデンティティは自分で決められるのだから、誰になんと呼ばれようがどうだっていい。
その意味で、いちいち被害者面しているのも、はっきりいってセンスがない。なにゆえあなた自身のアイデンティティを他人に委ねるのだ。「こんなひどいことを言われて傷つきました」じゃあない。その言動をひどいことと捉えて傷つくのは、すでにその言動があなたに内面化されていることを示している。
だが、本来は内面化するのもしないのもあなたの自由である。他ならぬあなたが内面化することを選んだのだ。そのことがあなたに自覚されないのは、あなたが自己とべったりしすぎていて、ろくに自己と距離がとれていないからである。
ごく一部の自己としっかり距離のとれるクリエイター気質の人が面白がっていたコンテンツが、没個性的な正義面をするぐらいしか能のない大衆にまでリーチしてしまうことによって、一気にそのコンテンツの熱感や勢いが削がれてしまう、というのはいつの世も繰り返される悲しき衰退パターンの一つである。
クリエイターは神だけ
前項で散々クリエイタークリエイター言っておいてあれなのだけど、これは便宜上そう言っているだけで、真の意味でクリエイターと呼べるのは、神だけであると思っている。最近、漫画『Dr.STONE』を読み返していて、ますますその思いを強くした。
人類が築いてきた科学文明は、たしかに驚異的なものだ。古代人が現代のわれわれの生活様式を見れば、なにがなんやらわけがわからずに、ただただ圧倒されることだろう。
が、しかしそれほどまでに発展した科学文明も、元をたどればすべての素材は、この地球上に用意されていたのである。それらの素材がなければ、どう足掻こうとも今日の科学文明はなかった。
素材だけじゃない。それらの素材が引き起こす化学反応もそう。あらかじめ化学反応という名の法則ないしは秩序が定められており、われわれ人類はその法則を発見し、活用してきただけにすぎない。
とどのつまり、本当の意味でわれわれは何も創り出してはいないのである。クリエイターは神だけで、われわれは神が創りたもうた何がしかを編集するエディターなのだ。クリエイターなどと名乗るのは、本来はおこがましいことなのである。
歴史にその名を刻むような優れたエディターは、みなそのことをわかっていた節がある。頭ではなく魂でそのことを理解していた。だからこそ、彼らは創造的なインスピレーションの源が、自分にはないことをしきりに主張し、それらのインスピレーションが「降りてくる」と表現するわけだ。
今日、クリエイターという言葉はあまりにも身近なものとなった。そんな世相にあるからこそ、自分はクリエイターではなく、あくまでエディターなのだという意識を忘れないようにしたい。
でき人とべき人
「世の中には二種類のxがある。aもしくはbである」的な言い回しが昔から嫌いで、なんで嫌いなのかを冷静に考えてみると、おそらく「勝手に決めんな」があるのだと思う。
その二分法はあくまでお前が恣意的に世界を切り取った結果であって、それ以上でもそれ以下でもない。そういう恣意性からくる傲慢さをなんら自覚することなく、ウエメセで俺に押しつけてくんな勘違い野郎がと。根本的にひねくれているのだろう。あらゆる強制を拒否せんとする反骨精神が深く根を張っている。
ところで、世の中には二種類の人間がいる。「でき人」と「べき人」である。
世の圧倒的大多数の人たちは、「でき人」である。社会の歯車となって、強いられた役割をこなし、ただ今の自分にできる範囲のことをやって、何かに挑戦して命を燃やすことなく、日々をのんべんだらりと過ごしている。本当は誰もが「べき人」なのだが、彼らに神から与えられた天命などという発想はこれっぽっちもないので、いつまでたっても「でき人」から脱却できないでいる。
では、「べき人」はどんな人かというと、そうあるべき生き方を為しえている人のことだ。天命をまっとうしている人のことである。
もちろんそんなことは、誰にも正確に判断はつかないのだけど、自分の中で「この方はべき人として生きているなあ」と感じる人というのが何人かいて、たとえばシンガーソングライターのKOKIAはその一人である。彼女は歌うべくして生まれてきた人で、個人的には「べき人」のお手本のような人だと思っている。
彼女の歌声には魂を揺さぶる力がある。こう言っちゃなんだが、ただ歌唱力が高いだけの人ならば、探せばいくらでも見つかるだろう。けれども、魂を揺さぶることができる歌い手というのは、本当に少ない。
文筆家の端くれとして、願わくばそういう書き手でありたいと思う。魂を揺さぶり、人生を変革させるきっかけとなれるような、そんな文章を書きたい。自分もまたそうやって多くのきっかけを、素晴らしいクリエイター、いやエディターたちからもらってきたのだから。自分もまた「べき人」として生きることで、きっかけのバトンをつなぐ担い手でありたいと思う。


