Vol.016|SNSがあってよかった
『MONOLOGUE』は、エッセイのようでいてコラムのようでもある、そんな型に囚われない備忘録を兼ねたフリースタイル文筆を、毎回3本まとめてお届けするマガジンです。毎週月曜午前8時に定期更新。何かと思想強めですので、用法容量を守ってお読みください。
SNSがあってよかった
SNSの登場によって、見田宗介の言葉を借りれば「まなざしの地獄2.0」とも呼ぶべき社会が到来した。SNSを通じてお互いがお互いを監視しあい、絶えず同調圧力をかけあう地獄。周知のとおり、その同調圧力に屈しなかった者は、炎上という形で村社会から総攻撃を受けることになる。
にもかかわらず、物資的には十全に満たされているので、かつてないほどに自己実現の欲求は高まっている。村社会の同調圧力をくぐり抜けてまで目立ちたくはないものの、自己実現はしていきたい。若い世代なんかは特に、この板挟みで苦しんでいるように見受けられる。
結局、SNSは人類を幸福にしたのだろうか。いいや、個人的にはしていないと思う。あくまで体感ベースに過ぎないし、所詮はツールの一種なので使い方次第であることは前提にしつつも、SNSの登場前と登場後では、人類の幸福度の総和はマイナスだと考えている。思うに人類にSNSは早すぎたのだ。爆弾へと転用され、人類史に暗い影を落とした原子力なんかと同じで、人類にその発見ないし開発は早すぎた。
それでも、それでも自分はSNSがあってよかったと思う。自分のような基本的に見る専で、一対多の受動的閲覧は孤独感を増加させるという研究結果があるにもかかわらず、である。
なぜかといえば、すでに自己を確立させた人間にとっては、そのような他者との比較による孤独感とは無縁だからである。わざわざよく知りもしない他者に認められずとも、この世界が自己を祝福してくれている。それは無条件の存在肯定であり、自己を確立させた者だけが感じ取ることができるものだ。本来はすべての人間がこの世界からその存在を祝福されているが、その真理を感じ取れる能力には差がある。自己が確立すればするほどに、感じ取れる力も伸びていく。
そして、孤独に苛まれることがないので、常に冷静にSNSと向き合うことができる。そうして冷静にSNSと向き合う中で強く感じるのは、いかに自分が異端であるのか、さらには異端であるがゆえに正道を歩んでいるのか、ということ。
いつの世もそう。人の行く裏道に道あり花の山。大衆は常に間違う。だからこそ、裏道が転じて正道となる。これまで自分が惹かれたのは、肩書きは違えどみなアウトサイダーと呼ばれる人たちであり、いつだって辺境に住まう彼らこそが真理の体現者であった。
この時代にSNSがあってよかった。自分の信じる道が幸福へと直結しているであろうことを、ますます強く確信できるのだから。
オープンマリッジの件
言わずもがな例の件である。あの件を自分がどう見ているのかというと、「ヒカルよく言った!さすが自由で突き抜けてんね~!」でもなければ、「新婚で堂々と浮気宣言されたノアちゃんかわいそう……」でもない。一連のオープンマリッジ騒動に対する自分の率直な感想は「これ進化心理学で全部説明できるな」である。
渦中の人物であるヒカルにもノア(敬称略)にも、もちろん二人のファンにも石を投げている野次馬たちにも一切興味がない。自分が興味があるのは、その背後にはどういう構造があるのか、これのみである。
ヒカルとノア、二人はなぜオープンマリッジという、社会通念上ぶっとんだ結論に落ち着いたのだろうか。進化心理学の知見を活かして、一言でまとめるならば「二人がアルファオス・メス」だからである。
ヒカルのハーレム願望が取り沙汰されているが、前提としてすべてのオスは、大なり小なりハーレムを望んでいる。なぜなら、オスはできるだけ多く精子をばらまいて、自らの遺伝子を残すことを本能的に欲求するからだ。その意味で、ヒカルのハーレム願望は何も不思議なものじゃない。アルファオスである彼は、実際にそれを為せる可能性が高いわけだから、当然といえば当然である。
一方でノアのほうどうか。メスはオスが他のメスに心を奪われ、自分と我が子に資源が行き渡らないことを恐れる。そうなっては自らの遺伝子を残せないからだ。なので、通常リスクでしかないオープンマリッジは、受け入れがたいものである。
にもかかわらず、ノアがそれを受け入れたのは、ひとえに彼女がアルファメスだからである。別に離婚しようが何しようが、経済的にも精神的に自立している彼女は、わざわざヒカルから資源を分配されずとも、なんの問題もなくやっていける。その余裕があるからこそ、まるで第三者のような目線で、ヒカルの本能的欲求に忠実で、自由に振る舞う様を楽しめることができるわけだ。
しかしながら、言うまでもなく世の圧倒的大多数はアルファではない。全員がアルファというのはもはや単なる語義矛盾である。それゆえ多くの人にとって、アルファつがいである彼らの挙動は理解しがたい。そして、人は理解しがたいものを恐れ、攻撃する習性がある。このアルファつがいゆえの理解不可能性が、火種の一つになったものと思われる。
加えて非常に興味深いのは、今回の件でヒカルを擁護しているのは、揃いも揃って準アルファ的な男であるということだ。ヒカルほど知名度も資産もないものの、一般的には十分高収入でそれなりに知名度のある準アルファ男たちが、こぞってヒカルを擁護している。なんだかんだとそれらしい理由はつけているものの、要するに彼らもまたハーレム願望があり、それを為せる可能性が高い位置にいるからこそ、ヒカルを擁護するのである。
翻って女性サイドのウケは最悪である。これまた興味深いのは、今回の件で率先してヒカルを批判しているのは、美容界隈や整形界隈にアンテナを張っているような、一般的な水準に比して美意識の高い恋愛市場に深くコミットしている女性たちであるということだ。
なぜそんな彼女たちは率先してヒカルを批判し、ノアに同情を寄せるのか。お金と時間を注ぎ込んで容姿を磨いたとはいえ、ノアのように経済的にも精神的にも自立しているわけではないからである。つまり、彼女たちは男が他の女にうつつを抜かし、資源を横取りされては困るのだ。それでは自立していない私たちは遺伝子を残せなくなってしまう。
半ばヒステリックなまでの反応から推察するに、過去にそういうケースにも遭遇しているのだろう。アルファまたは準アルファの男から見放された過去がある。だからこそ、脊髄反射で反応してしまう。アルファであるノアの価値観も理解できず、勝手に自分の物差しで測って同情を寄せてしまうわけだ。
登場人物全員が一人の例外もなく本能に隷属している。遺伝子ビークルドリブン。もちろんヒカルもノアも含めて。アルファであろうがなんであろうが、本能に隷属している事実は変わらない。それゆえこうして進化心理学の知見をほんの少し持ち出すだけで、これほどまでにすっきりと説明がつく。
だがしかし、本能に隷属していては、とても幸福はおぼつかない。本能なのだから従うべきというのは、典型的な自然主義的誤謬である。「である」から「べき」は導けない。両者のあいだには飛躍がある。かといって、一部の行者のように、本能は人間を堕落させる悪だとして、本能そのものを否定していてもこれまたいけない。「踏まえて乗り越える」が正しい発想である。
キリスト教神学には、試練説という発想がある。神が創りたもうたこの世界に、悪や苦しみが存在しうるのは、人間には自由意志が与えられており、その自由意志の介在にこそ悪や苦しみが生まれる余地があるのであって、あくまでそれらは当人を向上させるための試練である、というものだ。
キリスト教神学というと、多くの現代日本人には馴染みがないだろうが、この発想は完全に正しい。「踏まえて乗り越える」とはまさにこういうことである。
大衆性と貴族性
どうも盛大に誤解されているように見受けられるので、ここらではっきりさせておきたい。
今回のオープンマリッジ騒動は、ヒカルとノアという脱大衆したインフルエンサーに対して、大衆であるファンや野次馬が集っている構図ではない。ヒカルもノアもひっくるめて全員が大衆である。
たしかにヒカルもノアも、一般的には成功者と見なされるのだろう。何百万人ものチャンネル登録者がいて、何不自由ないお金を手にし、望めばそれこそハーレムだって作ることができる。が、しかし社会的に成功者と見なされることが、それすなわち脱大衆なのではない。
そもそも論として、インフルエンサーの概念それ自体が、大衆であることを何よりも雄弁に物語っている。多数に影響を行使できるのがインフルエンサーであり、多数に影響を行使できるということは、その一挙手一投足が大衆目線であるということに他ならない。でなければ大衆からの支持は叶わないのだから。
ヒカルのYouTubeチャンネルは、どこまでいっても大衆メディアにすぎず、いわばパンとサーカスの一種だといえる。ヒカルの場合は、本能への隷属を一切隠す気がないという点においては、非凡であるといえるものの、その本質はといえば大衆である。あれほどの経済的自由を得ても、本能への隷属という意味では、いまだラットレースから抜け出せていない。
本当に脱大衆している人というのは、わざわざ好き好んでヒカルの活動を追いかけたりはしない。その絶大な影響力もあって、今回のように何かと世間を騒がせたりしがちなので、嫌でも目に入ることはあるものの、貴重な時間を使ってまでわざわざ活動を追いかけたりはしない。脱大衆した人は同じく脱大衆した人に自然と惹かれるものである。
これはスペインの哲学者オルテガの古典的な大衆論を下敷きにして、独自に発展させた自分なりの大衆論なのだけど、すべての人が大衆性と貴族性の二つの性質をもっている。
その人が大衆として生きているのか、それとも貴族として生きているのかは、両者の割合がどちらに傾いているかによる。たとえ高貴な生まれでなかったとしても、その人の割合が貴族性に傾いているならば、その人は貴族なのである。逆に高貴な生まれであったとしても、その人の割合が大衆性に傾いているならば、その人は大衆である。
そして、本能への隷属というのは、その人間が大衆性に大きく傾いている証左でもある。貴族性が高まれば高まるほど、本能に振り回されなくなっていく。この肉体に囚われている以上、その影響を完全にゼロにすることはできないが、少なくともその支配から逃れることは可能である。
ちなみに自分がどんな人に向けて文章を書いているかというと、この文脈でいえば貴族である。もしくは今まさに脱大衆しようともがいている貴族候補。それはかつての自分の姿でもある。
こういう話に興味をもち、ここまで読み進めている時点でもうその人は、貴族ないし貴族候補である可能性が高い。そもそも大衆にはこんな長ったらしく、ややこしい文章は読めないのだから。世に貴族は数少ないからして、どうしてもスケールは望めないけれど、それでいいのである。こちとら大衆おことわりでやらせてもうている。


