Vol.015|スミレはただスミレらしく
『MONOLOGUE』は、エッセイのようでいてコラムのようでもある、そんな型に囚われない備忘録を兼ねたフリースタイル文筆を、毎回3本まとめてお届けするマガジンです。毎週月曜午前8時に定期更新。何かと思想強めですので、用法容量を守ってお読みください。
成功曲線の実感
いわゆる自己啓発や成功哲学と呼ばれる分野で説かれがちな概念に、成功曲線と呼ばれるものがある。成功というものは、えてして一直線にまっすぐ右肩上がりで為せるようなものではなく、ある地点に到達するまでずっと低空飛行を続けるものの、それ以降は一気に急上昇して成功へと向かう、という一連の現象を指す概念だ。
自分がこの成功曲線を知ったのは、たしか二十代前半の頃だったと記憶している。その時は「ふーん、そういうもんかね」としか思わなかった。これだけいろんな人が口をそろえて言うのだから、蓋然性は高そうではあるなと思いつつも、いかんせん実感がともなわないので、それ以上の感想が湧いてこなかった。
けれども、今となってはこの成功曲線の真実性をひしひしと実感している。今まさにその質的転化となるポイントを通過し、一気に急上昇している感覚がある。
と、同時にいざそれを自ら実感してみると、世の成功曲線を説いている連中は、なんもわかってねえんだなと思う。仕事に成功するとか、起業に成功するとか、そういう浅瀬で遊んでいるようなレベルでしか、この成功曲線を理解できていない。概念そのものは奥が深いのに、喧伝している連中が浅すぎるせいで、概念そのものがうさんくさく映る典型例といえる。
成功曲線を正しく理解するためには、成功曲線というぐらいなのだから、まず成功とは何かを定義する必要がある。もちろんその答えは人それぞれ、と普通はそう言うところだが、実は違う。
誤解している人は多いが、人それぞれなんてのは相対主義の欺瞞でしかない。一見すると他者を尊重する素晴らしい態度かのように思えるものの、その実、普遍的価値の探求を早々とあきらめ、他者との対話を拒んで自らの殻に閉じこもっているだけの、幼稚きわまりない態度である。それゆえ相対主義を突き詰めた者は、例外なくニヒリズムへと陥り、世界を呪って生きていくことになる。
では、成功とは何か。どう定義されるべきものなのか。人間存在にとっての成功とはずばり「自己の確立」である。以前、敬愛するラッパーZORNの楽曲『Roots』をテーマに一本書いたことがあるが、自己を確立させていくプロセスは、木々の成長を思い浮かべるとわかりやすい。
誰もがアプリオリに自己という種子をもっていて、まず根っこを伸ばしていく段階がある。根っこを伸ばすためには水をやり続けなければならないわけだが、自己の確立における水とは何なのかというと、一言でいえば「主体的な選択とそれにともなう没頭体験」である。単にぼーっと体験を重ねるだけでは、根っこは伸びていかない。自ら選択し没頭することで、はじめて根っこは力強く伸びていく。
自ら選択するというのが最大のポイントで、社会や周囲の声に屈して、選択させられているようでは、一向に根っこは伸びていかない。そういった外部の声というのは、どこまでいっても不純物であり、不純物が多ければ多いほど、その水はドブ水と化していく。
そして、ドブ水をぶちまけてしまうと、根っこが成長しないばかりか、根腐れを起こしてしまう危険性すらある。
たとえ根腐れを起こしてしまったとしても、もう二度と回復できないなんてことはない。いつだって、どこからだってやり直せる。人生に遅すぎるなんてことは……ないわけではないが、可能性は常に開かれている。
ただ、非常に厄介なのは、ひとたび根腐れを起こしてしまうと、回復するまでにかなり時間を要してしまう、ということだ。うつ病や適応障害の発症はその典型例である。医学的にどうこうはさておき、この自己の確立という文脈で見るならば、うつ病や適応障害というのは、ドブ水をぶちまけて根腐れを起こした状態だといえる。
彼彼女らはみな口をそろえてこのように言う。ある日突然、涙が止まらなくなって動けなくなったのだと。けれども、それは違う。本人が自覚できていないだけで、それまでずっと内なる声を無視してドブ水をやり続け、徐々にだが着実に根腐れを起こしていたのである。
とはいえ、それもまた彼彼女らにとっては必要なプロセスだったのだろう。社会による強固な洗脳を解くためには、相応の荒療治が必要だったのだ。価値ある何かを創造するためには、まずカビの生えた既存を破壊しなければならない。シュンペーターが言うところの創造的破壊である。その意味では、うつ病や適応障害というのは、自己をまっとうするための再生の儀式といえる。
さて、そんなこんなで水をやり続けていると、遅かれ早かれ芽吹く日がくる。まさにこの瞬間こそが成功曲線における質的転化のポイントである。まだまだ芽の状態とはいえ、ようやく暗い土中から自己が顔をだしたのだ。
この段階から木々は光合成ができるようになるが、自己の成長プロセスもまたこの段階から大きく変容する。わざわざ意識せずとも、あらゆる体験を自己を成長させるための栄養として、取り込めるようになる。そうしてさらに自己は成長し、成長した自己はさらに栄養を取り込めるようになるので、成長速度は指数関数的に上昇していく。これが成功曲線における急上昇の正体である。
ちなみに自分の眼には、世のほとんどの人はこの芽吹く段階にすら至っていないように映っている。体感統計的には、九割の人はいまだ芽吹いておらず、だいぶ不純物の混じった水をやり続けているか、そもそも水をやっていないように見受けられる。
旅で深まる人とそうでない人の違い
不思議に思ったことはないだろうか。なぜ同じように旅をしているにもかかわらず、まるで老賢者のような知的で厳かなどこか人間離れした雰囲気をまとう人がいる一方で、いつまで学生ノリをやってんだよとツッコミたくなるような軽薄な人がいるのかと。
だいたいこういう軽薄なやつというのは、自分探しにインドへ行って、ドヤリ全開でガンジス川で沐浴し、自称カルチャーショックを受けて帰ってくる。そのままショックで気絶して、罪ごと流されて帰国しなけりゃいいのにと、そう女神ガンガーへと切に祈りを捧げずにはいられないのは、いったいぜんたいどういうわけなのか。
実はその答えはもうすでに前項で述べている。すなわち「自己の確立」である。
前項で芽が出た後は、あらゆる体験を栄養として取り込めると書いた。この芽が出た後の段階であれば、旅は費用対効果の高い体験となる。栄養を取り込む対象となる自己がまだまだ芽の段階とはいえ、すでに確立されているからだ。
自己を確立させていく上では、コスパやタイパに囚われずに、あくまで内なる声に忠実に従い、プロセスに没頭することが大切だが、旅をすることが内なる声ならば、結果的には費やしたお金や時間以上の栄養を取り込めることだろう。
翻ってこれが芽が出ていない段階だとどうなるか。せっかく費やしたお金と時間に見合うだけの水をやれないばかりか、先ほどとは別のパターンで根腐れを起こしてしまう可能性がある。
というのも、芽が出ていない段階で旅に出る人というのは、往々にして自己を探している。これまで述べてきたように、自己というものは旅先で幸運にも見つかるようなものではなく、読んで字のごとく自己内にあるものだ。ゆえに「見つける」ではなく「育てる」が正しい。にもかかわらず、彼彼女らはこういう自己の確立へと至るロジックがわかっていないので、自己を探して旅へと出てしまう。
すると、どうなるか。自国の文化と他国の文化との差異こそが自己であると錯覚し、あたかもすでに自己が確立された人間として振る舞うようになる。「旅はいいよ。旅は人を成長させる」みたいなくっせえことを、平気でのたまうようになる。旅先で何一つ得るものはなく、唯一持ち帰ったものはといえば、何者かになりたい病を発症する新種のウィルスだというのに。
あまりにも度し難い勘違いである。彼彼女らの耐えがたいペラさの正体はここにある。
スミレはただスミレらしく
日本が誇る世界的な数学者・岡潔が書いた随想『春宵十話』には、こんな一節がある。
よく人から数学をやって何になるのかと聞かれるが、私は春の野に咲くスミレはただスミレらしく咲いているだけでいいと思っている。咲くことがどんなによいことであろうとなかろうと、それはスミレのあずかり知らないことだ。咲いているのといないのとではおのずから違うというだけのことである。私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているというだけである。
スミレはただスミレらしく咲けばよい。まさにおっしゃる通りで、さすがは岡潔である。ここまでしてきたような話を、かぎりなく高い次元で体現しているのが岡潔という存在であり、人はそういう存在を天才とそう呼ぶ。岡潔にかぎらず、たとえば藤井聡太や大谷翔平など、天才と呼ばれる人たちはみなそう。彼らは誰よりも自己をまっとうしたからこそ、前人未踏の記録を打ち立てることができたのである。
とはいえ、彼ら天才たちと比べて悲観することはない。スミレはただスミレらしく、あなたはあなたらしく咲けばそれでよいのである。これは単なる理想論ではなく、原理的にそうなのだ。理想論に聞こえてしまうのは、まだまだ芽が出ていない証拠である。少なくとも芽が出る段階に至ると、頭ではなく体でこれを理解するようになり、それに応じて自然と他者と比較しなくなっていく。
つい先日、金沢に行った時のこと。自分は普段、美術館に訪れることはほとんどないが、ふと思い立って金沢21世紀美術館に足を運んでみた。せいぜい約束の時間までの暇つぶし程度の目的だった。もちろん展示されている美術家なんて、寡聞にして一人も存じ上げない。
そんな美術的感性にとぼしい自分でも、衝撃を受ける作品があった。風間サチコさんが制作された『ディスリンピック2680』という巨大木版画作品だ。
息を吞むとはこういう瞬間のことをいうのだろう。真実という研ぎ澄まされた刃を、喉元に突きつけられた時のあの特有の緊張感。全体を通して受ける印象は不穏で不気味なものなのに、見れば見るほど風刺や皮肉がきいていて、どこか神々しさを感じさせる。
何よりも細部への彫りこみが凄まじく、自分の中の木版画の概念が跡形もなく砕け散った瞬間だった。自分のような素人目には、木版画というのはだいぶ制約の強い表現方法に思えるのだけど、他のどの作品よりも自由であるように思えた。他の作品は流し見する程度だったのに、風間サチコさんのこの作品だけはずっと鑑賞していられた。
そんな風間サチコさんは、先ほど挙げた天才たちに比べて、劣っているのだろうか。そりゃあ知名度や保有資産額という世俗的な基準で測るならば、劣っているのだろう。
しかしながら、自己をまっとうするという観点で見た時はどうか。少しも劣ってなどいない。劣ってなどいないというか、そもそも比べることができない。風間サチコはただ風間サチコらしく咲いているだけなのだから。その〝らしさ〟を比較して優劣を論じることなど、原理的にできやしないのである。
そして、その自己をまっとうすることこそが、われわれの人生における至上命題である。そのためには長い長い時間がかかるし、その間ずっと水をやり続ける必要がある。芽が出るまでは特にしんどいので、すぐに人は即効性のある自己の育て方ノウハウに溺れてしまうが、そんな都合のいいものは存在しない。
来る日も来る日も地道に水をやり続ける、その一見すると遠回りかのように見える道こそが、実は最短の道なのだ。


