Vol.006|残クレアルファード界隈
『MONOLOGUE』は、エッセイのようでいてコラムのようでもある、そんな型に囚われない備忘録を兼ねたフリースタイル文筆を、毎回3本まとめてお届けするマガジンです。毎週月曜午前8時に定期更新。何かと思想強めですので、用法容量を守ってお読みください。
残クレアルファード界隈
つい最近、『負け組ランドセル』で蔑称に宿るクリエイティビティについて書いたのだけど、またもや出会ってしまった。その名も「残クレアルファード界隈」。公道ヒエラルキーの頂点に上り詰めるべく、残価設定クレジットでアルファードを買うマイルドヤンキー層を指す蔑称である。
負け組ランドセルしかり、残クレアルファードしかり、こうした蔑称がわれわれを惹きつけてやまないのは、思うに「真実のある側面を鋭く抉り取っている」からだ。
それが真実とはかけ離れたまったくの的外れなものであれば、そもそもこれだけ多くの人の琴線に触れたりなどしないだろう。さらにそれを納得感のある形で揶揄することで、蔑称クリエイティビティが宿るのである。構造的には風刺画なんかと同じといえる。
残クレアルファード界隈の住人を見ていて痛感することが二つある。一つはやはり「見栄ほど高くつくコストはない」ということ。もう一つは「馬鹿がカモられるのは世の常である」ということ。どちらも何を今さらという話ではあるが、つくづくそう思う。
経済合理的に考えるならば、手取り三十万にも満たない層がわざわざアルファードを買う理由はどこにもない。選択肢が他にないのならともかく、他にいくらでも選択肢はあるのだから。
にもかかわらず、なぜ彼らがアルファードにこだわるのかというと、端的に言ってドヤりたいからである。つまり見栄を張りたいわけだ。アルファードに乗って、公道ヒエラルキーの頂点へと上り詰め、地元のドンキでブイブイいわせながら、休日はイオンへと出向きたいのである。
この見栄コストというやつは非常に厄介なもので、一般には十分な収入があるとされる層であっても、実際は見栄コストに追われて家計は火の車、なんてことはよく見られる光景である。いかにも派手な生活をアピっているような人ほど、見栄コスト焼かれ人である可能性は高いので、もしそういう人と出会ったなら警戒ギアを二段階ほど引き上げるべきだ。
これはそういう派手な生活に目がくらんでしまうド素人が勘違いしやすいポイントだが、別に実家が太いわけでもない一代で成り上がったタイプの資産家、アメリカ富裕層研究の第一人者であるスタンリー博士とダンコ博士に敬意を払って、彼らを『となりの億万長者』とでも呼ぼうか。
彼らとなりの億万長者というのは、この見栄コストがいかに高くつくかをよくわかっていて、ありふれた中古車に乗ってごく普通の家に住み、一見すると質素な暮らしをしていたりするので、資産家に見えないことも多い。決して安くはない見栄コストをかけてまで、一瞬の自己満足に浸っている暇があるのなら、そのお金を資産運用に回したほうが、よほど経済合理的であることを、彼らとなりの億万長者はよくわかっている。
そして、経済合理的に生きているからこそ、彼らとなりの億万長者は一代で成り上がることができたのである。われわれパンピーが成り上がれるかどうかは、ひとえに「人生からいかに見栄コストを排除できるか」にかかっている。そう言い切ってしまっても過言ではない。
所詮この世は弱肉強食
強ければ生き、弱ければ死ぬ。前項で「馬鹿がカモられるのは世の常である」と述べたが、われわれが生きる資本主義とメリトクラシーが悪魔合体したこの社会においては、馬鹿はすぐにカモられてしまう。
残クレアルファード界隈の住民などは、まさにそのいい例である。村社会に蔓延する根拠なき空気感、そして企業の巧みなマーケティングによって己の価値観を支配され、身の丈にあわない消費に手を伸ばし、高い金利を払い続けるばかりか、あまつさえその企業に感謝の念すら向ける始末。
こんな低収入な自分でも、トヨタのおかげでアルファードに乗れましたってか。オメでたい頭でなによりである。アルファードの購入祝いに赤飯でも炊いて、キャーキャー騒ぐといい。彼ほど突き抜けているならば、そこにリスペクトも生まれるというものだが、残クレアルファード界隈の住民は、企業からすればカモがネギを背負っているようにしか見えないだろう。
馬鹿とはこういう人間のことをいうのである。偏差値が低いのが、IQが低いのが、あるいはケーキが切れないのが馬鹿なのではない。目の前の事象に対してなんら疑問を抱かない、その世界に対する無関心こそが、その世界と向き合う不誠実な態度こそが、馬鹿が馬鹿である最大の所以である。
そして、まるで疑問を抱かないからこそ、まったく構造がわからない。まったく構造がわからないからこそ、たやすくカモられる。こうして馬鹿はあらゆるシーンでカモられることになる。
保険なんかもそう。馬鹿は馬鹿であるがゆえに、低収入でろくに資産があるわけでもないのに、なぜか全方位で保険まみれになっていて、それらの保険料の支払いで生活水準が圧迫されている。いやおまえ保険をかけるほどの人生かよと。
持たざる者の最大の武器が、まさにその持たざることなのをまったくわかっていない。持たざる者は持たざるがゆえに、常にフルベットからの倍ブッシュ、すなわちアカギスタイルがとれるのである。持たざる者が持つ者たちによって作られたこの社会に風穴をあけようと思うのならば、アカギスタイルをとるしか道はない。
にもかかわらず、馬鹿というのは基本的に本能に隷属しているので、ほんのちょっぴり将来の不安を煽られただけで、瞬く間に判をついてしまう。往々にして契約書も読まない。読まないというよりも読めない。一定以上、文字が開かれていて、なおかつ短文(それも箇条書きが望ましい)でなければ、馬鹿の脳はすぐに拒否反応を示すようにできている。
そもそもなぜ保険ビジネスというものが成り立っているのか。保険会社が危なげなく存続し、お茶の間にCMが流れない日がないのはなぜなのか。それだけ儲かっているからである。儲かっているとはどういうことか。とどのつまり顧客から支払われている保険料よりも、顧客に支払っている保険料のほうが少ない、ということだ。
しばしば保険は「不幸の宝くじ」だと言われるが、言い得て妙だなと思う。宝くじにおいては、嫌でも高額当選が目を引くし、高額当選者は宝くじを買ってよかったと心底そう思うだろう。同じように、保険においては大きな事故や病気が目を引くし、被保険者は加入しておいてよかったと心底そう思うだろう。
だが、そんなのはごくごく一部の成功譚であって、彼らの成功は統計という名の巨大な敵に蹂躙された、無数の屍の上に成り立っていることを忘れてはならない。
宝くじというのは控除率、つまり胴元に入る手数料の割合が極端に高いギャンブルとして知られている。その控除率は約55%にものぼり、一般に広く普及しているギャンブルであるパチンコやスロットの控除率が、10%~15%ほどであることを鑑みると、宝くじがいかに割に合わないギャンブルであるかは一目瞭然である。それゆえ宝くじは「愚か者に課せられた税金」とも言われる。
宝くじほどのぼったくり控除率ではないにせよ、保険についても基本的には同じことが言える。あらゆるタイプの保険は、長い目で見れば、広い目で見れば、われわれ顧客は必ず負けるようにできている。でなければそもそも利益があがらずに、保険会社が存続できないのだから。
残クレにせよ保険にせよ、すべてが一切必要ないと言いたいわけじゃない。それらが活きる文脈はたしかにある。かの悪名高きリボ払いだってそう。いや、ちょっと待てリボ払いは違うか。いやいや、そんなことはない。「すべては文脈次第」に例外はない。リボ払いだって活きる文脈はある。おそらくきっと、たぶん。
大切なのは、そのものの構造をできるかぎり解像度高く把握し、今の自分にとって本当に必要なのかをよく見極めることだ。何の面白味もない当たり前の結論だが、真実とはえてしてそういうものであり、それができる人こそが本当に賢い人なのである。
疑わないこと、それが強さだ
ご存知シルバーズ・レイリーの名言である。知らない人にとっては、その名前もあいまって、どこぞの偉人の言葉を引いてきたように思われるかもしれないが、漫画『ワンピース』に登場するキャラだ。「尋常じゃなく強いじじい」という、鉄板のキャラ立ちをしている。
『刃牙シリーズ』における渋川剛気や郭海皇、『ハンターハンター』におけるゼノやネテロ、あるいは『ゴールデンカムイ』における土方歳三など、要はそういう立ち位置のキャラである。無双貫禄じじいはいつだってわれわれの心をがっちりとつかんで離さない。
残クレアルファード界隈の住民は、総じてワンピをバイブルとして崇めるくせに、レイリーのこの言葉をまったく咀嚼できていないように見受けられる。レイリーが見据える「疑わないこと」と、残クレアルファード界隈の住民がやっている「疑わないこと」には、天と地ほどの差がある。それこそ強さと弱さがそっくりそのまま反転してしまうほどに。
レイリーは海賊王の右腕として、常に世界に対して問いかけ、冒険を続けてきた。その結果、世界の秘密を知ることになったのである。つまり、疑って疑って疑い抜いた末に、たどりついた境地としての「疑わないこと、それが強さだ」なのである。疑わないことが強さとなるためには、まず徹底して疑い抜かなければならないのだ。
こうした過程や背景をすべてすっとばして、ただただ思考停止で疑っていないだけなのが、残クレアルファード界隈の住民であり、その愚鈍な振る舞いはどこをどう見てもモブキャラのそれである。言うなれば初期の初期に登場するフーシャ村の山賊Aレベル。海賊ですらない。モブキャラがカモられる運命にあるのは、漫画においても人生においても同じである。
これは信仰にも同じことが言える。世の信仰者には、疑って疑って疑い抜いた経験が圧倒的に足りていない。なんでもかんでもすぐに信じてしまう。そんな体たらくだから、わけのわからない噴飯ものの新興宗教や陰謀論に踊らされ、貴重な人生の時間を浪費してしまうのだ。
哲学者のデカルトは、方法的懐疑によってすべてを疑った。疑って疑って疑い抜いた末に、かの有名な「我思う、ゆえに我あり」の境地に至った。さらにデカルトが偉大なのは、そうやって疑い抜いた後に、神の存在証明について論じた点にある。
前期のデカルト哲学に比べると、後期のデカルト哲学は整合性がとれていない、そんな風に指摘されることがままある。前期ではあれだけ論理の権化のような体系的な哲学を打ち立てた人が、後期では唐突に「神の誠実さ」とかを議論に持ち出したりするものだから、そう評されるのも無理もない話ではある。
けれども、自分はデカルトにこそ「神の誠実さ」を議論に持ち出す資格があると思っている。なぜなら、デカルトがその身をもって示した、疑い抜いた末の信仰こそが本来の信仰のあるべき姿であり、その後は「疑わないこと、それが強さだ」の体現となるからである。凡百の人間が「神の誠実さ」を議論に持ち出すのとはワケが違う。
理性には限界がある。理性でたどりつける領域というのは、だいぶ低いところに天井がある。その先は信仰の領域であり、「疑わないこと、それが強さだ」の領域となる。だからといって、最初から理性を捨て去っていいかというと、そういうわけじゃない。それでもなお理性をフル稼働させて、信仰との境界線を探る必要があるのだ。


